散華有情 / 18



 土方の職業は曲がりなりにも『警察官』だ。だが彼は自身の職務と役割とを、解り易い上に安っぽい正義を行使する意味と取られがちな、そんな呼ばれ方をする事は実は余り好きではない。
 本音を言えば『侍』と名乗りたい。だが、廃刀令が出されて身分社会の構造の著しい変化を遂げた現代では『侍』と言う言葉は前時代の遺物に等しいものでしかなく、その名を持つ身分も階級も存在しない。かと言って自らを『侍』であると喧伝するのは寧ろ警察が取り締まるべき攘夷浪士の側に多いのが、皮肉にも現実である。
 自分たちは『侍』になるべくして、この江戸の街へ来たのだ。『警察官』になりたかった訳ではない。
 ただ必然的に、佩刀を赦された身であっても武家の出自ではない事から、法を遵守しお上と民の安全とを護る守護職として与えられた職業名が『警察官』となっただけの事だ。
 当初それについての不満めいた愚痴を近藤にこぼした時には、「侍とは心で成るもんだ。侍なんて身分証がある訳じゃねェし、刀を差せば侍って訳でも無ぇ」などと、解る様で解らない論を通された。当時は本当に解らなかったが、今ならば解る。
 自らを、国を憂う真なる忠義心を持つ侍であると声高に吼える攘夷浪士を見る度、『侍』とは何なのだろうと思う。近藤の言う通りのものなのかも知れないし、或いは警察と言う名前に変わっただけのものなのかも知れない。
 そんな権力に保証された身分や役職や名前が欲しかった訳ではない。自身を侍であると自負するのは簡単だが、それを証明するものは持たない。
 結局土方の最も望ましいと思えた解答は、自らを『真選組副長』と名乗る事だった。
 自負する『侍』でも、与えられた『警察官』でもなく、己は真選組の副長なのだと定義した。『侍』と言う偶像の姿を見定められない侭、自分は『そう』在りたい事を願う一振りの刀にも等しい、役割だけの存在で在る事を決意したのだ。
 だがある時、その観念を根底から覆した男が現れた。
 ただ、直感的に。男を見た時に抱いた感想こそが、土方の抱いて来た『侍』の有り様だった。
 犯罪者スレスレの所に立っている、飄々として掴み所の無い男は、いつだって土方にとっては羨望や憧憬にも似たもどかしさを自覚もせずに与えて来たし、それ自体は距離の接近した今も変わらない。
 だがそれは同時に、土方の内罰的な自己嫌悪と懊悩を深める存在でもあった。
 あの『侍』を前にすると己など、『真選組副長』など、侍にも足りぬ『警察官』と言う与えられた役職と肩書きだけの存在だと強く実感せざるを得なくなるのだ。
 そうして。これが憧れで、届かぬもので、惹かれるものであると強く認識した時──それが焦がれるにも似た殺意と同等の、慕情であるのだと、知った。
 「──っ、」
 或いは、だから、なのか。雨に煙る庭に悠然と佇む、目立つ銀髪と対照的に、珍しくも真っ黒な装束と言う佇まいの男の事を、土方は真っ向から見返す事が出来なかった。
 土方の近くに佇んでいる佐々木は動かない。縁側に程近い位置に居る信女が、鯉口を切りかけた姿勢を低く保って身構えて、指示を待っている。もしくは侵入者の不用意な動きを。
 僅か顔を俯かせた土方の方を佐々木がちらりと見下ろしている気配。何かを言おうとしたのかも知れないが、結局何を言う事もなく、先に動いたのは侵入者である銀時の方だった。
 「何せ広い家だったもんでなァ、呼び鈴見つからなかったから、悪いたァ思ったけどよ、勝手に上がらせて貰ったわ。あと、見廻組(お前ら)ん所訪ねんなら礼儀で、ってんで、」
 ごそ、と袖に手を引っ込める銀時に、信女は姿勢を低くした侭油断なく視線を向けている。まるで追う許可を飼い主から待つ猟犬の様だ。
 「コレ土産にしろって──」
 銀時の言葉は最後まで続かなかった。猟犬は取り出されたものを目にした瞬間飼い主も警戒も、或いは人間である事も忘れて跳躍するなり、銀時の手から、曰く『土産』を奪い取ると雨の庭の隅へと逃げる様に飛び退る。
 ……言うまでもない。土産とはドーナッツの袋だった。
 雨に濡れる事などまるで気にする事もなく、信女はまるで生者に群がるゾンビの如き勢いで紙袋を引き裂き中のドーナッツを頬張り出す。
 「……マスタードーナッツのものでは無い様ですね。マスタードーナッツ製のもので籠絡される事が無い様にと言う意味も含めてこれだけの量を用意したと言うのに……これもまた、迂闊でしたか」
 言う程悔やんでいるのかも判然としない調子で、佐々木が溜息をつく。ドーナッツ自体ならば未だ部屋に何十箱かは残っていそうに見える。が、信女は銀時の持って来たものがそれとは別の店のものであると言う点に惹かれたらしい。違いなぞ土方には解りはしなかったが。
 いきなり出会い頭に『土産』を奪われた形になった銀時だったが、空いた手と、がつがつとドーナッツを口に詰め込んで行く信女とを見比べてから肩を竦めてみせた。
 「沖田くんからのアドバイスなんだけどな、コレ」
