雨上がりの花 / 5



 ピリリリリ、と。空気か情か現実か、何かを裂く様に響いた小さな電子音に、はた、と二人は我に返る。
 携帯の着信音だ、と職業病的な反応をした土方は反射的に袂を探りかけるが、今のこの、女物の単衣などを纏わされた無様な姿で、そんなものを持ち歩いている筈もない。
 では銀時か、と思ったが、見遣ればこちらもきょとんとしている。どうやら違うらしい。
 自動で留守番電話になる設定ではないのか、電子音は延々と響き続けている。その事からも、土方はこれを己の携帯のものだと気付きはしたのだが、果たして何処で鳴っているのやら。
 名残惜しげでもなく土方の手をするりと離した銀時は、耳を澄ませる仕草をしながら観戦席を横切って歩き、「これだ」と長櫃の前で足を止める。部屋の隅の方へ置かれたそれは、土方の刀が隠してあったものだ。
 二重になった上蓋に土方の愛刀を潜ませてこの部屋へと持ち込んだのは、下男として潜入していた山崎だ。と、なるとその中に、刀同様、携帯電話が隠してあってもおかしくはない。
 長櫃の前に膝をついて中身を改める銀時の向かいへと、得心のいった土方も膝をついた。一緒になって中身を覗き込む。
 着物らしきものがカモフラージュに入っているのは既に知れている。お色直し、とか命じられていたらさぞ気分の悪かった事だろうと思いつつ、土方は一目で高級品と知れるそれを無造作に引っ張り出してみるが、箱の中身は他に何も見当たらない。だが、その中から確かに電子音がしている。
 二重底。そう呆れた風に呟きを落としつつ、銀時が底板をひょいと外せば、そこにはけたたましく音を鳴らし続けている携帯電話があった。言う迄もなく、土方が地下に降りた時に『没収』されたものである。
 その下には薄紙に包まれたものが見えたが、取り敢えず土方は携帯電話を摘み上げた。着信ボタンを押して耳に当てる。
 「……山崎か?」
 《あ、副長!ご無事ですか?》
 着信音は地味な風貌に相応しく地味でつまらない設定だが、山崎の携帯電話を持っている相手が山崎当人とは限らない。そう思って開口一番問えば、まるで飛びついて来る犬の様な調子で、聞き慣れた地味な声が返ってくる。どうやら電話の主は本人に相違ない様だ。
 「あぁ。特に怪我も問題も無ぇが、取り敢えず山崎、テメェは切腹しろ」
 《ええええッ!!?いきなりですか!?まず他になんかあるんじゃ、》
 「るせぇ。上司が手前ェの口の硬さと勤勉さを買ってした『個人的』な『頼み事』をホイホイ他人に、しかも外部の人間に漏らしちまう部下が何処にいやがる」
 露骨な不機嫌と忌々しさとを隠しもせずに言い切れば、受話口の向こうの山崎もその件を言われると流石にばつが悪いらしく、うー、だの、あー、だの、歯切れ悪く呻いている。
 言い訳は大凡想像がつく。無論、それをした理由も。
 ちらりと視線を振り返らせれば何やら箱の中身をごそごそと探る銀時の姿がある。
 そこに、居る。
 ここに、連れて来てくれた。
 はあ、と土方は思いきりよく溜息をついた。全く、どいつもこいつも何でこう、鬱陶しくて忌々しくて──頼もしいのやら。
 「……まぁ良い。この馬鹿を嗾けた件に関しちゃ、今回限りは不問にしてやらァ。ただ、潜入時に『不備』が多すぎるって意味では、テメェの『失態』は見逃してやれねぇぞ…?」
 《それどっちも同じ意味じゃないですか…。アンタそんなに俺に腹斬らせたいんですか!?俺ジェバンニも驚きの仕事ぶりだったと思うんですけどォォ!?》
