散華有情 / 9 遠ざかる足音と、窓の外の雨音がいやに大きく響いて残っている。未練がましい己の感情をその侭突きつけるかの様に。 互いに険悪な気分になったり、『解らず屋』と罵り合いをしたかった訳では当然、無い。だから銀時は己の今の対応が間違ったものでは無かったのだと確信してすらいる。 「……あーあ」 それだと言うのに、重たくなった気さえする脳に詰め込まれているのは、沸々と沸き起こり、それでも溢れはしない不快感、不平不満、大人気のない愚痴ばかりだ。その鬱積ごと頭髪をがりがりと乱暴に引っかき回す。 表に──物品や態度にその苛立ちを表現したいと思う程に自分は青(わか)くは無い。とは正直に思うのだが、それでは老成した人間は自らの感情を持て余した時に果たしてどうすれば良いのだろうか。 歳を重ねる事が諦めに順応して行く事でもあるのは間違い無い。思う通りにならない世界の不条理に向かい立つ事に疲れた時から、人は諦念と言う悟りを開くものだ。夢を追い掛け目的に邁進する事に日々の尊さを見出すのなど、若々しいジャンプの主人公たちぐらいのものだろう。 (……いや、銀さん別に枯れてる訳じゃないからね?まだまだ現役まっしぐらだからね?) どうでも良いツッコミを脳内に差し挟みながら、銀時は背中に触れている窓へと体重をかけた。下着一枚の上に羽織っただけの着流し同様にだらりとした姿勢で、天井をぼんやりと眺める。 さっきまで此処に、同じ風(とは言えないが)に座っていた男に迫った時には籠もっていた熱が、今ではすっかり退いて久しい。 いつもと──今までと何ら変わりのない様な口接けだ。特別濃厚だった訳でもなければ、あっさりしていた訳でもない。互いに技工がどうのと話した事など無いが、少なくとも銀時の感じた印象では、土方は銀時との口接けが好きなのだろうと思う。わざわざ訊いてみようとはした事はない。自分の命ぐらいは惜しい。 ともあれ、技巧だの理由だのはさておいて……、少なくとも嫌われてはいない筈だ。口接けひとつを逐一甘く感じる程の初さのある年齢は互いに通り過ぎて久しいのだから、特に意味のある嗜好、と言う訳ではないのだろうが──五感の集中した器官で自分ではない異物を、他者を受け入れると言う行為そのものとして見れば、セックスよりもそれは生々しく象徴的であるとは、少なからず思う。 (だから、どう、って訳じゃねぇけどよ…) 我ながら若くそして甘い思考になりつつある、と感じて、銀時は小さく鼻を鳴らした。笑い飛ばそうとしたのだが、見事に失敗する。 本番まで行う水商売の人間でも、キスだけは駄目だと言う者は多い。こればかりは、体内に他人の性器を突っ込まれるのと比べてどうだ、と言う問題では無いのだろう。 だが、一般的にそうだからと言って、土方が銀時との口接け一つについてどう思っているかなどは知れない。知れない、が。 「〜……あー、クソ」 土方の挙動の一つ一つに何か特別な意味を見出そうとしている自分が、いい加減女々しい事この上ない。嫌われても、拒絶されてもいない。それは今更不安など抱くまでもなく明かな事だ。だから、これは今まで通りでいつも通りの話なのだ。土方には今手放せない大事な仕事があって、それは常より深い隈を作るほどに彼を疲弊させている。 そんな中、ほんの数時間とは言え休める時間を割いて銀時との逢瀬に応じてくれた。『偶然』を装って会いに来て、今まで胸の裡にしか納める心算もなかった様な告白劇まで披露してくれて。 それ以上を望むのも押しつけるのも、ただの我侭だ。ついぞ数時間前までは、会えるぐらいでも良いのに、などと殊勝な事を思っていた癖に、実に人の欲とは浅ましいものだ。 別に、もっと睦みあっていたいと思った訳ではないのだ。触れあう内に熱が上がって仕舞ったから、つい三回戦をと要求しただけで。ヤってもヤり足りない歳ではない。だからと言って枯れた訳でも、現役の愚息がそう簡単に枯れてくれる訳でもないのも事実だが。 仮に、ただ抱き枕をしているだけ、と収まったとして。あの言い分を訊くだに、この雨天に気付いた時点で土方にはタイムオーバーだったのだ。それを惜しんだり不満を抱いたりして今更ぐちぐちと引き摺っていても仕方がない。 雨が降っていなかったとしても同じだ。三回戦(諄い様だがそこまで切羽詰まってヤりたかった訳ではない)を達せたとしても、その後土方は身支度を整えて帰っていた筈だ。 