天国の日々 / 2 「好きだ」 注文した酒に手もつけぬ侭、こっちを見ては余所を見て、天井を仰いではこっちを見て、大層落ち着き無くしていた銀時がやがてそんな事を口にするのを、土方は確かに聞いた。聞いて仕舞った。 「は?」 と上げた声は、聞き損ねたと言うより、一体何を言っているのだと誰何する意味でしかなくなっており、いっそ聞こえない振りをしておけば良かったと、あらぬ所に後悔を憶える土方である。 ともあれ男は、土方の問いの意にもう一度、 「好きだ」 意味を問うまでもない様なそんな言葉を投げつけ、一息を吸ってから、思い出した様に鼻の頭を紅くした。捲し立てる様に続ける。 「つー訳で…その。俺ぁオメーの事が好きなんだよ惚れてるんだよ文句ありますかコノヤロー。人が人を好きになるのに理由とかそんなん無いからね、黒髪ストレート羨ましいとか顔が良いとか公僕は稼ぎが良さそうとかそんなんちっとも考えてねーから。判断基準じゃないから。理由なんてほんっと何もねーから」 「色々駄々漏れになってる気ィすんだが…」 真っ赤になってもごもごと、自らの頬を引っ掻いて、ソワソワ落ち着きの無い様子で言う男を見返して、土方は溜息混じりに辺りを窺った。 それほど贔屓と言う訳ではなかったが、一人で飲みたい時に時折足を運んでいた居酒屋だ。こぢんまりとした佇まいと、余計な事を言わぬ店主と、代わって愛想の良い店員とのバランス、あとは肴の家庭的な味わいがマヨネーズによく合うのが気に入っている。 その店に銀時もよく通っていると知ったのは、何度か店内で偶さかの遭遇を経た後の事だ。最初は知らぬ振りをしたり、些細な言い合いから飲み代の支払いを賭けて軽く勝負をしたりと言った事をしていたが、それらの事が原因でか店の人間には二人が知己、飲み仲間であると認識されたらしく、どちらかが先に店にいればその隣に通される様になって仕舞った。しかも大概決まって、カウンターの角を曲がった店の最奥へと。 単に、騒がしいのは二人まとめて置いておいた方が良いと言う店主か店員かの判断だったのかも知れない。そう思い当たって仕舞うぐらいには土方はよく銀時と喧嘩未満の空気を作り出していたし、時には店を軽く騒がせたりもしていた。 だから当初は、何でこんな奴と一緒くたにされなきゃならないのだと、不当な扱いに腹を立てたりもしたのだが、それが原因で気に入った店を諦めるのも癪に障った。何より銀時から「逃げた」と思われるのが厭で、恐らくそれは負けず嫌いのあの男の側とて同様だったのだろう。互いに面を突き合わせれば悪態を投げ合うくせ、通うのを止めたりはしなかった。 そんな、飲み仲間──否、喧嘩相手だろうか──の男が、目の前で何やらよく解らない、解りたくない様な告白を唐突にしてのけたのだ。土方がそれなりに動揺を憶えるのも致し方のない話だろう。 思わず辺りを窺う様に投げた視線には、誰もこちらに注視している気配などないと言う答えが返る。それを酔客ばかりではなく店主や店員の方にもきちんと確認してから、土方は油断なく意識を隣の銀時へと戻した。相変わらず男はソワソワと落ち着きが無く手や頭を動かしており、注文した酒にも手をつける様子は無い。 「…………」 何と言われたのだったか、と反芻すれば「好きだ」と言う銀時の真剣な声音が思いの外綺麗に脳裏に再生されて、土方は密かに口の端を下げる。不快感と言うよりは不可解感で。 それは、今まで自分が感じていた、銀時との関係性──この居酒屋での遭遇も含めて──からは、大凡想像だにし得ない様な言葉だ。 何しろ、好かれているだろう要素に全く思い当たりがないのだ。蛇蝎の如く決定的に嫌われている事は流石にないとは思ったが、どちらかと言えば分類するなら『鬱陶しい』とか『面倒くさい』とか、そう言った方面に置かれているだろうと思っていた。 