 山崎の悲鳴めいた抗議が受話口を抜けて来るのに、土方は耳から少し離した携帯電話に向け、
 「兎に角、」
 強い口調でそれ以上の文句──というか悲鳴──をぴしゃりと遮った。一切の有無を言わさぬその様子に、返るのは黙り込む気配。
 「隊をこんだけ大規模に動かしたのはどうせとっつぁんの判断だろう。それは良い。
 だが、テメェらが民間人の馬鹿一人を巻き込んで、局中法度にも抵触する様な命令無視や単独での勝手な行動をしたのは事実だ。俺含めてな」
 幾ら一隊の隊長を務めるからと言え、沖田の単独命令一つでこれだけの規模で真選組が動かされる筈はない。よしんば動かしたとて、江戸を出る前に止められている筈だ。
 だから恐らく、ついでの『釣り』を目論んだのは松平だろう。現場にこう言った面倒な事情があるのと同じで、デスク側にも様々な事情と思惑とがあるのだとは、以前より土方は事務的に理解を示している。
 「つー訳で、だ。士道にゃ些か反する話だが、腹斬りたくなきゃ、テメェら全員、無かった事にしやがれ」
 今更雁首揃えて連帯責任を謳う心算は無い。もとい、大事にすればするだけ、責任の所在は土方から逆に離れる事にもなりかねない。
 だから、これは『無かった事』にした方が良い。最悪、土方が自分の事情で部下を勝手に動かしたのだとされる形が一番良い。
 少なくとも、沖田と山崎と銀時、そして土方が今回の件の仔細を口にしない限りは、他の誰にも事が明るみに出る事はないのだから。
 《……わかりましt》
 《いちいち回り諄ぇんだよ土方死ねコノヤロー。俺らだって、手前ェの身は可愛いんだ。結果的にアンタの保身になろうが、アンタが罪悪感に潰されようが、別に構やしやせんぜィ?》
 「っ、」
 山崎の言葉が中途に途切れ、そこに割って入った声は沖田のものだ。きっと悪魔の様な笑みを浮かべているに違いない口調と言葉とに、土方の背筋をひとすじ汗が伝う。
 いちいちそれを口にする程下劣な真似はしないが、遠回しにこうして暫く──沖田が飽きるまで──ねちねちと恩着せや嫌味を口にされるのかと思えば、軽い頭痛を憶えずにいられない。
 「……テメェも、何がその筋で有名なSMクラブだ。とんでもねぇドS騒ぎ起こしやがって」
 大阪への帯同の折に沖田の口にした『理由』だ。今思えば的を射ている辺り、沖田にはこうなる事が大体は知れていたのかも知れない。市井の噂話などから抜け目なく情報を──無論全く役に立たないものの事も多い──仕入れて来るその手腕には時々驚かされる。
 故に、苦い、と言うよりも忌々しい、と言った調子も顕わに返してみるが、沖田には動じる様子もなければ悪びれる風でもない。
 《ま。何にせよ結果オーライじゃねーですかィ?未だ問題は残ってやすけど。一番でっけェ問題が》
 問題。含みのある言い種に土方が眉を寄せれば、電話は再び山崎の手へと戻されたらしい。少し声量を搾った声が受話口を通って来るのに、土方は携帯電話を逆の手へと持ち替えた。
 《それで、副長。佐久間の事ですが、》
 「……ああ」
 ぴくり、と目の下が震えた。苛立ちの予感に無性に煙草が欲しくなる。
 銀時があれを、命運尽きる寸での所で掬い上げた。
 壁に縫い止められた佐久間が今どの様な状態でいるかは知れないが、ずっと騒いでいたらしい羅刹の咆哮や、名を口にした山崎の様子から確実に、生きてはいると察せた。
 《沙汰をどうする心算かは、旦那と副長にお任せします。物騒な話になりますが、『此処』に居るのは『俺たち』だけですから。──念のために》
 「………」
