散華有情 / 5



 真選組屯所の事務区画にある副長室に土方が戻ったのは、それから十分にも満たない間の後だ。駐車場には既に原田が近藤を連れ帰った覆面車輌が停めてあったので、彼らは土方よりも先に戻っている様だった。
 それに加えて、灯の既に落とされた事務区画の奥詰まりの角部屋に皓々と灯りが灯っているのだ。客人が土方に先んじて副長室に居るだろう事は容易に知れた。
 溜息にならない吐息を煙を吐き出す事で誤魔化し、土方が隊服の襟元を緩めながら副長室の障子を開けば、そこにあったのは概ね予想通りの姿だった。
 「……近藤さん」
 「お疲れさん、トシ。悪いが上がらせて貰ってるぞ」
 部屋の中央付近に座布団を敷いて胡座を掻いてでんと鎮座する真選組局長の顔は、心なしか常より僅かに険しい。時刻はそろそろ一日の終わりを告げる頃だと言うのに、隊服を着替えも緩めもしていないその姿からも近藤の頑とした意思を感じられて、土方は胸中でだけひっそり溜息をついて障子を閉ざした。
 「あんたがわざわざこっちに来る必要なんて無かったのに。俺からちゃんと訪ねる心算だったよ」
 逃げ場を失った様な感覚、と言うよりは、近藤の不機嫌さとでも言うのか。そちらの方がどちらかと言えば居たたまれない。
 「話を聞くなら早い内が良いだろう」
 常より大分硬い声が簡素に言うのに、土方は無言で片目を眇めた。今更誤魔化す心算も逃げる心算も無かったが、この感覚──と言うよりは勘か──をどう説明したものか、今ひとつ判然としないのも事実だった。杞憂であると、今まで幾度も繰り返しそう感じた事の様に。
 近藤の顰め面の原因は、訊きたい、と言うより寧ろ、言いたい、と言う方にある。佐久間邸で今日起こされ警察でありながらそれを看過させられた事件と、その直後に土方の見せた、全く繋がらない様に感じられる杞憂。それをして、土方がまた何か厄介事でも見つけたのではないかと気にかけている。
 そしてそれを、土方がまた隠すのではないかと。そう思っている。だからこそだろう。
 隠すなと。そう言っている。
 ならば、少しでも近藤の納得する形で『説明』或いは説得を用意するのが、土方の示さなければならない──誠実さ、だ。
 少し考え、土方は隊服の上着を脱ぎながら部屋を横切った。鴨居に掛けっぱなしだった衣紋掛けを手に取ると、ぴん、と皺を軽く伸ばしたスカーフと共に上着を掛ける。
 いつもならばここで隊服一式を脱ぐのだが、そこで止めて衣紋掛けを鴨居に戻し、部屋の隅に積まれていた座布団を一枚引き摺り出すと、近藤に向かい合う位置にぽいと放り出す。
 そうしてもう一度縁側の障子を開いて、念の為に左右を軽く見回してから、土方は漸く近藤の向かいに腰を下ろした。
 腕組みをして眉間に珍しい皺を寄せた近藤は、土方の戦友ではなく、真選組局長の顔をしている。
 その様に威圧よりは憧憬を覚え、土方は一度、濁った紫煙をゆっくりと吐き出してから口を開いた。
 「まず、佐久間邸で今日起きた事に関しちゃァ、真選組(うち)がどうこうと言える様な話じゃねぇのは確かだ。見廻組を佐久間の家人の警護に充てたのは警察庁のお偉いさんで、命令が『護衛』なんぞでなく『口封じ』なのは恐らく現場で任務に就いていた連中全員の共通認識だろう」
 本来無辜の民を護るべき法と平和とを遵守すべきが警察の為す事だ。警察でないとしても、侍──或いは良識的な人間の価値観であれば、それは正しい行いだろう。
 だからこそ、そんな警察が、自らの地位や名誉を守る為に、本来護るべき民を殺せと言う『命令』が出る事は酷く近藤には許し難いのだろう。組織の人間として、理屈的には理解もそれなりに適おう。だが、感情はそうは行かない。
 「トシ、俺達はそんな事を許す為に、見過ごす為に、こんな大層なモンぶら下げてるんじゃねぇ。それを看過する事が、お前は本当に正しい事だと言えるのか?」
