散華有情 / 19



 遠くの方で重たいエンジン音が響き、やがて遠ざかって行くのを耳の端で聞き取って、土方は途方もない徒労感と虚無感に苛まれた息をそっと吐き出した。
 空気をねっとりと湿らす緞帳の様な雨音は、その激しさを既に失って久しい。そう遠からず雨も上がる事だろう。今はまだ気温もそう高くはないから湿度の割には比較的に過ごしやすい時節だ。監禁されるには悪くない季節だなどとは死んでも言わないが、じめじめとした梅雨が終われば、次にはうんざりする程の暑さが待っているのだ。
 それを思った所で何か好転を感じられる訳では無論ないが、せめてそのぐらいの気休めでも見つけなければ、全く以て何もかもがやりきれなくていけない。
 雨粒の打つ音と、車のエンジン音。それは昨晩聞いた筈だのに明確な記憶にはない、忌々しさの発端だ。
 男との逢瀬の帰り道に襲撃され誘拐される。真選組の副長ともあろう者が。果たして他にどんな無様を積み上げればそれに値出来ると言うのだろうか。自らの油断が招いた事とは言え、現状全てが碌なものではない。過ごし易い季節で良かった、程度の、気休めにもならない詮のない思考を、余計に情けなさを憶えながら考えている事も、その『碌なものではない』中に当然の様に含む。
 「……」
 自己嫌悪にはキリも無ければ詮もない。ち、と幾度目になるだろう舌打ちをして、土方は身じろいだ。煙草が猛烈に吸いたい心地だが、後ろ手に手錠でしっかりと拘束された今の侭では、煙草を探る事は疎か指を噛む事すら出来ない。
 佐々木は土方の携帯電話はきっちり──と言えるかは甚だ疑問ながら──返却していった。と、なるとわざわざ煙草や財布などの所持品を処分したとも思えない。盗むなどとは端から考えの埒外だ。ならば、この屋敷の何処かに無造作に転がしてあるに違いない。違いない、だろうが、今すぐ手に届く物ではない事に已然変わりはない。
 「お。鍵発見」
 庭の石灯籠の中を、佐々木に言われた通り覗き込んでいた銀時がふとそんな声を上げるのに視線を向ければ、指の先に小さな光るものを摘んで持ち上げてみせて来る。遠くてそれが何とまでは判別出来なかったが、サイズからすれば本人の言う通りに鍵に違いない。
 そう、それこそこの鍵の様に、その辺りに適当に捨て置かれているのだろう。刀も、煙草も、その他の所持品も。
 雨足は大分弱まっているとは言え、吹きさらしの庭をうろうろと歩いていた銀時の全身はしっとりと濡れそぼっている。濡れ鼠と言う程ではないが、相当に気持ちの悪い状況には相違ないのだろう、濡れ縁に上がるなり、濡れた黒い着流しの裾を摘んで顔を顰めている。
 (つーかアレ多分俺の着物だよな?何で野郎が着てんだ?)
