散華有情 / 15



 何度目になるだろう。意味も熱も無い、ただ吐き出すだけの息をこぼして、土方は瞑っていた目を開いた。
 まだ青い畳の匂い。広いだけのがらんどうの部屋。薄暗いその奥には幾ら目を凝らせど何も見えては来ず、なまじ拓けた空間があるだけに不気味さばかりが募る。
 生活感がない、と言う程度で済む閑散ぶりではない。それどころか、人の痕跡すら普段であれば探す事も叶わなかったかもしれない。だだっ広いと言う意味では真選組の屯所も似た様なもので、此処と同じ武家屋敷風の和風建築なのだが、あの場所に感じる印象はこの家とでは真逆だ。強いて言えば、賑やかで、実用的で、むさ苦しい。が、落ち着く、と言った所か。
 古さがその侭風格の意味になるのであればこれもまた大差ない筈なのだが、この家には年月によって刻まれていく人の生活の証、使用感、匂い、傷、そんなものの何れも見当たらない。
 なりばかりは古風で重みのある、上流階級そのものと言った体だ。どの時代の頃の建築なのかはそっち方面に決して明るいとは言えない土方には到底知れないが、この生活感使用感の無さは、建築の古さとまるで合致しそうもない。或いは天人来航の後に改修工事でも行ったのかも知れないが。
 年月の刻む佇まいは、人の痕跡の一切をそこに持たないと言うだけで、恰も何かの形骸の様に転じて仕舞うのだろうか。これではまるで、『家』──或いは『屋敷』──と言うものの展示物の様だと土方は思う。
 部屋の奥の暗がりとは逆を向けば、縁側の戸はこの悪天だと言うのに平然と開け放たれている。廊下の薄暗さを見れば、目の前以外の場所は雨戸がちゃんと閉じている様だったが。
 電気は通していないのかも知れない。それ故の灯り取りを目的としているのだろうか、湿気が建物や畳を傷ませる事など気にせぬ風情で開かれたそこからは四角く切り取られた外の世界が覗き見える。
 塀と庭木に囲われた、広い古風な庭──庭園だ。元よりこの部屋から愛でる為のものなのだろう、白砂を敷き詰めた枯山水。但し長い事人の手が入れられていなかった様子で、雑草や水溜まりと言ったものが本来見事だったのだろう景観を台無しにしていた。ただでさえ薄暗い空の下、荒れ果てた庭が降る雨に打たれ続けている様は、栄華や贅の果てを象徴する様な空しさを想起させる。
 そしてそんな風景の中心を遮る形で女が一人、廊下に程近い隅に正座していた。片手には箱を抱えて、もう片手にはその中身のドーナッツを一つ。小動物めいた仕草でそれをもぐもぐと囓っている。
 女の傍らには長めの刀が一振り。と、ドーナッツの空き箱と未開封の箱の山。
 少なくとも、女はその箱(の中身)が全て片付くまでは微動にしないだろう。その女がドーナッツに果たしてどれだけ執着しているのか、胃袋の限界はどこなのか、と言う単純な疑問以前に、ドーナッツを次々口にする以外の動作を先程から──土方の観察していた数時間に限った話だが──何一つ見せない様子から、そんな冗談の様な想像さえも易かった。
 何の冗談だと、何度思ったか知れない。
 何分か前に目を閉じた時と何ら変わらない風景がそこにはある。
 
 *

 女は已然、ドーナッツを黙々と口に運び続けるばかりでいる。土方の凶悪な視線に晒されてもまるで動じる様子も、何らかの痛痒を感じる様子でもない。
 話しかける事は何度か試みているが、よく解らない会話未満の遣り取り以上に発展する気配はなく、既に交渉の類は諦めている。
 女について土方が知るのは、今井信女と言う名前と、見廻組の副長職に就いている事と、沖田と互角に渡り合える程の達人である事と、見慣れない長い刀を用いる暗殺剣らしき真っ当ではない戦闘技術を習得している事と、佐々木には絶対的に忠実である、と言う点ぐらいだ。
 否、もう一つ付け足せる。理由なぞ知らないが、何故かドーナッツに対し飽くなき執着心があるらしいと言う事。
 その何れも今の土方の状況から見て、好転を運ぶ材料にはなりそうもないものなのだが。
 (何せ)