とは言って。冗談と言う割には重いし、意味もないし、撤回する気配もない。そもそも本当に冗談であれば、先頃土方が呆気に取られた時に、冗談だと言って笑い飛ばしている所だろう。 だから土方が考えたのは、所謂ドッキリ的な悪戯か、罰ゲームでもやらされているのか、と言う可能性だった。 罰ゲームならば録画や録音と言う証拠、はたまた銀時が罰をこなしたと言う見届け役が必要になるが、先頃伺った店内にそう言った気配は一切無かった。録画の類は小耳に挟む万事屋の経済状況を考えれば以ての外。手や視線をソワソワとあちらこちらに動かしている銀時が、その袂に録音機器を隠し持っていると言うのも考え辛い。 警察としての土方に接近して情報を掠め取ろう、などと言う、銀時の経歴──攘夷志士であったと言う過去──からの可能性も一応視野には含めたが、それは無いだろうとは確信もあった。何しろ端から警察だの役人だのに注意を払っていた様子など見た事もない。 そして、『本気』の可能性など端から除外だ。ある筈もない。 消去法。きっと人の悪いドッキリや悪戯でも仕掛けようとしているのだろう。 そう判じた土方は、ふう、と煙草の煙を溜息混じりに吐き出してから言った。 「いいぜ」 とだけ。短く。真顔で。 「え」 するとたちまちに驚いた様に顔を跳ね上げる、そんな銀時を見て、 (ほらな、やっぱり悪戯だろ。真顔で言われりゃ困るだろ?さてどうする心算だ?) 『騙されてやった』状態の土方は密かに内心ほくそ笑んで、然し顔は飽く迄真っ向から銀時の事を見据えて言う。 「好きだ、ったんだろ。だから、いいぜ。オツキアイでも何でも、」 「っま、マジでか!?」 真顔で続ける土方の言葉を遮る様に、男ががたりと腰を浮かせた。 (ああやっぱり焦って…) 真剣に応じられるなどとは、土方の性格上では思わなかったに違いない、焦りを隠せず態度に出して、さあどう続ける心算だろう、と、銀時の内心を想像して笑いかかった土方のその前で。 「〜〜っしゃァァ!!」 がたん、と椅子を後ろに蹴り倒して、銀時が吼え声を上げた。九回裏、あわや逆転サヨナラのピンチを防いだ投手の如く、拳を強く握ってガッツポーズを作る男に、他の客が思わず杯を傾ける手を止め何事かと目を剥く。ざわりと細波の様に拡がった囁き交わす人々の気配の中、眉間に皺を作った店主が地獄の門番の様な声でぼそりと呟く。 「オイコラ銀さん、他のお客さんの迷惑になるからやめやがれ、うるせーぞ」 「…あ、悪ィ。親父、悪ィついでに、生ふたつと串焼き一皿頼まァ」 一応は謝りながらも怖じる様子はなく追加オーダーをする銀時に、地獄の門番は溜息をひとつ吐いてからいつもの寡黙な店主に戻った。小さく頷くだけで向こうへ離れるのを見て、客もまた再び元の時間を取り戻す。酔っ払いの一人が何やら突如奇声を上げただけ。それだけの顛末と納得して。 たちまちに元通りに、ざわめきや食器の鳴る音が店内に満ちていく。TVの音、酔客同士の笑い声。小さな諍い。面倒そうな相槌。コップが卓に当たる音。喉を鳴らしてアルコールを干していく音。そんな中で、いつも通りの様子で店員がオーダーの追加メモを書き記すのを茫然と見ながら。土方は銀時の吠え声を反芻してそれから首を傾げた。 (『しゃぁ』?……よっしゃぁ?) それは普通に考えれば歓喜の雄叫びに聞こえた。その想像は土方の酔いを不快に覚まし、不穏な想像に背筋をいやなものが伝い落ちていく心地をもたらした。 「ああうん、マジで、うん、スッゲー緊張したわ…。らしくもねぇ、って言うかもしんねーけど、こんな緊張した事他にねーわ。 酒で誤魔化そうとか酔いで一気に行こうとか俺ドコの中学生?ってくれェ頭で色々シミュレートして来たってのに、イザとなったらもう緊張しすぎて酒すら喉通らねぇしで…」 あー喉乾いた。