 険しい顔に憤慨と不快感とを内包して、近藤は自らの脇に置いた刀を少し乱暴に打った。がしゃ、と金属の擦れる音が、近藤の口にする『正しい事』の横に虚しく響く。
 刀は正しい事の顕れではない。力は正しい事の証明ではない。だが、刃ほどに正しく解り易い『形』も無い。それはこの世界で誰かの価値観が作り上げた形代として、何よりもはっきりと知れた『侍』の在り方を表す為のひとつだからだ。
 それそのものが『何』だと言う訳ではない。それそのものが正しい訳ではない。だが、土方は知っている。少なくとも近藤は、それを正しきものであると信じて此処に居るのだと。それは正しきものでなければいけないのだと。
 侍である事を望んだ時から、近藤勲の魂には『正しい』ものしか無いのだと。
 傍らに転がる刀以上に、この人の言う事は正しい。思って、土方はかぶりを振った。否定ではないが、否定の様に。
 「正しいか正しく無ェかと言われりゃ、正しくは無ェと答える他ねぇ。……が、事は俺やあんたが思う以上に大きくなってる。正直に言っちまえば手に負えねェ。そこに来て、この大粛正と言っても良い事態だ。下手に首突っ込む様な真似をすりゃァ幾ら主犯のアタマを押さえたっつー功績があったとして、こっちの身まで危うくなる。今なら野良犬共の一匹や二匹、どさくさに紛れてさぞ簡単に始末出来るだろうよ」
 「だが!、」
 土方の言う事が理詰めで『常識的な』組織論でしかないとは知れたのだろう、声を荒げかかる近藤へと軽く掌を向けて落ち着くよう諫めてから、手を伸ばして卓上の灰皿を引き寄せる。見廻組のオフィスにあった様な高級品ではない、陶器の大量生産品だ。特に愛着がある訳でもないが、江戸に来た頃からずっと使い続けている。そこに吸い殻を押しやって、土方は箱から口で煙草を抜き取った。火は点けない侭に続ける。
 「あれが、とっつァんの命令か、それとも他の奴の仕業かは知れねぇ。が、俺は後者だろうと取っている」
 そこで一旦切って煙草に火を点け、吐息に乗せる様に声を潜めて吐き出す。
 「既に世間じゃ噂話程度には知れてる話だが。現将軍の政権を快く思わねェ連中が幕閣の中に現れ始めている。昔から誰かが何かを言や反論が返る様に、何処の世にも反対勢力なんてのは必ず居るもんだが、問題なのは今はそれが看過しかねる程に勢力を増してるって事だ。
 連中は徳川宗家の治世に表立って異を唱える程愚かじゃねェ。だが、先の将軍定々公の代で起きた歪み──まァ要するに天人に頭を垂れて天導衆に良い様にされてるって現状だが──、そこで利潤を得て手前ェらの懐暖めてる下衆共を一掃してぇたァ、常々お思いになっておられるらしい。そのお高い志に、思惑は様々とは言え、少しづつだが支持も集まって来ている」
 市中にて主に攘夷浪士を取り締まる実働部隊である真選組が、城中に政治的な意味で上がる事は無い。だが、用命を受けて参じ仕る事や、政に於ける重要人物の護衛に就くは度々ある(最近では見廻組に仕事を奪われる事もあるが)。因って自然とその類の話は耳に入って来るものだ。
 土方は、己が飼われる狗である事を良く理解していた。蔑んだ見方をされど、損な御役目ばかりを与えられようと、そう言う連中が居るからこそ、真選組が今存続しているのだと言う事も。
 だが、今は真選組の発足当時とは状況が違う。あの頃は方々に頭を下げて回り、それこそ不味い餌にも尾を振る真似をしなければならない事もあったが、真選組は今では警察組織の中でも特に実戦に特化した実働部隊であると公然と認知される様になっている。事実、形ばかりの幕府軍とほぼ同じ役割を担いながら、それでいて警察組織に所属している異例の組織として。
 武力と権力が市井に近い者の手に在る事を好まぬ幕臣らにとっては酷く厭わしい事に。ついでに、鬱陶しい事に。組を代表する人間の殆どの出自が武家などではなく田舎の農民であった事も連中の意に沿わなかった事は間違い無い。そんな組織がなまじ『正当な』立ち位置を得て仕舞った。
