散華有情 / 16



 「異三郎」
 ドーナッツを頬張る動きは止めぬ侭、信女。別段用があった訳ではないだろう。ただ音を発するのと同質の響きで呼んだだけだ。
 土方が体勢を無理に捻って伺い見ずとも、現れた闖入者の──本来家の主である者に言うのも妙な話だが──正体を保証する為に。
 「お疲れ様です、のぶめさん。その後何か変わりはありませんか」
 「…特に」
 応える寸前にちらりと土方の方を見て、然し当然の様にさらりと返すと、信女は指を一舐めして次のドーナッツに取りかかった。今度のものはマヨネーズ関係ではない様だ。
 信女の返答など端から是と否のどちらでも構わなかったのか、佐々木は軽く頷いたのみで、僅かの間には気付いていただろうに言及はしなかった。
 相変わらずの嫌味な程に白いコートをなびかせながら廊下を歩いて来る男を、土方は殺気さえも乗せた眼差しで睨み見上げるのだが、当の佐々木はこちらを一瞥もせずにその横を通り過ぎて行く。
 その、平らかな静閑さを形にした様な横顔は、携帯電話の画面からドーナッツの空箱の山へと視線を転じた時だけ、僅かに難しい顔を作った。
 「そうですか。それは何よりです。存外に手間取りまして、もう少し時間が要りそうですが──ドーナッツ、少しは加減して消費して下さい。お代わりはありませんからね」
 「善処する」
 (しねーな、こりゃ絶対)
 土方が思うのに同意する様に、佐々木もまた諦観の意の強い溜息をそこに落として、それから漸くこちらへ身体ごと振り向いた。溌剌さ、覇気、気概などと言うものの欠片も乗っていない、重たげな目がのんびりと、柱に括り付けられた侭の土方の姿を捉える。
 「何か不自由はおありですか?」
 「現状全てだろ。このザマで不自由が無ぇ様に見えたらいっそ凄ェわ」
 しゃあしゃあと問いてくるのに、土方は態とらしく手錠の音を背後で鳴らして応じた。
 どちらも恐らくは嫌味の様で嫌味ではない。佐々木は当たり前の様に訊いているだけで、土方も当たり前の様に応えているだけだ。
 理解が本来無い訳ではないだろうに、齟齬がある。故意的に生まれた永訣に足る『理由』がある。
 「そうですか。では、不自由はおかけしますが、もう暫く堪えて下さい」
 案の定か佐々木は土方の抗議を真っ当に受け取って真っ当に言って寄越すばかりだ。そこには解放の提案は疎か、譲歩の気配さえ感じられない。勿論、嫌味も。
 期待通りで想像通りの佐々木の応えに、大仰に溜息をついた土方は胡座をかいていた足を開き、片足を持ち上げると、ちょいちょい、と目の前の畳を爪先で叩いた。座れ、と言う意味を指すその行動に、佐々木は暫しの間無言で瞬きを繰り返していたが、やがて存外に大人しくその場に正座した。土方の正面、信女を横に見る形になる。
 「何ですか」
 今にも説教でも始まりそうな有り様になっているのだが、不機嫌そうに、と言うよりは、不可解そう、と言った様子で、元通り胡座をかき直す土方を見返しながら佐々木は問うて来る。携帯電話を手の中で弄ぶ、その鼻の頭には僅かの皺。
 「は。いつぞやの、お茶会の仕切り直し、ってェ所だ」
 傲岸に顎をしゃくって、土方。対する佐々木は、お茶会。と鸚鵡返しに一言のみ。お茶会、などと嫌味に示すのは、ついぞこの間、佐久間邸での家宅捜索の為の調整を依頼──結局は佐々木の企みを内包した折衷案が採用された訳だが──しに見廻組のオフィスへ赴いた時の、胸の悪くなる様な一件の事である。
 「見廻組のオフィスに、真選組副長が好んで茶ァ飲みに行ったって言う、向こう百年はありそうも無ェ珍事が起きたかと思えば、それが今度は見廻組局長殿の別宅に、しかも『私用』で招かれてんだ。これ以上は無ェ急接近の挙げ句の逢い引きじゃねーか。ちったァ持て成して行くくれェの作法、エリート様は持ち合わせちゃいねェのか?」