予定通り。時間通り。その言葉の指す意味の通りに。 「何あの子、ツンデレラ?アレ?そんなんあったよなどっかの国の昔話に。マッタクデレンワ?シンデモデレンワ?なんかそんな感じの」 確か、決められた刻限が過ぎると、逢瀬を中断し帰らなければならない娘か何かの話だった。そんな曖昧な記憶群を眉間の皺と共に掻き寄せて、銀時は空々しい笑いを引っ込めた。 何が、変わったと言うのだろう。 何が変わりたかったと言うのだろう。 自分の途を生きて役割を全うして進む土方の事を、不義理だとか、丹精の甲斐も無く咲かない花だなどとはもう思わない。思う事など出来なくなった。 話を互いにちゃんとして、解ろうとした。お互い以外の世界が見えなくなる様な真似は二度とさせまいと、何度も自分に言い聞かせた。 だから先程も、きちんと土方の言い分が出る迄を待った。今までの関係性の侭であったら蹴られようが殴られようがなし崩しに致して仕舞った可能性の方が高いだろう。 そうして得たのは、土方の、知った心算で居た勤勉さと。甘さと。 ──その甘さに付け込もうとして仕舞う、悋気の些か強すぎる自分の性質の再認識だった。 (……忙しいお前の、理解あるコイビト、って言うポジションがそもそも俺的なキャラじゃなかったっつーか……、) 溜息混じりに、苛々とした手つきで背後の窓を少しだけ開く。羽織っただけの着流しと肌の間にたちまちに忍び込む湿気と、僅か冷えた外気温とが、脳内の熱を持っていってはくれないだろうか。そんな事を思いながら。 (捕まえる気も無ェのに。捕まえる度胸も無ェ癖に。お前が、頑なに壁を作るくせ、捕まえられても良いって言いたげな隙ばっか見せるから…、) これはひとつの分水嶺だ。理解している癖、焦燥感は尽きない。思い違えでまた過ちを犯して仕舞うのではないか、また土方に間違わせて仕舞うのではないかと。 伸ばせる時に伸ばす手と、伸ばせずに折り畳んで仕舞う手とは異なる。 (…………もし今度なんかあった時。俺はちゃんとそれに気付いて、アイツをぶん殴ってやれんのかね) その『今度』は無論、無ければ越した事はないものだ。 ただ、あの変な所が不器用で頑固な男が、己の抱えている不安や焦燥や望みといったものを、進行形の時に銀時へと躊躇い一つなく、促される事一つもなく、明け渡すとは到底思えない。それは信頼の有無ではなく、単純に土方の性格だからだ。 口を開くとしたら、全てが自分の中で折り合いがついてから。そんな気がする。今日の『話』の様に。 それをいちいち『負け戦』だの『無駄』だのとひねた考えに直ぐ至らなくなった辺りは、自分も一応成長したのだろうか。それともただ単に、老いた心地の諦めが身に付いて仕舞っただけなのか。格好悪い所は見せまいと、つまらない意地を──銀時にとっては別段意地と言う程度のものではないのだが──張りたいだけなのか。 (……やめやめ。俺は待つ事にして、アイツはちゃんと『帰って』来てくれたんだ。そんだけで良いだろ今は) 土方の心が『此処』に戻って来てくれたからこそ、銀時にとっては胸が悪いばかりで、土方にとっても胃が痛くなる様な内容でしかない『話』をしたのだ。それこそ腹を割って。そこには不義理などと言う言葉は間違っても当て嵌まらない。真っ向からの誠意だ。 それは、嘘さえも吐けない、あのどうしようもなく不器用な男にとっては精一杯の譲歩に違いない。 (暴きてぇ訳でも、詰ってみてぇ訳でも、況してただヤりてぇって訳でも無ぇんだよ。──ただ、) ただ。 諳んじた口元が甘く弛むまでに、僅かの間があった。 銀時は窓をぱたりと閉じると、寝室に脱ぎ散らかされている自分の衣服を取りに立ち上がった。 今更、その程度の自覚も、役割も手前ェに与えられない程愚鈍でも臆病でもないのは、解っている。 「『俺』が居る事が、少しでもあの子の支えとか、寄る標みてぇなもんになってやれんなら、それでも良いだろ。それで良いんだろ?」 これは俺だけの思い上がりではないのだと。 それはもう、知っている。 * ピンポーン、と単調な、然し良く響く電子音が耳朶を叩くのに、銀時はソファに横たわった侭で薄く瞼を持ち上げた。 横頬にほんのりと当てられている陽光の気配は弱い。湿気を多く含んだ空気の凝ったにおいと、ぱたぱたと窓硝子を打つ滴の音。どうやら昨晩の予想に違えなく、外は雨が降っているらしい。 ピンポーン。再び同じ音が静まり返った家の中に反響する。