 仮に、土方が佐久間を始末しろと命じた所で。今『此処』に居るのは真選組の人間が殆どだ。況して、恐らくは老人に最も近い位置に沖田と山崎とは今居るに違いない。
 最も簡単に、最も確実に、口は封じられるだろう。速やかに。何の禍根も残さずに。
 だが、端からそれを命じる心算であったら、土方はこんな手段は選んでいない。
 銀時とて恐らくそれは同じだろう。
 「…解った。着替え見繕ったら直ぐそっちに降りる」
 こんな格好ではとてもではないが真選組の人間の前になど出れはしない。『着替え』を命じられた後の事は解らないが、脱いだ隊服は多分フロアの何処かにある筈だ。
 怒りと溜息とを押し殺して言うそんな土方の、長い単衣の裾をちょいちょいと引っ張る手。
 「なぁなぁ、土方くんや」
 「なんだよ、」
 鬱陶しいその動きを振り払いながら見下ろせば、苦笑を浮かべた銀時の顔があり、そっと見せて来るのは、携帯電話の隠されていた二重底の箱の中身。
 あ。と思わず土方は息を呑んで、それから笑い声を上げた。
 薄紙にきちんと包まれていたのは、綺麗に折り畳まれた、見慣れた真選組の隊服だった。
 「全く。……こんな所ばっか有能だな、テメェは」
 《お褒めに預かり光栄ですよ。では後ほど》
 ぱちん、と手首のスナップだけで携帯電話を閉じると土方は早速、銀時に刀の柄を向け渡した。とん、と己の首から下がる首輪と鎖とを指せば、渋々と向かい立たれる。
 「動くなよ?」
 「信じてなきゃ任せねぇよ」
 笑ってやりたい所だったのだが、敢えて真顔でそう言うと、単衣の襟元をぐいと下ろし、土方はほんの少し首を右側へと傾けた。首輪──黒革のベルトの正面には頑丈な錠が付いている。断つなら革の部分しかない。
 銀時の持つ刃を前に見据え、晒した首筋をもう一度指で指して目を瞑る。
 「お前って本当、無駄に男前っつーか、開き直ると可愛げ無ぇよなぁ」
 「は。可愛げなんざ品切れったろーが」
 「いや、そこが良いんだって事」
 「……物好きめ」
 く、と笑えば首輪に圧迫された喉が震え、次の瞬間には僅か耳の横数糎の所を刃が通り抜けた気配がした。目蓋を持ち上げてみると、じゃらりと重量の侭に落下した鎖が足下に蛇の様にたぐまって落ちて行くのが丁度目に入る。
 「重そ」
 屈んだ指先にその鎖を引っかけて持ち上げ、銀時は肩を竦めた。こんなものに好んで縛られる輩の気が知れない、と。そう言ってる風にも見えたので、土方は態とらしく笑い声を上げた。屈託無く。
 「ああ。重かったに決まってんだろう」
 見上げる銀時の複雑そうな表情に、ほんの少しだけ胸が空く。これがお前の選んだ、曰く『惚れた』、幕府の狗だろうがと。そんな意趣を込めて。
 困った風だが、反論も特に無いらしい。なんだかどうしようもない様な表情で居る銀時の姿をまじまじと目にして、土方はいっそ呆れた。
 面映ゆくて、持て余す様な。大樹の結実を見守る庭師の様な。小さな花の丹精に一喜一憂する様な。幸せな、幸せで堪らない、そんな顔だった。
 あれほど見たくて堪らなかったものが、今は忌憚なく真っ直ぐに向けられている。
 手に入れて失って、また手に入れて貰えたもの。否、初めて手に出来たものだ。
 (………慣れねぇ)
 心底うんざりとした心地を隠さず大きく息を吐くと、土方は足下の鎖を乱暴に蹴って除けた。素足に新鮮な痛みが走るがどうでも良い。
 それから、帯の体裁も取り繕えていない布を乱暴に解き、着慣れない単衣をばさりと脱ぎ捨てた。ひゅう、と態とらしい口笛を吹いて寄越す銀時が、何処か恭しく渡してくれる隊服を、ひとつひとつ、丁寧に纏って行く。