そう情けない声を漏らす銀時の表情は、まるで見たことのない男のそれだった。 土方は己の裡の不快感の正体が、銀時を逆に騙す形となった、それを笑おうとしていた自分自身に対するものだと言う事に気付き、途方もない後悔と自己嫌悪に襲われた。逆に銀時が『こう言った』人の心を嘲る様な嘘を何の理由もなくつく様な男ではないと確信していたからこそ、それは余計に重たく、苦く降り積む。 「はいよ、生お待ち。あと串焼きね」 恰幅の良い女店員が生ジョッキを二つと串焼きの乗った皿を一つ。二人の間に置いて立ち去って行くのを見送って、銀時は紅くなった顔を笑みに融かしながら、ジョッキの片方を土方の方へと遣った。 その笑顔に、まるで木偶の様になって仕舞った己の手をぎくしゃくと動かしながら、応じる。 ひとが、幸せを感じている時に浮かべる笑みだとはっきりそう思った。自分にではなく、相対するものにこんな優しくて穏やかな、日溜まりの様な表情を向けられるのは、己が満たされている事を実感した時のものだ。 そんなものを目の当たりにして仕舞ったのだから、多分土方の顔は酷く強張っていた筈だと言うのに、銀時にはそれが初心い緊張か何かとでも映ったのかも知れない。こつりとジョッキを乾杯の様に軽く合わせた後、美味そうにビールを干して行く男の姿は、それが楽しそうであればある程、嬉しそうであればある程に、土方の胸を否応もなく罪悪感で締め付けてゆく。 悪ィ、冗談だと思ってつい、やり返そうとしちまった。 そう、早い内にさっさと否定していれば良かったのだろうか。時間が嵩めば嵩むだけ、銀時の機嫌はアルコールを孕んで良くなって行き、土方の罪悪感は膨らみ、言葉は重たく粘ついて喉から出て行ってくれそうもなくなっていく。 明日になれば。酔っていて判断のよくついていない返事をして仕舞った、とでも誤魔化せるだろうか。そんな遠回しの僅かの期待を裏切る様に、土方の脳はアルコールにはまるで酩酊されてくれそうもなく。 適当に合わせる事も、さらりと否定を告げる事も結局出来ない侭、悪戯に過ぎた時間はたちまちにふたつのジョッキを空にしていた。 酒の味もつまみの味もさっぱり解らない。解答を先送り先送りにし続けたしわ寄せは必ずいつか返るものだと知っていた筈だと言うのに、銀時の『本気』でしかない笑顔や真顔が、土方の思考をぐちゃぐちゃに混ぜて溶かし、罪悪感や後悔の鋳型へと流し込んで行くのだ。 結局何ひとつ片付きもしない侭、勘定を済ませて外に出れば、「別れ道まで」と銀時は照れくさそうにそう笑って、戸惑いを未だ隠せずにいた土方の手を取って歩き出した。 「お、おい!」 「大丈夫、こんな時間だし誰も見ちゃいねぇよ。見てたとしても銀さんスグに気付くから。心配すんなや」 「──」 狼狽した土方の内心を『誰かに見られたら』と言う意味だと正しく解して応える銀時に、土方は今度こそ反論する言葉を探す前に取り落とした。 土方は立場のある幕臣で、一方の銀時は万事屋などと言う怪しげな稼業の男だ。そんな二人が夜道を仲良く手を繋いで歩いている、などと言う光景は、風聞でも事実でもあって良いものではない。 単に、恥ずかしいから、などと言う理由で土方が声を上げた訳ではないのだと銀時は聡く理解しており、また己の分を弁えた上で、土方に気を遣ってくれたと言う事でもある。 「好きだ」と言う言葉は冗談でも嘘でも悪戯でも無いのだと──、お前の事は解っているから、とそう言う意味でも示されたと感じられた。 「…………よろず、や、」 拙い恋人の様に指をきゅっと握りしめ、先を行く男に引っ張られる様に歩を進める、その足の下に本心をゆっくりと踏みしだきながら。土方は己の背骨の中を雑草が茂って汚い花を咲かせていく様な、重たい不快感を静かに飲み込んでいた。 言えない。言えはしない。 