部屋の明るさから察するにもう朝なのだろうか。それにしたって来客が門を叩いて良い時刻ではない気がする。飽く迄自分の基準でだが。 ピンポーン。今度の音は二度目より間が短かった。銀時はソファの上で頭を転がしてみるが、万事屋の居間には壁掛け時計の類はない。社長机の上になら小さな時計が置いてあるが、それは生憎社長椅子側から見る為のものなので、こちら側からは見る事が叶わない。 何時頃だろうか。ぼんやりと考える。テレビを点ければ良いのかも知れないが、リモコンの類が手近に見当たらない。それを確認するなり銀時は二秒もせずに時刻の確認と言う作業を諦めた。再び目を閉じる。 ピンポン、ピンポン。銀時が目を閉じるのを待っていた様なタイミングで、今度は二連打された。念の為に記憶を眠気の中から無理矢理引っ張り出してみるが、今日は仕事の予定は無かった筈だ。ついでに言えば来客の覚えもない。 俺は眠ィんだ、と内心で呟いた時、ピンポンピンピンポン、と、三回忙しなく鳴らされる。 苛ッ、と銀時の額に青筋が浮かんだ。深夜帰りでアルコールも少々入れて、今は眠い事この上ないのだ。どこの誰か知らない客よりも、もう少し眠っていたい。 (ババァが家賃の取り立てにでも来たか…?それこそ知るかよ) もう半ば意地だった。ぐ、と眉間に力を込めて目を閉じて、ソファの背の方へと寝返りを打つ。狭い中で動いた所為で膝を軽く背もたれにぶつけ、苛立ちが更に一つ降り積もった。 ピンポンピンピンポンピンピンピンポンピンポンピンポンピンポンピンピンピンポーン。 「いきなり連打かよ!なんで四回目からいきなり諦めんだ!」 次に響いた連打音の煩さと回数とに思わずツッコミを入れつつ起き上がって仕舞い、銀時は「あー…」と溜息を吐きながら掌に顔を埋めた。二日酔いと言う程ではないが、寝不足と雑魚寝の所為でか頭痛がする。 ピンポンピンポンピンポンピンポン…… 「だーッ!わぁったよウルセーな!今出ますよー!出るってんだろコノヤロー!!」 そうする内にも止まる事のないチャイム音に諦め半分に怒鳴り返し、銀時はソファから降りた。昨夜家に戻って、酒をちびちび飲みながらその侭寝て仕舞った為に、格好はいつもの着流しと洋装の侭だ。 ピンポンピンポン。 「はいはい、出ます、出ますよ。ったく、これで新聞の勧誘とか下らねー用向きだったら覚えてやがれってんだ」 鳴り続けるBGMの様なチャイムにそんな悪態を返しつつ、銀時は剥き出しの右足で左足の脛を掻き、ぺたりぺたりと湿った床板を踏んで廊下へと出た。 玄関の硝子戸の向こうのシルエットは存外に大きく見える。少なくともお登勢やキャサリン、たまではなさそうだ。 (んだ…?) いよいよ本当に飛び入りの客か、新聞の勧誘か何かだろうか。前者なら話次第では兎も角──かぶき町と言う場所柄だけあって、時刻や状況を問わずトラブルに巻き込まれて戸を叩く羽目になる客も多いのだ──、後者だとしたら血祭りにあげてやろうと、そんな事を銀時が半ば本気で考えていた時。 不意に廊下の左側にある納戸の戸が開いた。思わず足を止める銀時の目前で、納戸から出て来たのは寝間着姿にぼさぼさ頭で鼻提灯を膨らませた神楽だった。 その様は、年若い少女が目覚めた、と言うより、冬眠していた熊が起き出した、と言う風に何故か銀時の目には映った。 神楽はふらふらと歩き、裸足で三和土に降りると、傘立てに差してある愛用の番傘を手に取った。当然の様に戸に向かって構える。 「待て待て待て待ってェェェェ!!神楽ちゃんストップ!ストップぅぅぅ!!」 無論それが単なる傘──雨よけや日よけを目的としたアイテムでない事など重々承知である。他の夜兎族は知らないが、少なくとも神楽は傘(それ)を重火器として使っている。その銃口が今向いている先は玄関の戸、ひいてはその向こうに居る来客(仮)と言う事になる。銀時は慌てて神楽に飛びつき羽交い締めにして引き金が引かれるのを止めた。 「玄関フッ飛ばしたら修理代洒落になんないからね?!ていうかまだお客さんの用件とか確認してないのに挨拶代わりに取り敢えず鉛玉ブチ込むとか良くないようん、平和的に行こう。ね?平和的にね?」 「だってピンポンピンポンうるさいネこれ。私の睡眠を妨げるピンポンは滅びれば良いアル」 据わった目の神楽が、ぎしぎしと音を立てて振り返る。その目はいつだったか、不眠症状に陥っていた時に似てどんよりと暗く無機質だ。 