 GPS追跡装置を持たされ、監視のかかっているやも知れない身を隠す為の変装の心算なのだろうか。色彩こそいつもと違えど、スタイル自体はいつもの頓狂な形の侭だ。挙げ句黒い服装の所為で最も目立つ銀髪が更に悪目立ちしている。
 まさかとは思うが、近藤の様にストーカーよろしく副長室に忍び込んで衣類を盗み出した、などと言う胸の悪い想像で無ければ良いのだが、と思いながら、少々身の引けた土方が肩を僅かに揺らせば、後ろ手の手錠ががちゃりと音を立てた。静かな室内に思いの外響いたその音を催促の類と取ったのか、「そう急かすなや」吐息にも似た密やかな調子で言って銀時がこちらに戻って来る。
 濡れたブーツから滴る水が、嘗ては上等なものだったのだろう畳の上に無粋な足跡の判を押して行くのに、そう言えば佐々木も信女も靴を履いた侭だったなと不意に思い出して、土方はうんざりと自らの身体の下を見透かした。どれだけ上等な畳であろうが部屋であろうが、放逐されていた以上は埃や砂で大なり小なり汚れているに違いないのだ。下手をすれば腐食もあるかも知れない。
 その辺りに正座していた信女はまるで気にしている様子も見せはしなかったが、ドーナッツを求めて雨の庭土に平然と飛び降りていった様を思い起こしてみれば、彼女の衛生観念は土方のそれとは同一とは到底思えない。
 別に上等な仕立ての着物と言う訳でも何でもないが、立ち上がった時に尻や背にくっきり土埃が残っているだろう事を思えば、無様で面倒だと現状に喚き散らしたい鬱積が更に一つ嵩を増す。それに加えて目の前の銀時が、経緯は知らないが夏用の着物を一枚ぐたぐたに濡らしているのだ。佐々木にクリーニング代ぐらいは密かに請求しようかと、半ば本気で土方は考え始めた。
 ふ、と一つ草臥れた息を吐いて、眼前で立ち止まったブーツ──から上へと視線をのろのろと持ち上げて行き、銀時の顔は見上げない侭、土方はその手の上で弄ばれている鍵を見る。
 単純な、錠の機構である掛け金だけを動かす形状の鍵だ。習熟や根気を要する時間さえあればピンなどでピッキングの真似事も出来るだろうが、柱を背中に挟んだ後ろ手で拘束されている今の土方にはどちらも足りそうもない。故に、単純な形状をした鍵が今までに無い程輝いて見える。
 さもありなん。現状に於いて最も苛立ちを増長させているものの原因の一つが取り払えるのだから。土方がその事に因って、銀時の掌の上でくるくると踊る鍵をつい縋る様な目で追って仕舞うのも致し方のない事だと言える筈だ。
 だが、痛い程に熱心に鍵を凝視する土方の視線を手の上に感じていながらも、銀時の動作は酷く緩慢だった。先頃佐々木の足を自らの両足で掴んだ土方を窘めに来た時の方が余程迅速で熱が籠もっていた様に思える。
 雨の庭に冷やされでもしたのだろうか。思わずそんな馬鹿馬鹿しい事を考えては即座に打ち消した土方の眼前に立ち尽くしていた銀時だったが、ややしてからあからさまな溜息をひとつ、吐いた。鍵の乗った掌をぱたりと折り畳んで土方の注視をそこから遮ると、その場にしゃがみ込んで来る。
 目線の高さを合わせられる形になり、土方は寸時銀時の手──の中の鍵──から気まずい心地で視線を滑らせて、そこで漸く目と目が出会う。
 銀時の表情は──穏やかだった、と思う。断定出来なかったのは、それがある種の疲労感を感じさせる類のもので、常々茫洋とした覇気の無い顔をしているこの男の面相を彩る形としては然程珍しいものでは無かったからだ。少なくとも怒りや苛立ちを態度にも面(おもて)にも放散させている土方とは異なって静かな風情では居た。
 詰まるところの話。土方は銀時の表情の機微から、具体的にその裡の感情を読み取る事は苦手だった。
 そもそもの話、元より土方は余り他人の心に聡い方ではない。己に向けられる負の感情には、幼い頃から慣れていた為に気付き易い。それ故に他者への無関心を憶えた事が原因でか、好意に類するものを己が向けられるに値するものだとは余り思ってはいないのだ。殊更自分を貶める訳ではないが、敢えて他者に好かれる様な真似をしようとも思わない。極僅かの、己の信頼出来る相手にだけ心を寄せる事が許されればそれだけで良い。
