天国の日々 / 1



 「別れよう」
 
 四ヶ月前。「好きだ」と告げて付き合いを願い出て来た男の唇が、それとは全く逆の事を紡いで寄越すのを、土方は暫し茫然と見返していた。
 「へ、?」
 よく、聞こえなかった。そんな気になって漏れた一音が、土方の内心の疑問を見事に尻上がりの発声にして出て行けば、
 「別れよう」
 最初と全く変わらない調子で、億劫そうでもなく面倒そうでもなく辛そうでもない声でそう繰り返されて、そこで土方は漸く「別れよう」の意味を理解するに至った。
 それはよく、恋人同士の愁嘆場で放たれる台詞だ。別れた方が良い。別れるべきだ。別れるしかないな。距離をおこう。別れよう。幾つかバリエーションはあるだろうが、その意味は概ねひとつの意味しか為さない。
 分かれよう。
 つまり、そう言う事だ。もう、互いに手を取り合って同じ途を行くのをやめよう、と言う事、だ。
 土方は暫し瞬きを繰り返していたが、やがて、指の間の煙草の先端が灰で重たくなる頃にふと我に返った。
 「ああ…、別にそれは」
 構わねぇが、と口中で濁らせながら、震える指に気付かれない様、殊更に力を込めて灰皿にぐしゃりと煙草を押しつける。
 「そか」
 男は淡々と、余りにもあっさりとした調子でそうとだけ頷いてみせた。
 そして、それだけだった。
 以前に勘定は割り勘だからなと、奢りへの期待を土方が頑として突っぱねてやった時の方が、余程残念そうな顔をしていた風に見えた。
 急な捕り物で約束を反故にしかかった時の方が、まだ不満そうに見えた。後からぶうぶうと散々に文句を垂れられた。
 「……」
 何なのだろう、これは。
 思って、土方はそれきり沈黙する男の顔を横目でちらりと伺ってみるが、そこには若々しい覇気に些か欠ける草臥れた男のいつもの横顔があるだけだ。読めない。と言うか解らない。読もうと尽力するに値する何かが見える気もしない。
 「ま、そー言う事だから。じゃ、俺行くから」
 「あ、ああ…、」
 自分の分のコップ酒の残りを一息に煽ると、男は、これもまたいつもの様な風情で立ち上がり、カウンターに自分の分だけの勘定を置いてすたすたと立ち去って行く。
 連れ立って出なかった事以上にいつもと違ったのは、別れの際に『次』の約束の打診は疎か何の一言さえも無かった事だ。土方が「またな」と続けかけたいつもの文句はその事に気付いたお陰で口からは出て行かずに済んだ。
 己がその事に安堵した事に気付いて、土方は密かに眉を寄せる。
 何に安堵したのか。
 決まっている。「またな」と続けて、その『また』がもう無いのだと言う事に気付かされなかった事にだ。男が淡々と「また偶然があればな」と指摘して寄越す様な事が無かった事にだ。
 当たり前だ。『分かれた』ふたりの間に偶々以外の『また』などと言う事が在って良い筈はないのだから。
 そう。ここからは同じ途には立たない。共に歩きもしない。「別れよう」そんな言葉通りに、途はもう分かたれたのだ。
 「………………」
 つきり、と、心臓が冷えるにも似た感覚を憶えて、土方は着流しの上から自らの胸の上にそっと手を当ててみた。胸筋の裏側、肋骨の奥で鼓動を繰り返す心の臓には何も異常はない。
 当たり前だ。幾らそこが出所の解らない痛みを憶えたところで、実際に死んで仕舞う訳ではないのだから。何故なら、その痛みは実際に『痛い』と痛覚が感じるものではなく、脳が『そんな気がする』感覚を憶えるだけの事だからだ。
 要するに錯覚だ。実際に『痛い』訳ではない。痛い様な気がしているだけだ。
 ……当たり前だ。
 だと言うのに何故か、胸焼けのしそうな心地の悪さが手の下で蟠っているのを感じる。押し流そうと、猪口に残っていた酒をぐいと干すが、アルコールの匂いが却って酷く不快だった。マヨネーズのたっぷりと乗ったつまみの数々も、普段ならばとても美味な筈だと解っているのに、とても喉を通りそうもない。
 これではまるで動揺している様じゃないかと思って、土方は己を小さく笑い飛ばした。袂から煙草を探り出して火を点ければ、煙だけは心地よく土方の荒れた脳を宥めてくれる。
 酒にも肴にも悪いが、何故だかそんな気分にはなれなくなって仕舞った。溜息をついて、静かで気易い喧噪に浸された居酒屋の店内をぐるりと見回して、それからゆっくりと視線をカウンターの隣の席へと流す。
 そこにはいつもならば、酒に上機嫌になりながら穏やかに笑う男が居た。
 否。さきほどまでは──居た、のかも知れない。
 男の確かに居た名残の様な、安い、店への申し訳程度に注文した様な、空になったコップがひとつ。土方の視界に入るのは今はそれだけだ。
 そのコップと、小銭の勘定とが店員によって片付けられて行くのを、土方は持て余した感情を精一杯に鎮めながらぼんやりと見送っていた。







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