 そんな爆弾発言とほぼ同時に、信女が庭中をごろごろと転げ回った。珍しくも無表情を崩した凄まじい形相で、顔を真っ赤にしてじたばたとのたうち回って暴れている。
 雨の中。なかなか凄惨な光景であった。暫しそれを見つめ、佐々木は露骨に嫌そうな顔をする。
 「……大方、タバスコでしょうか。一体どれだけ盛ったんですか。あの子はドーナッツの形をしていれば大概のものは平気なんですが…」
 仮令それがマヨドーナッツと言うキワモノであったとしても、と続けるのを耳にして、土方は自由になっている両足を思わず伸ばしていた。
 突如足下に掛かった力に、佐々木がきょとんと目を開けば、伸ばした足を絡める様にしてがっちりとホールドしている土方の姿に出会う。
 「マヨネーズに対しての暴言は聞き捨てならねぇ」
 ぶすりとした表情と低音とでそんな事をまるで地獄の亡者の様に吐く土方を見て、のたうち回る信女が未だ無力化されている事を確認した銀時が土足の侭でずかずかと上がって来た。
 「コラ、はしたない事してんじゃないの」
 こちらも同じぐらいに低音で、どうしたものかと立ち尽くしていた佐々木を押し退けて、しっし、と追い遣る様な仕草をしながら言う。
 「無事か?」
 見ただけで解っているだろうに、一応はそう問いて、銀時はしゃがみ込みながらさりげなく、乱れた土方の着物の裾を直した。それから頑丈な柱と手錠とを確認して、僅かの距離の所に佇んでいる佐々木を油断なく見上げる。
 「……」
 応えはしなかった。土方は至近距離になった銀時から、自分でも不自然だと思える態度で目を一度逸らしてから、こそりとその横顔を見遣る。
 今、沸き起こったのは歓喜ではない。どちらかと言えば、『無事か』とそう問われた時に、その声に確かに案じるものと安堵とを聞き取って仕舞ったが故の、情けなさだ。
 また、この男を巻き込んだ。また、この男に助けられた。
 『侍』として憧れたその距離が近付けば近付くだけ、土方の裡にはそれと掛け離れた齟齬がじわりと沸き起こる。
 男と対等で在りたいと願ったのは誰在ろう自分自身でしかないのに、その自分自身こそが、男と対等ではいられない。
 その齟齬が、遠くなる距離感が、後ろめたい様な自己嫌悪が、いっそ、白も黒も勝ちも敗けも支配も隷属も、はっきりして仕舞えば楽なのに、などと。時折思わせずにはいられないのだ。
 (……情けねぇにも程があんだろ…)
 『士道』と殊更に強調した、己の小さな虚栄心が、嘲笑う。
 『侍』になれず、敗けて、焦がれて、護られて、助けられて、組み敷かれて、赦して。──諦めて。そうして見上げた『先』にあったのは、己のちっぽけな矜持をこれ以上砕かないで欲しいと言う懇願だった。
 狡ィよ、と呻いた男は、きっとそんな土方の懊悩には気付かなかったに違いない。
 だが、それで良いとも思う。
 フェアではない。諦めと妥協の果てで、握って、握り返された手の中に、それ以外の選択肢も可能性も全て棄ててきたのだから。
 答えず目を逸らした土方が、密かに盗み見ている事など疾うに気付いているのだろう男は、それでも振り返りはしてくれなかった。──安堵する。
 そこに、そっと息を吐く土方の耳にも聞こえる様な、嘲笑の気配。
 「坂田さん。一応これは不法侵入と言う事になりますが?」
 ついでに毒物混入の過失傷害、と、未だ庭をのたうち回っている信女の方を寸時振り返って言う佐々木を、矛先を突きつけられた銀時が剣呑な態度で見上げる。
 「俺が不法侵入ならテメーは立派な拉致監禁じゃねーか。人んチの子、勝手に連れてかねーでくんない?さっきも言ったけどこの子門限厳しいから。箱入りのお姫ィ様だから」
 何が箱入りで誰が姫なんだ、と反射的に嘴を挟みかけて土方はなんとか留まる。視線の先の銀時の横顔が、巫山戯たその調子とは裏腹に怒りを孕んでいる様に見えたのだ。
 飲み込んだ言葉の行く先を失って、土方は顔を顰めた侭無言で銀時と、その向こうの佐々木とを見上げた。
 「何かを勘違いされている様だ」
 ふう、と佐々木が肩を竦めてみせる。態とらしい所作に続くのは、台本を読み上げる様な態とらしい言葉。
 「土方さんは私に自らの誘拐の罪を着せようと、ご自分でそこに留まったんですよ?その手錠も彼自身の所持品です」
 言われて、反射的に柱を通して後ろ手に繋がれた手錠を鳴らす。警察の支給品だとは思っていたが、佐々木の弁が確かならばどうやらこれは土方の所持していたものらしい。非番の時にも念の為に持ち歩いているからそれは有り得ない話ではない、が。
 自分の所持品で動きを封じられるとは、結果だけを見れば実に救いの無い情けも無い話だ。反芻して土方は態度には出さずに溜息をついた。それとほぼ同時に銀時が、こちらは音にあからさまにして「はぁ」と溜息を吐いてみせる。
 「あのな。確かにこの子Mッ気あるけどな、手前ェから拘束監禁プレイを申し出る程餓えさせちゃいねーっての。そこまで銀さん甲斐性無しじゃありませェん」
