散華有情 / 7



 夜道を、酒の残る気配もなく早足で通り過ぎて行く土方に続いて、辿り着いたのは宣言通りの茶屋だった。
 人通りのそう多くない、市街地からは離れた上級層の料亭の居並ぶ一角に程近い、上品な佇まいの店。遠慮がちな薄灯りに照らされた屋号は『藤の屋』。その名に合わせてあるのだろう、透かし彫りの藤の装飾が戸口をはじめそこかしこに施されている。
 高めの塀がぐるりと囲む、そう広くはない敷地の中で、更に建物を囲う様にしているのは鬱蒼とした庭。昼間見ればきちんと剪定された美しい庭なのかも知れないが、玉砂利敷きの地面にそう高くはない松の木と、防犯用途を成しているのは明らかな景観だ。まあこう言った店ではそんな事は珍しくもない話だが。
 日頃二人で訪う──要するにこう言う用途の店は、適当なラブホテルかそこいらの出会い茶屋だの連れ込み宿が良い所だ。こんな、どこぞの高級幕僚辺りが人目を忍んで使いそうな店にはお目に掛かるのも利用するのも初めてだった。
 「……組(うち)の極秘の会合やら情報屋との密談でよく使わせて貰ってんだよ。融通も効くし口も硬いし、何より信用がある」
 ぽかんとしている銀時の態度からその裡の疑問を察したのか、土方はどこか呆れた風にそう説明すると、勝手知ったる足取りで裏口らしき戸から店内へ入った。フロントを通る様子が無いのは予約とやらを予め入れてあるからだろうか。
 階段を上って二階の角部屋へ辿り着くと、土方は室内に銀時を先に通してから、床の間に置いてある金庫の様な櫃をがさごそとやって、何やら何枚かの木札の中から一枚を選んでそれを襖の外、入り口に取り付けられているフックに引っかけた。
 「ナニソレ。手形みてーなもん?」
 「ああ。部屋取る時に毎回違う花を符丁として教えられる。で、部屋を使う時は指示された花の木札を外に掛けておく。後は好きな時間に退室する時に札を引っ込めときゃ良い」
 そうすれば、出入り自由に近い部屋を勝手に使われる事も防げるし、いちいち従業員と顔を付き合わせる事もないと言う寸法か。古風だが、先に部屋を機械で選ぶラブホと似た様なものだ。得心に「へー」と相槌を打ちながら戸を閉ざす。
 「ちなみに支払いは?」
 「木札取る時に金入れねーと櫃(これ)のロックは解除されねぇ」
 方法と言うより金額が気になったのだが、敢えてなのか素なのか、土方はそう簡素に言いながら、ぽん、と木札の入っていた櫃を叩いて見せる。つまりもう済ませたと言う事だ。支払いは取り敢えず気にしなくて良いらしい。
 なにせ、銀時の懐具合では割り勘でも厳しそうな等級の店である。男として少々情けない感は否めないのだが、安心はした。
 部屋は六畳程度の二間続きになっており、入ったばかりのここには卓や茶器が用意されていた。注文をすれば酒や食事も出してくれるのだろう。閨事が目的でなくとも構わない体裁は整えられている様だ。
 ちらと見遣った続き間には窓はなく、光源は部屋の隅に置かれた瀟洒なデザインの灯籠だけと言う薄暗さ。その中央にはそれ以外の役割は求められないのだろう、大きめの布団と二組の枕とが堂々たる風情で鎮座していた。
 「……こんな部屋でお前普段密談とかしちゃってる訳?」
 湧いたのは悋気かはたまた呆れか。思わず銀時がそんな事をぼやけば、土方は、く、と喉を奮わせて僅かに笑って寄越した。
 「知った野郎共で物騒な面ァ突き合わせてる様なんざ、どう転んだってむさ苦しい絵面なだけだろーが」
 まあそれはそうなのかも知れないが。軽い言い種の通り、確かに真選組の強面の男供がこんな部屋に居並ぶ様には物騒さや暑苦しさ以外は到底有り得なさそうではある。
