猫と副長の七日間 / 5 そんな馬鹿な筈が無い。あり得ない。何を血迷っているんだ。 幾つもの限りない否定の言葉が巡るばかりの脳内は、至ったその推論にも満たない可能性の論を浮かぶ傍から打ち消していると言うのに、そんな思考に反して土方の足は止まろうとはしてくれなかった。 それは紛れもなく、否定ばかりのその結論を心の何処かでは──多分に冷静では無い部分がなのだろう──疑いきれずにいたからだ。 門番への労いもそこそこに部屋へと駆け戻った土方は、駆けて来たその勢いの侭に障子に両の手を掛けて、然しそこで漸く動作の全てを静止させるに至った。 そんな馬鹿な筈が無い。 幾度となく諳んじた言葉をもう一度だけ、ゆっくりと唇の動きだけで呟いてみると、そう紡いでいる筈の己は酷く空々しく思えてならなかった。 障子に掛けた手が僅かに戦慄くのが見えて、もう一度だけ笑い飛ばす様に呟く。 「……そんな、馬鹿な訳が」 その響きの嘘臭さにか、口端がシニカルに笑みを刻むのを感じて、土方は一度息を吸うと殊更に落ち着いた動作で障子を開いた。室内は朝出て来た時と殆ど変わらない様相で、机の周囲に書類が増えているのと、灰皿と屑籠が綺麗に片付けられているぐらいしか変化は無い。 「……」 後ろ手にそっと障子を閉じる。座布団の上と言う定位置に丸まった猫の姿も、最後に見た時とそう姿形を変えている様には見えなかった。 土方は強張って人形の様にぎくしゃくとした動作で、猫の眠る座布団の前へと膝をついた。眠りを妨げる気配を感じたのか、見下ろす、銀に似た色をした毛皮が揺れて、猫の小さな頭が億劫そうに持ち上がった。 「万事屋、なのか」 乾いた声音は、今までに経験の無い程の緊張を孕んで土方の喉から滑り落ちた。どくどくと、自然と鼓動が、駆けて来た時の様に早く打つのを感じて、厭な汗が手のひらを湿らせる。沈黙が苦しくて喉を鳴らした。酸素が足りていない気がする。冷静であると思考している筈の脳は、全く馬鹿馬鹿しいとしか言い様の無い可能性を、唯一の結論の様に言葉にして吐き出して仕舞った。 じっと、重要な裁決を待つ様に返答を待って見下ろす土方の視線の先で、猫は擡げた頭部を自らの丸めた体の内へと沈めて再び寝息を立て始めて仕舞った。 「………………………」 そりゃそうだ、と僅かの理性が拍子抜けした風にそう紡いで吐き捨てるのを何処かで聞いた気がした。 小さく上下する灰色の背中を見つめる内、土方は途方もない脱力感が背中に重くのしかかるのを感じて、その重量に逆らわず背中を丸めて額を畳の上へと押しつけた。顔が酷く熱いから、きっと誰が見ても明らかな程には紅くなっているに違い無い。顔面は上った血で真っ赤だ。 幾度も繰り返した「馬鹿な」の、その通りだろう解答が目の前に示された筈だと言うのに、否定よりも寧ろ肯定の可能性を、その荒唐無稽な想像に見出そうとしていた己の様は、客観的に見てみなくとも余りにも──本当の意味で馬鹿馬鹿しいものであった。 人間が猫になるなど、そんな馬鹿な話があるものか。 散々繰り返した否定と言う名の冷静さや警告に、素直に従っておけば良かったと後悔出来る程度には、土方は己の馬鹿げた逞しい妄想力を恥じて、暫しその侭動けずに居た。 よもや沖田や山崎がそんな己の姿を盗み見て笑いを堪えてはいまいかと、疑心に駆られてゆっくりと振り向くが、室内には己と猫の姿しか無い。 (それもこれも、タイミング良く野郎が江戸を離れたりするから悪ィ) 恥と後悔とを、転嫁とは解っていたが記憶の向こうの銀時の暢気な顔面へ八つ当たる事で何とか飲み下して、土方は我知らぬ緊張の反動で脱力した侭の腕を伸ばすと猫の背をそっと撫でた。 (仮に、仮にだ。もしもそんな事があったとして──、) 人間が、猫になって仕舞うと言う荒唐無稽な話が、起こり得たとして。 「……いや、」 再び、目の前の猫が坂田銀時と言う人間なのではないかと思おうとする馬鹿な考えを振り払って、土方は溜息一つ吐くと立ち上がった。 (野郎が早く帰って来ればそれで解決する、その程度の話だろうが) 偶々だ。銀時が猫になりたいなどと口にして、その日から目撃されてなくて、猫が一匹寝覚めの悪かった土方に懐いて、長期の依頼に出て仕舞っていると言う、それだけの話。 それらの偶然を一つに結びつけて結論を無理矢理に見出そうとするのは、土方が銀時の誕生日だったと言う、最後に会ったあの晩に負い目を感じているからだ。 (……そうだな。帰って来たら、それとなく詫びでも入れてやろう) 己に過失と思える事があって、それがすっきりとしない侭だから、馬鹿な考えが生じているのだろう。無理矢理にそう断じる事にして、土方は机の前に増えた仕事の消化に取りかかる事にした。 仕事をしていれば大概の事はどうでも良くなる。馬鹿な妄想も、それを鵜呑みにして行動に移して仕舞った恥ずかしさも。全部。 * 習慣の様に見上げる癖のついてしまった、スナックの二階には今日も灯りの気配はしない。