 「……もうテメェは黙ってろ」
 無駄に得意気に自慢にもならない──しかも聞き捨てならない様な内容だ──事を口を尖らせて言う銀時を殴り飛ばしたい衝動に駆られながら、土方はがくりを肩を落として呻いた。自らを後ろ手に拘束しているこの金属の輪さえなければ、間違いなく黙るまで殴っている所だ。
 これ以上この馬鹿に喋らせているといらない事どころか、ある事無い事吹聴しだしそうで本気で困り果てる。そう思いながら土方は手錠をがちゃがちゃと鳴らした。外そうと足掻いた訳ではなく、注意を惹く為にだ。
 余りエリート好みでは無さそうなあからさまな話題にか、ほんの少し眉を寄せている様にも見える佐々木の顔が音に誘われこちらを向くのを待ってから、土方は意識して皮肉気な笑みを形作った。ふんと息を吐く。
 「まぁテメェの予定通り、『証拠はない』って所だろうな。残念な事だが、確かに今の俺にゃ『手前ェが俺を拉致の挙げ句拘束ついでに監禁した』っつー証拠は用意出来そうも無ェ。ここまでの状況なら、何かと気に食わねぇエリート様を陥れる為の俺の自作自演だ、と言い切る事も可能だろうよ」
 佐久間邸にて見廻組の『失態』の理由として扱われた事を腹に据えかね、監察を監視につけた挙げ句、拉致をされた振りをする。こちらの方が、佐々木が理由もなく土方を拉致監禁したと言うより余程筋が通って聞こえるから質が悪い。タイミングも悪い。
 手元には何の材料にもならない弱い手札しかない。そう手の内をあからさまに示してみせる事で相手の油断を誘う意図はあった。だからこそ殊更に負け惜しみじみた言い回しを選ぶ。
 土方の身には意識を失っている間もその寸前にも、目立った『害』は与えられていない。佐々木がわざわざ土方を身動きが取れぬ様に、然し単独でも出来ただろう簡単な方法で拘束して信女を見張りに置いていったのは、土方が逃げ出すと言う事への懸念よりも、無用な傷を残す面倒を負わせない様にと言う配慮の意味合いが強い筈だ。
 信女も口にしていた事だ。『異三郎はアナタに無用な傷を負わせる心算は無いんだから、大人しくしていた方が利口』だと。
 それは果たして、今し方佐々木当人が銀時に投げた言葉の通りに、『全ては土方の自作自演で、寧ろ見廻組はそれに巻き込まれただけ』だと宣う為の言い分の為だけのものだろうか。
 実際土方は山崎を使って佐々木がこの邸宅に幾度か訪れている事を掴んでいるのだ。客観的に佐々木がそ知らぬフリをして、この一連の事件の真相は、土方が見廻組を陥れようとしたのだ、と宣うに材料は足りている。足り過ぎている。
 だが、それでは説明のつかないものが、此処にひとつ在る。
 坂田銀時の存在だ。
 紛れもなく。佐々木は銀時をどうにか掌中で転がす心算だった筈だ。それが出来れば望む目を出す様にと、慎重に賽を投じた筈なのだ。
 居場所と動向を管理しようとしていたと言う事は──『見失った』と口にした事の指す意味は、佐々木の計略の中では『失敗』になると言っても良いだろう。
 恐らく、銀時は自らに持たされたと言う、GPSと盗聴状態の携帯電話に気付き、それを囮にして此処を突き止めて来たのだ。山崎辺りと上手い事やったと見て良い。
 佐々木にとって、その事は計算外であり──彼自身口にした『それもまた、都合の良い流れと取るべきか』の言の通り、然し決定的に計略の全てが失敗に終わる可能性は未だ持たないイレギュラーとなるものに違いない。
 だから土方は慎重に手札を見極める必要があった。ここに来て全て自作自演などと言う謂われのない一言で片付けられるのなど御免だ。
 だが、『この結果』が──今銀時が此処に、佐々木にとっての想定外として現れた事に因るものであれば。土方には未だ望みを繋ぐ可能性がある。
 佐々木の残した断片的な態度や言葉を繋いでみれば、そこに確かに『この結果』以外の何らかの画が描ける筈なのだ。そうでなければ、銀時を巻き込んだ事には何の意味も無くなって仕舞う。飽く迄銀時が駒として機能すればそれで良しと、佐々木には『別の結果』を狙う思惑があった筈なのだ。
 そしてそれは、土方の予想を違えなければ、どちらに不利益も生まない内容となるものだ。
 『異三郎はアナタを敵とは思っていない』
 信女の口にした言葉だ。つまり、この段では、佐々木は土方を排する意図など無かった。
 『私は坂田さんをアナタの拉致や監禁の犯人にしようなどとは思っていませんよ』
 どこか呆れた様にそう言ったのは誰あろう佐々木本人だ。
 雑草は生える場所を選びはしない。
 そうも口にした男の淡泊そうな顔と、その向こうに見える、雨の中の荒れた庭を見て、土方は軽く唇を湿らせてから口を開いた。
 「……そもそも、テメェの魂胆は雑草駆除だろうが。野良犬の始末じゃねぇ」
 そうして投じたのは牽制球。佐々木が果たしてこの指摘に、どう反応するか、だ。