 だが銀時としては、仮にも恋人と呼べる人間が自分以外の男らと、寝室と呼べる場所に存在すると言う事そのものがどうにも厭な響きになって仕舞う。
 それは恐らく、こんな部屋を前にして、己が土方に対して求めるのが所謂『そう言った』行為そのものだから、なのだろうが。
 「まぁ別に良いけどよ…」
 さも可笑しそうに言われたので、あからさまに妬いた事を示すのも何だか癪に障り、銀時はがしがしと己の後頭部を掻いてから、煙草をくわえようとしていた土方の手を掴んだ。
 「……」
 なんだ、と無言で見つめ返される手を引っ張って無言で続き間へと踏み入りながら、土方を布団の方へと押し遣ると襖をとんと音を立てて閉ざす。
 その時銀時の顔に浮かんでいたのは、果たして明け透けに過ぎる情欲だったのか。それとも、単なる我慢の効かない子供じみた衝動だったのか。
 振り返った土方は銀時の顔を見返してひとつ小さな息を吐くと、煙草を探ろうとする仕草を止め、布団の上にどっかりと胡座を掻いた。まるで覚悟を決めた罪人や切腹前の侍の様だ。
 この男の、妙な所が潔いのは見ていていっそ心地が良いが、こう言う場所でこう言う空気なのだから、もう少しこう、甘さが欲しいなどと思って仕舞うのは果たして贅沢な注文だろうか。
 贅沢なのだろう、恐らく。一つ叶えば僥倖だと思うくせ、一度叶えば次を次をと求めて仕舞う。自分の形に、自分の色にして仕舞いたくなる。届かなかった分だけ、伝えられなかった分だけ、より強く思う。願いにも似て。
 「土方」
 三週間。と、振り返る事それ以前の別れじみた修羅場。と、更になかなか会えずにいた日々の鬱積。これだけ我慢していた所で、用意は出来ているとばかりに、土方当人に因って流れる様に茶屋まで招かれたのだ。これで強がりで堪える様な修行僧めいた事をする心算は銀時には到底無い。有り得ない。
 座した土方の目前に膝をついて躙り寄り、先程は届き損ねた頬へと両手で挟み込んで触れる。その侭輪郭を辿りながら手を滑らせ、耳朶を愛撫する様に指を這わせつつ唇を近付け
 「待てやクソ天パ」
 た時。そんな色気も何もない呼び声と台詞とが眼前の、形の良い唇から放たれるのと同時に、銀時の頭部に容赦のまるで無い手刀がめり込んでいた。
 否、よく見れば手ではない。柔らかな頭髪を思い切り叩いたのは鞘に収まった侭の土方の刀だった。ごすん、と遅れて痛み──と言うより寧ろ衝撃──が頭蓋の頂点から全身に響き、銀時は潰れた蛙の様な姿勢でその侭ばたりと布団に突っ伏す。
 「って、てめぇぇぇェェェ?!!!幾ら恥ずかしがりでも照れ隠しでもおま、コレマジで…っ、なんか陥没とかしてねぇ??」
 「してねェから安心しろ。中身までは知らん。だからそうじゃなくて、待てってんだろ、待てって」
 「いやお前今待てって言うのと同時に殴ったよね?待てとか待たないとかそういう次元の話じゃなかったよね今の。て言うかそもそもマテって何その犬に言う様な感じ!」
 ぐわんぐわんと反響する頭痛の中で、布団に顎先を沈めた侭の銀時は変わらず眼前に堂々たる風情で座り込んでいる土方の姿を見上げた。
 今し方銀時の頭を痛打した刀の鞘を右手で掴んだ侭、土方は露骨に溜息を吐くと、癖の様に煙草を手繰るに似た仕草をして。
 「……、」
 結局途中でそれを止めた掌で己の足首を掴んだ。皮膚を引っ掻く様に指が所在なさげに彷徨う段になって、漸く銀時は(何かあるな?)と気付く。
 (…まぁそりゃそーですよねー。偶然装って久々に会いに、つーか会おうと、多分してくれて?しかもお誂え向きと普通思うだろコノヤロー、こんな『二人きり』の場所用意しておいて?)
