散華有情 / 6



 約束をしていた訳ではない。事前に連絡を入れた訳でもない。だから勝算は限りなくゼロに近い筈だ。いや、勝ちとか負けとかそう言う問題ではないから勝算とそもそも言うものでもないのだが。
 拘っている訳でもない。何か他の問題がある訳でもない。だから勝とうが負けようがどちらでも構わない筈だ。
 ……いや、だから。勝ちとか負けとかそう言う話ではない。
 そうして何度目かの、怖じ気づくのにも似た逡巡と繰り言をぐるぐると巡らせ、短くなった煙草を捨てて新しい一本を探り出す。
 飲み屋の多い賑わった一角からは通りを隔てた、静かな街路だ。幾つかの料理屋や商店が何軒か置きに疎らに点在しているその界隈には、遠くからわざわざ酒や料理を求めて足を運ぶ類の店はない。近所や帰り道の馴染み客で主に埋められている店内は、大盛況と言う程賑わってはいないが、席が空き放題と言った様子でもない。今日も已然。土方がよく足を運んでいた頃と変わらずに。
 件の飲み屋から僅か離れた所にある、煙草の自販機付近に設置された喫煙スペース。日中から片付けられていないのだろう、既に山盛りのゴミや灰で一杯の灰皿にまた新たな灰を細々と追加しながら、土方はまるで決闘の前の様な佇まいでそこに居た。
 昼間降っていた雨はすっかり上がっていたが、冷やされた空気が肌寒かったので、藍色の羽織を肩から引っかけてある。その所為でか、土方の姿は常の黒一色の形よりは僅かに闇に浮くのか、人の気配に気付かず目前を通り過ぎようとする酔っ払いがびくりとなってそそくさと逃げて行った。これで三人目。
 まあ佩刀した侍がこんな夜半に喫煙スペースの闇に潜んで、苛々と煙を生産しながら、睨む様に挑む様にじっと飲み屋の入り口を伺っているのだ。一目で幕臣と知れる刀の存在が無ければとっくに通報の一つぐらいされていたかも知れない。
 煙草を吸ってるだけだ、と言う言い分も、自身に思い当たりがあるのだから実に空々しいものでしかなく、結局土方は溜息と共にまた大気に悪い煙を吐き出した。
 (まだ、何一つ終わってもいねぇってのに、どの面下げて会えば良いんだよ)
 不承不承、ほんの一歩を進み渋っている事を認めて仕舞えば、肩ががくりと落ちる。近藤とて、土方がこんなに逡巡するとは思っていないからこそ、軽く「会って来たらどうだ」などと口にしたに違いないのだ。
 ないのだ、が。
 別に特別な何かと言う訳でもない。そもそも約束も何もしていないのだから、会うと言う事すら叶わないかも知れない。
 仮に、銀時が『偶然』そこで呑んでいたのなら、大阪での助けの礼らしきものや、今は事後処理で忙しいが別段問題はないと言ってやれば良いだけの話だ。それでも一応『会う』と言う体裁は整う筈だ。
 「……何処の青臭ェガキだよ俺ァ」
 頭を抱えて呻く。こんな、色恋事を自覚した子供もいいところの真似を、何故今更しているのだろう。もうお互いしか見えなくなる様な慕情に絡められる無様は晒すまいと宣ったその口で。どうして悪足掻きにも似た言い訳を欲しているのだろう。
 (………野郎が、)
 『待っている』のだろう、と言う。それだけの想像が。
 己の予感を、或いは確信を、まるで裏切ってはいかない。
 已然変わらず。否、恐らくはそれ以上に。銀時は己で口にしたその通りに、土方の事を愛そうとするだろうし、護ろうとする筈だ。
 (今更、…怖ェとでも言うのか……?)
 次からは躊躇いなく注がれるだろう情が。それを受け入れて良いのだと赦せた事が。何も終わっていない中で、何かを決定的に違えて仕舞う様な、そんな気がする。
 それは恐らく、数日前に近藤に示した『杞憂』と同じだ。異質な気配と言う勘を信じて恐れているのは自分だけ。疑って周囲を伺っているのは、自分だけ。
 起こした事の想像以上の大きさと、賽子の示した予想外の出目とに、切っ掛けを作った一人という自覚があるからか、何事に於いても居慣れない違和感が拭い切れない。本当にこれで良いのか、これから正しいものを選び取れるのか、自信もなく不安ばかりが嵩を増していく。
 その中でも、あの男は変わらずに此処に居るのだろうかと思うと、場違いにも胸が躍った。畏れと等価のそこに一体何を期待しようというのか。それは解らない侭だったけれど。
 物騒にさえ思える想像に、フィルターだけ残った煙草を灰皿で押し潰した土方がふと顔を起こせば、丁度店から酔客が一人出て来た所だった。夜だと言うのにサングラスを掛けた何処かで見覚えのある気のする中年男は、明るい店内に向けて一度手を振ってからそそくさと浮いた足取りで歩き出す。独り身だろうか、お世辞にも小綺麗な身なりとは言えそうもないが、これから情人の元でも訪うのかも知れない。
 男の幸福そうな横顔を暫し目で追い掛けた後、土方は背後の自販機からそっと背を浮かせた。袂から取り出した携帯電話で時刻を確認しがてら、登録ではない、記憶している番号を手早く押して簡単な遣り取りで用を済ませる。
 今更何の覚悟が要ると言うのか。正体の判然ともしない不安定で不定形な繰り言が胸をざわつかせている、ただそれだけの事に。
 何も考えずにいられる立場であったら、ひょっとしたら、今し方の中年男の様な浮かれた顔をしていられたのかも知れない。それもまた詮のない想像ではあるのだが。
 思考に飽かして機械的に動かした足の行き着く先は、既に目前にまで迫っていた。底なし沼に落ち込んで仕舞った様に不景気な己の顔を、店内の喧噪と灯りとが薄く照らしながら誘う。
 最後の溜息は短く。店の戸に手をかけた土方は、重たい面持ちの侭、縄暖簾を持ち上げた。
 