 全くの当てずっぽうではないが、それに近い。本人曰くの人心掌握や腹芸に秀でた佐々木であれば、土方の言葉には何の『裏』も確証もないだろう事は直ぐに知れるだろう。
 『裏』はないが、可能性の模索は叶っている。とは言えそれは決して佐々木と言う男に対するある種の理解と同等のものではない。だからこそ土方は、佐々木の先頃宣った比喩に敢えて乗る事にした。
 未だ利用出来る可能性のある真選組と言う『野良犬』は、佐々木にとって今すぐに払わなければならないと思える障碍にはならない。だが、定々の失脚を早い内に狙いたい一橋派の一部の人間──佐々木曰くの『雑草』──にとってはそうではない。
 そこに齟齬がある。佐々木の目的が一橋派全体と必ずしも相容れているものである必然性は、土方の調べた限りでは存在しないと言えた。一橋派とて、大義が同じ所にあると言うだけで、そこに属する幕臣の全てが一枚岩と言う訳では生憎、ない。
 そして少なくとも佐々木は今、真選組を、土方をダシにして現将軍派の幕臣を蹴り落とすと言う『命令』を愚かであると断じている筈だ。だからこそ、こうして密やかに土方を生き延びさせている。
 「………」
 沈黙は暫時の間。やがて佐々木は、目的地の目前で行軍を断念せざるを得なくなった指揮官の様な、諦め半分と次なる手を早くも腹の裡で模索している響きのある溜息をついた。
 往生際、と言う意味で見ればまだ油断のならない響きでもある。土方がぴくりと眉を僅か持ち上げるのに、傍らの銀時がそろりと手を動かした。指が、肩の上に置かれる。
 「まあ、及第点と言った所でしょう」
 刀の柄からそっと手を放してそう言う佐々木を見上げて、土方は舌打ちをする。どうやら概ねの想像には違えがない様で、何とか己の負けと言う結果だけは回避出来た。だからこそ腹立たしかった。
 「……やっぱり試してやがったか」
 「それはそうでしょう。我々は等しく共犯……いえ、利害の一致と言う点での協力者に値して貰う為には、この程度まではご理解頂けなければ」
 苦々しく重苦しく吐き出す土方の声は、横で見ていた銀時が思わず顔を顰める程に、殺意にも近い獰猛な不機嫌さを滲ませていたと言うのに、応じる佐々木はと言えば、実にさらりとしたものである。
 「この狐野郎が」
 不快感も顕わに投げ捨てれば、
 「お褒めに預かり光栄ですよ、野良犬殿」
 などと返されて、土方は眉を顰めた侭黙り込んだ。やり込められたから、と言う訳ではない。銀時との口論以上に埒もない遣り取りの末になど、何も成果が在る筈もない。つまり時間の無駄だと悟ったからだ。
 「……どゆ事?」
 そう、銀時が小声で問いて来るのに、土方は眉間に皺を刻んだ侭で口元を引き結ぶと言う、複雑な胸中を殺しきれない様な面持ちだけをちらりと向けた。言いたい事、と言うより、言わなければならない類の事はあるのだが、今はそれを上手く組み立てられそうもない。
 仕方なく喉奥の重たい感情は一旦呑んでおいて、土方は目の前に置かれた疑問に対する解答をまずは選ぶ事にした。く、と顎をしゃくる仕草で佐々木を指す。
 「要するに、建前だ」
 「たてまえ?」
 土方の答えた言葉が、己の想像の何らかにそぐわないものだったのだろうか、銀時は重そうな瞼を片方だけ器用に持ち上げて鸚鵡返しにしてきた。
 「野郎は、『上』に──見廻組の後ろ盾になって便宜でも計ってくれてるだろう幕臣の何某様から、真選組副長をダシにした『計画』の実行役を任されてた。だが、それは手前ェらの属する一橋派の益に何らかなる結果を齎すものとは言え、生憎と手前ェ個人には今ひとつ気乗りのしねェ内容だった、って事だ」
 溜息をつくのと同じ心地で土方はそう言った。
 全く、紡げば紡ぐだけ馬鹿馬鹿しい話だ。
 大粛正の別名にもなった、警察組織や古い幕臣らの人事改革。その発端となったのは、末端の実働部隊と言って良い、武装警察の副長職の人間の独断。
 迷惑を被った者が逆恨みをしてもおかしくない。その土台は出来ていた。そして『土台』は偶々に、一橋派にとって目障りな要職にでも就く幕臣だったのだろう。
 渦中の真選組副長の亡骸が発見され、その殺害容疑が掛けられ、件の幕臣は失脚し、一橋派の台頭がまた一つ進む。真選組もみすみす副長職に就く人間が暗殺される愚を見過ごしたと責を問われ、組織としての立場が怪しくなるだろう。それこそ他の警察組織からの人事異動の可能性や、下手をすれば、荒くれ者に近い隊士の一部が短慮を起こして解体命令が出る事も有り得る。
 そうなれば真選組の直接の後ろ盾であり、その発足から機能に於ける全ての権能を有する、現警察庁長官である松平の失脚にも繋がるだろう。そして当然の如くその後任には一橋派、見廻組に便宜を計れる者が就き、ゆくゆくは佐々木のエリートコースの終着点にもなれるお膳立てが出来る。
 目障りな警察組織を一つ。目障りなそこの副長を一人。将来のポストへの確約。悪い条件では決して無い筈の『報酬』だった筈だ。それが──そこが、かどうかは知らないが──どうやら佐々木の意には余り沿わなかったのだ。