 待て、とは言われた。するな、とは言われてはいない、が。
 少なくとも今の土方は、遠回しに『そうではない』と言っている。寧ろ解り易いぐらい直接的かも知れない。据え膳と喜び飛びついた銀時を殴り倒してでも止めているのだから。
 (………〜なんか俺ばっか盛ってるみてーで、みっともねー事この上ねーじゃん…)
 事実だろうか。それとも単なる僻みだろうか。土方の躊躇いそのものを表している様な、俯いた視線と彷徨う指とを見てから、銀時は溜息を呑み込んで頭を持ち上げた。コブくらいは出来ているかも知れないと思いながら、手触りの気に喰わない頭髪を緩く掻き回す。
 間はそう長くはならなかった。少なくとも銀時の思考がそれ以上進むより先に、ぐ、と拳を作った土方が顔を起こしたのだ。伏した侭の銀時はそれを無言で見上げる。
 普段であれば目を逸らすか閉じるかはしていそうな、居心地の悪さ、感情を持て余した風情そのものの──名付けるならば、葛藤…と言うよりは寧ろ、切実、だろうか。土方はそんな面持ちでじっと、ただじっと銀時の姿を見下ろしてきた。
 「……元より、テメェが言った事だ」
 ゆっくりとそう呟いた土方の目元に神経質そうな皺が浮かぶ。苦しそうだ、と思うより先に。小さく紡がれた言葉の意味を問うよりも先に。銀時が抱えていた、コブの一つくらいは出来ていそうな頭へと、躊躇いがちな動作で近付いた手指が労る様に頭髪をなぞってまた直ぐに離れて行く。
 「話だ。したくもねェし聞きたくも無ェだろうが──、話を、させろ」
 
 *

 道理で、苦しそうな不景気な面を下げていた訳だ。酒の酩酊が引くのも早かった訳だ。
 「山崎や総悟には、事の次第は話しちゃいねぇ。だから、アイツらが掴んでいた事には憶測だの個人的な意見も含まれていただろうよ」
 そう、前置いた土方のしたい『話』は、銀時が諸手を挙げて歓迎したいものではない。土方自身とて、本来ならば墓まで持っていく心算の記憶だった筈だ。
 その発端は、土方が『白夜叉』の存在を、銀時の現在を護ろうとした事に因る。
 何かを護る為に、刀で向かい立つのではなく心と矜持を砕く事を選んだ土方の行動は、銀時の視点で一言で断じるのであれば『馬鹿野郎』のみに尽きる。
 銀時はその正しい仔細を今に至っても知り得てはいなかった。沖田の煽るのにも似た行動と、山崎の『頼み』を受けて、土方をその『取引』から救おうと動きはしたが、実際彼らが銀時へ説明した内容は、その概ねが『恐らく』と言う前提のものだったのだから。
 土方が頑なに一人で抱える事を選んだのと、自らの無様を部下にも弟分にも、『取引』の原因となった銀時にも決して知られたくはなかった、と言うのは事実だろう。だからこそ全ての前提は仮定で構成されていた。
 八割を知らず、八割は正しいだろうと言う確信を彼らの話から得た銀時だったが、その反面では『知りたくはない』本音も確かにあったのだ。否、正確に言えば『肯定されたくはない』。
 或いは土方も、銀時が、己の存在が取引の分銅となった事を、誰よりも自分自身に悔いるだろうと解っていたからこそ、その事そのものを自ら肯定する様な言い分など口にする事は無いだろうと。銀時は何処かでそう思っていたのだ。
 「……大体、こんな顛末だ」
 話し始めた時と同じ様な調子で締められた、土方の語った内容の概ねは、銀時の知る『八割方の想像』と『八割方の仮定』とで違えてはいなかった。
 「……………そ」
 是でも諾でもなく、簡潔に一言だけで頷く。
 これは即ち、銀時の最も知りたくはなかった、頷かれたくはなかった、『正解』だったと言う事になる。
