散華有情 / 8 そこまで言う心算ではなかった。 ……などと。ドラマでよく見る男女の喧嘩の言い訳筆頭の様な事を思いながら、温いシーツの海の中で土方は大きく溜息をついた。 心地よさを通り越した疲労に満たされた身体に詰め込まれた想念は、半ば、どころか全てが自己嫌悪の塊だった。 銀時に何かを咎められるのに先んじて、防衛線の様に投げた言葉は酷く暴力的な内容だったと思う。太刀を受ける前に鞘を捨てて斬りかかる様なものだ。全く持って卑怯な話としか言い様がない。 直接的な暴力ではない。銀時の満足感を満たした上で、懊悩を深めさせた。投げた言葉は暴力より余程手ひどい瑕を、ひょっとしたらあの優しい男に穿ったかも知れない。 『偶然』を装ってでも会おうとしたのは、近藤に促されたから、と言う理由の方が強い。だが、そうでもなければ土方は未だ踏ん切りがつかずに、何をどうしたものかと頭を無意味に悩ませ続けていたに違いないのだ。 そして、面と向かう事を覚悟した以上、話しておかなければなるまいと思った。 己で口にした通り、銀時を責めたかった訳でも、苦しめたかった訳でもない。寧ろその逆で、銀時が、『坂田銀時の存在が、土方に瑕を負わせる一因となった』かも知れない、と言う、不確定の想像に負い目を感じる様な事はあって欲しくないと思ったからこそ、敢えて自分の碌でもない『取引』の話をする事を決意したのだから。 そうして考え(寧ろ悩んだ時間の方が長かった)た挙げ句、飲み屋や万事屋の家でする話でもないと思い、茶屋を取ってそこで膝を交えて話をしよう、とした──所までは良かったのだが。 想像して然るべきだったのだが、仮に銀時に負い目の様なものが僅かでもあったなら、土方の『話』になど良い顔をする筈がないのだ。全く考えていなかった訳ではなかったが、銀時は土方の想像以上に怒りと苛立ちとを顕わにして来た。 喧嘩腰と言うより、銀時の見せる酷く真っ当な憤慨に対し、売り言葉に買い言葉──とは少々違うが、結局土方は暴力的な言動を投げつけ、銀時に不快感を残す事を解っていながらも己の言い分を真っ向から通す事を選んだ。 銀時は。──怒りはしなかった。ただ、どこか諦めた様な風情で、「…お前、狡ィよ」と苦さを隠さない声で小さく呟きを落としたきり。 まるで、子供から宝物を理不尽に取り上げる大人の様な心地にさせられる、声だった。 お互い様だろうなどとしゃあしゃあと返しはしたが、全く以て何も釣り合わない話だ。 (……フェアじゃねぇのは、好みじゃねェんだがな) 自分でも大概、諦める以外の対処法を知らないのだと思い知らされれば、うんざりとして堪らなくなる。 背後の寝息を意識でだけ確認すると、土方は布団からのろのろと手を出した。布団端を手探りで彷徨うが、目当ての煙草──が袂に入った侭の着物──は到底見つかりそうもない。 ち、と小さく舌打ちすると、俯せの侭で土方はのろのろと布団の上部から上体を引き摺り出した。起き上がって布団を除ければ流石に同衾している男が目を醒まして仕舞うから慎重に。密やかに。 上体が半分程抜け出した所で、膝を丸めて極力低い姿勢を保った侭、枕元にある行灯に手を伸ばした。幸い、古風なデザインのくせ、最近の電気式のものだ。火を点ける手間は要らない。本体に取り付けられた紐をくいと引っ張ると、薄灯りがぽっと暗闇に灯った。 時計は手元にも寝室にも無く、携帯は煙草と同じく着物の中にある。激務で徹夜などをしょっちゅうする所為か、最近とみに己の体内時計に余り自信を持てない土方だ。況して久々のセックスは矢鱈獣じみていて、良い運動をしたレベルでは済まない疲労感を身体中に残している始末だ。あれから何時間経ったか、などとはまるきり見当もつかない。 当面の目的は携帯と煙草。と、なれば矢張り着物を探すしかないだろうと、布団端をぐるりと見回す。 と、薄闇の寝室の中に、何やら乱れた布らしきシルエットがあるのに気付く。