 幕府の狗として、公儀の為と言うお題目を掲げて真摯に職務に当たり続けた隊士ら、一騎当千の活躍を見せる隊長格のもののふ達、彼らを率いた局長。彼らの上げた功績のひとつひとつが、真選組のその立場を公然とした地位にまで押し上げた一因であるのは間違い無いが、彼らが今でこそ得ている正当な評価を授かるのはそう易しい話ではなかった。
 何せ時代は戦国の世とは違う。侍だから首級を上げてなんぼという仕組みでは成り立っていない。寧ろ、武力を持つ侍などは平和な治世の厄介者と扱われて然るべき側なのだから。
 狗と言う自らの立場を弁えていたからこそ、そんな中での土方の苦労は並大抵のものではなかった。愛想などなく礼儀作法にも乏しい身にそれを学ばせ、忍耐を身につけ、意に沿わぬ権力者の中にも積極的に人脈を得た。そうして協力者と敵対者とを分けて、組の益の為に必死になって上手く立ち回り、物怖じせず敵を作る反面で媚びるのにも似た政治取引の駆け引きも覚えた。時には血腥い所行を受け入れた事もあるし、今もなお屈辱感を憶える事もある。だが、そう言った苦労の結実が現在の真選組を支える確かな形となっているのは事実だ。
 故に今、敵は寧ろ真選組を抱えたが故に、嫌味を吐き捨てる程度のイヤガラセしか出来ない幕府内の連中ではなく、現徳川政権を打ち倒そうとする者達の方だ。
 「その筆頭である一橋徳川家が後ろ盾について、幕府にある意味でのテコ入れとして無理を通した案件の一つが、見廻組の結成だ。局長含め構成員に幕臣や武家の家柄の……まあ、連中曰くのエリート様だな。そのエリート様が多い事もあって、現政権に縋り付いて生きる、名だたる幕臣が連なる警察閣僚の連中も諾を呑まざるを得なかったって話だ」
 真選組は江戸幕府の興した警察組織の中では少々毛色が異なる。大まかに分類すれば公安と呼ばれるそれは、征夷大将軍の身分は勿論、国、公儀の安全を護る役割を帯びている。
 公安部とは、秘密組織、などと言うものではないが、ある意味では公然の秘密組織と言っても良いかもしれない。諸惑星や連合に対しての机上での防衛は勿論、テロや攘夷活動、国の内部を取り締まるのを目的とした組織は否応無しに機密性が高くなる。
 警察庁長官である松平の独断管轄となるそんな公安部の、末端であり直轄の、公に存在を許された実働部隊。それが真選組の正式な立ち位置だ。──とは言え、市中見廻りから要人護衛、攘夷派組織の摘発と、実際には人数と腕っぷしとを発揮する便利屋の様な扱いではあるのだが。
 一橋派が申し出たのは、その真選組とは違った立ち位置の警察組織の発足だった。そんな経緯で集められたエリートらの集団である見廻組は、主に現場で攘夷浪士を追い回す真選組とは異なり、同じ様な公安の役割を担いながらも、城中や高級幕僚に関する任務や外事活動などを行う事が多く、民間人に関わる事も多い真選組とは異なり、それこそ機密性が高い存在だ。
 「ともあれ、だ。そうして一橋派の手はこうまで容易く、城中、ご公儀のお膝元にまで及ぶに至った訳だ。真選組(うち)とは違ってより政治方面に食い込むキャリア集団でありながら、連中は幕府に送り込まれたスパイみてぇな立ち位置にある」
 そこで一つ息を吐く。気付けば殆ど吸わない侭に煙草が短くなりつつあった。勿体ないと思いながらも、吐いた分の息を吸って近藤を見る。
 こんな話は現状のおさらいの様なものだ。日々特に意識はしていないが、事実としては知っている様な内容だろう。だが、近藤は沈黙を守った侭、土方の言葉に耳を傾けている。それは、ここからが本題なのだとちゃんと解っているからだ。
 「そこに来て、今回真選組(うち)が佐久間らの──現政権派の、しかも警察組織や政治関係の幕僚までを含んだ連中を検挙した。しかも、想像以上に罪科としては大きく、広く市井にも知られるレベルの所行だ。今までの様に単純に揉み消したり一部の人間が辞職し火消しをして済むモンじゃとてもねェ。