 態と言葉を選んで紡ぐ土方のあからさまな言い種に、然し佐々木は別段怯みもしなければ顔を顰めもしなかった。てっきり、エリートだのと日頃から憚りなく標榜する男だけに、そう言った下世話な冗句は好まないだろうと思っていたのだが。
 佐々木は「ふむ」と顎に手を置いて考える様な仕草をしてから、
 「何をお望みで?」
 そんな事を言って寄越した。これには逆に土方の方が鼻白む。まさか真っ当に聞き入れられるとは、投げておいて何だがこれっぽっちも思っていなかったのである。
 「……まぁ、茶飲み話だな。テメェの目的は一体何だ?何でこんなリスクがある上回り諄い事をしやがる?」
 出端を挫かれる様な形にはなったものの、土方はその事についての皮肉の類を一旦堪え、浮かんだ無数の問いの最上位にありそうなものを取り敢えず投げてみる事にした。
 佐々木の『目的』、或いは『任務』自体は想像に易い内容だ。現状と照らし合わせて考えれば、余程の馬鹿でも無い限り直ぐに理解出来る様な単純且つ御粗末なものでしかない。
 だからこそ──シンプルな目的があるからこそ、何故、土方をわざわざ拘束なぞして、片腕を見張りにつけて、今こうして様子など見に来ているのか。その謎がどうしても残る。疑心或いは不可解さ、と言う意味で。
 昨晩の信女の襲撃の段で、土方の命を断っていればそれでも佐々木の受けていただろう『任務』──詰まる処の目的は十二分に達せていた筈なのだ。
 そして、このエリート然とした男であれば、そこから『先』に土方を生かしておく様な無為のリスクを伴った手数など踏まない。それこそ『確信』めいて土方にはそう思える。思えるからこその、違和感と不快感。
 佐々木の命じられていたのだろう『任務』──恐らく、それは警察組織の粛正と言う現状を利用した、幕府内への一橋派の台頭を目的とした工作だ。
 兼ねてより幕府内の権力争いを眈々と狙っていた彼らは、これを機に、幕府内に潜む古くからの勢力、現将軍を擁する定々公に就く者らの多くを、その座から蹴落とそうと言う様な目論みを抱いているのではないだろうか。
 それが土方の、概ねの推測から浮かんだ解答だ。
 「アナタの今持つ判断材料から考え得る限りの内容で、概ねは間違ってはいないと思いますが?」
 土方が『自分を殺さないのは何故だ』と問いた時点で、その解答に至っていると確信したのだろう。まるで指導をする教師の様な声が、実際解答を口にした訳でもないのに正解を保証する。
 その片眼鏡の向こうで佐々木の目が僅か細められる。笑っているのか、それとも不快なのか、判断の些かつけ難い表情ではあったが。
 「…………考える時間と暇だけは何時間もたっぷり用意されてたんでな。エリート様の駒運びと、テメェらの思い描いていた盤面の全体図は想像がまるでつかない訳でも無ぇ。が」
 そこまで言って土方は肩を竦めた。
 「俺を生かして捕らえる。つまりは人間を一人生きた侭閉じ込めてる事になる。互いに犯罪に携わる身なら、そのリスクも手間も容易なもんじゃねぇ事ぐらいは承知だろうよ。
 その回り諄さが、テメェらしくねェ。そいつがどうにも解せねぇからな。この侭じゃ今生の未練になっちまいそうだ」
 回り諄い。それは策を弄しすぎて徒労に終わるにも似た無為だ。
 土方の考えは、佐々木の遠回しな肯定から見ても概ね間違ってはいない筈だ。つまり結局のところ、話は至ってシンプルなのだ。ならば手段はもっと単純化されていて良い筈だ。
 現将軍が傀儡の存在である事など、幕閣内では誰もが知り得る話だ。その後ろ盾である前将軍定々公が、政治的な意味での権力のほぼ全てを握っている事も。
 定々が幕府内に持ち込んだ権力は、年月を経た今も猶幕閣の内部に根付いて、天人に諂う当たり前の流れと、不正や汚職の温床となり続けている。それを快く思わないのは主にその下の代へと続く勢力達だ。
 老害でしかない前時代の汚れや遺物を取り除きたい彼らは、然しクーデターを起こす程の武力を持つ訳ではない。仮に叛乱を起こしたとして、幕府軍と天導衆に因って速やかに鎮圧されて終わるだろう。国家への、幕府への、将軍への叛逆行為と言う、武家の者にとって最大の汚名を後世まで執拗に刻まれながら。