 溜息と同時に両肩を落とす。土方は、昨晩の私服の羽織と着流し姿の侭、部屋と部屋の境目の襖を開け放った所にある柱を通す形で、後ろ手に手錠を掛けられていた。直接目では見えないが、手首に当たる形状からして恐らくはごく普通の警察支給の手錠だろう。
 刀は近くには見当たらず、袂にも所持品の一切の気配はない。尤も、携帯電話などがその侭手元に残されていたとして、この体勢では何も出来はしないのだが。
 目覚めてから何時間もこの姿勢で座らされ、部屋の奥は広いばかりの暗闇、目の前の雨の風景の前にはドーナッツ女と、どちらを向いた所で碌なものがない。
 当初はこの状態で更に猿轡まで噛まされていたのだ。息苦しい上に、武器も持たぬ人間の唯一の自衛手段或いは攻撃手段となる言語が封じられていると言うのは、実に苦痛なことこの上無かった。
 どうせ騒いでも無駄ですから。そう言って猿轡を外して行ったのは、朝方(恐らく)此処に訪れた佐々木だった。曰く、此処は佐々木家の所有する邸宅の一つで今は使われていない事、当然土方と信女の他には誰もいない事、庭が結構に広く周囲の民家からも離れているので、ちょっと大声を出したぐらいでは助けなど到底見込めない事、などをその際にわざわざ丁寧に教えられた。逃げられるとは万に一つも思っていないのだろう。余裕の体である。
 実際土方はその後当然の様に大声を出したり暴れたりと試みたのだが、腹立たしい事に何れも佐々木の忠告通りの徒労に終わっている。
 具体的な住所を聞き出した訳ではないが、大体江戸のどの辺りかは想像がつく。名家や旧家が疎らに並ぶ、所謂セレブの暮らす地域だろう。これだけの邸宅をこうして無駄に余しているなど、エリートやセレブと言う家柄の考える事は良く解らない。
 江戸湾よりも大分山側に位置する、インフラ整備以外はまだそれほど開発の行き届いていないそこは真選組屯所からは結構に遠い。何とか仲間にコンタクトを取りたい、と考えた所で、そうそう思いつく手段もない。
 何の冗談だ。とまたしても何度目になるだろうかすら知れない呻きをその場に落としながら土方は思う。何をさておいても煙草がまず欲しい。ヤニ不足では苛立ちも常の倍増し右方上がりに増えて行くばかりだし、思考も落ち着かない。憶束ないと思える程に。
 だが生憎、広い家屋の、少なくとも目の届く場所には煙草などないし、目の前のドーナッツ咀嚼マシーンとて同じだろう。まあ、あったとしても両腕の自由にならない現状では吸う事もどうせ許されはしないのだろうが。
 真選組屯所は今頃蜂の巣をつついた様な騒ぎになっているだろう。何しろ、現状へ至る事実だけを追ってみれば、昨晩夕食に出て以来副長が連絡を絶った侭失踪、と言う形になっている筈なのだ。
 土方の記憶は、昨晩、藤の屋を後にした所で途切れている。雨を凌ぐ為に店の傘を借りて、外に出た時には丁度向かいの料亭が店じまいの作業をしている所だった。
 なんとなく傘を目深にさして歩き出して数分もしない内、気配──と言うよりは勘だったかも知れない──の様なものをふと感じて立ち止まった瞬間、水溜まりを蹴る様な僅かの音を耳が辛うじて捉えた。それが急接近する人間の足音だと判じれるかどうか、のタイミングで、土方が傘を放り棄てて腰の刀に手をかけた時、首の後ろに一瞬の熱を感じて──
 そうして今に至る。触って確かめた訳ではないが、食らったのはスタンガンの類だろうか。他に大の男一人を瞬間的に昏倒させられる道具の思い当たりは土方にはない。尤も、暗殺や密命に特化した人間ならばもっとスマートな道具を扱うのやも知れないが。
 下手人は恐らく目の前のドーナッツ女だろう。見廻組にもそれなりの使い手は揃っていたが、幾ら雨音や視界不良の助けがあったとして、あんな風に瞬時に対象に接近出来る様な技を持つ者もそうそう居まい。
 ともあれ、一瞬の空隙の間に土方は『誰』が下手人とも断定出来ぬ程鮮やかに『殺され』た。実際に首を持って行かれた訳では無かったのは果たして幸運と言えるのかも知れないが。
 (……クソ)