 鞘に収めた刀を佩いて、隊服の下に、これもまた抜かりなくちゃんと隠されていた煙草の箱とライターとを拾い上げる。今度はイタズラグッズではあるまいが、と少々慎重に封を切って一本くわえて火を点けた。
 ふう、と久々のヤニの味に思わず大きく息を吐けば、銀時がくつくつと笑っていた。
 「んだよ?」
 「ああ、いや。やっぱそうしてるオメーが、俺ァ一番好きみてーだわ」
 言われて見下ろす。糊の効いた黒い装束。佩いた刀の責任感。重たく融通の利かない自分には全く相応しく、似合っているのだろう。
 「言ってろ」
 俺も、こんな所までやって来るテメェのお人好し通り越した馬鹿さ加減が好きだよ、と口には出さず、代わりに吐き出すのは濁った紫煙。
 「さて、と」
 じゃり、と靴音を鳴らして観戦席の窓へと土方が立って見下ろせば、羅刹は投薬処置をどうにか施されたのか、移動式の檻のようなものの中へと入れられていくのが見えた。その直ぐ上の壁面には、木刀一本でぶら下げられた老人の身体。傍に立ってこちらを見上げている、沖田と山崎の姿。
 「行きますか」
 言うなり、銀時はぽんと無造作に跳躍し、壁面に先頃己が突き立てた矛に一旦器用にぶら下がり、真下の観客席へと着地した。
 見上げて来る眼差しと促す様に伸べる手。己に向けられるそれと、少し離れた壁に縫い止められている老人の姿とを、土方はじっと睨む様に見比べた。
 恐らく、山崎も、沖田も──銀時とて。土方がどう裁量を下したところで、何も口にはしないだろう。
 殺してやる、と強く思った殺意は已然変わらず胸の裡に留まっている。
 実際、殺す心算で硝子窓を割って落としたのだ。
 佐久間の同志らは全て『切腹』と言う死を迎えている。それは悪行の数々への事実を認め、自ら命を断つと言う行為だ。
 佐久間にそれを提案こそすれ強いなかったのは、土方の裡に確かに殺意があった証明でもある。
 この男だけは──『潔い死』など与えるものかと思ったのだ。
 事実はどうあれ、法的な意味がどう関与すれど、土方は佐久間を『殺す』心算で居た。
 打算で思考する。あの老人が真選組に、自分に、どの様な益をもたらすのか。またその逆を。
 ……どう、妥協した考えを巡らせど、答えには否しかない。佐久間を生かしておいた所で、不利益にしかならないと。土方個人の意思もそれに同意している。
 殺すべきだ。殺しておくべきだ。個人的な感情以上に、あれは真選組の為にはならない。
 (テメェだってそれを解ってた筈だろうが…)
 だ、と言うのに。土方の思いと、己の怒りを最も解っている筈の銀時がそれを封じた理由は、と考えると、思い当たりそうな可能性はひとつしかない。
 あれを殺める事で、土方が逃れられなくなる可能性を塞いだのだ。
 下そうとしたのは、裁きではなく害意だった。……だから、だ。
 銀時に咎められ、礼を告げられる前に佐久間を殺して仕舞っていたら、土方はもう銀時を己から突き放し通す事を頑として貫いただろう。そこまでして、嘘を護る事を決断した後であれば間違い無く。土方は諦めていた筈だ。銀時を護る事ではなく、己の嘘を護る事を選び続けていた筈だ。
 なれば。『ここ』から『先』で、あれを殺めるも見過ごすも、もう自由だと言う事と取るべきか。
 銀時が──同じ怒りを佐久間に抱く筈の銀時が、果たしてどう選ぶのか。それとも、無抵抗の老人を殺める程には至らぬ瞋恚なのか。
 睥睨する惨状。吹き上げる紫煙。遣った視線の先には、来い、と呼ぶ手。