 故に彼らは『正当な』手段で政権を握る手段を選んだ。即ち、征夷大将軍を徳川定々の息の掛かっていない、自分達の選ぶ御輿に継がせると言う方法である。彼らは一橋徳川家の若君に将軍職を継がせる事を目的に結束した事で、俗に一橋派などと呼ばれている。
 そんな彼らの目的は、未だ幕府内で権力を集約させ、天導衆に飼われ、その権能も位も手放す心算のない定々公の失脚だ。それは肉体的な死でも、社会的な死でも構わない。兎に角、天導衆が新たな傀儡を用意する前に、定々を速やかに葬れば良い。
 そんな最中に起きたのが、大阪城楼閣にて露見した、警察組織に端を発する不祥事だ。主犯は一人の奉行と数名の同胞である幕臣達と言う事で処理され、警察は──現将軍派でもある長官、松平片栗虎は、自らの傷を自ら割く事で、出来るだけ傷を浅く押さえる事を選択した。
 それが警察組織上層部に於ける、此度の大粛正と言う名の一連の処分と人事の数々だ。
 無論、その騒動、千載一遇の機会を静観している程一橋派も馬鹿ではない。彼らは警察組織にも見廻組を初めとする幾つかの勢力を既に送り込んでいる為に、警察組織全体が傾く事は望まない。だが、定々の庇護があって処分を免れた幕臣や、処遇を軽微なものに留められた者らが上に居座り続ける事もまた、望まない。
 その中には土方にも幾つか憶えのある名がある。今回謂わば『ついで』で過去の不正の数々を暴かれた刑事局長級の幕臣の幾人かが、定々に因って罪状を軽減されている(大方、定々と『懇意』にしていた事情でもあったのだろう)。そんな例が他にも幾つか。これを期に『上』の椅子を狙う筈だった一橋派の人間はさぞ歯噛みした事だろう。
 さて、そこで問題だ。
 そんな風に大粛正を『生き延びた』ものの、社会的にある程度ダメージを受けて燻る不満を抱えていたと判断されてもおかしくない連中を、その高い椅子から蹴落とす為にはどんな手段が望ましいだろうか?

 ──この件で不満を抱いていると『思われる』彼らは、その発端となった野良犬がそれらしく功績を頂いて生きる事を許し難い『かも知れない』から、その野良犬に復讐、ないし意趣返しを試みたとしても『おかしくない』。──

 「それ程に──アナタの言葉を借りるのであれば、『らしくない』と感じられる程に、私は回り諄い事をしていると?」
 土方の思考の着地を待った訳ではないだろうが、佐々木が不意にそんな事を口にする。笑みと同質の生ぬるい温度の声音で。
 「少なくとも、テメェの後見人共──一橋派の何某殿が、目障りな現将軍勢力の『誰かさん』達の足下を掬う為の謀でも考えたんだとしたら、そんなのは俺の死体一つで事足りた筈だ。
 存外、未だ連中はテメェが俺をとっくに殺していると思ってるかも知れねぇな?」
 溜息と共に土方はそう、自嘲的な色合いを込めて吐き出した。昨晩既に『殺された』身が何故今長らえて、何故今埒もない思考を繰り返して、何故今何時間も後ろ手に拘束される不自由を味わって、何故今目の前でマヨ味のドーナッツを嫌味ったらしく食されなければならないのか。
 一言で言えば、それは佐々木にとって『無為』であって、土方にとっては解せない『理由』だ。
 今回の粛正で社会的に実害を被って、真選組副長職に就く土方十四郎と言う野良犬一匹に恨みを抱く幕臣が居ると言う、『それらしい』設定。
 そして『それらしく』土方が拉致され行方不明になり、遺体や取引の話が出ない事から拉致そのものを目的とした、怨恨に因る犯罪だろうと『それらしく』推測され、いち早く事件の発覚を掴んだ見廻組が『それらしく』捜査を行い、『それらしく』土方の遺体が対象である幕臣の周囲から発見され、『それらしく』現行犯逮捕された末『それらしく』失脚する。
 それが、一橋派にとっても、その配下として動く佐々木にとっても最適解の筈だ。