 思い出すと自然と悪態をつきたくなる。男より女の方が弱い、などと宣う心算は現在の世の中では無いが、こうも見事にしてやられるとなると、加害者が男であれ女であれ、面白くはないものだ。
 傘なぞさしていなければ或いは接近前に一矢報いるぐらいの抵抗は出来たやも知れないが、悪天自体は命の遣り取りに於いて何の言い訳にもなりはしない。襲撃する者が常に真っ向から、名乗りなどを挙げつつやって来る様な古風な攘夷浪士ばかりとは限らないのだから。
 そう言う意味では現在の状況は紛れもなく、己の責と言える。日常風景の中の油断と、差し挟まれた悪天と、久々の逢瀬の後で僅か浮き足立っていただろう感情と。
 やはり、未だあの男に会うべきではなかったのかも知れない。全てが片付いてから、と当初自分でそう定めた様に、近藤や沖田に嗾けられた所で、無視を貫き通せば良かったのかも、知れない。
 数日前に佐久間邸の家宅捜索の件で佐々木の元を訪ったその日の内に、土方は山崎へと佐々木の、もとい見廻組全体の動きをそれとなく探らせていた。佐々木の持ち出した、同じ警察組織に於いての縄張り争いを建前とした折衷案に不満があったのも勿論だが、今回の粛正の煽りを受けて進退を迫られる事になるだろう、現将軍派から一橋派へと乗り換えを目論む連中とコンタクトの一つでも取らないものかと──弱味をそれとなく掴めないかと──期待した、と言う、些かに負けの込みそうな賭けの一つとして。
 佐々木に言わせれば、土方の子供じみたほんの些細な意趣返しと言った程度の事だろう。実際にそうだったかも知れない。
 山崎はその翌日には、真選組の主立った幹部──当然土方も含む──に、見廻組の監視が付けられているだろう示唆の報告を寄越して来た。それが恐らく、土方が事件以降ずっと感じていた勘の正体であり、日常に知らぬ内に差し挟まれていた違和感でもあったのだ。
 思えば、この時点で、土方は慎重に事を運ぶべきだったのだろう。
 佐久間邸の一件から、近藤には警戒を促したその癖、自分は果たしてどうだっただろうか、と問えば、謀を寧ろ待ち望んでいた感さえあった、のだと思う。
 この状況を利する事で、あのいけすかないエリート様に反撃の一つでも食らわせてやれないものか、と考えたのは間違い無い。次いで、どうせ奴さんは自分と銀時との関係も知っているのだからと、警戒は怠りはしなかったが、躊躇う要素にはせず、いつも銀時と落ち合っていた居酒屋へ足を運んだ。まさか、肝心の佐々木当人が自分を襲撃するなどと、考えもしない侭。
 挙げ句が、この様だ。
 (……また俺ァ、逸って見誤ったってのか?)
 これでは佐久間の時とまるで同じではないか。己の無様と油断とが原因で、次から次に碌な事を運んで来ない。
 逆に。銀時と逢瀬に至る流れがなかったら、今こんな事になっていなかったのだろうか、と思って、いや、と直ぐに否定する。
 どちらであっても、どうあっても、恐らく結果は同じだった。何しろ、佐々木はわざわざ『銀時と会った後』を狙って、土方を拉致しているのだ。銀時の関与を望まなければ、土方が単独行動している時か、真選組の隊士と居る時を狙っていただろう。
 銀時の現状を想像すれば、土方の拉致の直前、最期に接触した人物として、第一容疑者扱いは免れない。或いは、それこそが佐々木の目的だったのだろうか、と考え、いや、とこれもまた直ぐに否定する。
 少なくとも、土方の拉致を目論んで命じた者は、銀時の様な一般市民の介入者など好まない筈だ。土方の推測が正しければ、『犯人』は幕臣の何某でなければならないからだ。
 坂田銀時、ではなく、白夜叉、と言う攘夷志士を陥れる為、と言う可能性も無きにしもあらずだが、生憎、万事屋の坂田銀時と、攘夷戦争の英雄であり戦犯である白夜叉とをイコールで結びつけられるのは、今のところの関わりの中では佐々木(と見廻組の一部の人員)と土方(と真選組の一部の人員)しかいない。
 そして佐々木が報告書の一切に『白夜叉』の痕跡を残さなかったと言う事は、佐々木は幕府内にその存在を知らしめようとは考えていない筈なのだ。