 『白夜叉』の正体と真選組副長との関係をばらされたくなければ、と言うお約束の様な天秤と、分銅に置かれた銀時とその周囲の全て。天秤の逆側に乗せられていたのは、土方自身。矜持も身体も心も、全て、だ。
 それが正しく釣り合いの取れた天秤だったか、と言う点は問題ではない。確かなのは、土方が己の事よりも銀時を選んだ事だ。真選組でもなく、近藤でもなく、銀時を選んだ、その事実だけだ。
 佐久間と言うお奉行様が、自らの違法人身売買の商談相手であった天人とのパイプとして癒着した、神明党と言う攘夷グループ。彼らの犯した、真選組隊士襲撃殺害事件から土方の目を逸らさせる目的で、その『取引』は持ちかけられ、諾され、そして最後には破綻した。
 小さな事柄としか言い様のない。道楽にも似たそんな『取引』とやらが、土方にとってどれだけ重いものとなったか。どれだけ酷い瑕疵を残したか。その結果が全てここに在り、その価値が銀時自身に在る。
 「余計な世話だった、とは、今となっては言いやしねぇ。尻尾掴む事ァ叶ってたんだ。放っておかれようが、手前事として解決は見てただろうよ。だが、結局俺は総悟や山崎のお節介とテメェの手助けであの場を逃れられた。その事実に変わりは無ぇ」
 今し方話して寄越した『取引』の内容を口にする時よりも、余程重たく苦しそうに吐かれたのはそんな言葉だった。不快感が胃の腑に居座るのを嫉妬にも似た憤慨と共に感じながら、銀時は無理矢理に平らかな表情を作って土方の方を見る。
 強張って震える指の引っ掛かる、皮膚が赤い。爪で傷がつけれられているのだ。
 怯えや畏れではなく、これは瞋恚に因るものなのだろうか。それとも単に、負けず嫌いなこの男らしい情けなさや悔しさだけなのだろうか。
 「俺は、」
 更に苦しそうに続く息遣いに、厭だなあと銀時は思う。本当に厭だ。全く癪に障る。
 「………テメェに、止められてなかったら、あのジジイを殺して、その侭」
 お前の前にはもう立つ心算は無かったのだ、と。強張った自らの指先を見下ろす様に項垂れそう吐き出す土方の言葉を、銀時は瞼をそっと下ろして聞き流した。
 矢張り、厭だ。厭になる。腹が立って、厭になる。
 「……まぁ。これでもお前とは長い付き合いだし?オツキアイする前の期間も含めてだけどな。だから──その、な。オメーがあのクソジジイを、手前ェの復讐や怨みだけで殺したとして、そんで平然とまた俺の前に戻って来てくれる様な殊勝なタマじゃねーなってのは、解ってたし?」
 俯いた土方の作った沈黙を、殊更に軽い口調で切り裂きながら。
 「そりゃ俺もみすみす逃がしてやる心算なんてまるで無ぇけどよ。オメーに全力で本心で拒否られたら流石にヘコむだろーし?それがオメーの嘘とか強がりから出た、『そうするしかなかった』ってオメー自身で完結しちゃった内容なら猶更で、」
 銀時はその狭間に苛々と言葉を押し込んで、それから不意に腕を伸ばした。自らの足首の皮膚に爪を立てている土方の腕をねじり上げる様に強く引き上げる。
 「っ、…」
 咄嗟に上向いた土方の顔は、突然の痛みに感じる痛痒よりも、銀時の想像した通りに『傷ついて』苦しそうに歪められている風に見えた。
 (ンなだから、……──苛々すんだよ)
 「……なァ」
 掴んだ手の下で、土方の手首がびくりと震えた。逃れようとする様に、藻掻く様に身体を引こうとして、銀時の強い力にそれが叶わないと知ると益々に苦しそうな顔になる。
 怯えや畏れではなく。瞋恚に因るものでもない。況して、負けず嫌いから出た憤慨でもない。
 痛みに打ち拉がれた様そのものでしかない、土方の苦しそうな、負ったばかりの傷を更に抉られる様な──覚悟の。痛苦に喘ぐのではなく、それを待ち受け堪える為の。
 ……覚悟の。
 「なんで、今更そんな話すんだ、って俺は訊いても良いんだよな?
