散華有情 / 4 「──?!」 寸時の沈黙になければ気付かなかったかも知れない、僅かの音を土方の聴力は確かに捉えていた。反射的に動きかかる体は、然し眼前の佐々木がすいと伸ばした、留める様な手に遮られる。 「心配ご無用です」 短くそうとだけ告げて寄越した、その逆の手が、緊張感の欠片もない賑やかな着信音を響かせる携帯電話を取り出すのを、項をぴりぴりとさせる焦臭い感覚と共に土方は無言で睨んだ。 「もしもし、サブちゃんです。…ええ、釣り餌は予定通りに。来た所でやっちゃって下さい。但し目撃者は出さない様に。……駄目ですよ、目撃者諸共始末すれば良いとか言う問題じゃありません。アナタも一応は警察なんですから、その辺りの自覚をそろそろですね…、 ……もしもし?のぶめさん?」 物騒な通話は相手に一方的に切られて仕舞ったらしい。佐々木は肩を竦めて見せると、携帯電話の終話ボタンを押し、こちらも物騒な事に変わりはないだろう、刀に手をかけた土方の方をくるりと振り返った。 「切られちゃいました。まあ、時間が時間です。そうそう運の悪い通行人が居るとは思いませんが」 「佐々木殿、今の電話とさっきの騒ぎは」 近藤が珍しくも押し殺した様な低い呻きを漏らすのに、佐々木はいっそ芝居がかっているとも見える大仰な仕草でひとつ、頷いてみせる。 「『予定通り』です。アナタ方は何も心配なさる必要はありません。──ええ、警備主任である局長(わたし)が、真選組(アナタ方)を持て成しに出るのは必要な事ですから。仮令それで警備が疎かになった僅かの隙を衝かれ、屋敷の者が亡くなった所で。屋敷から迂闊にも出た誰かが『事故死』した所で。アナタ方は何の心配もいりませんよ」 「っ、」 ぐ、と息を呑んだ近藤を後目に、土方はいよいよ煙草を取り出した。一応は証拠物件の捜索と言う事で控えていたのだが、こうなっては最早意味も無いだろう。 「端からそれがテメェの狙いか」 軋りそうになる奥歯の代わりに煙草のフィルターを噛んだ土方の問いへと、返ったのは「ええ」といつも通りの平淡なエリートの声音だった。 「……結局、表立っては明かされなかった関係者と、その身内も。全部を黙らせて終ェってのが、テメェの考えか?それとも、警察組織そのものを擁護しなけりゃならねェ、幕府(おかみ)の命令か?」 なんの事もない。少し考えれば誰もが至る結論だ。 人は生きて言葉を話し文字を残し、死んでからも証言する証拠だ。家長の犯した罪が表沙汰には出来ないものだと納得すればこそ、『正当』に与えられた自分達への処罰に応じなければならない事に理不尽さを覚えるだろう。 今はただ家長の罪を悔い、呪うばかりであれど、いつまでその感情が持続するかなど知れない。証言者が、いつ真実を口にするか知れない。何かの拍子に秘密はいとも容易く漏れ出る。それを秘密と知ればこそ、漏らし残したいと望むやも知れない。 奉行である佐久間やその仲間が、警察組織の者としてあってはならぬ法を犯した挙げ句に秘密裏に処刑された。それは幕府の重んじ定めた法をこそ遵守すべき警察と言う存在をも危うくする事実でしかない。公儀の為を思えば、それは隠匿されるべき真実だ。 それがいつ漏れ出すか。いつ徳川幕府、現政権の足下を掬う材料の一つになるとも知れない。そんなものを放置しておける筈は無い。 雑草は徹底的に、根こそぎに抜かなければ直ぐに庭を駄目にする。 佐久間の妻子は家長の罪を知らなかったと証言しているし、実際に煉獄関の件に関わった痕跡は一切が認められなかった。与えられた田舎への蟄居と言う処罰も諾々と受け入れている。幕臣の家柄としては模範的な姿と言えた。 だが。それがいつまで続くかなど、誰にも知れない。記憶を都合良く取り出して消せる様なおぞましい仕組みでも無い限り、人の口は命と共に封じるしか無いのだ。 (故に、権力者こそ、人を信用出来なくなる。