色も黒いから恐らくあれだろう、が。 (……どう言う脱ぎ方すりゃァ足下っつーかあんな部屋の隅に行くんだよ) 呻いて土方は思わず頭を抱えた。自分で脱ごうとしたら剥ぎ取られたところまでは覚えている。その後放り投げた(としか言い様がない)のは銀時の仕業だろう。間違いなく。 いい加減十代の盛りのついた子供でもないだろうにと、隣で寝息を立てている銀時と、それに特に逆らう気も起きない自分とに呆れの濃い溜息を吐き捨てつつ、土方はそっと畳に手をついた。 よくよく見回せば、ティッシュだの使い捨てローションの小袋だの、辺りは行為の生々しさ──と言うより寧ろ若々しさかもしれない──を示す様な痕跡がそこかしこに散らばっていた。思わず赤面する。 (出る前に片付けよう。つーか今片付けよう。俺の精神安定の為にも) 土方は、手の下にうっかり潰して仕舞った、乾いてごわっとしたティッシュの残骸にげっそりとしながらも屑籠を探して頭を巡らせた。 そんな時。 「どーこ行くの」 そんな声と共に、がし、と突如背後から伸びて来た腕に腰をホールドされる。「え」と目を白黒させた土方が己を捕まえている腕を見下ろすより先、ぐいとその侭後ろ向きに引っ張られて、仰向けに背が倒れる。 「よっ、とォ」 後ろに居た筈の男の姿が真横に見えた、と思った瞬間には背中が布団の上に到達していた。 「っう、わ!?」 座っている様な姿勢から一転仰向けに引っ張られた土方の視界、天井との間に、ぬ、と銀時の半眼が現れた。 「まだ夜中だっつーの。もうちょいイチャイチャ…じゃなくて寝てよーぜ。なんか結構寒ィし」 言いながらもぞもぞと、先程まで足のあった位置に転がした土方の頭部のあちこちに口接けを落とした銀時は、互いに素肌の侭の上体をぴたりと密着させる様に落として来る。 「じゃねーよ、俺ァ煙草吸いてぇんだよ!重ェだろ退け!」 「厭ですゥ」 「っつーかテメェ寝る気とか全く無ェじゃねーか!大概にしやがれ、俺ァもう疲れて、んッ」 寝る、などと口にしたくせ、銀時の手も唇も到底そうは思えない動きで、のろのろと藻掻く土方の肌を好き放題に辿って行っている。 「っ、やめろ、さわんな…って、」 力を込めた指先で、きゅっと乳首を引っ張られ、じわりと湧いた疼きを堪える様に土方は銀時の頭髪を思い切り鷲掴んだ。細く柔らかな髪質が指に引っかかり甘く撫でてくるのすら、こう言う時は変な感覚として受け取りそうになっていけない。 はぁ、と、ともすれば濡れた声が漏れそうになるのを、溜息にして誤魔化して吐き出せば、 「気持ちい?なら良いじゃねーの」 先程強く引っ張った分のお返しと言わんばかりに、じんじんと疼く頂を柔い手つきで撫でさすりながら、そんな事を言われる。 「何がだよ。つーか疲れたか無ェんだ、いい加減にしとけ…」 「イヤイヤ。三秒で手軽に着火出来ちゃうとか、溜まってる以外の何でも無ェだろ。偶には思う存分抜いてスッキリした方が良いって。ストレス発散的なスポーツみてーなノリでさ」 言いながら、ぐい、と股間を擦りつける様な仕草をされて、土方は思わず息を呑んでから、眼前で妙に雄らしい笑みを浮かべている銀時を睨み付けた。 「……言い種がいちいち最低なんだよテメェは……」 「ソレ別に否定じゃねーよな?」 「………………」 着衣越しに押しつけられた銀時の昂ぶりの硬度。と、同じぐらいに反応しているのは重々承知の自身とを思い、土方は唇を引き結んで、一度苛々と目を逸らした。 「で、どうするよ?」 硬く閉ざされた唇の隙間に、そっと己の人差し指の背を当てて、飽く迄土方に言わせる心算なのだろう、碌でもない笑みを浮かべている銀時の姿を、横目でだけ捉えて。 「……いちいちるせぇな」 唇をくすぐる様にしていた銀時の人差し指を、甘噛みと言うには些か凶悪な力で、がり、と噛んでやりながら言えば、「はいはい」と苦笑が返った。その侭噛み付いていた指を口内に押し込まれる。 