 「だからとは言え、手前ェらの後ろ盾でもあるお偉いサンの『命令』だ。理に適った拒否か、それ以上にリスクが大きいとでも言う説明か。そう言う『理由』でも無い限りは、断れば今度は手前ェの立場や心象が危うくなっちまう。
 まあそうだろうな、厭だからやりたくありません、なんてなァ、ガキの時分でもどうしようも無ェ言い訳でしかねぇんだ」
 殊更に小馬鹿にした口調を選んで言うが、佐々木は特に何も横槍を入れはしなかった。何か抗弁をしたい様な顔はしていたが。それを横目に見上げてから、土方は今度は本当の溜息をついてから続ける。こんなものは意趣返しにもなりはしない。自嘲的にそんな事を思いながら。
 「さしたる影響が出ないとしても、余り良い印象は持たれ無いだろうな。手前ェの経歴に余計な瑕疵を付けられんのはエリート様的には得策たァ言えねぇ筈だ」
 拘束された侭の後ろ手を鳴らして肩を竦めてみせる。長時間の無理な姿勢が祟ってか、関節が酷く痛む。筋肉痛になって残らなければ良いのだが。
 「概ね間違ってはいませんので、敢えて否定も訂正も差し挟みませんよ」
 佐々木はまたしてもあっさりと頷くと、もう一度だけ中庭を──そこで悶絶している自らの片腕を伺う仕草をしてから、流石の経緯に口をへの字に曲げている銀時へと向き直った。
 佐々木が何かを言うより先に、自らの後頭部を引っ掻きながら銀時が口を開く。
 「つまり、俺がその『建前』だと」
 「より正確に言えば、その為のお膳立てです」
 「……………」
 やっぱりそう来たか、と言外にはしない表情をつまらなそうに形作る銀時をちらりと伺ってから逆の方へと視線を流して、土方は胸中でだけ密やかな溜息をついた。
 全く、碌でもない、話だ。
 ふ、と銀時が小さく息を吐き出すのが聞こえた。呆れた風にも、笑うしか無い風にも聞こえる、そんな息をついた男が果たしてどんな表情をしているのか、土方は見る事が出来ない。
 「……要するに。テメーは受けた『命令』通りに頑張りましたが、生憎囚われのお姫様には有能なナイトが付いていました、と。そー言う事にしろって事か」
 そう。佐々木の言葉を借りれば、それは『お膳立て』だ。佐々木が、『命令』を受諾したものの妨害されて叶わなかった、と言う為の。
 そんな下らない理由で、また、この男を巻き込んだ。
 (……クソ、が)
 唸る様に喉を鳴らした土方は、自らの肩に添えられた銀時の手に額を押しつける様にして俯いた。
 己の迂闊さが一橋派の何某や佐々木に付け入る隙と大義名分とを与えたと言う事になる。事でしか、ない。
 あれから、土方は己の振った手の力の思いの外の大きさに何度も悩まされる羽目になっている。だが、それは悔恨ではない。自己嫌悪するにも飽いた事は、巡り巡って結局、銀時の存在が己にとっての大事なものへと昇華された事が全ての原因となった事にあるのだから。
 銀時がこちらを見下ろしている気配はしたが、無言で俯いた侭、土方は唇を噛み締めた。
 佐々木に意趣返しをした所で、己の浅慮が全て赦される訳でもなければ、何かが変えられる訳でもない。
 無力だ、と思う。己が侍で在ろうとすればする程、世界は雁字搦めになって、権謀術数の闇や不正や汚職や『誰か』の損得と言う理由をそれらしく携えて、土方をより其処に縛り付ける。
 警察であるからこそ、侍と標榜されるからこそ、『個』の感情が侭ならない。
 幕臣と言う役割に縛り付けられる事が、侍たる名の御役目でも何でもないと言う事は知っている。『真選組の副長』と言う銘柄は、土方十四郎と言う人間ひとりの感情に於いては、枷にしかならない。
 或いは、土方十四郎と言う己の個人的な感情こそが枷なのかも知れないが。
 「救出者は第三者である事が、見廻組にも真選組にも最も好条件になります。何しろ『我々』ではない、一般人の、様々な事件に首を突っ込んだ経歴をお持ちのアナタだ。理由としては別段申し分ないものと言えるでしょう。そして、」
 言葉をそこで切った佐々木は、銀時の不満顔から土方の苦々しい顔へと視線を転じた。
 「……それは『取引』じゃねぇ。『脅し』だ」
 少し考える素振りを見せながら、土方は態とらしく、殊更不満そうに吐き捨てる。額面通りの『取引』などに応じる様では、足下を掬われるのは必定だ。駆け引きに慣れたエリート様にとっては取るに足らない様な意地にしか見えないかも知れないが。
 「ま。どう言って頂いても結構ですが。それで、アナタが『救出』される為のご協力は頂けるのでしょうか?」
 言って佐々木は肩を竦めてみせる。殆ど衣擦れの音もしない静かな動きの中で、片眼鏡の向こうの厚い瞼は矢張りぴくりとも動いてはいない。
 土方の少しばかりひねた思考とは別に、男は飽く迄淡々と述べるのみだ。それが何よりも『取引』と言う言葉の意味を最も端的に、そして正しく表していた。