 正直、俺にしちゃ嫉妬的なもの?する以上に胸クソ悪ィ話でしか無ェってのはお前解ってんだよな。じゃなきゃ話し出す前にあんな躊躇いはしねーだろ?」
 「それは……、ッ、!」
 掴んだ腕をぐいと思い切り引っ張れば、土方の身体は前へつんのめる様にして布団の上に逆の手をついた。留まろうとするのを猶も引き寄せると、シーツの上を強張った指が一度引っ掻き、どさりと上体がその場に崩れる。
 解放されない手首と、それを掴む銀時の姿とを間近に見上げて、土方は先頃から変わらない、『覚悟』の表情で再び俯いた。
 皺の寄ったシーツを見つめている、項垂れた黒髪の頭部に向かって「は」と短く息を吐きながら、苛々と銀時は続ける。
 「何で、今更そんな話する訳。俺が、俺の所為と手前ェの勝手とで、こうして苛々して堪んねェ事になんのも、解らねぇ程鈍くも頭悪くも無ェよなお前。
 その癖なんで手前ェだけが傷つきましたみてーな面してんの?俺がこうやっててめーに当たりたくなるくれェ腹ァ立てんの、幾らでも受け入れますから、みてーな面してんの?」
 「……」
 口を噤んだ侭の土方は応えない。シーツの上に落とされた顔の、俯いた表情も伺えない。
 腹が立つ。全く、苛々する。
 チ、と舌を打って銀時は、掴んだ侭の土方の腕を布団に押しつける様にして、仰向かせたその上へとのし掛かる。
 瞠目した表情に僅かに覗くのは、確かな怯えの色だったが、ぐ、と唇を噛んだ土方は、相変わらずの痛そうな眼差しで銀時の姿をただじっと見上げて来るのみだ。
 謝罪も。後悔も。きっと、畏れも無く。挑む様に。
 「なァ?何で。俺が怒りの侭にお前にこの侭無体強いたとして。黙ってそんな扱いに甘んじるのが、まさかお前、贖罪だとか思ってる訳?当然だから仕方ないとか、それで俺の気が済むなら、とか。そんな悲劇のヒロインみてーな馬鹿馬鹿しい考えしてやがる訳?」
 はっ、と鼻を鳴らして嘲りの言葉を降らせれば、皺のよったシーツの上に黒い頭髪を散らしていた土方の後頭部が僅かに持ち上がった。押さえている銀時の掌の下で、腕に力が込められるのが解る。
 「……違ェ」
 然し拮抗もそれ以上の抵抗もなく、暫しの沈黙に似た間を挟んで、土方はかぶりを振った。ぼす、と浮かせていた後頭部が再び白いシーツの海へと沈む。
 「じゃあ、何でよ」
 「……………」
 諦める気配無く苛々と重ねる問いに、土方は視線を逸らしはしなかったが、応えもしなかった。
 その侭二人とも動かず喋らず、居心地の悪い時間が過ぎる。実際にはきっと数秒とか数十秒とかそんなものに違い無い空隙は、然し刻む時を確認する術を持たないこの部屋では酷く長く感じられた。
 長い分お互いに居た堪れなく重かっただろう空気に浸される中で、やがて何処か諦めた様に投げ遣りに、土方が口を開く。
 「…………………………俺にとっては、それだけの意味があったんだよ」
 「?」
 不意な切り返しに、銀時は思わず目を瞬かせた。銀時が問いたのは、何で今になって土方が自身の体験談などを語るのか、と言った所だった筈だ。何でそんな辛そうにしながら話す必要があるのだ、と。いっそその原因を作った銀時に対する怨み節…要するに嫌味、ついでに贖罪かと、そんな腹立たしい想像さえ出来そうな内容だった筈だ。
 故に、一見、話が繋がっていない、のだが。土方の表情は真剣そのもので、誤魔化そうとしている風でもない。