少しづつ近づく秋の終わりに合わせる様に、日に日に涼しくなって行く気のする夜気の中、土方は人知れず吐いた溜息を煙に混ぜて空へと逃がすと、向けていた視線もそこから逃がした。 たまに教えて貰った通り、万事屋が今回受けた仕事は長期のものだったらしく、数日程度で戻る様なものではなかった様だ。 (……くそ) 灯りの無い窓へと毒づくと、土方は踵を返して真っ直ぐ帰路についた。仕事も上がって、格好も私服の着物だったが、飲みに行く気も何だか失せて仕舞った。 すっきりとは決してしない、蟠ったもやもやとしたこの感情は実に己らしくないと、土方は己でそう判じられる程度には冷静で、普段通りで居た筈だった。だが、余り理屈にはそぐわない、大凡実用的ではない部分では酷く苛々としていたし、その理由が坂田銀時の不在に因るものだとも理解していた。 詫びるのも、楽しく酒を飲むのも、銀時が戻ってからで良い。どうしたっていつかは戻って来るのだから、苛々と落ち着き無く待つ必要など無いし、意味だって無い。いつ戻るのかと指折り数えるのなどもっと無駄だ。 (…だってのに、どうして、) 何処かに落として来たのかも知れない苦い物思いを探す様に、土方は立ち止まって振り返った。もう繁華街の風景は遠い。スナックの二階も、そこにある筈の無い灯りも、連なる夜の町並みの向こうへととっくに消えて仕舞っている。 唇を硬く引き結んで、土方は己の裡を満たして已まなくなったその、実に自分らしくない感情の正体を不承不承に認めた。 不安、焦燥と言った名前をしたそれは、坂田銀時の姿を見なくなった事を知ったあの時から、得体の知れぬ黒い塊となって土方の胸の底へと居座っていた。 そして恐らくその成分の半分を占めているのが、馬鹿馬鹿しいと己で笑い飛ばした筈の、予感未満の妄想や奇妙な符号の所為なのだとも。 「……」 飲みにでも行って棄てて仕舞おうと思って外に出た癖、そうして結局素面の侭戻った自室では、猫が我が物顔で寛いでいた。夜行性の生き物だからなのか、猫が動き回っているのはどちらかと言えば夜の時間帯が多い気がする。 動き回っているとは言っても、大体土方の部屋で暇そうにしているか、土方の後をついて回っているか、その程度だったが。 土方が畳の上にそっと膝をつくと、猫は直ぐさまに近づいて来て頭の天辺から背中までを擦り付けて来た。その仕草に促される様に手を出せば、指先をざらついた舌で舐められる。腹が減っているのかも知れないな、とぼんやりと考えながらも、然し土方は立ち上がらずに灰色の──銀色にも見える猫の姿をじっと見つめ続けた。 銀時が嘗て口にした様に、ぐうたらに眠っては土方にばかり懐いている、銀色の猫。銀時が江戸から姿を消したその代わりの様に現れた『それ』を。 「……鬱陶しいから止めろって、俺ァ言っただろうが」 やがてこぼれた呟きは、散々馬鹿にし続けては然しそれを打ち消す事が出来なかったばかりか、より懊悩を深めるばかりで居た、可能性にも至らぬ妄想に対する確信でしか無い様なものだった。 陳腐な想像を不安に塗り替えているのは他ならぬ自分自身だと言うのに、それを止める事の出来ないのは愚か以外の何でも無い。 銀時が居れば。猫が居なければ。変な夢を見なければ。あんな事を知らないでおけば。 単なる、出来過ぎた偶然だとこれを笑い飛ばし切れないでいるのは、己に対する負い目の所為だ。 酷く弱気に見えるだろう顔を隠したくて俯けば、猫が甘えた仕草で膝の上へと登って来る。その銀色の、少し毛足の長い背を撫でれば、暖かな温度はそこに落ち着いて、にゃあ、と鳴いた。 身勝手にも、そこに慰めの響きを勝手に聞き取って、土方は背を丸めると膝上の猫を腕へと抱き込んだ。小動物特有の早い鼓動と、柔く蠢く体温とにまるで縋る様にして口の動きだけで、蟠って澱んだ思いを吐き出す。 (早く、謝らせろ。早く、帰って来い) あの、誕生日だったらしい日に己を夜の公園で一人待っていた銀時も、果たしてこんな思いでいたのだろうか。早く会いたいと、そう思って待っていたのだろうか。遅れた挙げ句に走りもせずに慌てもせずに、それどころか現れるなり悪態をついた情人の、その情の薄さに何を感じたのだろうか。 畜生、とくぐもった声で呻く。たかだか一週間程度の事で一体何だと言うのだ。もっと長い時間を面を合わせない事だってあったし、そんな時も任務や机に向かっていれば気付けば過ぎて終わっていた。 (早く、会いに来やがれ) 腕の中で大人しくしてくれている猫の寡黙さが有り難かった。下らない妄想に不安など覚える程に、たったのそれだけを願っていたらしい己は恐らくは酷く滑稽で、銀時から見れば馬鹿な男なのだと思う。 「……銀、」 殆ど吐息の様にそう呼びかけた所で唇を噛むと、偶然と後悔と、それらが揃って漸く見えたものを、まだ苦しげにしている胸の奥へと仕舞い込んで土方は強く目を閉じた。 銀時に会えていない、たったの七日間が酷く永く感じられてならなかった。 。 ← : → |