こんな風に、こんな形で、この男の心を踏みにじる様な真似はしたくない。 こんな醜さの瑕を男に負わせたくないし、逆に男に軽蔑されるのも厭だ。 それが『厭』だと理解する事は、己の裡には元より、銀時へと多少なりとも好意的な感情が何かしらあったからなのだろう、と認める事も同義だったが、その事実自体は土方の心を思いの外打ちのめしたりはしなかった。 好意的な感情など、きっと幾ら探した所で己の裡には無かった筈だと、少なくとも先程まで──銀時の口から好意を告げられるまで──の土方であれば断言出来ただろうし、そう認識もしていただろう。 いちいち厄介事に首を突っ込んではそれに巻き込まれる。繰り返し。無職寸前自営業の男は手前ェの身内以外に背負うものなぞ無いのだろうからさぞ気楽やも知れないが、巻き込まれたこちらの苦労を少しは考えろ、と思った事幾度と知れず。苦々しく報告書を改竄したり始末書を余計に書いたりする事も数知れず。 同時に。偶さか、不本意ながら結果的に世話になった事も、同じく知れぬ程の回数を数えた。こうなると、相手が真っ黒な事山の如しの元攘夷志士と言えど、些か遣り辛くなろうものだ。 何しろ腐れ縁ですからねィ、諦めなせェ。 万事屋達の介入で増えた、面倒な隠蔽工作の案件を食事の合間に思わず愚痴れば、土方の苛立ちの捌け口にされた形になった栗色の髪の部下にはそんな事をさらりと言われた。ご丁寧にも、匙を投げて行く仕草と共に。 それを舌打ち混じりに見送った己の裡には、坂田銀時に対する好意的な感情が生み出る余地もない。好きではないが、決定的に厭う必要性もない。性分や行動パターンが似てると言うのはたかだかそれだけの話で。余りに異なった環境に在る故に、己には出来ない事を容易い事の様にやって除ける男を妬むでもない。 結局、土方が憶えた坂田銀時への対処法は、関わらないこと、だった。 そう貫いて、極力関わらないで居た決心の有効範囲は、仕事の外の飲み屋での望まぬエンカウントをも含む。幾ら毎度の様に遭遇する事が多いとは言え、所詮酔っ払い同士の話など埒も意味も無いのだし、触れては過ぎるだけの『どうでも良い』時間しか過ごした心算はなかった。 立ち止まり、隣で猪口を傾ける男の事など深く考えた事も無かった。 ならば、好意的な感情のひとつやふたつ、気付かぬ内にそこに生じていたとしてもおかしくはないのかも知れない。 (不本意な話でしか無ェが……、そうじゃなきゃ、解らねぇ) この手を振り解いて、自分の応えた諾の答えは勘違いだったのだと。男の誤った歓喜を是正してやるのを躊躇う、理由が解らない。 男が傷ついた事を隠して飄々と踵を返すのを、見たくない、理由が、解らない。 他人を、況して関わる事を良しとしなかった男の事なぞ深く考えたりしなかった。見向きもしないその間に、己の知らない感情がそこにあったとしても。それはきっと、仕方のない事なのだ。 背骨を貫いて咲いた毒の花から、土方はそっと目を背けた。飲み干した本心の代わりに、蟠る不快感を踏み付けてふらふらと、手を引かれる侭に『前』へ進んで行く。行く先の足下の、一歩先は奈落かも知れぬと解っていながらも。 銀時の足が、真っ直ぐにかぶき町の出口の方へ向かう道へは向かわず、まるで涼しげな夜風を求める様にして人気のない遠くの道を回って行く事には直ぐに気付いた。その歩調がいつもより大分遅い事にも。 離し難い、と。少しでも長く居たい、と。掴まれた手指から伝わる。程良い酔いを孕んだ僅かの熱と、情。繋いでいる筈なのに、繋ぎ止められた指から冷えて崩れていきそうだ。 稚い子供の様に屈託のない情と、疑いなどこれっぽっちも抱かない歓び。 振り解いて逃げ出したい。否、今すぐにでも逃げ出すべきだ。俺はお前に、こんな風に熱を帯びた眼差しを向けられている事が、怖い。