 先程までここに繋がれていた、手の温度。思って左の手をそっと見下ろす。利き腕ではないが、格闘や簡単な武器の取り回しぐらいならば出来る程には鍛えてある。
 男の手もそうだった。器用そうな長い指と、古い剣胼胝や傷の痕の残る、同じ剣士の掌だ。
 不器用な手同士が、そうして繋ぎ合って、何をすると言うのだろう。
 何を思って、その手で互いを護ろうとしたのだろうか。
 どちらも酷い無為でしか無いのかも知れない。だが、少なくとも土方は、そこに生まれた感情の正体を知って仕舞っている。そこに生じた情動が厄介なものであると、それでも望まずにはいられなかったものであるとも、知っている。
 だから殊更に自嘲めいて笑う。
 仮令、どう言い繕ってみた所で。殺意の名前は復讐にしかならないのだと。
 
 
 観戦席を出た銀時と土方とが近付いて行った時、佐久間は既に壁からその身を下ろされていた。
 土方の半歩後ろをついて来ていた銀時に、沖田がぽいと無造作に、壁から抜いた木刀を投げて寄越す。
 「で」
 受け取った木刀をとん、と肩に担いで、銀時。
 「どうしやすかィ?」
 続けるのは沖田。同じ様に肩の上へと、こちらは抜き身の侭の刃を乗せて。
 口にはしないが、その二人と同じ問いを視線に乗せて振り返る山崎の、苛立ちや不安を隠しきれない様な努めた無表情が視界に入り、土方は実に苦々しい心地で煙草を足下に投げた。靴底にだけ感情を込めて、ぎりぎりと執拗に揉み潰す。
 意識は取り戻している様だが、佐久間は何処か呆けた様子でその場にへたり込んでいた。乱れ一つなかった髷は二つに断たれ、まるで落ち武者や虜囚の様な有り様だ。更には、上等な地の袴にまざまざと残る濡れた痕。嘗てお白州で犯罪者に様々な厳格な沙汰を与えて来た御奉行様とは到底思えやしない。
 如何にも、散々な恐怖を味わわされました、と言う体だが、この老人を一連の事件の主犯格の一人と知る周囲の人間達には、そんな様は何の同情も引きはしない。
 同じ穴の狢の同志らと結託し、大阪城楼閣の地下に、自分達の『法』となる、地下闘技場煉獄関を建造・所有していた罪。
 虎狼会の取り扱っていた人身売買の『商品』を、神明党を使って買い上げ、この大阪城楼閣に拵えた地下闘技場にて闘士或いは『やられ役』の餌としていた罪。
 売買した『商品』を違法な投薬や手術で、人道に劣る所行を行わせていた罪。
 真選組隊士を殺害し、副長を襲撃し殺害未遂に至らしめた神明党の浪士らを、罪人と知りながらも匿っていた罪。
 その他、数えれば両手の指では到底足りないだけの罪科を列挙する事が叶うだろう。
 その罪科を犯したとして逮捕に至る証拠品は、自らの所行の一端を語る音声記録。それと、同じ罪科を認めて『切腹』した同志たち。
 余罪の中には、真選組副長への脅迫と人権侵害、猥褻行為やらも含まれるだろうか。思って苦笑する。それは、この老人の口から漏れさえしなければ、誰にも知れる事なく風化するものだ。
 銀時の方を一度ちらりと伺うが、どうやら何か口出しをする気はないらしい。こちらをじっと見ている癖に何のアクションも起こす気配はない。
 面倒になった土方は嘆息をひとつ吐き、未だ呆けた様にへたり込んでいる佐久間へと一歩、近付いた。
 あからさまな靴音と、刀の柄へと乗せた腕で鞘の鳴る音とをさせれば、佐久間ははっと我に返った様に顔を振り仰いだ。寸時辺りを見回し、己の眼前に立つ土方を見上げ、血走った目を怒りに見開く。
 「き、貴様……、」
