天国の日々 / 10



 ECGモニタの中では規則正しいバイタルサインが、時を数える音の様に静かに響いていた。
 自律呼吸の侭ならない状態を示す様な、気管挿管に因る漏れる様な呼吸音がそれに合わせて淡々と繰り返されている。刻一刻と流れる、時間の緩慢さを殊更に知らしめる様に。
 投げ出された腕や手術着の中からは点滴と計測機器とが細い管を通してぶら下がっており、そうして眠る土方の姿はまるで蜘蛛の巣に絡められた弱々しい虫か何かの様に見えた。
 壁際のブースだから、カーテンは向かいと隣との二箇所を覆える様になっていたが、向かいに面した通路側の方は開けておくようにと医師に言われたので、大きく開けてある。
 その小さなブースの中で銀時は小さな丸椅子に座り、ただじっと、瞑る患者の白い貌を見つめていた。
 
 副長の護衛をお願いします。
 それが山崎の願い出た『依頼』だった。

 *

 「本来ならば、警察官専用の病院へ運び込みたかったんですが、副長の容態はとても時間を許せる状況ではなくて、仕方なしにこの、一番現場から近く設備の整った病院へ運び込むしかなかったんです」
 そう切り出した山崎はそこで一旦言葉を切って、何となくナースステーションの方を伺う様な仕草をしてみせながら、声を心持ち潜めた。続ける。
 「ここは民間の病院なので、人の口に戸、立て辛いんです。
 そして、犯人は警察関係者を狙っていると見られる中、副長の声を聞いて起爆した可能性が高い訳です。と、なると死亡者が発表されていない以上、副長が重症で生存しているとは既に知れている筈で、既にその筋の話は噂程度に攘夷浪士の間にも流れていると見て間違いなく、」
 「ぶっちゃけちまいますと、今の土方さんなら誰にだって容易く首が獲れるって事でさァ」
 (ほんとぶっちゃけたなコイツ…)
 言い辛そうにしている、山崎の後を引き取ってさらりと続ける沖田に思わず胡乱な視線を流してから、銀時はここまでの納得を示して軽く頷いた。硝子窓の向こうのSICUを振り返らずとも、その様子を間近で観察せずとも、今の土方はそれこそ殺されたって気付きはしないだろう事ぐらい解る。
 「セキュリティの万全な病院に移送したいのは山々なんですが、今の副長を動かす事も出来ません。報道と、不審人物と、警備に人員は割いていますが、如何んせん手も力も及んでいるとは言い難いんです」
 巷を騒がせる攘夷浪士にとって、土方はある意味で局長の近藤よりも余程目の敵にされている男だ。治安の余り宜しくない町を単身無防備に歩いてみようものなら、不逞浪士の一人や二人釣れる事はしょっちゅうだと言う。何れも単純に土方を殺したいと言う訳ではなく、攘夷の徒が襲撃し殺害せしめた、と言う示威や誇示が重要である為、そう易々とは命を狙ったりはしないが、機会があれば飛びつくに否やは無い、と言った所らしい。幼馴染みの某攘夷志士談。
 と、なると、今回の爆破事件で重傷を負ったのがその真選組の鬼の副長で、今ならば確実に仕留められる好機がある、と来たら、刺客を送り込むなり暗殺を目論むなりと言った手段に出る可能性も高いだろう。
 先頃通って来たエレベーターホールの付近には真選組隊士が立っていた。恐らくこの他、入り口などにも配備されているのだろうが、多数の人間の出入りするフロアを全て監視するには到底至らない。
 堂々と刀でもぶら下げてSICUに飛び込んで来るならまだしも、医者や看護婦を脅して何かを仕込まれたり細工をされたり、或いは病院関係者に変装したりと言った搦め手で来られるものへの対処は些かに難しい話だ。それこそ、二十四時間態勢で貼り付いていられない限り。
 (それで、俺、か)
 「旦那、どうかお願いします。副長の警護依頼、受けては貰えんでしょうか…!殆どの人員が犯人を追う事や事後処理に割かれている今の真選組(ウチ)では、人手でも腕でも副長を護りきるのは難しく、もう旦那しか信頼して任せられるお人がおらんのです!」
 銀時が結論に至るのとほぼ同時に、山崎が切実な調子を隠せない様子でそう言い切るなり腰を綺麗に九十度、曲げて頭を下げてくる。
 この分だと、電話を掛けずとも何れ依頼は来ていたかも知れない。そんな事を考えながら、抜いた袖で顎を引っ掻く。別に頭を下げられず迄も無く事態の切迫感は感じてはいる、のだが。
 答えは決まっているが、感情を向ける先が未だよく解らない。瞋恚なのか心配なのか、それともただの気まずさ、なのか。