 だから、銀時の今の内心が『どう』なのかが全く読み取れない、とは言い訳にもならない。
 どう言った所で、銀時が土方に己の胸の裡を晒す気が無いのであれば、それを無理にでも読み取れ、と言うのは土方にとって無理難題にも程がある。
 解ろうとしない訳ではない。解らない訳でも多分、無い。だが、解ると言い切るには少々罪悪感──と言うよりは居心地の悪さ、程度のものかも知れないが──の心当たりの方が強い。
 土方は改めるまでもなく、己が目の前の男に大して及び腰になっている事に気付かされた。同時に、わざわざ藪の中に手を突っ込む気には到底なれそうもない、いつになく消極的な本心にも。
 情けねぇ、と、己にはいっそ不釣り合いな程の臆病さを、幾度目になるだろうか詰りつつ、土方は我が事ながらぎこちないとしか言い様のない動きで銀時の顔から目を逸らした。足の間に落ちている携帯電話を見下ろしながら、後ろ手の手錠をがしゃりと鳴らす。
 「……、コレ外せ。さっきのリーク情報とやらを元に、とっとと佐々木の野郎に俺の始末の命令なんぞ出しやがってくれた幕臣様をしょっぴかなきゃなんねぇんだ。ここまで来て元凶に逃げられる結果なんざ、テメーも業腹だろうが」
 佐々木の寄越したのは物証ではなく飽く迄『情報』だ。裏金だか女関係の不祥事だか違法取引だか癒着だか内容は知れないが、件の幕臣の政治生命を絶てる様な『取り扱い注意』の内容なら、時間が経過すればするだけ、何らかの拍子に証拠が『処分』される蓋然性は高い。得てして重要性が高く有効な情報ほどに賞味期限が短いものなのだ。
 「まあ、そらそうだな」
 後頭部を引っ掻きながらの、いつもの気の余り無さそうな調子でそう言うと、銀時は自らの膝を軽く叩いて一旦立ち上がった。土方の背後に回り込み、またそこに膝を付く気配がする。
 手錠に触れる男の手の様子に、土方は我知らず詰めていた息をそっと吐いた。これでこの不自由から解放される、と言う事と、銀時が特に文句を連ねたり詰問をするでもなく土方の要求に応えようとしている事の両方に大して安堵を憶える。
 「話、とか。そう言うのは、全部終わってから、だ」
 その安堵故にか。つい、土方はぽつりとそう呟きをこぼしていた。
 多少、どころではなく。銀時が『何か』を堪えているやも知れない、と言う可能性は、先程から既に模索を繰り返した挙げ句に肯定出来て仕舞っている。だからこそ、堪えてくれているのだろう、と言う己の想像に対して土方は、銀時に労いと感謝の意を何らかの行動や言動で──土方自身に、それに向かい合う姿勢は一応あるのだ、と言う方向性だけでも、伝えたかったのだろう。
 「終わってから……、ね」
 返す銀時の言葉に含まれていた、僅かの剣呑さには気付いた。のだと思う。だが、土方にとって今はそれより優先されるべきだと思ったのは、かちりと言う軽い金属音を立てて自らの左腕から離れた金属の輪と、それによって自由になった己の両腕と、それによってしなければならない事だった。
 右手にまだ輪の片方をぶら下げた侭、土方は反射的に解放された両腕を身体の前に戻していた。長時間柱に後ろ手の姿勢で括り付けられていた腕は痛く怠い。信女には幾度か注意されたものの、苛立ちを憶える度に癖の様にがしがしと動かしていたからか、手首には軽い擦過傷が出来て仕舞っていた。隊服の袖で隠れるだろうか、と思わずそんな事を苦い記憶と共にぼんやりと考えていると、
 「ちょっとこっち向け」
 背後から銀時の声がして、特に土方は何も考えずに柱に寄り掛かり気味に半身をぐるりと振り向かせた。すれば、柱を挟む様にしゃがみ込んでいた銀時の手が伸びて来て、土方の左腕をくいと引っ張ってくる。仕方なしに引かれる侭に身体をぐるりと回したのは、銀時の動きが酷く自然で、手首の傷を看る様な労りさえ込もった所作だったからだ。