それを己の些細な言動が傷つけるだろう事が恐ろしい。 銀時ならば恐らく、土方が本当の所を告げた所で、がっかりと肩を落とす真似などせず、罵りたいだろう内心を隠して平然と笑って、俺のも騙してやろうとしてた冗談だから、と強がり互いに『無かった事』にして別れるだろう。そうしてもう二度とあの店に現れる事も無い。 ……それは厭だ。 互いに隣に通されて不快だとそんな顔をしながら、喧嘩未満の悪態を投げて、他愛もない事に花を咲かせかかったり、ちょっとした事で下らない勝負を始めたり、対等な関係の様に肩肘張らずに笑って怒り合える。そんな距離感は、好ましいまでに至らずとも心地が良かった。組の職務に疲れ果てた身でも気が楽だった。 だから、それ以上は近づきたくない。それ以上は離れて欲しくない。これ以上は入って来て欲しくない。 自分の頑固に張った鍍金が、銀色の男の手に因っていとも容易く剥がされる、それが──厭だ。 (厭、なのは、『何が』なのか──、) 提灯は互いに持っていないが、江戸の町は街灯や繁華街の夜灯りに照らされており、足下が危うい様な事もない。そんな灯りの気配も遠くなった、川沿いの道に出た所で、ついに土方は口を開いた。 「……なんで、俺、…なんだ?」 今更、と己の内なる声が囁いたが、それこそが当初の疑問であり発端でもあった。 銀時が土方へ「好きだ」と告げる様な理由に心当たりや思い当たりでもあれば、少なくとも冗談や悪戯の類とは思いもしなかっただろう。 或いは、それをこそ待っていた、などと言う可能性もあったやも知れぬ。 まるで、射たれる為に水から飛び上がる雁の様に。 「へ?」 思わず足を止めて、心底不思議そうな表情を、ぽかんとした間抜け面の中に作った銀時へと、「だって」と土方は続ける。 「俺ァ女を作る気は全く無ぇが、かと言って当然男たァ付き合った事なんぞ無ぇし、そのケも無ぇ。おまけに、お世辞にも好かれてるとは言えやしねぇ身だし、楽しい話や気の利いた事も言えねぇつまらねぇ男だ」 女を口説く事なら嗜みや礼儀程度にはこなせるが、少し目端の利いて、土方の容姿にさほど惹かれない女から見れば、自分はさぞかし面白味の欠片もない男なのだろうと言う自覚は一応ある。 水面や鏡を見れば否応なく目につく、二十年以上見慣れた己の容姿や造作が世間一般的に見て『良い』ものらしい事は一応知っている。とは言えその価値判断は自分自身ではさっぱり解らないものではあったが。自身の顔を見て惚れ惚れする様な、寒気のする自己陶酔や自己愛の類を生憎土方は持ち合わせてはいなかったのだ。 だが、人間と言うイキモノはまず、外見的なもので他者を判断するものだ。大概の場合人間社会に於いて美醜や容姿や身なりや挙動と言うのは最も先にある基準で、次には頭脳や身体面と言った能力や優れた遺伝子を欲する。金や権力だの性格がどうたらなどと言うのは種の飽和状態にあって生まれた第二の価値観である。 そう言う意味では土方は、本人の余り望む処では決して無かったが、容姿と言う最初の門を軽く抜け易い男と言えた。有り体に言えば、パッと見で取り敢えず異性同性問わず他者の注意を惹きつける類の容色なのだ。もっと噛み砕いて言うと『モテる』。 ただ、それは同性の比較的に年代の近い者らには寧ろ妬みの対象になる事が多い。或いは一周回って羨望か諦めか利用法の模索をされるか、好意──と言うよりは好色な目──を向けられるか、だ。 後者に属する連中に性的な対象として見られた事は不本意ながら何度かあるが、少なくとも土方が『そう』だと気付けた範囲ではそう多くはない。多くは無いが、厄介だ。年嵩の幕臣に多い、遊び慣れをした者らに露骨なアプローチをされる事もままあるので、正直印象としては余り良くない。 そして土方は、己で自覚出来る程度には『つまらない』男である。 