秘密を抱えれば抱える程に、共有する相手をこそ信じられなくなって行くもんだ) 事実も真理も、余りに容易い原始的な結論だからこそ、無惨だ。思って土方はフィルターを噛み潰して仕舞った煙草を、結局は口から抜き取った。 佐久間の細君、子息共に、直接会ったり関わったりした事は土方にはない。だが、今自分の手に届きそうな所で『正当に』奪われただろう命や人生を看過しなければならない事が、本当に正しい事だとはどうしても思えない。 思えないが、理解だけは理路整然と。腹立たしい程にある。 そして佐々木はその為のセッティングとして、真選組副長が単独で現場に入るのではなく、真選組局長一行が現場に訪れると言う『事実』を作らせたのだ。見廻組の担当する警備の中で行われる、真選組の局長まで出張る重要な捜査があったのだと。見廻組は局長を含めそれに捜査協力として応対せざるを得なかった為に、警備に僅かの隙が生じたのだ、と。 もしも土方が事前に佐々木にお伺いを立てず、直接現場に一人で向かったとして、恐らくは近藤を連れて出直す様要請されただろう。見廻組の縄張りで、理由を問われたとて答えられない様な、個人的な後ろ暗い捜し物をしなければならない以上、下手に出るしかなかった土方にそれを断る術はない。 佐々木の計略通りの『事件が起きても仕方のない』状況を作る為に、真選組が──それも近藤の存在が──利用されたのだと言う事実は、常の土方であれば憤慨して刀を抜きかねない話だ。 刀に添えた左の手が、鍔を持ち上げている。切羽の僅かに見える程度。侮辱と憤慨の名の刃が直ぐそこにある。 「その問い方ですと、どちらも正解です。今回我々見廻組は事件の当事者ではありませんでしたから、世間的にも組織構造的にも何の疑いも抱かれる事無く、適う限りスムーズに事が運びました。 もしも真選組(アナタ方)と見廻組(私たち)、最初に煉獄の遊技場に手を出したのが逆であれば、今頃は逆の立場で相対していたでしょう」 佐々木とて近藤や土方の性分から、言いたい事は理解出来ていたに違いない。故にか問いに対する答えは見事なくらいの模範解答と言えた。 ぐ、と何かを言うのに堪えた近藤の拳が握り固められるのを見ながら、土方は佐々木の前へと自ら進み出た。 今し方、警察の、法の目の明かな中で、法を秩序と保つ土台を護る為に、法が破られるのを黙認した。寝惚けた眼に値踏みする様見つめられながら、鯉口を僅か切っていた手をそっと刀から離してみせれば、佐々木が少し驚いた様に瞼を持ち上げる。 「俺らの代わりにエリート様方が汚れ仕事引き受けてくれたってなァ、ご苦労さんな事だ。感謝すれこそ、斬りかかる様な駄犬と思ったか?」 ひらりと挙げた両手を戯ける様に揺らせば、背後の近藤が息を呑む気配。自分が短気めいた行動を起こす前に、土方が泥を被りに出たのだとは気付いた様だ。一方、眼前の佐々木は僅か持ち上げた瞼を戻すのみで寸時の驚きを表現してみせた。 「……ま。その方が話が早く済みましたがね。佐久間殿に個人的な怨みを持ったアナタが復讐の為に馬鹿を起こした、と。今からそうなさっても構いませんよ?下手人をわざわざ用意する手間が省けますから」 個人的な怨み。痛い所を的確に衝く佐々木のあからさまな挑発に、然し土方は向かわなかった。どうせ今更、の話だ。 「そろそろ行こう、近藤さん。目的は一応達せたし、ここは大人しく佐々木局長殿の進言に乗った方が良い。これ以上俺らが此処に残って、エリート様方の足を引っ張る訳にゃ行かねェ」 捜査権限を主張する、と言う、佐々木への意趣返しも寸時浮かんだが、状況を見るだに逆に、真選組に捜査妨害をされた、と言う話にされそうだ。佐々木が『する』心算もない事を、敢えてさせようなどとは流石に思わない。 因って土方はこの場での反撃を諦める事にした。これ以上痛い腹を無用に衝かれるのは御免だ。 「だが、」 人一倍の『真っ当な』正義感の強い近藤は、納得を受け入れ難いと言った顔で言い淀むが、「近藤さん」名前を呼ぶだけの土方の硬い声音に制され、拳を固めた侭で押し黙る。 