 ほぼ完全に振り返った所で、左手を放り出され、今度は右手を引っ張られた。「なん、」流石に一瞬抵抗しかかるが、己の手首の先にぶら下がる金属の輪が目に入り、土方は即座に力を抜いた。鍵を再び示してみせる銀時の様子を見れば、これを外す心算なのだろうと想像は易い。
 故に。
 かちゃり。小さな音。
 土方の反応は咄嗟にそれについていけていなかった。
 「……え?」
 意味のない一音が間抜けに響き、尻上がりになった音の疑問に答えたのは、再び両手を不自由に繋ぐ輪と輪、その間の鎖の慣らす、ちゃり、と言う軽い音だった。
 思わずぽかんと瞬きを繰り返す。後ろ手の拘束状態を脱した筈の土方の身体は、今度は前向きに柱を抱え込む様な形で再び繋ぎ止められていた。
 腕と鎖で、身体の正面向きに作った輪の中に、柱を通した様な。己の状態が瞬時には呑み込めず──正確には、何故そうなっているのか、目の前の男がそうしたのか、が知れず──、土方は暫しの間の後、
 「は?」
 漸くそんな、先程のものと然程変わり映えもしない一音だけを発して、変わらず目の前にしゃがみ込んでいる銀時の顔を見た。
 今度の銀時の表情は、少なくとも先程よりは解り易いものだった。口の両端を下げてむっつりとした様子で、呆れているのか嘲っているのか判別もし辛い。が、ただ一つ確かだろう事は──男が不機嫌さを顕わにしていた、と言う事だ。
 そしてそれは、土方の裡の疑問に対する概ねの答えを何よりも雄弁に語っていた。
 「──っ、テメェ!?おい、ふざけてんじゃねぇ、とっとと外せ!」
 「ヤだね」
 がしゃがしゃと両手を繋ぐ金属を鳴らして思わず怒鳴る土方に、銀時は舌を出してさらりとそう投げると、手にしていた鍵をぽいと後方に放った。埃っぽい畳の上に落ちた鍵は、今の土方では足を伸ばした所で手を伸ばした所で、声を荒らげ喚いた所で到底届くものではない。
 「電話」
 「ふざけんのも──……は?」
 届かないなら取って貰うしかない。思って鍵から視線を戻せば、銀時は不機嫌そうな様相の侭でぽいとそんな言葉を投げて寄越した。怒鳴りかけた土方が再び疑問符を浮かべれば、
 「電話、すんだろ?したら?その状態でも電話くれェならかけられんだろ」
 そうあっさりと言って、土方の膝上から転がり落ちた携帯電話を指さして見せる。
 携帯電話を見下ろす。三秒。確かにそう無理が必要な作業ではないだろう。だが問題の論点はそこではない筈だ。思って、土方は携帯電話から視線を外して銀時を睨み上げるが、「時間ないんじゃねーの?いいの?」と突き放して言われ、銀時が取り敢えず『今』は手錠を外す心算がないらしい事を厭でも悟らされた。
 「………」
 ち、と、苛立ちと憤慨以外の何でもない舌打ちをして、土方は柱を抱える様な姿勢の侭、片膝を立てて足の間に転がっていた携帯電話を軽く手の方へと蹴り飛ばした。前で拘束された手を使ってその小さな機械(からくり)を拾い上げると、左手首のスナップ動作で蓋を開く。
 案の定か、佐々木はメールを送信した後、返信コールが鳴り続ける事を考慮したのか、ご丁寧に携帯電話の電源を落としていた。電源のボタンを割れそうな程強く押し込んで数秒、土方は短くはない機械の起動をじっと待つ。
 企業のロゴなどの表示の後、待ち受け画面に転じたそれを素早く操作して、山崎へとリダイヤルを掛け、顔を柱の横に突き出す様にして受話口に耳を近付けた。今度の待ち時間は長くなかった。コール音の一回目が止むより早く、
 《もしもし!?》
 息せき切った様な部下の声が耳を打って、土方は小さく嘆息した。なんだか久し振りに聞く錯覚さえ憶える、その地味な声に「俺だ」と簡潔に一言で告げる。取りはしたが咄嗟に名乗ったり問い質したりをしない辺りは流石監察と言うべきか。こんな最悪の状況では、そんな些細な発見すら絶賛してやりたい心地になる。
 《副長?無事ですか!?てことは、旦那が上手くやってくれたって事ですよね?》
 「…ああ。『上手く』やったな」
 本当に上手く。してやられた。思いながら、重たくさえ感じられる手錠をちらりと見遣る。