「んく、」 咄嗟に弛んだ上下の歯の隙間をするりと抜けて、銀時は押し込んだ二本の指で土方の舌を捕まえて来た。 今の様な軽い反撃程度の戯れならともかく、不慮の力で顎を閉じたりしたら、それこそ指を噛み千切りかねない力が入って仕舞うかも知れない。流石にそれは御免だと、顎を仰け反らせて逃げようとしたら項をとらえられ、無防備に晒された喉を唇で食まれて、びくりと背筋が震えた。 「ふぁ」 やめろ、と口蓋を開けた侭口にしようとしても、意味のない音にしかならない。捕らえられた舌をひととき弄んでから、漸く銀時の指が口内から抜き取られる。夥しい唾液が滴る、濡れた音が薄暗い室内にいやに響いて聞こえて、土方は目を眇めた。 「…………? おい待て、」 「んー?」 銀時の濡れた指がなだらかな腹筋の横を辿って腰骨を甘く撫でる。その手つきからは、相槌は一応打ったものの待つ様子は全く感じられそうもない。土方は鳴りそうになる喉をぐっと堪えて、足を振り上げて、のし掛かる男の横腹を蹴った。 「待ても出来ねーのかこのアホ天パ」 「痛ェって!何お前同意したんじゃなかったのかよ?何度水差すんだよ、銀さんの波動砲もうカウント中なんですけどォ??車と波動砲は急に止まれねーのくれェお前もオトコノコなら解るでしょーが」 「いやそこは止まれや。無理なら空撃ちでもなんでもしてろ。ってそうじゃねぇよ、……雨か?」 「何その有り難みの欠片も無ぇ言い種!空撃ちするくらいならお前の、って、雨?」 何を言い出すのだ、と言う顔をして思わず動きを止める男を押し退け、土方は布団から這い出した。目に付いた畳の上に落ちていた白い、銀時の着流しを取り敢えず掴むと適当に羽織りながら、襖を開いて続き間へと出て行く。 中途半端に睦み合った所為か体温は幾分上がっていたが、堪えられない程ではない。と言うか寝る前に既に二戦やらかしているのだ、セックスを覚え立ての子供でもあるまいし、まだシ足りないと言う訳でもない。 着物の袷を手で掴んだ侭、桟へと手を付き格子の入った窓をそっと開いた。ほんの僅か、外が伺える程度。たちまちその隙間から入り込んで来たのは、じわりとした湿気と水の匂い。火照った身体を撫でる風の心地よい涼しさに目を細める。 「おーい?土方くぅん?」 寝室から憮然とした声。振り返れば、襖から顔半分を覗かせている銀時が唇を尖らせてこちらをじとりと睨んでいる。 土砂降りの程度ではない。しとしとと降り落ちる、長くなりそうな雨だ。もう梅雨も明けて夏に差し掛かる季節だが、今日の天は余り機嫌が良くないらしい。 格子越しに見る町はまだ夜の帳に覆われて暗い。煙る様な雨を満たした雲も厚く、明日もまた雨が続きそうだと土方は思って、窓を閉ざした。 「雨だ」 そう、いつの間にやら真後ろに、薄暗い室内の澱んだ空気を引き連れた侭近付いて来た銀時に告げて肩を軽く竦めてみせる。 「そうね。見りゃ解るわそんなん」 ぶすりとした声音で応じながら、銀時は窓の桟に緩く腰掛けた土方の前にのし掛かる様に立った。閨を抜け出して来た銀時の形は、相変わらず良く解らないセンスのいちご柄の下着一枚。着流しは、ひょっとしたら土方が着て仕舞ったから羽織れなかっただけなのかも知れないが。 そんな事を余所事の様に考えている間にも、銀時は少し身を屈めると土方の頬に、耳朶に、首筋に、音を立てて口接けを落として来る。その度に、ちゅ、と濡れた音がするのと、緩く持ち上がった性器を身体に擦りつけて来る様な仕草に、思わず目を閉じて流されて仕舞いたくなる。 「ん」 溜息を殺して頤を自ら持ち上げて口接けを強請れば、直ぐに応えられる。唇ごと吸い上げる様に食まれ、濡れた音を立てて咥内をじっくりと愛撫されるのを土方は嫌いではなかった。それは身体で繋がるよりも余程解り易く、己が銀時の事を受け入れるのを許しているからなのだろうか。それとも、銀時の剥き出しの独占欲を解り易い姿で垣間見る事が叶うからだろうか。 ……どちらにしても明白な事は間違いない。全く碌でもない。長い口接けの合間でそんな風に思う。 「ぁ…、ふ」 散々に息を乱して一時離れる唇が名残惜しくて思わず追い掛ければ、ふ、と至近距離の銀時が笑みを漏らす気配がした。銀時は土方が思いの外に口接けが好きな事を知っている。だからか、常は淡泊そうな顔をした土方が、口接けにだけは強請る様な態度を見せるのを面白がって──と言うよりは喜んで、だろうか──いる節がある。 「な。布団戻ろうぜ?」 離れた唇が鼻先を掠めて、吐息の様な声がそう囁く。行為の最中や終わりの寸前を想起させる様な甘く熱っぽい声音に、流石に土方の腰の奥もぞくりと疼く。が。 「……駄目だ」 脳を理性と言う言葉で埋め尽くしながら、なんとかそうとだけ口にすれば、まさか断られるとは思わなかったのか、銀時は「はァ?」と素っ頓狂な声を上げた。 「オイ…、何なのお前もう。さっきも今も散々お強請りしておいてそれは無ェだろ、なァ、」 「別に強請ってねェ」 強請ったのは飽く迄口接けまでだ、と胸中で反論しながら、土方はかぶりを振った。もう一度窓を開けて涼しい風を浴びたい心地ではある。火の点きかかる身体は理性と本能との危うい均衡にあって、本音を言えば、流されて仕舞いたいとさえ思いかかっている。 「俺ァもいっかいヤりてぇの。つーかお前だって結構キてんだろ?」 「、んッ」 ぐ、と土方の足の間に膝をぐいと押しつけながら、銀時。そんな示し方をされずとも自分で兆しかかっているのは解っていたが、ここで『もう一回』を許して仕舞えば、気付いた時にはその侭なし崩しに朝になっているだろう。そんな爛れた夜の蓋然性の高さを思えば、理性を総動員して否を示した方が良い。 「だ、め、だ」 漏れかかる吐息を、強い口調に逃がしながらそう言えば、銀時は口の端を思い切り下げた。土方が片手で押さえていた着物の袷を無理矢理割り開きながら、片膝をぐいと折り曲げられる。 「っおい」 がたん、と背中を窓に押しつけられて、土方の両足は宙に半端に浮いた。折り曲げて桟の上へと上げられた片方の足を更に強く押さえながら、銀時の手が顕わにされた土方の臀部へとそっと触れる。 「協力する気ねーんなら無理矢理ヤっちまうぞ」 顔を思わず顰めた顔の目の前で吐かれる、剣呑な声に背筋が粟立つ。それが歓喜にも似たものだとは土方は気付いていたが、同時にそれが酷く浅ましい感情なのだとも知っている。時折こうして、唾棄したくなる様な碌でもない情が互いの間に在るのを知っている。 「……止め、ろ」 突き飛ばしてまで拒絶する程の抵抗が熄んだのは、既に遠い昔の話だ。 だから示すのは飽く迄言葉でだけ。それをも振り切る程に、情のない関係では無くなったのは、ついぞ先日の話だ。 否。今日の、話だ。 「だから、何で」 少し苛々とした調子で銀時は応じるが、伸ばされた指は土方の後孔の近くをやわやわとなぞるだけでそれ以上の無体を強いようとはして来ない。 その事に、ほんの少しだけ惜しみを感じるのと同時に、心の底から安堵する。 再び取り戻して、交わそうとした情も、心も、無意味なものではないのだと、思い知る。 「三戦目が辛ェとか、シたくねぇって訳じゃねーんだろ?」 不機嫌を顕わにしながらも、一応は土方の言い分や、理由があるのであれば聞こうとして来る銀時の、律儀さ、と言うよりは誠実さか。それに小さく安堵の息を吐いて、土方は眼前の銀髪を軽く掴んだ。撫でる様に指を滑らせれば、益々不思議そうな顔をされる。 「雨が、降って来てるからだ」 自らでも持て余した熱を冷ます様にゆっくりとそう口にすれば、「はァ?」と二度目の疑問符が返った。 ああ、説明をするのも面倒臭い。思いながら土方は、湿気を含んで質量を増した銀髪をやんわりと掌で押し潰してみた。もふ、と返る感触がなんだか心地よい。思わず笑みがこぼれる。 「……総悟は、登城や登庁の時は、普通は俺らに帯同はしねェ。