今ここで騒ぎを起こせば、土方が佐々木に借りを作ってまで求めた、スキャンダルめいた『証拠』がどうなるか知れない。それは土方の立場や真選組の風聞だけではなく、共に被写体となっている銀時にも降り注ぐだろう。事が想像以上に大きく飛び火し一人歩きを始めれば、易々鎮火出来ない質のものになる。 正しいだけの正義など、遵守すべき法など。それを武器とする警察と言う立場の前であれ、無力だ。刀を振り翳し正しきを吼えるだけでは、世界に罷り通る理不尽を払えなどしない。 近藤の、真選組の信念にそれが反する事だと土方は重々理解していた。なればこそ、それを諫めるのが副長(自分)の役割だとも。 幕臣と言う形代が無ければ立ち向かえない。だが、それ故に抗ってはならないものがある。それは紛れもなく苦い二律背反。 仮令、目の前で起こった『上の判断』に因る犯罪行為があったとして。それを真っ向から止めようとすれば、次に『上の判断』で消されるのは自分達の方だ。 斬り捨てなければならない感情と、涙や命がある。それを看過する自分は、警察として、士として正しい事をしている、と胸など張れはしない。 だから、近藤の正義感は正しくて、それを諫める自分は、間違っている。 その結果だけ残ればそれで良いと、土方は思っている。泥を被るのは慣れたものだ。近藤の信念に『正しい』論破をぶつけて黙らせたとしても。それで真選組は揺らぎもしない。 土方は今までに幾度となく、組織論やそれに対する人間の『扱い』を間に挟んで近藤と些少な言い合いを起こしている。決定的に意見が分かたれたとして、何となく流れの上で互いに矛先を納めるのが常だったが。 打算も、割り切りも、駆け引きも、そして信念も。権謀術数の世界では確かに必要なものだ。土方の唱える『当たり前』の組織論でも、近藤の主張する『当たり前』の理想論であっても足りないが、どちらが欠けても恐らくは成り立たない。 そして、そんな様は、生まれた時からそんな『世界』を見慣れたエリート様にとっては、無駄な茶番としか言い様のないものでしかないに違いない。 「賢明な判断です。ただでさえ先の一件はアナタ方にとっては手柄であり武勲であったとして、功績に比例して敵は増えるものですから。アナタ方の足を引っ張ろうと言う輩は何処に居るか解りません。厄介事に巻き込まれる前に引き揚げた方が宜しい」 親切ごかして聞こえる言い種の片眼鏡の向こうで、茫洋とした眼差しが少し笑うのが見えた。嘲笑うのではなく、苦笑にも似た笑み。 「こっちの状況を利用されてやってんだ。手前事たァ言え、借りた心算は無ェからな」 早く立ち去れ、と言う佐々木の言い種は、気持ちが悪いくらい『親切』なものだ。それこそ、佐々木が自ら口にした様に、土方を屋敷襲撃の犯人と吊し上げても構わない状況だと言うのに──そこまでせずとも、真選組に足を引っ張られた形になったのだと言う事には出来る筈だ──、そうはせずに屋敷から追い出す事を選んだのだから。 その言い種からは押しつけがましいものは感じられなかったが、『個人的』に土方の求めた証拠品の押収、と言う事以外に、佐々木に借りたものはないぞと、釘を刺す様に一応言い置いて、土方は近藤を促して歩き出す。 縁側から中庭に降りて、見張りをしていた隊士らに手の仕草だけで撤収を促すと、土方は中庭の勝手口から出る様近藤に言い、車もそちらに回させる様に携帯電話で幾つか指示を出す。屯所までは徒歩でも良いくらいの距離だが、人目と安全性と体裁とを考え車で来ている。 薄暗い庭に佇んだ土方が、携帯電話を手の中で弄びつつ離れをもう一度振り返れば、書斎からの逆光の中に立つ佐々木の姿が目に入る。 表情は伺えない。どうせいつもの様な平坦で面白味もない顔をしているのだろうが。 「口封じを口封じで塗り固めてって、それで最後に何が残るんだろうな。