 「テメェに、間違ってると言い切られようが、屈辱だろうが、理不尽な暴力だろうが、碌でも無ぇ思いだろうが……、ンなもんは、大した事じゃ無ぇ。テメェの、」
 押さえられた侭の手首の先で、拳が形作られた。振り解いて上げる程ではない、単に力が込もっただけなのだろう、眦を吊り上げた土方が銀時の顔を睨む様にじっと見据え──、憤慨しているのにも似た勢いでその頬、耳にまでざっと朱が走る。
 「っちょ、ちょっと待て」
 思わず銀時は離した片手で土方の口を塞いだ。むぐ、とくぐもった声を上げて抗議する様な目が、
 「待て、お前なんか今スゲー恥ずかしい事言おうとしてねえ…?」
 段々と土方の言い種の着地点が薄ら見えて来た気がして、真っ赤な顔でこちらを見上げてくるその様子に釣られた様に銀時の頭も熱くなる。苛立ちに煮えくりかえっていた筈の頭が、冷めはしないのに何故か酷く冷静に思考を運んで来るのが解って、余計に。
 ふぐぐぐぐ、と何か抗議の続きらしきものを漏らすと、自由になった片手で、己の口を押さえている銀時の腕を掴み返す土方。今度は言葉にならずとも解った。「テメェがちゃんと話をしろとか言ったからだろうが」とでも言っているに違いない。
 ……確かに言った。話をちゃんとしようと言った。端からお互いを信頼し言葉の一つでも交わせていたのなら、『取引』とやらも決定的な土方にとっての醜聞や瑕となる前に終わっていたかも知れない。そこまで上手く行かなかったとして、少なくとも無用に互いを傷つけ追い詰める様な酷い愁嘆場を迎える必要は無かっただろう。
 そんなイフを考えた訳ではなかったが、銀時は確かにあの時に土方に言ったのだ。ちゃんと話をするべきだった、と。話をしよう、と。
 (いやそう言ったけどね?確かに言ったけどね俺?!でもちょっと待てこんなんは反則っつーか不意打ちっつーか…、)
 甘さは確かに欲しかった。だがそれはこう言う質のものではなかった筈で。ああ、確かにこれは贅沢だ。贅沢に過ぎる。
 甘い空気が殊更に苦手な訳ではない。が、居慣れないのも間違いない。そして、目の前で銀時に抑え込まれている形の男も、或いは銀時以上にそう言った面での『慣れ』は無い筈だ。…筈、だ。
 少なくとも銀時には憶えはない。土方から、こんな、真っ当な事を、真っ向から告げられた事など。
 「っ痛!」
 狼狽している内に力が弛んだのか、押さえられていた腕を容赦ない力で無理矢理に振り解いた土方が、頭を一振りして口を塞いでいた手からも逃れると、銀時の下からずりずりと肘を使って後ずさりをする様に這い出た。
 「〜話せったのは、テメェだっつったろーが!なら最後まで言わせろや!んで黙って有り難く聞きやがれ!」
 急き込んで一気にそう、怒鳴る勢いで捲し立てると、シーツについた肘に更に体重を落として土方は赤面した侭の顔で銀時をキッと睨みつけて来る。
 (開き直っちまったよ…)
 こちらも同じくらいに茹だっているだろう頭をがくりを項垂れさせる銀時。目が合っていない事は別段気にしないのか、少し早口で土方が続けるのが聞こえて来る。
 「……兎に角、だ。俺にとっちゃ、手前ェ自身の保身とかより、意味も価値もあったって事だ。……だから、その、」
 そこで一旦言葉を切って、もう一度。息を吸って、吐く音。
 なんだか恥ずかしさで顔が上げられないと思って、俯いた侭シーツの皺を見つめていた銀時の肚の底がふと、不思議な熱を持つ。
 正しくはないと思う。この男の抱える大切なものたち以上として選び取られた、歪な歓喜とはまた質の違う熱だ。