 佐々木は土方へ世間話や提案をしているのではない。正当な対価を互いに提出する、『取引』を成立させる事しか解答に望んではいない。
 生き方の相違。価値観の相違。立ち位置の違い。単純に性質の差。何れを理由として挙げても、土方は佐々木とは相容れる事が出来る気がまるでしないと改めてそう思う。
 「不本意な事極まりねぇが、提案は呑もう。だが、手前ェの言う『利害』の基準だけははっきりさせときてェ」
 『当事者』を余所に置いて進もうとする話に、暗澹たる心地になる。憶えるのは罪悪感ではなく自嘲だ。
 己を売り払うよりも無造作に。解答を即断すると土方は脳内で素早く、佐々木の提示するだろう『取引』の分銅を模索した。
 幾ら銀時の横槍が入った、と言う『建前』が出来たところで、佐々木が任務を達成出来なかったと言う事実に変わりはない。故に佐々木には『命令』を持ち込んだ件の幕臣を──彼曰くの『雑草』を、この侭捨て置く理由はない。佐々木の今回の目的の一つが『雑草駆除』であるのなら猶更。
 かと言って佐々木が──見廻組が──自らの『上』に当たる幕臣を失脚させる事は難しいだろう。
 故に。雑草は野良犬に食わせようと考えている筈だ。そうでもなければ『共犯』だの『利害の一致と言う点での協力者』などとは宣うまい。
 件の幕臣の失脚は真選組にさしたるメリットにはならない。目障りな政敵の一つが消えると言う意味では松平には有り難い話かも知れないが、真選組への直接の影響は皆無に等しいものだ。
 だが、真選組は──と言うよりは土方個人が──それに否を示せはしない。
 簡素に言い切れば。佐々木にとっての敵を払ってやる代わりに、銀時がこの件に関わった事を黙認する、と言う事だ。殊更に喧伝せず、不法侵入や不当な捜査を咎めたりはしない。土方の救出劇を『見逃して』やる、と言う事だ。
 互いに利害が同じ均衡で一致する。土方は銀時に救出されなければ佐々木を陥れようとした犯人として扱われる事となり、土方が銀時に救出されれば佐々木も『上』への面目が立たなくなる。
 まあ狡猾な佐々木の事だ、もう少し何らかの材料を用意していてもおかしくはない。それこそ『切り札』の一つや二つでも。探す気にも問い質す気にもなれはしないが。
 (これで、二度目、か)
 或いは三度目か。佐々木の考えの一端に乗せられ、乗る羽目になる選択を、真選組の副長としては選ばなければならない。銀時を結果的に巻き込んだ形になっている事には、直接的な責任そのものが己にある訳ではないとは言え、正直な所申し訳ないと純粋に思う。
 そして土方は、責の置き所や謝罪の理由と言った諸々の判断を、一重に己の尽力が足りぬ所為だと課すきらいがあった。
 故に、銀時に対して何も言う事が出来ない。望む望まないに拘わらず、土方には正しく間違えなければならない立場がある。
 『個』として選び、組織を護る。銀時を、護る。
 (……やっぱり、宣言なんぞするんじゃなかったな)
 言葉の意味だけで言うなら、護れない約束より質が悪い。銀時の手の温度だけを肩の上に感じながら、土方は眉間に力を込めた。皮肉気にならない様に口を引き結ぶ。
 質は違うが、再び『個』を理由にして選んだ己の判断に、銀時は果たして呆れているだろうか。
 そんな事をつらつらと流した時、土方の肩上から銀時の手がするりと離れていった。思わず顔を起こせば、ぽん、ともう一度肩を軽く叩く仕草を残して銀時がその場に立ち上がるのが見えた。
 「もう一個、選択肢はあんだろ?」
 そう──滔々とした調子で言う男の声に、本来土方は喜びの態度を見せるべきではなかった。期待もだ。だが、弾かれた様に起こした顔の先で、銀時が右手に携えた木刀がその場に落ちるのが見えて「おい、」慌てて言いかけたのは制止か、それとも。
 ひゅ、と空気を切り裂くのは木刀ではなく、拳。渋面を作った佐々木が、どこか諦めた様に目を閉じるのが見えて、土方はどうしようもない心地になって苦笑を浮かべた。
 次の瞬間には、銀時の左拳を横面に食らった佐々木がよろめいてその場に膝をついていた。利き腕でやらなかったのは銀時なりの手加減だろうか。
 「……ま。傷の一つでもあった方が、エリートが凡人の妨害に因ってしてやられたと言う信憑性は増しますので、甘んじておきますよ」
 ぷ、と血の混じった唾を、取り出した手拭いに吐き出しつつそんな負け惜しみめいて聞こえる様な事を言って、横頬を赤くした佐々木は衝撃で吹き飛んだ片眼鏡を拾い上げた。掛け直そうとして、どうやら歪んで仕舞った事に気付いたのか、そこで初めて渋面を少し本気のものに変える。
 「一発殴ってノーカン、て事で済ませてやる気にもなれねぇが、真選組(コイツら)が手前ェの八つ当たりのとばっちりを食らうのも何だしィ?」
 そんな子供じみた意趣返しはまさかすまい、と言う意図の強い銀時の牽制に、佐々木はむすりと顔を顰めたまま「しませんよ。そこまでエリートは暇ではありませんので」そう言いながら携帯電話を取り出した。かちかちと幾つかキーを叩くと再びぱたりと閉じる。