ピンポーン。 そこに、神楽の──もとい、冬眠中だった猛獣の怒りを更に逆撫でする様な追い打ちチャイム。ぎし、と再び玄関の戸を睨みに戻る神楽の頭を、銀時はぽんぽんと適当に叩いて宥める。 「いやピンポンどころか他のものが色々滅びるからね。取り敢えず落ち着こうか神楽ちゃん。お前もう良いから。寝に戻って良いから。後は銀さんが適当にやっておくから。な?」 万力の様な握力で傘──と言う名の重火器──を掴んでいる神楽の背を、そう言いながら銀時が納戸に向かって押し戻せば、相変わらず据わった目の、ぶすりとした顔がこちらを見上げて来る。朝早くからの人をからかっているかの様なチャイム音に苛々しているのは銀時とて同じだ。それは解る。ストレスを発散したい。それも解る。 ピンポーン。何故か睨み合うのにも似た間を生む、銀時と神楽との間を猶もしつこく通り過ぎるチャイムの音。 「わーったよウルセーな!はいはい、朝も早よから何の御用ですかー?!」 こちらも裸足の侭で三和土に降りた銀時が、半ば自棄の様にそう言いながら玄関の鍵を外して戸を横に思い切り引き開ければ、そこには。 「お早うございます坂田さん。一応エリート的な基準で申し上げますと、七時半は朝の早い内には分類されませんので悪しからず」 しとしとと降る雨音と、白い隊服の人間をずらりと背後に引き連れた、三白眼の男が立っていた。 「……てめェは」 意外な──予想だにしなかった顔ぶれに、思わず銀時の頭から眠気が吹き飛んだ。 階段までびしりと白服の人間たちが連なっている光景は、悪夢以上のインパクトを以て銀時の目前に、然し夢ではなく存在している。 目の前の男を払い、柵を跳び越えて降りて──咄嗟にこの場の穏便ではない切り抜け方を模索しそうになったのは、眼前の、無表情な三白眼に片眼鏡を乗せた男を含む居並ぶ白服の面々が、それなりに敵対心や警戒心をぴりぴりとする程の強さでこちらに向かって示していたからだ。 佐々木異三郎。そして、その率いる見廻組の人間たち。今までに類がなく、あってもいけない光景だった。 「……銀ちゃん?」 銀時の気配が転じた事に聡く気付いた神楽が、納戸の入り口に立った侭声を上げるのを僅かだけ振り返り、それから銀時は溜息を吐いた。 「新聞なら間に合ってますんでー、悪いんですがァ、」 「残念ですが我々は新聞の拡販員ではありませんので、洗剤もゴミ袋も出ませんよ」 露骨な迷惑顔で戸を閉めようとすれば、佐々木は平然と敷居の上へと爪先を突き入れて来た。幾ら丈夫そうな革靴とは言え、まともに挟まれれば痛いどころではない。咄嗟に手を止めて仕舞った銀時は不快さを隠しもせずに顔を上げるが、佐々木は何の痛痒もない様な表情の侭で居る。 「……で、おたくら何。エリート様とやらには早朝じゃなくても、今起き出した俺的にはもう新しい朝が来ちゃう感じなんだよ。だってのに、朝ッぱらからこんなむっせェ光景じゃあ、希望の朝どころじゃねぇよ。家間違ってねぇ?」 「残念ながら」 銀時の悪態にまるで動じた様子もなく、佐々木は自らの隊服の胸ポケットをがさごそと漁り始めた。そうする間にも続ける。 「我々エリートも、職務時間を潰してまでこの様な貧乏人の家の戸を好き好んで叩きに来たい筈がないでしょう。間違いであれば実に有意義な話ですが、」 言いながら、佐々木は胸ポケットに折り畳まれて入っていた紙面を、仰々しささえ感じる仕草で取り出すと、ぱらりと銀時の眼前へと拡げて見せた。 「ンだこれ、回覧板か何か?困るんだよね、ゴミの日しょっちゅう変えられっとさぁ…。俺やっと燃えるゴミの日憶えたばかりで──」 印刷された細かな活字を斜め読みしかけた銀時はそこで硬直する。その横に神楽が、何事だとばかりに顔を覗かせて来るが、制止するどころではなかった。 「アナタに、逮捕状が出ています。坂田銀時さん。 時間も労力も無駄にはしたくありませんので、大人しく従って下さると助かるのですが」 「は?」の一音も出なかった。銀時らしからぬ事に、いつもの様に冗談めかした物言いもなにひとつとて出ては来てくれず。万事屋の玄関先に乾いて重たい、それこそ冗談事の様な空気がひととき落ちる。 目の前の佐々木の、仰々しくも真面目な表情と、寄越した儀礼めいた書類の一枚とが、全てを『冗談』などではないのだと突きつけていた。 また切れ目が悪い…。 /8← : → /10 |