それこそ、手前ェらの手は自ら土台を危うくしている様にしか見えやしねェ」 表情の伺えない淡泊な顔に向け、捨て台詞以下のそんな言葉をぽつりと吐き出せば、佐々木が、ふ、と息を吹きこぼす様に嗤った。 今度は明確に、笑うのではなく。 明かな、嘲笑。 「……」 無表情に近い笑みから出た、明け透けに過ぎる感情に、ぞくり、と土方の背筋は粟立つ。 畏れ、よりも、敵意、よりも。 教師が、愚鈍な生徒を微笑ましく見つめる様な。見下す意図ばかりではなく、愚かしいその様に対し優越感や満足感を得ている様な──庇護者の眼にも似たそれに、畏怖に近い嫌悪感を憶える。 「全く。存外にアナタは可愛らしい人の様だ。真っ当な物の見方を正しきと知り、弁える賢しさを持つ癖、最も肝心なものを疑おうとはしない」 言う佐々木の口調は特別何かの感慨が込められている様には聞こえなかったが、あからさまな内容と言い種とに、土方は軽く舌打ちをした。余計な捨て台詞など口にするべきではなかった。 「……侮辱か?それとも、それもエリート様からのご親切な『忠告』ってやつか?」 「どちらでもありません。単純な事実を述べた迄です。己の足下、国の土台が危ういのなど、我々が何かをする迄も無く明確な些事でしょう。 土方さん。アナタが、この国が盤石な国家足り得るともしも思うのであれば、それは紛れもなく愚鈍な人間の怠慢ですよ」 土方の物騒な視線と感情とに晒されていても、佐々木の口調に澱みはない。それは当人の口にした通りの、事実でしかない事柄だからだろう。 土方とて、佐々木の言いたい事は、解る。 解るからこそ、反論を上げる事が出来ない。 「………あァ、そうかい。なら俺らに出来る事ァ精々、崩れそうな土台の立つ泥の中で足掻く事ぐれェのもんだな」 佐々木の厚い瞼が僅か持ち上げられるのを契機に、土方は今度こそそちらに背を向けた。佐久間邸の書斎にも、もう二度と訪れる事などあるまい。 朝になれば、この屋敷に賊が侵入した事と、犠牲者が幾人か出た事がニュースの彩りの一つに添えられるだろう。妻は家で、息子は佐々木曰くの『誘い出された』外で。奉行に怨みを持つ犯罪者辺りの名前が犯人として挙げられ、抵抗の末に見廻組に因って斬られたと。解決した事件として、過去形で。 そしてそれはこれで終わりではない。これから時間を掛けて少しづつ関係者が、殺害ばかりでなく、病死、事故死、営倉送りと『口封じ』されて行くのだろう。 幕府の土台たり得ぬ者は、それを揺るがす可能性を持つ者は、盤石の安寧と言う大義名分の為に消される。当然の様に。 解っている。解っている、が、そんな世界の許した『侍』の威を借りているもののひとつが、真選組と言う形なのだ。幕府と言う親の庇護が無ければ、近藤も土方も攘夷浪士達と何ら変わりない。ただのごろつきに過ぎない。 侍と言う『形』だけが欲しい訳ではない。ただ、今の世界で許された『士』の名前と身分を得る方法のひとつが、この形だっただけだ。 それがどんなに歪であれど、侍として刀を抱く事が出来るのであれば、それでも構うまいと。 それがどんなに醜く見えれど、武士として在る事が許されるのであれば、それで構うまいと。 大事なのは侍の名をした立派な張り子の虎ではない。侍たろうとする魂だ。心だ。少なくとも土方はそう信じていたし、今でもその思いは変わらない。権力に縋って身分を名乗るのでは、薄汚い野心と欲とを振り翳す幕僚と同じだ。 だから、そうはなるまいと。どこかで一線を護り続けていた心算であった。 侍と言う魂を、己の信じるその形を、権力に溺れ縋って生きるのではなく。自らの信念と刻んで、それを決して裏切らぬ途を選んで行こうと、そう思っていた。 例えば、あの銀髪の男の様に。 社会的な底辺とも言える生活をしている癖に、土産物の木刀なんぞを佩いて日々を自堕落に生きている癖に、誰よりも侍らしく、誰よりも憧れたあの男の魂の様に。 (それが、今はどうだ……?俺は、何かを違えずに『此処』に居るのか?