任務なら別だが、会議なんかの時は、局長副長の不在時に代わらなきゃなんねぇ隊長職だからな、」 だから、あいつは基本的には屯所で留守番なのだと、淡々とそう続ける土方に、銀時は眉を寄せて瞬きを繰り返した。 「…………?? ナニ。いきなり何の話?沖田くん??が、なんだって?」 問い返しではなく純然たる疑問だった。思考半分、不快感半分と言った所か。そんな銀時には構わず、土方は続ける。 「総悟が不機嫌になるだろうって話だ。何せ雨だ」 「????」 いよいよ訳が解らなくなったのか、銀時の表情が疑問から不穏なものへと転じる前に、土方はぐいと腕に力を込めて、銀髪頭を自らの方へ引き寄せた。 「っと、」 土方の胸に抱き込まれる形になった頭。慌てた様に桟に手をついて、全ての体重で倒れ込む事は避けた銀時が息を呑む気配。 「……土方?」 柔らかな頭髪の中に鼻先を沈めて、土方は目を閉じた。 名残が惜しい。自分の方が余程女々しくてみっともないと思いながらも、手から逃れていかない体温に縋る様に、草臥れた息を吐き出す。 「明日は、晴天だったらとっつァん…、警察庁長官には演習の視察が予定されてた。だが、雨だったら演習は順延になる。その段取りの為にも、俺と近藤さんは登庁して会議に出席する事になる」 「…………」 「そうなりゃ、総悟の機嫌はそりゃもう悪くなる」 今度ははっきりと溜息をつきながら、抱え込んだ手触りのよい銀髪を撫でていれば、その頭もとい本体が、ぐい、と身体を引いた。遠ざかる体温に縋る様な眼差しを向けて仕舞う様な事が無い様に、土方は大人しく手から力を抜いてそれを見送る。 「いや待て。ゴリラ大好きの沖田くんが留守番にされて不機嫌になるってのは解った。解ったが、全く今の状況と繋がってねェだろ??なんでそれと、三戦目に難色を示すお前が結びつく訳」 そう、心底不思議そうに──不愉快そうな成分も込めつつ言う銀時の表情を見上げて、今度は土方が数回瞬きをする番だった。 (ああ、) 自分にとっては余りにも当たり前の前提だった為に、説明をする事そのものが頭から抜けていたのか、とややしてから気付き、土方は寛げられた胸元の袷を戻した。足も下ろして、完全ガードを決め込みながら言う。 抜けていた、と言うより。余りにこの空気に、時間に浸りすぎて、頭の回転が鈍くなっているのかも知れない。 「登庁すりゃァ、幕臣だの他の警察関係者のお偉いさんになんでかんで会う事になる。会議なら猶更だな。そこに武家の人間でも無ェ野良犬が二匹。 ……どうなると思う?」 少々自嘲を込めた調子で目を眇める土方に、銀時は口をへの字に曲げた。 正解は、本来場違いな所に上がる野良犬に対して、あれやこれやと屈辱や嘲りと言う軽い挨拶が待っている、だ。 デフォルトでそんな状況だと言うのに、それに加えて『今』の現状。辛うじて首を切られる事だけは避けたとして、家柄やコネなどで『上』のポストに就いていた警察組織の重鎮たちへの風当たりは強い向かい風の直中に置かれているだろう。その原因となった真選組に良い顔をしてくれるなどと言う輩が居よう筈もない。 それと概ね違えないのだろう想像をしたらしい銀時は、どうにもすっきりとしない、奥歯にものを詰めた様な顔をしている。 「近藤さんはそのテの扱いを躱すのが上手くて。俺は慣れたり堪えたりする事にしてる。で、総悟は、そのへんの事情は知っちゃァいるが、屯所で留守番」 「や。連れてったら間違いなく血の海の一つや二つ出来んじゃねーの、その調子だと」 「その通りだ。だから、雨が降ったら総悟が不機嫌になると思った」 「〜…だから。それとこれとどう関係が」 いい加減こんな遣り取りに疲れて来たのか、所在なく佇む銀時は少し苛々とした手つきで、先程まで土方が手遊びに弄っていた銀髪をがりがりと引っ掻いた。 やっぱり、惜しいな、と。寸時そんな事を考えた己には気付かぬ振りをした侭、土方は嘲笑を口の端にそっと乗せた。 