 吐息にも似た土方の息継ぎ。深呼吸といった方が良いかもしれない。それそのものに惹かれた訳でもないのに、自然と顎が持ち上がった。眼前を、見る。いつからか惚れてやまない男の姿を、見る。
 自分や、彼の遵守すべきものたちよりも、坂田銀時の存在には、意味と、価値があった。それは解っている。あの時に既に解っている、が。こうしてはっきりと言葉にして告げられはしなかった事だった。
 今し方そんな、とんでもない事を紡いでくれた唇は、薄く笑みを形作っている。
 だから、良いのだと。
 「…………テメェにある程度の文句を言われんのは当然だと思って諦める。だが、テメェが気に病む様な事は無ぇ。俺は俺の為にテメェを取る事を選んだだけだ。それについてテメェが悋気だの憤慨だのって抜かすのは、俺の士道を否定する事として許さねェ」
 「──、……………………、」
 今度は、先程とは別の意味で、厭だ、と銀時は思った。苛々する。だが、
 「…お前、狡ィよ」
 お膳立てされた士道ではない、『真っ当』な信念を貫く侍に、士道と言葉を出されては、銀時には真っ向からの反論は出来なくなる。屁理屈なら幾らでも出るが、それはただの言いくるめだけの論破だ。話し合いですらない。
 「お互い様、なんだろ」
 解り易いぐらいの苦味が、言う声音には潜んでいた。先頃肚の底にじわりと湧いた、告白らしき土方の言動に対する歓喜以上に、何とも形容し難い無惨な思いが銀時の胸に去来する。届かない様な、伝わらない様な。取り戻しのつかない後の話を聞く時の様な。
 「酷ェのは、な。狡ィのはお前だけだろ。こんなん…、」
 俺がしたくてしたことだから、お前は気にするな、と。気にするのは、俺への侮辱だと。土方は真っ向からそんな拒絶を投げて寄越した。
 「……俺には、怒るなって言うのか?お前が、俺が居た所為で傷負っても。酷ェ思いしても。俺は、それに対して──お前の中の『俺』に対して、怒るなって?」
 「ああ」
 即答だった。
 「俺が好きで、テメェなんぞに惚れちまって、護りてェと思ったんだ。今回はその経緯すらテメェには告げねぇでいたから、その点に対する抗議だの文句は聞く。だが、それ以上は──俺の信念を貶める様な真似だけは、元凶のテメェであっても許す気はねぇ」
 さらりとそう言うが、土方の顔は少し紅い。元凶、などと態と口にするのも、恐らくは照れ隠しの様なものなのだろう。
 相対する土方の様子から容易く伺える感情の温度を、銀時は多分知っている。だが、それに対してただの歓喜だけがある訳ではない。
 そこが、痛みに似た疼きを起こさせる。足り得なかったのだと、思い知らされている様で。
 「所詮自己満足だ。だから、テメェにゃ何も言われたかねーし、何を気負われる必要も無ェってんだよ。だが、」
 そこで一旦面倒くさそうに黙って、土方は憮然としている銀時の頬にぺたりと手を触れさせてきた。仏頂面を嘲笑う様に、頬を軽く引っ張られる。
 「全く同じ様な『次』があるなんて偶然は有り得ねェ。だからこれは単なる宣言みてーなもんだ。
 ……もう二度と、手前ェに纏わる事で浅慮は起こさねぇ。俺だとして同じ事されたら腹も立つからそれは解ってる心算で言っておく」
 そう言って吐く息は、何か棘を呑み込む様な無理のあるもので。銀時は瞬時に、それは半分以上嘘だろうなと思った。
 否、正確には嘘ではないのだろうが、履行できない約束だから、結果的には嘘になる。そんな類のものだ。