基本的に無駄に愛想を振りまくのも、他者に阿るも媚びるも嫌いだし苦手だ。独り身で居たい侍としては申し分無いのだろうとは思うが、それは大凡他者を惹きつけるものでもなければ、好かれるものでも無い筈の要素だろう。 銀時の様に、話してみれば解る──噛めば噛むほど味が出る、などと言った質とは真逆に、噛めば噛むほど味を失って飲み込むのも辛くなる様な手合いだ。土方の外見に惹かれて近付いた者は、土方自身が他者を受け入れる気がそう易々と無い事も手伝って、大概深入りするより先にそそくさと離れて行くのが常だった──マヨ癖や血腥い職業の所為も多少はあるとは思うが──。 だから、別に己を卑下する心算はなく、淡々と感じた疑問だった。土方の性質をそれなりに知って猶、しかも男が──どちらかと言えば土方にとっては羨むべき所を持ち合わせた男が──近付いて来る、その理由がわからない。 すれば銀時は「ん」と小さく考える様な素振りをしてから、握った指先に僅か力を込めて来た。 「いやホラ、さっき俺言ったじゃん。理由とか何もねぇって。確かにお前は顔とか腹立たしいくれぇ整ってるとは思うけど、幾ら美形だからって野郎にマジで惚れるとかそのケでも無けりゃ普通無ぇし?その言い方で行けば銀さん至ってノーマルだし?」 「……よく解らねぇな」 と言うより矛盾している気がすると思って、困惑の侭に顔を顰める土方を見て、「いやいや!」と銀時は焦った様に声を上げた。ぶんぶんと頭を振って、握った手に更に力を込める。逃がさないとでも言う様に。 逃げなどしないと言うのに。 否。ここで怒った振りをして逃げて『無かった事』にすれば、俺はこの罪悪感からひとまずは解放はされた筈だと言うのに。 土方は、まるで『ここに居ろ』と希う様な男の手を、何故か振り解く事が出来なかった。 「確かにオメーの面とかも、その…、好きだけどよ。そればっかじゃねぇっつーか……」 ああ。また、だ。 思って土方は静かに目を閉じた。そうしてみれば、繋がれた手の先の、酷く熱い体温が何よりも雄弁にものを言う気がする。 土方は己の容姿だけを見て惹かれて来る輩を愚かだと思っていた。見下す心算は無かったが、少なくともそれらの単純さは理解し難いものだと感じていた。掌を返す様な、勝手に『失望した』目をされるのも、慣れて仕舞う程度には嫌いだった。 それを、まるで心得た様に。銀時の言葉は、乾いた砂に染み込む水の様に土方の心の琴線を酷く的確に揺らしてきている。 絆される、と思ったのが先か。或いは、これがひょっとしたら望みだったのだろうかと、感じたのが先か。 瞑った侭の視界の中、土方の手を握っていた銀時の指先がほんの僅か、震えるのを感じた。じとりと汗ばむ感触は、本来気持ちが悪そうなものだと言うのに、何故か今は逆に好ましく思えた。男の緊張を肌で感じて、万に一つでも嘘や思い違えではないのだと実感したからなのか。 だからだろうか。引き結んでいた唇に触れる熱を、土方は知らぬ振りで享受することにした。 アルコールの匂いを纏わせた銀時の口唇が、少し乾いてカサついていた土方の唇をやわく食む様に啄んで、ちゅ、と小さな音を立てる。滑る舌が唇の合わせ目を悪戯する様になぞって行くのに、背筋が一瞬ぴくりと震えた。 本心が何処にあるのか己でも見失った中だと言うのに、この侭流されて絆されて仕舞えと、脳内の誰かが囁きかける。煩い、と思ったが、反論するのも面倒くさくなって、代わりに薄らと口を開いた。 「──」 一瞬だけ、頬を擽る様に触れている銀髪が躊躇う様に揺れて、酩酊の甘い匂いを纏った吐息が土方の口唇を叩いた。 「ン、」 掴まれていた手指が解かれて、腰をぐっと抱き込んだ腕に誘導される様にして数歩押され、背が何かに当たった。川縁にあった柳の木だろう。