自らへ。 「あいつは傍で近藤さんを護ってなきゃ気が済まねェんだ。その代わりに、俺がなっている以上。俺は近藤さんを護る事に、いつも以上に専心しなきゃならねェ」 寧ろそれこそが望みであり役割なのだと。静かに、諭す様にそう告げると、土方はそっと銀時の胸を押した。立ち上がる。 するりと肩から落とした着流しを持ち主の肩に掛けてやりながら、ひとつ。申し訳ない心算で──そうは見えない様にだが──微笑に似た表情を残すと、寝室へ取って返した。剥がれ放られた黒い着物を掴んで袖を通しながら、振り返る。 これ以上は無い程はっきりとした土方の『理由』に、果たして銀時が何を思うのか。想像は実に容易い。だからこそ、桟に脱力した様に腰を下ろして、がりがりと頭を掻きながら苦く笑っている銀時の顔を、土方はまともに見る事が出来なかった。 「……今の、こんな状況だからこそ。当事者の真選組(俺ら)は警戒をしねぇ訳には行かねぇんだ」 だから、解ってくれ、とも。 だから、済まない、とも。 どちらも言わない。どちらも恐らく期待はされていない。 ここに至る迄に既に二度睦み合って、眠っている。それが、明日と言う『仕事』を控えた土方の譲歩であったのだと、銀時は物解りよく理解をしてくれようとしている。 だからこそ。だからこそ、銀時へと嘘をついている訳でもないのに、自己嫌悪が心の何処かに去来する。 惜しいのは自分もなのだ、と。そう本心を告げたところで何になると言うのか。 偶々、雨が降っていた。だが、雨が降っておらずとも、土方の告げた『理由』は変わらない。晴れていようが土砂降りだろうが、自分はこの温度を振り払って進まなければならない。精々睡眠時間が増減する程度の違いしかそこにはない。 やっと。だ。 やっと、取り戻させてくれた。やっと、情を交わして、やっと、言葉を交わして、やっと、再び伸べられた手を握り返す事が出来た。 一日ぐらい──あと何時間かの間ぐらい、体温を分けあってゆっくりと眠りに落ちていたい。取り戻せたのだろう安堵を噛み締めて、人並みの情に全てを明け渡したい。 だが、それが叶わぬ事だと、誰よりも知っているのは、土方自身よりも、寧ろ銀時の方だ。 それなら、仕方ない、とも。 それなら、次はいつ会えるのだ、とも。 どちらも言わない。どちらも恐らく、期待してはいない。 畳に散らばっていたあれやこれやと言うゴミを屑籠に放り込んで、漸く探し当てた帯を結ぶ。そうして身支度を整えて行く土方に、銀時は特に何も言っては来ない。 言って欲しいのか、と思って、いいや、とかぶりを振る。それこそ破綻でしかない。 離れた筈の熱がどこかに蟠って辛い。何かが足りない様で、苦しい。 気の所為だ、と己に言い聞かせながら、土方は最後に藍色の羽織に袖を通した。寝室を出て、窓辺に座り込んだ侭殆ど動く気配のない銀時の姿を、もう一度だけ振り返る。 「……部屋は朝まで自由に使える。最初に言った様に、外の札だけ引っ込めんのを忘れんなよ。適当な時間に引き揚げると良い」 「あー…。俺も雨足強くなる前に帰るわ。こんな所で一人寝ってのも何か勿体無ぇし」 少し早口に言ってから、余計な事まで口にしたと思ったのか、銀時は少し顔を顰めた。 目は、合わない。畳に落とされた侭。 一体どこまで、この優しい男を傷つけるのだろう。 一体どれだけ、この酷い男を望むのだろう。 一体どうすれば、手に入るのだろう。──どうすれば、 、 「……じゃあな」 「おう。夜道にゃ気ィつけて帰れよ」 心配は要らないと、無言で刀の柄に手を乗せれば、かちゃりと僅かに鞘の鳴る音がした。 ぷらり、と振られる手と共に、銀時が顔を少し持ち上げる。 自分も、こんな顔をしているのだろうか。そう思って土方は、何処か傷ついた様にわらう銀時の姿へ背を向けた。 どうしたって自分はこれしか選べない。 そう言って握りしめた刀が、手の中でまた、震えていた。 。 /7← : → /9 |