 故に──ここまでの土方の考えが全て正しいとすれば、佐々木の現状は背信行為と言っても良いものになる。本来とっとと始末して、件の幕臣やその関係者から、土方の殺害に足る証拠が出ていなければおかしい状況だ。『命令』を完遂するのであれば、そこで事足りている。
 佐々木は土方が問う『何故俺を殺さないで回り諄い真似をするのか』と言う問いを否定しなかった。それどころか、半ば肯定するも同然の応えを返して寄越したのだ。
 ここまで来たら、土方は己の推測が的外れなものだとは最早思わない。佐々木が適当に合わせているだけ、と言う可能性も無い事は無いが、それこそ回り諄い上に意味がないだろう。
 故に。本来の謀への解答が概ねの正解を見た以上、それ以外の事──具体的に言えば現状──が余計に奇妙に感じられるのだ。佐々木が何時間も自らのテリトリーに土方を拘束しておく理由が、まるで考えもつかない。
 「これからかも知れませんよ。偽装工作に手間取っていただけで」
 誘われる様に土方がゆるりと顔を起こしたのは、思考の狭間に落ちてきた佐々木のフラットな声音に、ではない。それと同時に額に突きつけられた黒光りする銃口の気配にだ。
 ひんやりとした鉄の重みが、長めの前髪を掻き分ける様にして土方の額を軽く押している。銃口に圧される様な形で視線をそこから更に持ち上げれば、そこには畳に片膝をついてこちらに顔をぐっと近付けた姿勢でいる、佐々木のつまらなそうな顔がある。
 いつの間に立ち上がって接近したのか、などと言う問題はどうでも良い。銃爪に軽く引っかけられた佐々木の人差し指があと少し指を曲げるだけで、土方の額には確実な死を齎す孔が穿たれると言う、その結果だけが全てだ。
 だが、土方は怯まずに、逆に口角を歪める様に持ち上げた。
 別に日頃から松平に銃を向けられて慣れていると言う訳ではない。弾が入っていないなどと云うミスを期待している訳でもない。
 「……やらねぇよ、テメェは」
 ふっと、嘲笑の吐息にも似た調子で土方が言うのに、佐々木の表情が益々に面白く無さそうなものへと変わる。
 それを見て、猶も土方は続ける。
 「懐刀に見張りをさせて、リスクを承知で生かした。その『回り諄い』作業を、テメェが単なる『無為』で行う筈ァ無ぇ。だからそれには意味がある。だから俺が今生かされてる事にも意味がある。
 さっきも言っただろうが、『らしく無ぇ』ってな」
 珍しくも、寸時佐々木は唸るにも似た表情を作り、それから、つい、と土方の額から銃口を退けた。元通りに拳銃を懐に収め、大仰な仕草で嘆息する。
 「存外に、アナタの思考能力は──いえ、それとも勘ですか?まぁどちらでも良いですが、侮れないものだとは知れましたよ。『らしくない』などと言うものに一体何の根拠があるとお思いなら、銃口を突きつけられても臆さずいられるのか。全く、逆に理解し難い」
 心底呆れたと言った口調だった。実際今し方の遣り取りにまるで恐怖も焦燥も感じていなかった土方は、ふんと小さく鼻を鳴らしてそれをいなす。
 死を畏れるのは知性があるからだ。そして、知性があっても死を畏れないのは、単純にその意味を正しく理解し受け入れる覚悟を疾うに終えた者だからだ。未練の有無ではなく、覚悟の有無だ。
 加えて、土方には『確信』があった。畏れる理由はそれらの中には何一つ存在しない。故に。仮に己の言動が佐々木曰くの『勘』かそれ未満、或いは単なるブラフだとしても。土方は己が銃口の前に臆していたとはこれっぽっちも思ってはいない。
 そんな事実に対しての呆れなのか、或いはもっと別種の感情なのか。佐々木は土方から少し距離を置いて座り直すと、携帯電話の画面に視線を落として、猶も隠さず溜息をついた。大方、野蛮な生活をしていた野良犬らしいとでも思っているのかも知れない。
 「ま、『目的』達成の後にゃ口封じに俺を始末するってセンも充分あるかも知れねぇたァ考えはしたが、テメェは口封じのデメリットより、それを逆に利用するメリットを選ぶ質だろう?」