 「匿名で、真選組の……何さんと言いましたか、アナタの子飼いの監察の方に、汚職情報のリークとなるメールを出しておきました。あとはアナタの鶴の一声があれば、私に『将軍派の何某の仕業に見せかけて真選組副長を殺せ』と命令をした一橋派の幕臣殿の検挙は容易いでしょう」
 そう言うと佐々木は、ぽい、と、土方の所持品である携帯電話を投げて寄越す。足の間、着流しの上にぽすりと軽い音を立てて落ちた携帯電話は少なくとも見た目では土方の記憶にある自身のものと相違ない。が、帰ったら直ぐに棄てようと思う。どうせアドレス帳にエリート様の名前が追加されていたりするのだろうから。
 ついでに、アドレス帳に登録されていた、山崎を始めとした真選組関係の人員の電話番号も全て変えさせた方が良いだろう。プライベートの記録は一切無いとは言え、一応暗証番号を設定していた携帯電話の中身を盗み見られるのなど、ぞっとしない。
 「オイ、手ぇ外せ。これじゃ電話も掛けられねぇだろうが」
 佐々木が覗き見ただろう携帯電話など本来触りたくもないが、山崎に、今行われた佐々木曰くの『情報のリーク』の裏打ちの為の連絡を入れない事には始まらない。踊らされた状況に終わりそうな事は純粋に腹立たしいが、自分を暗殺しろなどと言う命令を下した一橋派の幕臣とやらを捨て置く気にもなれないのも確かである。心当たりの名前は幾つか浮かぶが、それは土方が単独で告発した所で何ら役に立つものではない。佐々木が提供した情報と言うのは、件の幕臣の政治生命を絶つものであると考えて良いだろう。
 要するに、他の選択肢は──少なくとも此処で拘束されている土方には──無いと言う事だ。
 ち、と舌打ちをしながら土方は手錠を鳴らして言うのだが、佐々木は悪戯っ子の様な仕草で肩を竦めて見せるのみだ。
 「今外したら、私が両頬を殴られる羽目になるだけでしょう。ま、長時間座り通しで足の萎えたアナタの一撃ぐらいは躱すのは容易いでしょうが──坂田さん、」
 いちいち嫌味を付け足して言う佐々木は視線を、むっつりと黙り込んだ侭の──一発殴った程度では気は済まなかったらしい──銀時へと向けると、雨の庭を軽く指で示した。
 「庭の石灯籠の中に手錠の鍵が入っています。ので、それで土方さんの手錠を外して差し上げて下さい。願わくば私が立ち去ってからにして頂ければ」
 荒れ果てた枯山水の風景には、ぽつりと置かれている古びて苔生した石灯籠が確かに二つ、置かれていた。銀時は佐々木の示す侭に一度そちらを見て、それからその近くで突っ伏して倒れている信女の方を見遣ってから、肩を竦めてみせた。
 その仕草を諾と取ったのか。佐々木は「では」と言い残すとすたすたと雨の降る庭へと出て行き、信女の首根っこを猫の子よろしくひょいと持ち上げた。くるりと部屋を──土方の方を──振り返り、態とらしい敬礼を作る。
 余りにも容易い。人生を売って売られる、その様は『取引』と言う分銅に値する価値があるのかどうか、それは解らない。同じ様な心当たりが未だ記憶に新しい土方には、それを糾弾する様な権利などきっと無いのだろうが。
 雑草、と。酷く簡単に駆除される人間に対して悲哀の是非なぞ問いても、それをも『手段』のひとつとしか考えていない人間にとっては酷く詮の無い話なのだ。
 土方は、本来躊躇う筈もない、状況の打開となる筈の佐々木の『取引』に対して苦い面持ちを隠さず浮かべた。
 「…………使えねェ雑草…いや、『部位』は速やかに棄てる、か。エリート様がまるで身喰いの狗だな」
 すれば佐々木は、ふ、と。銀時の殴打を受けて赤くなり始めていた口元をほころばせた。
 それは酷く場違いな笑みの様で。
 出来の悪い生徒が難問を解いた時の様な満足気な様子さえ湛えた調子に見えた。
 「エリートだからこそ、ですよ」

 *

 佐々木は屋敷の裏手に駐車してある私用車まで戻ると、片手にぶら提げていた信女を開けた後部シートに無造作にぽいと放り込んだ。泥や雨で斑に汚れた白い制服が高級なシートを瞬く間に汚して行くが、それにはまるで頓着せずに一度だけ軽く空を見上げてみる。
 雨は随分と弱まって来ている。この分だと夜までには上がるだろうか。考えながら運転席に身体を滑り込ませ、シートベルトをしてから携帯電話を取り出し、予め打っておいたメールを送信する。メールの中身は、一斉突入の是非に対するものだ。無論是の方である。
 既に部下は動かしてある。数分後には見廻組の突入で速やかに制圧されるだろう。その対象は、土方を怨恨で拉致した、と言う罪状を押しつけられそうになった哀れな幕臣だ。無論その咎自体は濡れ衣だが、潔白と言う意味では生憎有り得ない。大阪の煉獄関に携わった罪状を定々公に泣きつく事で回避した心算だったろうが、その時に『御礼金』と言う不正な献金の動きがあった事は既に掴んでいる。定々公も芋蔓式に処分出来れば良いのだが、奴さんは生憎馬鹿ではない。受け取らず拒否をしたと、『斬り捨て』の証言をするだろう。