 目の前に居るのは果たして『狗』か。それとも『鬼』か。
 座った侭後じさる老人は、己の周囲に居るものが誰ひとり自分の味方をするものではなく、土方の助けになる者であると悟っていた。この侭沙汰にかけられる事もなく、恐らくは殺されると、そう思ったのだろうし、土方もその心算で居た。
 居た──の、だが。
 「……潔く腹を斬るか、獄に繋がれ死ぬまで苦しみと屈辱を味わうか。今の内お好きな方をお選びになる事をお勧めします。どの道最早、復職は疎か権力を再び頂く事も到底叶いますまい。僭越ながら、介錯ぐらいは務めましょう」
 土方の口から澱みなく紡がれた限りない譲歩の申し出に、沖田が舌打ちをし、山崎が唇を噛む。
 それらを前に、佐久間はまたしても暫しぽかんとしていたが、次の瞬間には嘲弄の色を隠さない狂った様な笑い声を上げた。
 死にたくはない、と言う態度を顕わにしながらも。侮辱されていると──命を断たれる猶予の恐怖で弄んでいると取ったのかも知れない。
 飽く迄、この老人にとっては、身分の下にある者の全ては、自らと言う指し手の元の駒としか感じられないものだったのかも知れない。
 だからこそ、それだけは我慢がならないとでも言う風な、凄絶な笑い声だった。
 「幕府の狗どもが、良い気になるなよ…!貴様の今までに散々見せた無様な醜態、全て余す事無く吐き出してやろうぞ。出る所に出れば、野良狗の群れ如き簡単に踏み潰す事など叶うのだと思い知らせ」
 佐久間がそこまで声を上げた瞬間、移動式の檻の中で連行を待っていた羅刹が突如起き上がり、がしゃがしゃと鉄格子を鳴らし始めた。檻はがたがたと激しく揺れるが壊れる様子はない。慌てて隊士らが駆け寄って再度の投薬を試み始める。
 苦悶にも似た絶叫と、格子の隙間から伸びる手。憎悪そのものと言った眼差しに当てられた様に、佐久間は哀れな悲鳴を上げて壁際までよたよたと這いずって逃げた。忙しなく呼吸を乱し、血走った目に今度は紛れもない恐怖を乗せて、地についた、縺れて上手く動かせない手足が床をざりざりと擦る。
 観覧席から落下した時、あの憎しみの顎を目にして──死んだと確実に思っただろう、その一瞬の恐怖は、相当に老人の精神を叩きのめしたらしい。
 王手を詰められるでもない投了。圧倒的な力で盤上を振り払うものなど、知らなかったのかも知れない。
 「……無様なこって」
 沖田がひょいと肩を竦めるのを諫める様に軽く一瞥し、土方はもう一度佐久間の前へ進み出た。く、と軽く掴んだ鞘を傾ける。右手は柄には触れさせてはいない。だがそれでも、殺められる恐怖の前に晒された老人には、そんな小さな音でさえ鞘走りの音にも聞こえただろう。
 「獄の中で命数が尽きるまでの時間、ずっとその恐怖を抱えて生きろ。テメェはこれから毎日、テメェが歪めて殺めた者らの怨嗟の声を常に暗闇に延々と聞く事になる。その未来からは最早『潔く死を選ぶ』なんて事も許されやしねぇ」
 その時確かに佐久間は見た筈だ。
 黒い鬼の横に並んだ、白い夜叉の姿を。
 そして確かに感じた筈だ。死の恐怖より猶恐ろしいのは、生きた鬼共の怒りであると。
 木刀が肩を打つ音。
 刀が鯉口を切る音。
 凄絶に冷えた刃色の眼たち。

 「「もしもまた、『鬼』に手を出す様な事があったら──」」

 白と黒。二匹の鬼の声が綺麗に重なって響く。
 それを最後に、佐久間の意識はばたりと途切れた。






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