俺は、何かを失わずに『此処』に居られるのか?) つきり、と胸に刺さった針の様な痛みは、罪悪感に程似ていた様に感じられる。 佐久間との、無様な取引の果ての自らの醜態を終わらせ、終わった後には隠し通す、ただそれだけの己の行動が、一体どれだけの波紋を江戸に、警察組織に、幕府に走らせたと言うのか。 丁度良い膿出しでしょうと、山崎は言った。 少し強すぎるお灸になっちまったかな、と松平は言った。 両方共に咎める意図はなかった。それは断言出来る。だが、腐りかけた幕府の土台を幾分揺るがす事態を招いたのは、間違いなく土方のした事だ。 それによって『妥当』な犠牲が支払われる事になったのも、土方のした事が原因になる。 (テメェに言われずとも、解っちゃいるんだよ) 未だ背中に感じる佐々木の、きっと嘲笑と苦さとのない交ぜになっただろう表情をしている視線に向けて肩を聳やかすと、土方は庭の勝手口の戸を潜った。 塀沿いに駐車していたパトカーの窓を軽くノックし、後部席に収まっていた近藤に窓を開けさせると、土方は新たに角を曲がって現れたヘッドライトを指で軽く示す。 「近藤さん、悪ィが覆面を用意したからそっちに乗り換えてくれ。少し騒がしい夜になっちまったからな、用心するに越した事ァ無ぇ」 キッ、と軽いブレーキ音を立てて、近藤の乗っている、二人がこの佐久間邸を訪うのに使ったパトカーの前へと駐まったシルバーの乗用車の運転席から、土方の言葉に応える様に禿頭の大男が手をひらりと振って寄越すのが見えた。武州に居た頃からの馴染みの戦友、十番隊隊長の原田だ。 本来、人手不足や隊長格の人間同士で警邏をする時など以外では、隊長格の人間が自らハンドルを握る事は無い。しかもそれがパトカーではなく覆面車である事も。 これは、先程土方が携帯電話で頼んだ通りの内容だが、流石にそれを知らされていなかった近藤は、今度こそ露骨に渋面を向けて来る。 「おい、トシ。お前何か俺に隠し事をしていないか?もしそうじゃないなら、納得の行く説明をくれ」 言葉は一歩も退かぬ固さを見せていたが、紡ぐ表情は渋面、と言うよりも何かを慮る様な色が強いものである事に、長い付き合いの土方は気付いて仕舞う。が……、否、だからこそ軽くかぶりを振ってみせた。 「隠し事、って訳じゃ無ぇ。正直今の所は予感ですら無ェ様なもんだ。いつもの心配性だと思ってくれねぇか」 言いながら、ドアを開けて近藤に車の乗り換えを再度願い出る。 そう。予感ですらない。確信などない。雨が降るかもしれないから傘を携帯してくれ、と晴天を見上げながら言う様なものだ。 土方の、近藤に対するある種の過保護さ──と言うか心配性──は原田も知る所だ。だからこそ、屯所待機だったのもあって、運転手役などにも気安く応じてくれたのだろう。 ただの心配性、勘違い、思いすぎ、で済むならば安いものであると、原田も良く解ってくれている。 そして、土方のそう言った『心配性』の予感が、望まずして当たる事が侭ある事も。 「トシ」 シートベルトを外しながら、近藤は溜息混じりに土方の顔を見上げて来る。 その口調は、名を呼んだだけ、と言うよりは咎める様な意図が強かったが、土方は「済まねぇな」と、諾と取った風情で返す。 丸め込むのにも近いものは感じた様だが、近藤はもう一度深く溜息をつくとパトカーから降りた。煙草をくわえる土方の肩をぽんと叩く。 「帰ったらちゃんと話せ。じゃないと、お前が厭がろうが局長命令にするぞ」 そう、釘をしっかりと刺す、その指に込もった力の強さを心配と等価に感じながら、土方は小さく顎を引く事でそれに応えた。 「済まねぇな」 二度、繰り返した言葉に効力がさして無い事など、近藤も気付いているのかいないのか。わし、と土方の頭を力強く撫で──と言うより掻き回したと言った感じで──ると、原田が運転手よろしく開けようとした後部座席を断り、助手席に乗り込んだ。 