 とっつァんも当然現政権派の筆頭だが、これを機に、一橋派や、どちらに就くか態度を決めかねて静観している連中に無用に足を引っ張られる事がない様、多少傷口を抉ってでも膿を全部出すべきだと言う結論に落ち着いた訳だ」
 それで現状の、大粛正とも言える大掛かりなテコ入れが始まるに至る。現政権の支持者であれど、敵対勢力に容易く足を掬われる様な、汚職に手を染めている幕臣は容赦なく切り捨てる程の大掛かりな処断──人員交代や営倉送りが殆どだが──に遭っている。
 今までは見ても見ぬふりをしてきた事に対する徹底的なテコ入れは、改革でもある。ただでさえ立場の怪しくなりつつある現政権を維持する為には、痛みを伴おうとも本質的な改善が必要なのだ。
 一部の有力貴族などは、親交深く恩もある前将軍に泣きついたらしいが、定々公も現状を重々理解している為、今回の警察組織の大粛正には概ね目を瞑った様だ。
 法を遵守し国と民を護る『建前』で組織された警察機構は、謂わばこの国の剣であり楯でもある。信用であり、証明でもある。国が、幕府が、民の上に確かなものとして存在しているのだと言う為の。
 「民衆にそっぽを向かれるのが、現政権の最も恐れる所だ。今回の件、公儀だの警察組織に関わる者が居たとは公に明言されては決していないが、市井の噂レベルでは幾つか黒い噂も散見出来てる。人々の信用を失えば警察の権威も幕府の掲げる法も、何もかも全てが失墜するだろう。そうなりゃ一橋派の思うツボだ」
 少なくとも表立っては、一橋派は武力で政権交代を望む訳ではない。将軍を暗殺しその地位を獲得したと風聞が流れる様な事がもしもあれば、それは諸惑星にも自国の民にも良い様には働きはしない。
 故に、民の声より不信任案が上るのが最も望ましい。
 故に。民に不審を抱かせる様な材料は全て消すのが望ましい。
 「……だから、俺たちは『それ』を見過ごせと。お前はそう言うのか?!」
 ダァン、と、強く畳を打った近藤の拳がわなわなと握り固められる。両肩に力が込められ、戦慄く背中の。その怒りは土方の思う通りにどこまでも、やはり『正しい』。
 「トシ、お前の言う事が『正しい』んだろう事くれェは俺にだって解る。だが、それとこれとは別の話だ。確かに俺ァ田舎者で碌な学も無ェ。謀にも政にも確かに疎い。
 だがな、幾らそこに大義があれど、そんな『誰か』の思惑ひとつで、目の前で命が奪われる事を正しいたァどうやったって思えねェんだ。『それ』を看過しねぇと在れねェ侍なんてのァ、お前の言う薄汚ェ幕臣連中とどう違うってんだ!」
 「……」
 違わない、でも、違う、でも。繰り言の答えは何一つ変わりはしない。そして土方は近藤を将と仰ぐ事を決意した時から、己の分を、役割を弁えて来た心算でいる。
 自分にしか解らない程度に苦笑して、土方は膝の上の手をちらと見下ろした。
 確かに掴み取ったものはあった筈だったそこに、見えないしがらみが纏わりついていく。侍で在る為。大人になる為。ただの青臭い理想だけで此処に居るのではない。繰り返す度。
 「なぁトシ、お前の言いてェ事は、そんなつまらねェ納得をさせる為の説教じゃねェんだろう?またお前一人で何か厄介事抱えこもうとしてねェか?じゃなきゃ辻褄が何一つ合わねぇ」
 先頃までの苛立ちを重たい溜息にも似た息遣いで呑み込んだ近藤が、やがてそんな事を口にするのを、土方は僅かに顰めた顔で見上げた。
 誤魔化したかった訳ではないのだが、説得し納得を得させるには足りない曖昧さがある。それは未だ己の勘としか言い様のない部分にしか留まっておらず、だからこそ土方はそれをどう説明したものか、どう近藤に理解させたら良いのか、困り果てるのだ。
 「そうじゃ、ねぇ。ただ、新政権の樹立を目論む連中も、現政権を維持しようとする連中も、勿論見廻組もだが──決して馬鹿じゃねェ。だからこそ行動には慎重さが求められるって話だ」