 怒りの遣り処、自身への苛立ちさえも封じられて、自らの裡にとどまる他なくなった感情を持て余しながら、銀時は草臥れた風情そのものと言った調子で、口の端を無理に持ち上げて作り笑いを浮かべた。
 頬に触れている土方の手をそっと取ると、先程後退された距離を再び躙り寄って詰めて、手の甲へと音を立てて口接けを落とす。
 「どうせ仕事の事は除く、とか括弧書きでついちまうんだろ。で、効力は?」
 その誓約に、どんな意味があると言うのか。
 嘘になると、大凡解って仕舞っている、そんな頑固で馬鹿な男が──その、妥協の末に出たのだろう、一切を気にする必要などないと言い切る僅かの気遣いが。どうしてこんなにも愛しいのか。愛しいなどと思って仕舞うのか。
 (どうしようもねぇなあ)
 そんなお前だからなのだ、と。解っているから余計に質が悪く、不毛だと言うのに。
 「…………テメェ曰くの『信頼』次第だろ?」
 案の定。これもまた意味のない言葉だ。人の心は縛れはしないのだと言う、これ程に解り易い体現もそうそうありはしないだろうか。
 ただ、土方が、嘘になるだろうと解っていて、本人曰くの宣言までしたのだ。その部分に銀時に対する誠実さは確かにある。その部分にだけ、何よりも強く。
 それだけが勝算。それだけが、手に入れられた全て。
 (俺の手の裡で。俺の為に、俺のもんには絶対なりはしねぇ)
 無惨な話だ。真選組の中で勝手に生きて勝手に死ぬかも知れない、そんな人間に、銀時の為に勝手に生きて勝手に死ぬかも知れない、と言う余計な要素が追加されて仕舞ったなどと。しかもそれに対して異を唱える事は許さないと断じられるなどと。
 ある意味で当然と言うべきだった。思い詰めて、一度踏み外して仕舞った。その時点で土方の裡では絶対の答えが決まったのだ。己の護るべき信念に。刃に乗せた名前のひとつに。同じ侍と言う魂を抱くからこそ解る。仮令銀時が拒否をしようが、望まぬのだと知っていようが、土方は己の裡で識った心から目を逸らしなどはすまい。
 だから、選ぶ。何度でも。無意味に等しい誓約だけを誠実さとして遺しながら。何度でも、土方は間違える。それを、諦めろと銀時に突きつけながら。
 (望まねぇなら縛るしかねぇ。お前が俺の為に失われるなんて阿呆な話が、絶対起こる事がねぇ様に)
 その答えもまた、無惨な話だ。
 届いたけど、届かなかった。伝わったのに、伝わらなかった。足り得なかった。
 ひとつ叶えば、もう一つが欲しくなる。だが、ひとつも叶わなかったら、すべてが欲しくなる。
 ……どうなるのだろう?黙っているだけで、忍び寄るのは破綻なのか。待ち受けるのは悲嘆なのか。
 或いは、ただの純粋な歓びなのかも知れない。
 「……だな。でも俺ァ、そんな狡ィお前が好きで堪らねぇらしいわ」
 思えば思うだけ、沸き起こるのは憤慨と嘆きにも似た感情。そんなものに押し流される侭に銀時がそう口にすれば、土方は頬を僅か紅くした侭で顔を顰めた。だが、口元はほんの少しだけ弛んでいる。
 「馬ァ鹿」
 腹立たしい程に屈託の無い声だった。
 ただ、否定されなかった事に不思議な程に安堵して、銀時は土方にそっと口接けた。今度は体重を掛けていっても抵抗は無く、やがて黒い頭髪がシーツの上に乱れ散った。





何はさておき本編で放置した意思の相違を回収したく…。

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