 にやにやと人の悪そうな笑みを浮かべて続ける土方をじっと見ながら、佐々木は溜息未満の息を吐いた。そうしながら携帯電話を再び見遣って、それからふっと薄く笑ってみせる。
 「存外にアナタも人が悪い様だ」
 「そいつァテメェにだきゃ言われたかねーがな」
 そんな佐々木の態度から、土方はこれが正解の確信だと悟る。
 大粛正が大改革に。最終的な人事がどうなるかの全容は未だ見えては来ていないが、そこに描かれているのは、果たして現政権に有利な絵なのか、それとも一橋派の更なる台頭を許すものなのか。
 (……全く、下らねぇ話だ。疲れるだけで、埒も無ぇ)
 胸中でそう吐き捨てて、土方は苦々しく笑った。
 己のした事。或いはしなかった事。それがこの国の土台と、裏とを揺する波紋の一つとなった事実だけが、結果として此処にある。
 土方が佐久間との取引に応じず、或いは関わらずに居たとして。何れ現政権は一橋派の不要な介入を防ぐべく、何らかの改革を行っていた筈だ。それがほんの僅か早まっただけの事だ。
 佐々木に言わせればそれこそ、この国の土台は盤石などではないと断じる箇所だろうか。
 腐敗政治も汚職も不正も悪しき風習も崩れた道徳観念も、全ては当たり前の様に存在して、当たり前の様に根付き続ける。世代と共に形を変えたとして、歪みは必ず何処かで生まれて、何処かで必ず裁かれていく。
 人間の依って立たされる世界など、脆弱で醜く、そしてシンプルだ。
 (…………或いは。そんなものを変革させる『力』ってのが……、こう言う天才──『怪物』を指すのかも知れねぇがな)
 想像以上に淡々とそんな、それこそ埒もない様な事を考えた土方の視線の先で、佐々木は携帯電話の画面に視線を落とした侭、忙しなく視線を左右へ動かしている。
 (剣で在ろうとする本能も。他者を排斥しようと言う本能も。そう出来る様に与えられた権能も。そうしても良いのだと許す正当性も──全て、手前ェが生きるに当たり前の様を持つ人間として在ろうとする為の、言うなれば……自制心、なのかも知れねぇ)
 力があるから力を律する。智慧があるから智慧を使いこなす。人で在るから人の裡に収まる。言うには簡単だが、間違えずにそれを行えるものは少ない。
 この、三天の怪物の内包する『目的』、『志』、或いは『野望』も。今はまだ、ほんの僅か組織の歯車から外れずにいるだけに、きっと過ぎないものだ。外れずにいながら、こうして己の利なのかとも知れない行動を起こす。容易く。他者を掌中で転がす簡単な作業の様に。
 いつか、この男が。その権能を有する者らが、この国の形をどう変えて仕舞うのか。そんな薄ら寒い想像を、土方は唇を軽く湿らせて紛らわした。
 小さく、覚悟にも似た息を吐いて。
 「で?なんだか曖昧に途切れさせられたが、俺を生かしてまで遂行しようとしているテメェの『目的』は何だ?まさかたァ思うが、万事屋を犯人に仕立て上げようとか言う魂胆じゃあ無ェよな?」
 改めて重ねる問いに、佐々木はちらりと小さな液晶の画面から視線を上げ、土方の顔を伺う様に、じっとりとした目つきを投げて寄越した。
 「…んだ、」
 数秒の注視を受けて、土方が少しむすりと問えば、
 「驚きました」
 との応え。本当に驚いた様な表情を淡泊な顔面に作った佐々木は、
 「今し方知らされたアナタの勘の良さには、どうやらこう言った事項は含まない様だ」
 などと、感心しているのか呆れているのかよく解らない事を淡々と述べて来る。
 「何の事だ?」
 これには心底疑問符を浮かべずにいられない土方が不機嫌さを露わに呻くのに、佐々木はあからさまに肩を竦めて返して来た。何故現状の正しい理解が出来ているのにこんな事が解らないのか、とでも言いたげである。こうなると、小馬鹿にされている様で腹立たしいことこの上無い。