 それがエリート様の頭脳がどう利害を考えた結論なのかは未だはっきりとは知れないが、当面の所、坂田銀時と敵対する意思はないと言って良いだろう。
 では、何故銀時を巻き込む形で土方を拉致する、などと言う真似をしたのか。土方の拉致に纏わる、佐々木の『上』の目論見とこの一点だけは決して相容れぬ筈だ。
 つまりは、銀時を巻き込んだ、と言う点だけは、佐々木の独断と言える。
 諳んじれば実に忌々しいことこの上ない。銀時への信頼が無い訳ではないし、己の独りよがりで『巻き込んで仕舞った』と悔いる心算もない。佐々木が一体『何』を目的としているのかが、やはり知れないだけだ。
 ただ、どうせ碌な事ではないのだろうとは思う。佐久間邸での、言い様に利用された事を思い出してみれば尚更、あのエリート然とした男が、誰もが平和に全て鞘に納まる、などと言う楽観的な思惑など抱く筈もないのだから。
 (……これじゃまるで、)
 大阪の煉獄関の再現の様だ。土方の短慮に端を発して、望まず銀時を巻き込んで、挙げ句自らの失態で囚われの身。
 この状況そのものが佐々木の目的なのか、或いは偶々そうなっただけなのか、それとも自分の考え過ぎなのか。何れとも、今は言えないが。
 銀時の憤慨を想像すれば、益々に己の不自由さが気に懸かる所ではある。と言うより、万が一にでも助けになぞ来られる前に、出来れば自ら逃げ出して仕舞いたいのが本音だ。これ以上の無様は願い下げなのだから。


 土方には、特別佐々木異三郎と言う人間を警戒ないし嫌悪するからこそ抱ける感情がある。それはある種の信頼──否、確信だ。
 策を弄し自らの定めた目的の為に動くだけの力と、頭脳と、権能。人脈。財力。それらを併せ持ち余すことなく使える男が、他者に容易く踊らされ使われる筈もない。
 あの男は自らを組織の歯車などと言っていたが、真に歯車たる者は、自らが歯車である事なぞを知りはしないものだ。歯車である己を客観的に俯瞰出来る──それが、組織そのものを掌握出来る者であるのは当然の道理だ。
 あれは、歯車でありながら、頭脳だ。権力そのものを操る者より、それを御する事も本来叶うだけの傑物だ。
 先立っての、佐久間の屋敷での会話を思い出す。
 ──「土方さん。アナタが、この国が盤石な国家足り得るともしも思うのであれば、それは紛れもなく愚鈍な人間の怠慢ですよ」
 (………そんなな事ですら、テメェにゃどうせ些事でしか無ぇ癖に、抜かしやがる)
 現政権派だの、一橋派だの、国家の安泰だの。あのエリートが見据えているものは恐らくそんな所にはない。
 佐々木に土方はいちいち食ってかかってはいるが、現状こうして良い様に掌中で転がされっぱなしなのが、悔しく。情けない。
 土方は佐々木の事を過小評価する心算はない。一度剣を向け合い対峙した、あの一件で既にその底知れぬ器と言う正体は知れている。肝心の器の中を覗き込む事は未だ到底叶ってはいないが。
 故に。佐々木がノーリスクで土方をここに拘束している訳でも無い事は承知で、その上でそれを完全に隠蔽出来るだけの幾重もの防衛策は敷いてあるのだと。確信がある。
 だが。これが佐々木の布陣で完全な敗北だとしても。首を落とされ投了になるその時まで、土方に抵抗を止める心算はない。己と、真選組と、その遵守すべきものだけは、仮令首に刃を押し当てられたところで易々諦められる訳など、無い。
 それが、真選組副長として、土方十四郎と言う人間としての、本能である以上。
 燻る苛立ちを紛らわす様に後ろ手をがちゃがちゃと鳴らせば、傷の一つや二つ出来ているのだろう手首が金属の輪に触れてズキリと痛んだ。
 よく、関節を外して縄抜けをする、などと言う芸当があるが、手首そのものに嵌められた手錠に対してはそれも無意味でしかない(そもそも土方は縄抜けの技術を習得している訳ではないのだが)。警察で使われているのは手のサイズに合わせて輪の大きさを調節出来るタイプの手錠だ。近年天人による犯罪も珍しく無くなっているので、手の形質が人間の形をしていないものに対しても扱える様にと言う理由で導入されたものだ。手首に通す輪を手のサイズより小さく調節されて仕舞えば、拳を握ろうが開こうが、指や手首の関節をブラブラにしようが、抜けはしない。