 そこまで捲し立てる様に口にしてから、土方は苛々とかぶりを振った。結局の所そこにあるのだと、一息に口にして仕舞ってから思い知らされる。
 可能性を列挙する事は簡単だ。現にそうして己が弾き出している解答が、警戒を辞さない勘に裏打ちされて仕舞っている、不安、なのだから。
 己の為したひとつの、佐々木辺りに言わせれば些事でしかないのだろう、その事が情勢を僅かに動かしたのは確かな事実だ。そして世界は、そんな切っ掛けなどどうでも良い事に違い無く、何かが変わった様に少しでも見える結果だけが残るのだ。恐らくは。
 だが、それは盤石のものでは決して無いのだと、佐々木の突きつけた言葉が物語っている。
 仮に。楽観的に言うのであれば、仮に。土方が幕臣の一部の罪科を告発する事が無かったとして、現在の、天導衆と前将軍、そして現将軍の傀儡政権がこの侭の形で永劫保たれた筈はない。
 拮抗は既に崩れ始めていた。だからこそ、一橋派を名乗る勢力が現れ始め、見廻組などと言う連中が組織されるに至ったのだ。
 だから、そう──楽観的で構わない。楽観的な話にして仕舞えば、土方が鯉口を切らずとも、いつか何処かで放たれた刃は誰かに刺さっていただろう。それだけの、話だ。
 (手前ェのした事が、手前ェらの足下を危うくした…、か)
 佐々木に向かって投げつけた筈の、捨て台詞以下の言葉は正に自分にこそ向けられるべきものだった。
 だが、賽は既に投げられて仕舞った。最早それがどんな出目を出すのかを見守るしかない土方に出来る事は、近藤を、真選組を、今度こそどんな事をしてでも護らねばならないと言う、益々に強い自負だけだ。
 もう、何かを選び間違える事は許されはしない。護りたいと願うのであれば猶更だ。
 ぐ、と握りしめた拳に力を込めて、土方は顔を起こすと、硬い表情で座している近藤の姿をじっと見据えた。
 自分がどうなれど、世界がどう在れど。変わらないのはこれだけだ。正しいのはこれだけだ。
 「近藤さん。俺ァ別に、連中のする事を大人しく看過してろと言ってる訳じゃねぇ。だが、あんたは気を付けて然るべきなんだ。今は──、」
 命を狙われる可能性を考えてくれ、と。そう紡ごうとしたその刹那、土方は傍らの愛刀の柄に手を掛けていた。前傾姿勢で畳を蹴るのと同時に鞘を飛ばし、縁側の障子へと格子ごと刃を滑らせる。
 抜刀は得手ではない。自覚があったからこそ、土方はそれが必殺の一撃とはならなかった事を手応え以前に感じていた。腰を浮かせる近藤を手の動きだけで諫め、思い出した様に上下をずらして倒れかかる障子戸を足で外に向かって蹴り飛ばす。
 そうして、縁側に佇み動かない気配へと刀を向け──かけた所で、なんとか留まる。
 「なんですかィ、いきなり。風通しでも良くしてぇんですかィ?」
 「…っそ、」
 総悟、と呻く様に苦々しく、そこに佇んでいた少年の名を呼びながら、土方は苦労して強張った指先から力を抜いて行った。刃を向ける所まで至って仕舞っていたら、みっともない醜聞以外の何にもならない所だった。
 「総悟。もう消灯は過ぎてんだろうが。一番隊は夜番でも無ェだろ今日は。こんな所で何してやがんだ」
 「おっ総悟か。何だお前、今風呂上がりか?」
 苛々と吐き出された土方の問いを拾った形になったのは、縁側を覗き込んだ近藤だった。ひらりと手を振るその姿へと、沖田も応じて手を持ち上げる。
 「ええ。書類の行き着く先の人が半日近く不在で、こちらもちぃと忙しかったもんで」
 沖田の闖入で自然と眉の下がる近藤に少し安心したのも束の間、いきなりの牽制。土方は渋面を作ってそれを何とかいなす。
 「…で、丁度チューパットのグレープ味が残ってたんで、さぞお疲れだろう土方さんにお裾分けでもしようかと思って来たら」