 幾ら噛み潰した所で呑み込みきれそうもない苦虫の大群を口中で持て余しながら土方が言うニュアンスの、本当の意味など山崎が知れる由は無いし、土方とてわざわざ教えたいとも思わない。
 取り敢えず簡潔に、リークのメールの内容に従って件の一橋派の幕臣を捕縛する事と、帰ったら携帯の買い換えだと言う旨とを告げれば、その代わりの様に、見廻組側がつい先程、土方の誘拐犯としてでっち上げられる予定だった現将軍派の幕臣を逮捕したと言う、想像通りの報告をされた。
 罪状は定々公への違法献金疑惑だとかなんとかであって、決して土方の誘拐に纏わる話では無い様だと言う。その事からも、どうやら佐々木は今回の一件を本格的に『無かった事』として処理する心算らしいと知れた。
 土方の誘拐は飽く迄一橋派の一部の人間に因る計画だったが、それは『一般人』の坂田銀時に因って妨害された。本来その容疑を掛けられる筈だった幕臣は違法献金の罪状でお白州での沙汰となり、一連の計画を佐々木に命じた幕臣は、偶々真選組の汚職事件の調査に掛かってお縄となる。
 佐々木は『雑草駆除』を成功させ、土方は銀時の──白夜叉の──存在が再び公文書に残される事を防げた上、己が誘拐されたと言う無様な事実を『無かった事』に出来る。
 隊士達には、見廻組との一時的な『紳士協定』に因って狂言誘拐を起こすと言う佐々木のアイデアに副長は強制的に付き合わされる羽目になっただけだった、と言うニュアンスにして伝えます、と山崎の出した提案に土方は不承不承頷いて、後は幾つか細かい事項を遣り取りしてから、通話を切った。
 真相を伝えられるだろう近藤や沖田や山崎は良いが、基本見廻組を毛嫌いしている真選組の風潮からしても、帰ってから他の隊士らの質問責めに辟易させられそうだ、と、答えなど無い無理難題を抱えて懊悩する哲学者の様な心地になりながら、土方は携帯電話の電源を再び切った。ぽいと放り出して、相変わらずそこにしゃがみこんで頬杖などをついてこちらをじっと見ている男の方へ殊更にゆっくりと意識を向けて行く。
 「お仕事お疲れさん」
 「言っとくが終わっちゃいねぇんだがな」
 「ま、でも当面『お前が』やんなくちゃいけねぇ号令ってのは出せたんだろ?」
 ならいいじゃん、と、凶悪に睨み付ける土方の事など意にも介した様子なく、しゃあしゃあとした調子で宣う銀時の顔は、先頃のあからさまな不機嫌な様子からは少々趣を異にはしていたが、やはりよく解らない種のものだった。
 「……一応もう一度言うが、」
 「それは駄目」
 外せ、と言うより先に、銀時には当然の様にその内容が知れていたのだろう、きっぱりと断じられる。話にもならない。歯噛みする土方の視線の先には、だらりとしたいつもの表情の口元だけをむすりと引き結んでいる男。そして男の手から放られた鍵とがある。そのどちらも今の土方の状態からは余りにも遠すぎる様に思えた。
 その有り様からも、銀時にはいよいよ本格的に土方を、己の何かの気が済むまでは解放する気がまるで無いのだとも知れて。
 「…………」
 土方は遠くに落ちた鍵を片目を眇めて睨んだ侭、胸中でだけ息を大きく吐き出して──あからさまに嘆息するのは肯定か諦念の様に思えて癪だったのだ──それから柱を回された手を下ろし、眼前の男の方へゆっくりと視線を転じた。
 銀時の『気が済む』内容が暴力の類などではない事は確かだ。故に昨晩と同じ、『話』を求められているのだろうと、土方は自らが銀時に因って救い出される、と言う佐々木の拵えたセッティングの全容を把握した所で覚悟はしていた。
 それでも出来る限りそれを遠ざけようとしたのは、偏に己の怖じけた本心からだ。
 ついぞ昨晩──数時間前に『もう二度とお前に纏わる事で浅慮は起こさない』などと宣った口で、佐々木の寄越した提案──土方の拉致監禁とその命令の受諾と言う、佐々木のした事を見過ごす事で、救出者となった銀時の存在をも隠すと言う利害の一致だ──を、当事者を目の前に平然と受け入れた。自らの宣言をあっさりと翻したのだ。
 銀時とてあの宣言に然程の効力があるとも端から思ってはいない様だったが、舌の根の乾かぬうちに翻すなど、信用以前の問題だろう。