 それでいて更に、後ろ手と言う自由を完全に奪うスタイルだ。佐々木が警察として他者の捕縛と言う作業に長けている、と言う点を除いた所で、これ以上は無い程に解り易い捕まり方としか言い様がない。己を無様に感じるのを通り越して情けなくすらなる。
 だが、何かの拍子に鍵が外れるとか、輪が壊れるとか、鎖が割れるとか。そんな偶然が起きはしないだろうかと特に期待もなく思って、がちゃがちゃと音を鳴らしながら不自由な腕を動かしてみる。
 雨音に混じるそれが余程耳障りだったのか、或いは単に呆れたのか。背後の手錠と格闘する土方を正面に見据えた侭、黙々とドーナッツを頬張っていた信女が不意に口を開いた。
 「そんな事をしても無駄。異三郎はアナタに無用な傷を負わせる心算は無いんだから、大人しくしている方が利口だし、私も助かる」
 そう、己の無表情同様の淡々とした調子で言って、ドーナッツの最後の一欠片を口に放り込む。それで空になった箱をぽいと無造作に放ると、新しい中身の詰まった箱を手に取る。その一連の動作の間は、土方へまるで注意を払っていない風に見えるが、隙を衝けそうな要素も一切無い。
 「テメェの面倒が減った所で俺にゃ何のメリットも無ェし、第一その保証自体眉唾だろーが」
 「少なくとも、無駄に傷を負わないで済むと言うメリットがある」
 ぶすりと吐き捨てれば、淡々と、手に刻まれた傷以上の効力を持った信女の正論に突き刺される。
 正直な所を言えば、幾ら武装警察の副長職に就き、それなりに腕に憶えのある成人男性だからと言って、捕縛の意図を明確に拘束されていれば何も出来やしない。
 だと言うのに、佐々木は自らの片腕と言う些か過分に感じられる見張りをわざわざ残して行った。
 そしてそれは、土方に対する順当な警戒や買い被りでは無く、単に、他に適当な人手が無かったから、と言う程度の理由で行われたに違い無いのだと、信女の様子を見るだけで知れる。そこは土方にとって不満である上、苛立ちを現状以上に募らせる要因ともなっていた。
 黙々とドーナッツを消費して行くそのイキモノとの意思の疎通など疾うに諦めているが、黙って忠告に従った形になるのも癪で、思わず反駁の要素を探さずにいられない。
 「そもそも俺ァ、あの野郎とは永久に解り合える気がしねぇんだよ」
 すると信女は、何故か不思議そうな──心底と言える──表情になった。ぱちくり、と瞬きを二度。
 「でも、異三郎はアナタを敵とは思っていない」
 余りにさらりとした一本調子は、今日は雨です、と言うのにも似た、事務的且つ簡潔且つ、嘘のない言葉だ。土方はそんな事を直感的に思って仕舞ってから、顔を顰める。
 「こっちにゃ充分敵でしかねェわ。現状見やがれってんだ」
 敵では無いと、まあ一応建前は同じ警察同士だ、思ってても無理はないが、と土方は無理矢理納得を捻り出しつつ、肩に込めていた力を不承不承に抜いた。
 「もしも、異三郎がアナタを敵だと、目障りだと思っているのだとしたら」
 刹那。喉元に銀色の閃きを土方は見た。
 「──!」
 いつの間にあの長い刀を抜刀したのか。土方の眼前に水平に、信女の構える刃が、酷く冷ややかな温度で突きつけられていた。
 これで二度目の死だ。冷や汗すらかく暇もない、一瞬の出来事。
 すい、と信女は刀を無言の侭引くとその侭、持っていたドーナッツの残りを、硬直している土方の口に無理矢理押し込んだ。
 「私は今頃ドーナッツじゃなくて刀をアナタの口に押し込んでいる」
 「………」
 何でも無い様な表情で、恐ろしい事をさらりと言って除けてくれる。
 薄ら寒い感覚を振り切って、土方は半ばやけくそな気持ちになりながら、押し込まれたドーナッツごと奥歯を噛んだ。
 ひょっとしたらこれは信女の口に合わない味だったのだろうか。そんな、小豆の味のする口の中の異物に顔を顰めつつも、吐き出す事も出来ずに土方は無理矢理顎を動かして咀嚼した。水分がないので辛かったが、なんとか嚥下出来た。