 どうせ堪えきれずに、笑んで仕舞うのだろうから。
 情けなくも、幸せの侭に。気を緩めて仕舞うのだろうから。
 
 *
 
 随分と久し振りに見た気のする顔は、連日連夜の働き詰めの様子を容易に想起させるほどに、疲労に草臥れ常の生彩を失くしていた。
 それでも、目前で土方が実際生きて動いて喋って笑うのを見れば、否応無しに銀時は安堵を覚えたし、胸が躍る程の喜悦を必死で押しとどめなければならなかった。
 「あーその。なんだ。随分久し振りじゃねぇ?」
 当たり障りない挨拶でそう切り出せば、
 「事後処理がごたついててな。碌に呑みにも出れやしねぇんだよ。ったく、年中暇持て余してるテメェが羨ましいぜ」
 そう、飽く迄この邂逅が『偶然』なのだと先んじて釘を刺されて仕舞った。いつもの悪態を付け足す辺り、釘を刺した事すら他意なく自然に感じる様に振る舞う心算なのか。
 お帰り、と手招きをすれば、硬くなった笑みで少し考える仕草を見せながらも相席に応じた。その態度そのものは『偶然』とは到底言い難い確かな意思──或いは意味──を孕んでいる、のは明かだったのだが。
 「ちゃんと寝れてんのか?顔色大分悪ィけど」
 頬に触れようと伸ばした手の先で、黒瞳がびくりと揺らいだ。硬く顰められた眉間の皺と、どこか懇願する様な気配が、土方の内心の懊悩を表している様にも見えて。
 「……」
 残り僅かの距離で指を一旦折り畳むが、そこで土方の表情が安堵に手放されるのを見て取って仕舞った銀時は、再び開いた人差し指でぴしりと、どこかシャープな曲線を描く頬を弾いた。
 「て、」
 痛ェ、なのか、てめぇ、なのかは解らない。漏れた呻き以下の抗議からすっと離れると、銀時は店主の立ち働くカウンターに向かって声を上げる。
 「親父ィ、生二つとあと適当につまめるモン何皿か頼まァ」
 「あいよー」
 先程まで長谷川との割り勘でちびちび傾けていた安いコップ酒に手を掛けて、銀時は殊更にどうでも良いと言った風情に見える様にへらりと笑った。
 「……ま。またこうしてお前と卓挟めただけでも良かったわ」
 無事を。忙しくはあれど、互いの間に一度は橋渡しされた感情の遣り取りが変わった訳ではないのだと。それはあの、店内に銀時の姿を認めて仕舞った途端、自然に浮かんで仕舞った様な土方の表情が物語った通りだ。
 だから、安心したのだ、と。それだけでも充分だと、物解りの良く懐の広い男をついつい演じて仕舞う。本当は大阪から戻ってほぼ三週間、暇に飽かしてはずっと悶々としていたなどと、言えはすまい。
 (本当は、みっともねェくらい余裕ねぇんだけどな)
 正直な所を思って、溜息を温くなった酒と一緒くたに呑み下す。生来面倒くさがりの癖に、一度得たものに対する執着や悋気が人並み以上に強いと言うのは、己の境遇から生まれその後もずっと育まれて来た変え難い性分として、銀時自身認めて(というよりは諦めてすら)いる事だ。
 本当なら、無事を、刻まれた空白を、洗いざらいに問い質した挙げ句に、もう二度と離すまいと、離れようとさせまいと、思い切り抱き締めたい所だ。ねちねちと一晩中言い聞かせて、手放す気なぞこれっぽっちも無いのだと知らしめてやりたい。仕事や任務など一旦捨て置かせてでも、自分だけを見させたい。
 ……無論だが。流石に店内でそれらの願望もとい暴挙に及ぶ心算は無かったし、仮に二人しか居ない密室で行ったとして。そんな事をしたら復縁どころか決定的に全てが終わるのは間違い無い話だ。
 だから銀時は、取り敢えず酒の席を楽しむ事にした。どうせ帰りに捕まえる気は満々だったし、土方とて偶然──では無いのだろうが──遭遇した以上、この侭呑んで喋ってはいお終い、となるとは思っていないだろう。
 今後の算段を勝手に考える銀時と、曖昧な表情で無言の侭煙草を吹かし続ける土方との間にやがて頼んだ酒やつまみが並んだ。それをいつもの様に突き合いながら、どうでも良い世間話以下の遣り取りを幾つか。
 そうして、酒も尽きかけた頃──相席して小一時間程度か──、先に暇を切り出したのは土方の方だった。然し当然の様に一緒になって店を出て来る銀時に対する抗議はない。
 「なぁ。どっか入る?それとも、俺ん家行く?」
 だから、銀時がこれもまた当然の様にそう問いた時に。
 「……いや。茶屋を取ってあるから、そっちに行くぞ」
 そんな応えが土方の方から返るのは、予想外も予想外のまさかの出来事だった。





エピローグの裏側。

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