シートベルトを締めたのを確認すると、アイドリング状態だった車のヘッドライトを二度、点滅させ、原田と近藤とを乗せた車は静かに、来た時とは逆の方向へと走り去って行く。 それをじっと見送っていた土方は、やがて吸いさしの煙草を靴底で踏み消すと、その場で待機していた他の隊士らの乗ったパトカーを先に出させた。最後に自らも、近藤の先程まで座していたパトカーの後部座席に乗り込んでそれに続く。 運転手は古くから顔を知る隊士だ。故にか土方の『心配性』の行動にも慣れている筈だが、流石に不穏なものを何か感じているのか、バックミラー越しにちらちらと落ち着きのない視線が何度も辺りを動き回っている。 「……見廻組の連中に会っちまったからな。用心したい気にもなんだろ」 仕方なく、吐き出す紫煙に混ぜてそう口にすれば、「えっ」と瞠目した隊士とバックミラーの中で視線がかち合う。 「前見ろ」 「あ、すいません。〜ええと、見廻組、ですか…?」 まさか応えらしきものがあるとは思っていなかったのか、慌てた様に背筋を正してハンドルを握り直す隊士が、驚きと困惑とをない交ぜにした様な声で呟く。 「屋敷の警備に見廻組が居るのは当然として、運悪くあのいけ好かねぇエリート様がいやがった」 今度は探る様な視線ではなく明確な質問だったから、土方は歯の間に挟んだ煙草を一度ゆっくりと上下させてから、それに対する解答を口にする。 正しくは、解答らしきもの、だが。 見廻組と真選組とが小競り合いめいた些少の衝突を起こす事があったとして。基本、お互いの任務の領分は異なる。だからこそ決定的に『敵』として相対する事など、過去の一例を除けばまず、ない。況してそのケースも特異な事情あっての事だ。そんな『事情』が同じ組織に名を連ねる者らとして、そうそうある筈もない。寧ろあったら困る。それこそ幕府の足下が今にも崩れそうにでもなりでもしない限り、有り得てはならない。 故に。土方の、隊士の問いに対する応えは全く意味を為してはいない。 ただ、それらしい、だけだ。 土方が見廻組とその局長である佐々木──曰くエリート様──を毛嫌いしているのは組の内部で公然と知れている事であり、隊士の殆どはその見方に理解、と言うよりは賛同を示している。 だから、見廻組(佐々木)に会った事で土方が苛立ち混じりに警戒心を強めて行動する事は、それを知る者にとって実に『らしく』聞こえる筈だ。 見廻組と真選組とが正面きって互いに害を成す様なことは無い。それでも、『見廻組に会って仕舞った』事は、土方が周囲に警戒を強く示すのに、尤もらしい理由になる。 「そうでしたか」 隊士も土方の口調と言い種とからそう判断したらしく、苦笑混じりに同意を示してみせてくる。 (手前ェの立場護る為の、下らねェ嘘──か、) 自嘲めいた正しい胸中の意見に頷く様に、こつん、とこめかみを窓に当てて、土方は背後に通り過ぎて行く夜の町をぼんやりと眺めた。 古くからの武家屋敷などの居並ぶこの一角は、盛り場も無く深夜は鎮と薄暗い。道も他の車と擦れ違う事など滅多にない上、真選組屯所までの距離もそう遠くない。 ちらりとサイドミラーに視線を遣るが、薄ら暗い道が続くほかには何も見えそうにない。少なくとも、土方が目視で警戒したい様な対象物は何も。 (杞憂ならそれで良い。俺がいつも言ってる事だろうが) そう。起きなければそれが良いに決まっている。事態の波紋が何処にどう言う形でかは解らないが拡がり始めているのは確かだが、その矛先が真選組へ必ずしも向く訳ではないのだ。 (思い過ごしは思い過ごし、でも──だ。近藤さんには一体何て説明したもんかね…) はあ、と正直な溜息が薄くこぼれた。あの『正しい』人に、今の幕府の道理から、自分たちの取るべき『正しい』途をどう納得させれば良いのか。 議題は非常に難易度の高いものと言わざるを得ないが、考える時間は生憎そう長くは用意されていない。車は夜道を滑る様に、何事もなく、真選組屯所へと帰り着いていた。 。 /3← : → /5 |