 「まあ、アナタから見た私の評価なぞ端から期待していませんが。あからさまに不信感しか無いと言うのも少々業腹なものですね。
 取り敢えず目先の誤解を解いておきましょうか。私は坂田さんをアナタの拉致や監禁の犯人にしようなどとは思っていませんよ」
 言う割には余り──どころか全く怒りや痛痒なぞ感じていない風情で、佐々木。土方は半ば無意識で眦を吊り上げていた。これではどちらが怒っているのか解ったものではない。苛立ちを形に表す言葉は幾つか浮かぶが、結局何れも口にはしなかった。
 今度は、本気で解答が解らなかったのだ。これ以上の問いも、遮る言葉も、それを肯定する事にきっと、なる。最早単なる意地──と言うか土方の負けず嫌いな性質故か──だが、それは酷く癪だったのだ。
 ただ、佐々木の言葉を拾えば、一つ確かなのは、佐々木に対する土方の認識と、当人の思っている土方からの認識とが、どうやら全く異なるのだろう、と言う事ぐらいか。
 それに加えて、佐々木の言う事を鵜呑みにするのであれば、銀時を犯人に仕立ててしまおうとか言う最悪の展開ではない、らしい。
 これには土方も我知らず胸をそっと撫で下ろす。
 (……にしても、それが佐々木の『個人的な目的』の動機になるってのか……?)
 土方を生かした事も。銀時を巻き込んだ事も。
 佐々木曰くの『認識の相違』とやらがその、佐々木の行動の根幹にあるのだとすれば、土方が頭を幾ら捻ったところで解らない。解る筈もない。
 お手上げじゃねぇか、と不承不承に白旗を胸中で振り回しながら、土方は背後の、己を捕らえる楔となっている柱に後頭部をこつりと預けた。後ろ手で音を鳴らす鎖が鬱陶しい。忌々しい。これさえ無ければ、目の前のエリート様の襟首をひっ掴んで無理矢理に聞き出したい所だ。
(………………いや。佐々木曰くの認識の相違ってのが理由なんだとしたら、それこそ、ンな事したって聞き出せやしねぇって事になるのか?)
 所詮自分は茨ガキで、佐々木は温室の薔薇と言う事なのだろうか。益々以て理解し難い。恐らく理解出来ないと思えば思う程にその溝と齟齬とは幅を拡げる類のものなのだろう。
 柱に寄りかかる様にして溜息を吐く土方を見て、それ以上の質問を諦めたと解釈したのか佐々木は時折かちかちと操作していた携帯電話を、土方の方へと向けてみせた。
 「?」
 それが答えという事ではあるまい。表情だけで疑問符を投げながらも画面へ目を移す土方へと、ご丁寧な説明が添えられる。
 「GPS機能を用いた、端末の位置測定マップです」
 小さな液晶の画面の中には、江戸の町の何処からしい、碁盤の目状に整備された道を示す地図が表示されていた。次いで、その中を赤い光点がちかちかと点滅しながら移動している。
 「?」
 二度目の疑問符を浮かべる土方に、佐々木は肩を竦めながら溜息を吐いてみせた。物わかりの悪い土方に、ではなく、このマップの示す光点に向けて。
 「実は坂田さんに、GPS発信をオフに出来ない様細工した携帯電話を、通話状態にして持たせていたのですが」
 「……仮に万事屋が本当に容疑者だとしても、そりゃ立派な犯罪だぞエリート警官」
 「まあそうなりますね。なのでコッソリとポケットに忍ばせておきました。裁判になったら間違いなく違法な方法で採取した証拠と言う点を衝かれて負けますが、先程申し上げた通り、坂田さんを犯人として法廷に引き出したい訳ではないので別に良いでしょ」
 揚げ足を取られた事をあっさりと肯定しながら、佐々木は何でも無い事の様に続ける。
 「坂田さんも真選組の屯所までは携帯に気付いておられなかった様ですが、どうやらその後何処かで気付いたらしく、どうも、誰か別人か車か……少なくともご自身ではないものに携帯電話を押しつけたみたいですね。動きが妙だ。まだかぶき町周辺を動いている、と思って油断していました」
 ヤレヤレ。そんな風に両肩の高さに掌を持ち上げるジェスチャーをする佐々木へと、土方は胡乱な目を向けた。