 いよいよ呆れられるか、見放されるか。はたまた詰られるか。
 いい加減に銀時が土方の浅慮ともとれる行動──それも銀時に纏わる事ばかり──に苛立ちらしきものを憶えているだろう事は、目の前の不機嫌面からしても明かだろう。
 だから土方は『それ』を後回しにして仕舞いたかった。無論、早く屯所に戻って隊の指揮を執りたいとか、近藤達に無事な姿を見せたいとか、そう言った優先事項が頭に無かった訳ではない。早く不本意なこの事態から解放されたい本音も、当然の様にある。
 そしてそれらの事が、銀時にとって『逃げ』であると思えたからこそ。今土方はこうして騙し討ちの様な形で此の場に留め置かれているのだ。
 (腹ァ、括るしかねぇか……)
 思って土方は目の端にぐっと力を込めて、これから己へ詰問を浴びせて来るだろう男を前に、寧ろ逆に責める様な眼差しを向けた。
 仮令、対話の中で詰られようが怒られようが、それそのものを畏れている訳ではないのだ。
 互いに性質が似通っている故に、常に先行きは交わらず、ベクトルは平行線を描いて来ていた。売り言葉に買い言葉、などと言う安いものではないが、銀時に本気で土方のした事を責められる様な事があれば、土方には到底それを肯定は出来はしない。
 己の信念や途を貶められる様な『話し合い』に発展した時、互いに気付く終着点が遂に見えて来て仕舞うのではないか、と。そんな畏れが、土方にはある。
 重なる事も交わる事もない互いの信念が。魂が。互いに決して棄てられないそれが、ほんの少し伸ばした手に引っ掛かって、そうやって掴んだ。繋がれた。感情を置き去りにして、解けるも容易い、そんな一人と一人でしかないものなのだ。
 想い合うだけでは決して縮まらない空隙が、そこには在る。
 或いは男女であったら夫婦となって、かすがいの子でも産まれる事で埋まった筈のものだ。
 そう思うと苦しい。不毛さと不必要さと歪さと、ついてはいけず肥大した感情だけが。苦しい。
 「狡い」とだけ言って寄越して、無理にその先を切開しようとはしなかった、そんな銀時の譲歩に、土方は今更ながらに気付いていた。否、ずっと前からこうだったのに、気付かぬ振りをして甘んじていただけだ。或いは、気付いていても特に何も感じなかっただけだ。
 困難を乗り越えた先にあるのが幸福だなどと、そんなお決まりの話ばかりで世界は出来ていない。だから、この先に在るのは慕情や恋情だけではどうにも出来ない、お互いの生き様の再確認でしかないのだとすれば、そこには明瞭な終わりしか無いのかも知れない。
 いつまでも銀時にばかり、妥協や譲歩、物わかり良く変わりのない想いを押しつけ続けるのは、間違っている。
 (そんなのァ、当然、だろうが……)
 諦め、には等しくない粘ついた感情を引き摺って、土方は密かに呻いた。
 ただ、事実だろう想像だけが、酷く容易くすとんと胸中に落ちて来た。それだけの話。
 それは実に未練らしい未練だった。何よりも明確な己の本心だった。
 土方の無言で睨み上げる先で、銀時はやがて大きく息を吐いた。
 
 *

 俯いた侭の土方と、その向かいでいじけた子供の様にしゃがみ込む己の姿。そこに留めるのは無機質な鎖がひとつきり。
 まるで、大阪の煉獄関での『対話』の時の再現の様だと思いながら、銀時は苛立ち波立つ内心を抑えようと頬の内側をぐっと噛んだ。
 あの時とひとつ違うのは、土方を此処に無理に留めているのが己の所行である、と言う点だ。
 本当ならば、問い質す権利も無ければ責める謂われも無い。自分たちは飽く迄互いと言う個であり、幾ら想いを寄せ合った所で、存在を求め合った所で、心のそれ以外の部分が交わって一つに繋ぎ留められる訳ではないのだから。
 銀時は基本的に見栄っぱりな性質もあって、基本的に土方に妥協と理解を示して来た心算だった。別にその事自体に恩を着せようとは思ってはいない。それは単に、懐の広い恋人を演じていなければ、無様に追い縋って束縛して身勝手をあれやこれやと言いかねない自覚だけは己に常にあったからだ。そうして、そうなった時には土方は銀時の事を諦めて仕舞うのだと言う事も、容易い想像で理解していた。