 沖田はそこでちらりと意味深に土方の方へと視線を投げ寄越してきた。その口に言葉通りくわえられた、吸い口だか持ち手だかの付いているチューパットが、ぺこん、と音を立てる。
 この様だ、と言外にせずに肩を竦めてみせる沖田を、漸く刀を鞘に収める事に成功した土方は忌々しく見返す。
 「…局長との密談中だ。気配なんざ殺して来んじゃねぇ」
 一応は、水を差したお前が悪いのだぞと念を押してはみたが、「そいつは失礼しやしたねィ」などと暢気そうに言う姿には反省どころか謝罪の気配すら欠片もない。
 本当にギリギリだったが、留まって良かった。刃は留めたところで殺気の一片でも向けて仕舞っていたらと思うと、一体何を言われるのやら恐ろしくて堪らない。障子一枚で済んだのであれば安いものだ。
 沖田の様子はと言うと、寝間着代わりの浴衣姿で、首には湿った手拭い。風呂上がりと言う近藤の見立ては正しいのだろうが、何故わざわざこのタイミングで、嫌味としか思えない行動を携えつつ此処に現れたのか。
 「てェ訳なんで、どうぞ」
 胡乱な目で見下ろしていれば、促されたとでも思ったのか。口にくわえているチューパットの片割れなのだろう、手にしていた残り半分を差し出して来るのに「…いらねェよ」と疲れた調子で返して、土方は元通り座布団の上に腰を下ろした。肩で思い切り溜息をついて、煙草に火を点ける。
 「なんでィ、チューパットで命繋いだ仲だってのにつれねェこって。近藤さんは確かグレープ味よりオレンジ味派でしたっけ。でも勿体ないんでコレ要りやすかィ?」
 「んじゃ貰おうか。丁度喉が渇いてた所でなぁ」
 微妙に土方の厭な記憶を刺激しつつ、沖田は近藤にチューパットの片割れを手渡すと、その侭何やら益体も無い会話を始めて仕舞う。どうやら出て行く気は無いらしい。
 近藤もそれに平然と応じているのだから、話は一旦終わりと言う事で良いのだろうか。
 (……まぁ、言いてェ事は言わせられたみてぇだしな)
 少なくとも近藤の不満は残れど不審さは解消された筈だ。肩上に益々酷い重みを感じながらも、土方は無言で何度か煙を吸って、溜息を誤魔化す代わりに無理矢理に呑み込んだ。
 沖田の訪れたタイミングも、強ち偶然とは言えないのかも知れない。あの侭近藤と話を続けた所で、碌な事にはならなかった様な気がするのも確かだ。気を遣われたのか、単に拗れるのを防いだだけなのか、或いは全てが土方の気の所為なのか。考え過ぎなのか。
 あらゆる不安や予感を形作り本能に訴えているのは、結局のところ土方の勘としか言い様の無いものだ。勘と言う言葉だけでは妄想と大差ないそれだが、厄介な事に確信だけはあるのだ。杞憂だろうと幾度も口にしつつも、根本的にそれを晴らす反証が出来ないのが良い証拠だ。
 そしてそう言った己の感覚を土方は信じている。日々に混じる僅かの違和感を恐らく己の警戒心が聡く嗅ぎ取っているのだ。何かが周囲で起きている。何かが周囲で巡らされている。何かがきっと突きつけられる。その前兆として。
 (いっそ猜疑心から出た妄想ってんなら、その方が余程気が楽だ)
 疑心と不審とに疲れた視線を投げれば、上下真っ二つに断たれた障子戸だけが暢気な日常の様相にすっかり戻った部屋の中で異質だった。まるで土方の警戒を、杞憂を、嘲笑うかの様に。
 剥き出しにされた違和感の発露に、土方は苛々と立ち上がった。障子は山崎辺りにでも言って片付けさせようと思いながら、風呂に行こうと暇を告げようと振り向きかけ、
 「そう言えば、」
 土方の注意が再び戻るのを待っていた様に、沖田がぽんと手を叩いた。
 碌な話題ではない、と、慣れた本能がそれを察知するが、生憎上手い事この場を辞せる理由が出て来てくれそうもない。
 何度目になるだろうか、今度は隠さず吐き出した溜息で続きを促せば、沖田はチューパットの残りを一息に啜り、それから面白そうな風情で笑った。
 「今日、旦那に会いやしたぜィ」
 「万事屋にか?そう言やあれから見てないな」