着流しの背中越しにがさりと音がするのを、深く激しくなった銀時の口接けの向こうに感じた。 側頭部を支える逆の手に耳元を擽られて「ふぁ、」と情けない様な吐息が口唇の隙間から漏れれば、途端に男の動きが激しさを増した。咥内をまさぐるお麩の様な舌の感触を除けたいのか絡ませたいのかも解らず舌を差し出して土方もそれに付いて行こうと必死だった。 お互いに、子供の初めてのキスの様な必死さと乱暴さとにこんな所で夢中になったのは、吐息から注ぎ込まれるアルコールの匂いの仕業なのか。 ぐい、と頤を掴まれたかと思えば、銀時の舌が益々勢いづいて無遠慮に土方の咥内を探りはじめる。歯列をなぞって上顎を愛撫されて、一方で耳と腰とを指で丁寧に辿られれば腰にぞくぞくと甘い痺れが走る。 良くも悪くも、と言うべきか。銀時はこう言う事にも無駄な器用さを発揮出来る様だった。性急なキスだと言うのに流し方が巧く、歯をぶつけ合う様な無様も犯さない。 下肢に憶え深い熱が溜まるのを、やばい、と何処かで思いながらも妙にリアルに感じていた。それが、男と口接けを交わしているなどと言う俄に信じ難い状況へ感じた『やばい』なのか、それとも、銀時の口接けが心地よくて夢中になりかけている己へ感じた『やばい』なのか。或いはその両方共なのか。全く異なるものなのか。理解出来ない侭、喉が反った所に覆い被さる様に口唇を更に重ねられ舌でまさぐられて、咥内に流し込まれる、自分と相手と混じり合った体液を土方は喉を鳴らして嚥下した。 すれば、それを待っていた様に銀時の唇が唾液の糸をねとりと引きながら離れた。土方がぼんやりと目を開けば、よくできましたとでも言う様に、男の親指が濡れた土方の唇を優しく拭う。 至近距離の男の目が、酷く熱狂的な色を孕んでじっと土方の顔を覗き込んでいる。何だか居た堪れない様な心地になった土方が身じろげば、腰をぐいと引っ張られ、同じぐらいの高さにあるお互いの下肢が僅かに触れあった。 「…っ」 兆しかかっていた己の状態に、気付かれた、と青ざめるより先に、押しつけられる様にして銀時の固くなったものを当てられて、土方は小さく息を呑んだ。 酔って馬鹿になっている、とか。口接けについぞ夢中になって仕舞ったから、とか。最近忙しくて処理なんぞする暇がなかった、とか。色々な言い訳を浮かべる前に、銀時が少しばかり困った様な表情を浮かべるのが見えた。 「……ひじかた、」 犬が飼い主に伺いを立てる時の様な目だと思った。期待と熱情と欲とを孕んで、なけなしの理性を引っ張って、飼い主の事を尊重し待っている。そんな動物じみた目だ。 駄目? 恐らくはそう問いている。言葉より雄弁な触れ合った下肢の熱はそれよりも先の望みを語っていると言うのに。 「………俺、は、」 本心が見つからない侭絆される。流される。諦めて仕舞おうとしている。 これが誤りになるのか、ここが過ちになるのか、それともこれは見過ごして来た好意として許しても良いのか。 口接けひとつだけでまるで、全てが融かされ崩れて行く気がした。飲み込んだ混じった体液の様に、この侭原形質にまでぐちゃぐちゃに融けて、男の得体の知れない好意も、己の意図の知れぬ逃げも嘘も模索し続ける可能性も、全部一緒くたにひとつの鋳型に収められて仕舞えば良いのにと、そんな荒唐無稽な事を考えた。 土方は困惑に顔をぐしゃりと歪めた侭、何呼吸か分だけ躊躇って、それから目の前の銀時の白い着流しに額をぐっと押しつけた。脇から回した手でその肩を掴んで──ああ、此処に全てのはじまりになって仕舞った瑕があるのだろう、とどこかでぼんやりと考えながら、間近にある男の少し早い鼓動を感じて目を固く瞑った。 戦慄いた己の唇が、どこか宿に連れていけ、と辿々しく紡ぐのを、まるで他人事の様に聞きながら。 四ヶ月前の事でした(後出し /1← : → /3 |