 それから、何事も無かった様にこちらに背を向けて元の位置へ戻って行く信女の背中に、溜息混じりに投げてみる。無駄と思いつつ。
 「少なくとも、信頼の無ぇ関係なんざ、『敵じゃ無ぇ』って以上の事にはならねぇ」
 がしゃん。と鎖を態と鳴らす。これは──現状は少なくとも、敵か、どうか、と言う以前の問題だ。
 すると正座し直した信女が、新しいドーナッツの箱を探りながら言う。これもやはり、何でも無い事の様に。
 「白夜叉は?」
 「あ?」
 「あの男はどうなの。全面的な信頼がある関係と言う風では無かったと、異三郎は言ってたけど」
 「…………」
 問いの意味が解らなかった訳ではなかったが、思わず黙り込む。
 信頼は、意思があるかどうかの意味では、している、と断じるには少々躊躇いがある。信用は、多分ある程度までならあるが。あるとすれば、佐々木に感じるものと同じ、確信だけだ。コイツは裏切りはしないだろう、と言う確信が、戦いの最中でも平然と銀時に背を向ける行動に直接繋がっただけの事だ。
 (て言うより、信頼と言う次元を最早越えている気はしているんだよな。アイツが俺で俺がアイツで、的な?)
 「………」
 尚も沈黙。それを信女にどう伝えれば良いのか、否、伝える必要すらそもそも無いのではないかと、土方は己の思考に対して怪訝そうに顔を顰めた。一応信女の方を伺ってみるが、問いの様なものを投げた張本人は、土方の寸時の沈黙を答えと取ったのか、もう興味など無い様に──或いは端から興味など無かったのだろう──ドーナッツの咀嚼作業に戻っていた。
 それを暫しの間見つめて。更に少しの間考えてから、土方は半ば投げ遣りに口を開く。
 「テメェにとっては、佐々木の野郎が信頼の置き処か」
 すれば、即答するかと思われた信女は、ほんの少しの間を挟んでから簡潔に。
 「アナタの言う『信頼』の意味で良いのなら、間違いなく」
 「………」
 会話するには僅か遠すぎる様に感じられる距離。その狭間で見合った侭、土方は何も言わなかった。答えに窮したから、と言う訳ではなく、これ以上は無駄だろうと単純に思っただけだ。
 実に明確過ぎる答えだった。敵ではなく味方。信頼を置くにはそれだけで充分。そこには土方が銀時に抱く様な複雑に絡まった面倒な思考は一切存在しない。
 一体どう言う経緯があるのか、事情があるのかなどは知れないが、ともあれ今井信女は佐々木異三郎を信頼しない事も無ければ、裏切る事も無いと言う事だ。
 「そいつァ、佐々木の野郎の命令にただ諾と従うだけの愚昧って意味か?そこに、テメェ自身の意志や大義、信念みてぇなもんは何か──」
 思った時には、意識せずにぽろりと口から言葉が落ちていた。別に挑発の意図があった訳ではない。誓って、ただ純粋な疑問だっただけだ。
 信女がぴたりとドーナッツを咀嚼する動作を止める。その無表情の向こうに、佐々木の平坦な顔を思い浮かべて、土方は何故か信女が怒りらしきものを顕わにするのではないかと、そんな事を思って、そこから続く想像には少しばかり後悔した。
 何しろ今の自分は虜囚だ。信女が少しばかり苛立ち混じりに刀を暴力として振るったとして、甘んじて受け入れるしかない。先程の様に首を落とされる寸前ぐらいは。近い事ぐらいは。覚悟した方が良いだろうか。
 「………」
 それが虎の巣を突いた愚者の責任だろう。思って、無言の侭こちらをじっと見つめて来る、信女の熱のない瞳を、土方は特に弁明もせずにただ睨み返した。
 ところが、元通りドーナッツを食べる手つきを再開させた信女の言葉は、土方の概ねの予想を裏切る程に淡々としており、熱どころか意味さえも無いものだった。
 「悪いけど、そう言う暑苦しいものに興味も共感も理解もないの」
 言って、ぱくりと、片手にまだ残っていたドーナッツの一欠片を口に放り込んだ。味わう様にゆっくりと咀嚼してから、続ける。