 ぺこん、と同じ様なチューパットの音を立てて、沖田の言葉に先に食いついたのは近藤の方だった。土方は、少なくとも目に見えてはっきりと知れる様な動揺は出さなかった筈だ。
 「ええ、俺も随分久し振りになるんですがねィ。団子屋の店先でいつも通りゴロゴロしてやした」
 ちらり、と土方に向けられる視線に、下衆な意味を伴う色があるか、ないかはどうでも良い。ただ、余り関わられたくなくて、舌打ち混じりにあからさまな不快感を示した侭返す。
 「ゴロゴロしてたのは寧ろてめぇだろーが。またサボってやがったのか」
 「ま、ちょっとした休憩、福利厚生でさァ。ちゃんと真面目に市中見廻りしてやしたぜィ俺は」
 「台詞の前半と後半が繋がってねーんだよ、」
 そこまでいつもの様に流したからだろうか。
 「で?」
 と言葉が自然と繋がって仕舞った事に、狼狽えたのは寧ろそれを口にした土方の方だった。
 思わずはっとなって、続きを促す様なその響きを否定しようとするが、既に遅い。沖田は一瞬ぱちくりとした瞳を実にドSに微笑ませると、土方が何かのアクション──例えば逃げるとか逃げるとか逃げるとか──を起こす前にさらりと言う。
 「一遍も、一言もアンタの事は口にゃしてませんでしたがね、」
 冷てェお人で、と。銀時に対してか、土方に対してか、含ませる様に僅かの毒を垂らすと、何事も無い様に先を続ける。
 「相当煮詰まってる様子でしたぜィ?ま、三週間近く放置プレイじゃ無理もありやせんがねィ。旦那にゃ本当に同情しまさァ」
 く、と嘲笑にも似た仕草で肩を竦めてみせる沖田を露骨に一睨みしてから、「テメェにゃ関係の無い話だろうが」そう、苛立ちを持て余した風でいる土方のそんな様子に、取りなす様に声を上げたのは近藤だった。
 「トシの事だ、事件の片が付くまでは、とかどうせそんな事を考えてたんだろう?」
 「……」
 その通りだ。忌々しい程に。少なくとも事件の発端となった自分の周りが落ち着くまでは、銀時に会おうなどとは思いもしていなかった。それどころか意識的に思考から外す様に心がけてすらいた。
 図星に口を噤む土方を、沖田が呆れた様子でちらりと見て寄越し、それからあからさまな溜息をついてみせる。
 何を言いたいのだ、と喧嘩腰に受ける事を寸時考えるが、分が悪いと言う己の判断に大人しく引き下がり、土方は殊更どうでも良い様な仕草で手を振った。
 「あのな。確かに野郎には恩つーか借りもあるが、こっちにだって仕事を優先させなきゃなんねぇ事情があるんだよ。況してこの緊張状態だ。また迂闊な真似晒して馬鹿やらかす訳にゃ行かねぇ」
 「へェ。迂闊になる様な恩返しになるんですかィ?」
 「…下らねぇ揚げ足取ってんじゃねぇ。言葉の綾だろーがそんなん」
 年下の少年と年上の上司とに恋バナを肴に挟まれている様な心地になり、居心地の悪くなった土方は遂に声を上げた。矢張り碌な話ではなかった。羞恥もとい周知の話とは言え、親友に振られて楽しい類の話題ではない。
 「つーかお前らもう消灯だってんだろーが、早く部屋に戻りやがれ!近藤さん、あんたもだ!」
 とっとと帰れ、と動作も加えて捲し立てるが、近藤は土方のそんな態度を照れ隠しだと取ったらしい。促される侭に立ち上がりはするが、沖田同様にその顔は笑みを──沖田の笑みは少し趣を異にするものであったが──隠してはいない。
 「まあ恩とか、会いたいだのそうじゃないだの、そんなのは抜きにしてもだ。偶然でも何でも構わんなら、少しぐらいちゃんと顔を合わせてみたらどうだ?」
 「…ッ、会いてぇだのと誰が抜かしたよ。あんたまで総悟と一緒になって巫山戯んのはやめてくれ」
 「だから、そうじゃなくて、だ」
 縁側へと足を向けていた近藤はふとそこで足を止めて、土方の肩をぽんと軽く叩いた。
 「お前達も、ちゃんと話をしておいた方が良いと思うぞ?事件が全て落ち着き切って、感情まで落ち着いて勝手に収まっちまうその前に」