 佐々木の見せている携帯電話に表示されたマップは、成程言われてみればかぶき町の付近の様だ。ここに表示されている光点は、本来銀時の居所を、佐々木曰くのコッソリとポケットに忍ばせられた携帯の在処として示していた、と言う事になる。
 過去形で。
 何となく結論が聞こえて来ていた気はしたが、一応問いてみる。
 「…………つまり?」
 佐々木は、銀時の動きを見張っていた心算が、実は出し抜かれていた、と言う事になる。と言う事は、佐々木の『個人的な目的』には銀時の動きを掌握している必要があったと言う事だ。
 「見失ったと言う事です。坂田さんが今何処を、アナタを探して回っているのか。それとも」
 そこで佐々木は態とらしい含みを持たせて言葉を切った。ぱたん、と土方の鼻面の近くで携帯電話を閉じて、元通り懐に仕舞い込む。
 そんな佐々木と土方とを、先頃からドーナッツの咀嚼に夢中になりながら、ただじっと見ているだけだった信女が、不意にぴくりと片眉を持ち上げた。頭を庭の方へ向ける。まるで臥していた獣が警戒し伸び上がるかの様な仕草だ。
 「異三郎」
 今度の呼びかけは、明確な確認だった。
 「ここは、私が少々迂闊だったと言うべきですね。坂田さんの居所を見誤ってアナタの様子を見に来て仕舞うとは、エリートにあるまじき愚行でしたか──いえ、それもまた、都合の良い流れだと取るべきか……」
 信女を振り返った佐々木の口元に、ふ、と剣呑な笑みが浮かんだ。土方は知らぬ事だが、それは佐々木が、鉄之助の一件が落着した時に立ち去る真選組を見送っていた時に浮かべた表情と良く似ていた。
 珍しいものを見る様にそれを見上げる土方をちらりと一瞥しただけで、佐々木はそれ以上は何も言わずにその場に立ち上がる。衣擦れの音と共に、ひらりと白いコートの裾が揺れた。
 「土方さん。雑草とは根刮ぎ抜かないと意味が無いんですよ。どの様に綺麗な花園でも、庭園でも、雑草一本、害虫一匹が残っているだけでその全てが台無しになる事もある」
 唐突にそんな事を、まるで台本か何かを読み上げる様に諳んじる、それは、今し方までの土方の問うていたものに対する答えでは決して無かった。無い様に聞こえた。
 「そして雑草は、生える場所を選びはしない」
 まるで。一橋派にも──或いはエリートの間にも、『雑草』は生えるのだと。そう言いたげな。
 嘲笑にも似た響きに、土方は訝った。この男が言わんとする事の輪郭が、ほんの僅か掴めそうな気がしたのだが、それは何もかもを根幹から──少なくとも土方の想像する佐々木異三郎像を、不快に似た方向性で打ち砕く事になりかねない予感がした。
 それは正しく、『認識の相違』の生んだ食い違いやも知れぬ。だが、土方はそこに横たわる本質を覗き込む事を早々に断念した。同じ警察だとか、そんな建前は確かに必要だ。そうでもなければ、この怪物そのもの、より、この怪物のする事、に対して、何らかの是を、同意を与えるばかりの屈服になりかねない。
 それは危機感だったのか。それとも、単なる意地だったのか。正体を量りかねる土方を余所に、佐々木は雨に打たれ続けている、荒れた枯山水の庭をじとりと見遣った。
 「泥の中で藻掻く魚だからと言って。飼い主の手を噛み千切る狂犬だからと言って。全てを無用だと払うには勿体ない。
 土方さん、アナタの言う通りです。私は危険を冒してまでデメリットを得るぐらいならば、寧ろそれを利してメリットにする事を選ぶ質の人間ですよ」
 一瞬の、そんな佐々木の皮肉気な微苦笑を垣間見た、そこに。ちゃき、と鯉口を切る音が無粋に響いた。
 信女が無造作な様子で片手に携えた刀の鞘から、にぶい銀の色が僅かに覗く。
 見据えるは、雑草の蔓延る雨の庭。

 「よォ、局長サン?困るね、ウチの可愛い子のお宅、門限厳しいんだわ」

 そこに悠然と現れる、曇天の色した髪の。





20まで終わるかな…終わらせたいです(願望

/15← : → /17