 「私は異三郎の剣。それが役割。自分で考えて、自分の意志で動く刃。それをもしも愚昧だの愚鈍だのと言うのであれば、それはアナタにもその侭返る事でしょう。真選組の副長さん」
 アナタは真選組の剣だと自らを示しているのでしょう。そう短く繋げる。
 「──、」
 それが、信女が怒りを覚えるやも知れぬ、と思った事の原因か。気付いた土方は出掛かった反論を呑んで押し黙る。
 つまりは、意味や立ち位置、信念や目的を異にすれど、剣で在ろうとする務めを自らに感じていると言う意味の一点に於いては、土方と信女は似ていると言えた。
 己ならば、その意志を蒙昧故のものと嘲られたら、寸時怒ったとして直ぐ様笑い飛ばすだろう。それは意味の知れぬ者には、理解の無い者にはどうでも良い事だからだ。
 それが信女曰くの暑苦しい事かどうかはさておいて、少なくとも他者からの客観的な評価などどうでも良い。刃は常に切れる為に存在して、抜かれる時を感じたならば躊躇わないものだ。
 今井信女は、佐々木同様に得体の知れない存在だ。だが、佐々木と同様に人間であり、相容れない種類の人種であったとして、理解出来ないと端から諦めるのは些か早計だっただろうか。
 謝罪したい、などとは死んでも思わないが、どことなく居心地の悪さを憶える土方の前で、信女は抱えていた箱を横に置くと、未開封のドーナッツの箱の山からまた一つ別の箱を取り出した。中から一つのドーナッツを摘み上げる。
 きつね色の、団子が連なって輪になった形をした生地に、薄黄色のグレーズの様なものがかかっている。
 ぴく、と土方の鼻が僅かに、嗅ぎ慣れた酸味を捉えた。
 まさか、と信女を──正確にはその手にしているドーナッツを見遣る。熱視線と言っても良い。
 確かに朝から僅かの水分以外のものは口にしていない。そこにこの香しい匂い。胃と、食物を待ち構えている腸とが抗議する様に収縮するのを感じて、土方は思わず唇を噛んだ。
 「……………季節限定、店舗限定のマヨデリング」
 ぽつり、と信女が呟く。
 「欲しい?」
 ことりと首を傾げて問われ、土方はぐっと息を呑んだ。確か一部店舗で何種類かの販売がされていると、CMだか広告だかで目にした憶えはある。ドーナッツなぞ自ら買いに行けるとは思っていないので、山崎か、はたまた銀時辺りを頼るべきだろうかと僅か考えたりしたのも、記憶に新しい。
 否、事前知識がなくとも、生粋のマヨラーである土方がマヨネーズの匂いを嗅ぎ間違える筈などないのだが。
 別に耐え難い空腹と言う訳でもないが、目の前に大好物と言っても良い、マヨネーズに関わる餌がぶら下げられた形だ。躊躇いや誘惑ぐらいは感じて当然だろう、人として。多分。
 ここに至るまでの空気の善し悪しはさておいて、意地の様なもので、土方には是と頷く心算もなかった。無かったが、無い事に葛藤があった。
 数秒の、嘗てない様な懊悩の末、信女はぱくりと、ドーナッツを無理矢理一息に自らの口に押し込んだ。
 「あげない」
 もごもごと不明瞭な声音がそう冷たく告げるのに、土方の頭の中から血管がぶちぶちと鳴る音が聞こえた。
 「っこ、こンのドSがァァァ!つーかテメェやっぱ怒ってんだろ!興味無いだの抜かしておいて、バリッバリに気にしてんじゃねーか!!」
 「違う。興味が無いのはアナタ達の暑苦しさにだけ。愚鈍だろうが愚昧だろうが……そんな、手も足も声も碌に出ない負け犬の遠吠えなんか気にしてないわ。ちっとも」
 「気にしてんだろーが思いっきり!!」
 「ちょっと時間が空いたので戻って来てみれば、随分騒がしいですね」
 さらりと言う信女に猶も土方が噛み付いたその時、ごくごく自然に三人目の声がその場に割って入って来た。
 「──ッ!」
 その自然さと、無警戒な己にたちまちに総毛立つ。
 土方がばっと勢いよく柱を回り込む様に半身を振り返らせれば、そこには朝方姿を見せたきりの、佐々木異三郎の姿があった。





ちょっと想定外で生まれたのぶめさんのターン…。15.5て所。

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