 土方の糾弾に似た言葉の通りの『身喰い』が佐々木のした事であれば、こちらは『切り落とし』だ。……どちらも似た様なものかも知れないが。
 エンジンを掛け、ギアをバックに入れて軽く反転させると、ニュートラルに戻して裏門を抜けて出る。車が出ると門は自動で速やかに閉まり、施錠される様になっている。こんな放逐されて荒れ果てた屋敷になぞ泥棒も入りはしないだろうが。思いながら、山道に似た細い道を下って行き、やがて佐々木は小さく嘆息した。
 「いつまでそうしているんですか、のぶめさん。シートベルトぐらいちゃんとしなさい」
 すれば、バックミラーの中で俯せに倒れていた信女がむくりと身体を起こすのが見えた。後部シートの助手席の後ろ側に座りなおすと、シートベルトを引っ張り出して装着する。
 一連の澱みの無い動きといつも通りの無表情は、先頃まで激辛ドーナッツによって転げ回っていた様子とはまるで異なる。バックミラー越しにそれを見遣り、続けて銀時に殴られた頬をちらと見て。
 「局長の危機に素早く対応しない様では副長失格ですよ」
 今はまだ痛打の刺激で赤く、切れた口が痛む程度だが、夜にもなれば盛大な青痣が出来そうな具合だ。自分とて甘んじて殴られたのだと言う事は棚に上げて抗議めいて言えば、信女はあっさりと、
 「それは異三郎の自業自得」
 いつもの平坦な調子でそう返して来た。それ、が指すものが、殴られた事そのもの、と言うよりも暫く紫色の痣を付けて歩かなければならない事に対するものだと捉えて、佐々木は少しばかり口の端を下げた。舌先に残る錆がなんとも不快な味わいだった。
 バックミラーを通して無表情の信女へとその意味を視線で問えば、信女はこれもまたあっさりと。
 「馬に蹴られただけ」
 簡潔にそんな事を言って寄越す。佐々木は僅か瞠目し、心外だ、と言う風にも、肯定とも取れる風な仕草で肩を竦めてみせながら、ブレーキをゆっくりと踏み込んだ。市街地に降りて来て目立つ様になった信号が、丁度赤になったのだ。
 停止線で計った様に綺麗に止まったシルバーのセダンの前、横断歩道を通る人間はいない。十字路を横切って行く車もいない。静かな車内に規則正しいワイパーの音だけが響く。
 その沈黙に堪えかねた、と言う訳ではないだろうが、信女がややしてから続ける。
 「それに、雑草の駆除ぐらい異三郎はもっとスマートに行えた筈。わざわざあの連中を巻き込んだから。だから、自業自得」
 信女の言葉は端的だったが、間違えてはいない。正しく意味を解した佐々木はほんの少しだけ口の端を吊り上げた。
 「土方さんが私の事を監視なぞし始めましたからね。少しばかりお灸を据えてやりたくなったんですよ」
 そのお灸でヤケドしていたら世話はないが、と密かに胸中で続けながら、佐々木。
 土方に、もとい真選組に件の、一橋派の──見廻組にとってはそれなりの後ろ盾になっていた──幕臣の汚職の情報を渡す事で逮捕をさせる流れに持っていったが、そんな事は匿名で情報をリークしていればそれで済んだ話だ。わざわざ土方を誘拐する、と言う、一見『命令を聞いて動いている』体なぞ装う必要など本来はなかった。
 「後は、」続ける佐々木の目を、バックミラーの中で信女がじっと見て来る。
 ならばなぜ、わざわざ『途中』まで命令通りに動いて真選組の副長を、リスクや労を負ってまで拉致する段を践んだのか、と言えば、それは──
 「気になったからですよ。あの、誰にでも噛みつく事しか知らぬ様なバラガキが、白い夜叉(おに)にどう飼い慣らされたのかが」
 個人的な興味、としか言い様がない。思って佐々木がせせら笑う響きさえ込めて──自嘲的とも取れたかもしれない──言えば、信女は、ふい、と顔をつまらなそうに窓の外へと投じて仕舞った。
 「……やっぱり、馬に蹴られたと言う事」
 人の恋路を邪魔をするものはなんとやら。どこか呆れた風に信女は外気温との温度差で結露した窓ガラスを軽く手でこすった。くるり、と円を描きながら──ドーナッツのつもりだろうか──言う。
 「右の沿道にマスタードーナッツのチェーン店がある」
 寄って。そう声にはしない続きを聞き取って、佐々木は小さく嘆息した。右と言う事は反対車線だ。だが、信女がドーナッツ絡みの要望を出して来た時は、何を言っても大概無駄なのは知っている。
 言葉通り、一番泥を被る羽目になったのは信女かも知れない、と言う思いも少しはあった。佐々木は諦めてウィンカーを右折表示に出す。それと同時に信号が変わったのを見て、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。





固有名詞を無駄に増やしたくなくて幕臣aだのbだの名無しさんの侭だったんですが余計解り辛いわァ!と言うおはなしだったんだよ…。

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