 な?と見慣れた豪快な笑顔が──先頃までの硬さの残らない親友の顔がそう言って、土方の頭をぐしゃりと一撫でして離れて行く。
 「……近藤、さん」
 いつもの。『いつも』ならば、子供扱いなんざするなと怒りながらも笑っていなす、それだけの事が何故か上手く出来なくて、土方はぎくしゃくと言葉を紡いだ。
 「……………お前の、悪い癖だからな。それは」
 返されたのは、何処かに痛みを伴う様な、笑顔ではない笑顔だった。
 『それ』と指すその正体を『何』であるとは言わない侭、「じゃあお休みな」と手をひらりと振って近藤は廊下を去って行く。その後に続いた沖田は、土方の横を通り過ぎ様に一言だけ。
 「本当にアンタら、仕様もないお人でさァ」
 こちらも、『誰』とも言わない侭。心底呆れた風にそう、笑いの気配もなく吐き捨てていった。
 
 *

 探り出した煙草の箱は空。苛々と握りつぶしたそれを屑籠へ放り入れると、
 「…クソ」
 心底に煮詰まりきった悪態をつきながら土方は畳の上へと頭を落とした。だらりと投げ出した、得体の知れない徒労感に重たい手足が、身体の隅々まで泥の海に浸されている様な心地は実にぞっとしない。
 藻掻く様にして畳の表面を引っ掻いた指先が、のろのろと持ち上がって天井と見上げる己の眼差しとに挟まれ、その侭、一本、二本、と指が折られていく。
 三本目の指が柔く折り畳まれるのと同時に、仰向けの視線が壁に掛けられた暦を探る。三週間、と。そうついぞ今し方告げられた時間の長さは、違えず暦の印と等しく、畳まれた指の本数とも同じだった。
 「…………何ァに、やってんだかな。俺ァ」
 そこで渋面になって掌を開くと、土方は引き戻したその手で己の目元を覆った。部屋の明るさと、あからさまに過ぎる自らの為体に際限なく溜息がこぼれる。
 こんな風に、指折り数えてみる様なものではなかった筈だ。
 会いたいだの、会おうだのと、意気込む必要のあったものでもなかった筈だ。
 確かに、端から見ればそれはさぞ、不義理な上に淡泊な様なのかも知れない。が、思えばそんな事ですらまじまじと考え直した事すら無かった様な気さえする。
 大凡三週間。大阪の煉獄関で、修羅場の後とは思えない程にどうでも良い分かれ方をして、それっきりだ。
 『万事屋』に対する捜査協力としての報酬は山崎を通して届ける様に手配はしたが、捜査用の諸費と言う当たり障りの無い名目で帳簿に記録されたそこには、万事屋と言う存在を示すものは何一つありはしない。現場でその姿を見かけた隊士らも、その事を別段気に掛ける者はいない。いつもの様に、今までの様に、ただの空隙が訪れているだけ。それだけの、話だ。
 ……果たして、あちらはどうなのだろうと、そんな埒もない事をぼんやりと考えてから土方は寝返りを打った。丁度良く目前に来た座布団を鷲掴みにして、頭をぼふりとそこに沈める。
 (…………………今更、だろうが、…そんなん)
 飄々として掴み所の無かったあの男が、必死の体で目の前に居た事を憶えている。お前が好きなのだと繰り返して寄越した言葉の効力を憶えている。掴んで離さなかった指の強さと、背に回された腕の温度とを憶えている。
 だから、きっと。あの男はいつも通り、今までと同じ様な風情で待っているに違いないのだ。
 沖田の立ち寄る様な団子屋だか甘味屋だかに顔を出して、いい加減、無い便りをもどかしく感じながらも、そんな態度はおくびにも出さずに。会った時に変わらず居る為に。ただじっと土方が『戻る』のを待っているのだろう。
 (……〜ああ、クソ)
 ヤニの匂いの染みついた座布団へと血が昇って紅いだろう顔を押しつけて、土方は呻いた。
 本当に、全く。どうしようもない連中だ。





適当設定がまた通ります。傾城直前くらいの時間軸で…。

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