 些か無様な話かも知れない。だが仮に、別れ話をされたら意地を張って別れ話で返すのではなく、逆にとっ捕まえて放さないぐらいには、銀時は土方に執着していたし、惚れてもいた。
 だから、ややあってから覚悟を決めた様に顔を起こした土方の表情が、明らかにもう破綻を覚悟したものだった事に酷く苛立った。苛立って、焦った。
 (なんでいつも、そんな面…)
 またなのか、と何処か諦めに似た心地がそう呟くのに、銀時は力のない息を吐きこぼした。どんよりとした雨を吸った様な、重たくて湿っぽさを纏った気怠さが、沈む肩と共にその場に落ちる。
 今更、土方の寄せてくれる情を疑う程に銀時は馬鹿にも利口にもなれそうにない。だから既に、疾うに、確信は済ませているのだ。
 だと言うのに。確かに、想って、想われている筈だと言うのに。それでもそこには隔たりに似た何かが確かに存在している。認識の相違、とでも言うのか。単に恋愛観念の違い、とでも笑い飛ばせば良いのか。
 ともあれ──届いている様で届いていない何かの空隙がどうやら其処には在って、それは互いの不可侵を認めあった、理解し尊重する部位とは合致してはいない、と言う事だ。
 分かたれ、取り戻した筈のものは無意味では無かった。だからこそ、逆に見えて来て仕舞ったものがあったと言う事だろうか。
 銀時の事を『情』のある時見つめる土方の表情には、いつでも躊躇いに似た負い目と、僅かの覚悟と諦めとが乗っている。普段の勝ち気さを僅かに引っ込めたそれは、決して庇護したくなる類の弱さは持たない、それでも『見慣れない』以外の違和感を持つ質だった。
 その『見慣れない』ものの正体こそが、互いに想いと情とを認めあった時から見える様になったものなのだとすれば。種はまだ発芽したばかりで、その根は深くはない筈だ。咲かすも、枯らすも、恐らくは銀時と土方の感情と行動次第の筈だ。
 昨晩高級な茶屋でひとり残された部屋でもぼんやりと思考していた事だ。理解している癖に焦燥ばかりは尽きない、伸ばす手の先の、伸ばす方法の、正しさを己に今一度、問う。
 (俺は、お前を正しく愛してやれてんのかね…?所詮、手前ェがしてるのは理解している素振りの内側に孕んだ悋気だけで、お前の事を『どう』したいのか──、)
 否。
 どうしたい、などと思考する時点で既に誤りなのだろうか、と思えて来て。そこでふと思い出した銀時は小さく呻いた。
 昨晩居酒屋で『再会』した時、銀時は確かに思っていたのだ。土方は『俺の所に』帰って来た、のだ、と。
 そこから違う。土方は銀時に所有される存在では無い。そこを思い違える事自体がどうかしている。
 それを、土方に在る──そう、件のある種の『見慣れなさ』を潜めた齟齬になぞらえて、『そう言うもの』だと見据えた。
 「……お前さぁ、」
 その正体は──大凡土方十四郎と言う人間の有り様には見慣れない様な、その、正体は。銀時の僅かに感じた齟齬は。隔たりにも似た何かの思い違えは。
 「なんでそんな、この世の終わりに挑むみてーな面してんの。なぁ、そんなにお前は、」
 無言で、得体の知れない巌に立ち向かう様な土方の眼差しのその先には、銀髪の男が、一人。
 男の表情が、泣きそうにぐしゃりと歪んだ。

 「…………お前は、そんなに俺に棄てられんのが怖ぇの…?」

 土方の、常の怜悧さを欠いた黒瞳が、ゆっくりと瞠られる。
 それは、何処に刺さるのかも、何処を断つのかも知れず、放った刃に相違なかった。
 
 土方十四郎と言う男にいっそ相応しくもない、その『見慣れない』ものの正体。
 それは間違い様のない程に雄弁な、怯えだった。
 想い合った果てに生まれた、自己完結した愛情だった。





散華8とか9辺りで振って以降放置されてた件。拾うの遅!

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