 少し考える様な素振りをする銀時の事を、沖田の熱の無い眼差しが見つめている。それに圧された訳ではないのだが、惑いにも似た感情に押しだされる様な溜息が、空気の抜けた風船の様に漏れた。
 「……じゃ、報酬は時給計算で。食費諸々、経費に当たると思うもんはその都度別払いでな」
 それなら良い、と続ける銀時の言い種は大凡、『ニュースを見て心配して電話を掛けて仕舞った』顔見知りのものとは思えない不遜な言い分と口調だったが、山崎はまるで縋る藁を見つけた溺死寸前の人間の様な顔で、がばりと頭を持ち上げた。それからもう一度、二度と頭を下げて、「ありがとうございます、旦那…!」何度もそう繰り返した。
 その様子が今にも泣きそう出しそうだと、何となくそんな気がしたので、居心地が悪くなって目をついと逸らしてみれば、そこには相変わらずこちらを値踏みする様に見つめる沖田の顔がある。だが、何らかの疑問符を浮かべるより先に、彼は銀時と目が合うなり、その場でくるりと踵を返した。
 「話も決まった様なんで俺はこれで。旦那、後は頼みましたぜィ」
 ぷらりと手を振って、エレベーターホールの方へと向かって行く栗色の頭をじっと見送ってから、銀時は結局出し損ねた感情を飲み下した。
 まさか沖田がこの期に及んで土方の暗殺を本気で目論んでいた訳ではない、と思うのだが、どうにも彼には銀時の様子から今ひとつ気に沿わぬ『何か』を感じている風にも見えた。先頃、階下で会った時からずっと。
 まあ今はそれを斟酌しても仕方がないかと、銀時は耳を小指でほじる素振りをしながら片手を山崎の眼前に突き出した。
 「へ?何です、」
 「電話。万事屋(ウチ)に、暫く帰れねぇかも知れねぇって連絡入れさせろや。事件の話…っつーか依頼内容についちゃ取り敢えず俺は黙っとくから、伝えるか伝えねーかの判断をいつ出すかはテメーに任せるわ」
 まさかいきなり報酬請求か、と、出された手にやや腰の退けていた山崎だったが、銀時の言い種を受けると得心と安堵とを混ぜた様子で頷いた。隊服のポケットをぐるりと探り二つの携帯電話を取り出す。折り畳みのシンプルな黒いものとブルーのもの。支給品なのか同じ機種の様だ。
 「……っと、こっちは」
 「いや、そっち貸せ」
 黒い方の携帯電話を寸時苦々しい表情で見下ろした山崎はそれを引っ込めようとするが、銀時はそれを手で制した。ひょいと取り上げる。
 「でも旦那、そっちはあの、副長の、」
 見覚えのある黒い携帯電話を手の上でくるりと弄ぶのに、山崎がまるで頑是ない子供を咎める様な、申し訳無い様な表情を浮かべるのが解ったが、銀時はそれに構わず事も無げに続ける。
 「だからだよ。リダイヤルした方が早ェだろーが」
 先程銀時が万事屋からダイヤルしたのは、こちらの黒いボディカラーの土方の携帯電話宛にだ。山崎のものを借りていちいち電話番号を入力するより早いだろうと応え、後は反論の可能性を封じる様に、銀時は二つ折りの携帯電話を開いた。勝手知ったる風情で操作しながらエレベーターホールの方にふらりと歩き出す。
 別段内緒話をする訳でもなんでもないのだが、なんとなく人前での電話は周囲を憚りたくなる。携帯電話を持ち慣れない者の性だ。
 エレベーターホールではなく、その向かいの階段の方に曲がると、一つ踊り場まで昇った所で銀時は壁に背を持たせかけた。着信履歴から、『天然パー』などと言う不本意且つ不愉快極まりない名前で登録されていた、万事屋の番号を選ぶと発信ボタンを押す。
 アドレス帳から削除されていなかった。過去形の筈の事実に打ち拉がれるに似た心地になって、銀時は唇を噛んだ。
 
 
 ワンコールも鳴り終わらぬ内に電話に出た新八は、テーブルに一人酒の残滓を残した侭で銀時が姿を消していた事と、テレビで頻りに報道されているニュースとの関連性から、どうやらその関係だろうと践んでいたらしい。詳細はボカした銀時の説明にも深く訊き出そうとはせずに納得を示してくれた。
 話が早い事に胸を撫で下ろしつつ、銀時は取り敢えず簡潔に『暫く帰れないかも知れない』事と、『万事屋は休業にしても構わない』事に加えて、大事はないから心配する必要はない、とだけ伝えた。……無論これも、誰に、とは言わない。
 新八は事件のニュースから事態の大きさを推し量りでもしたのか、どことなく不安感を感じさせる声音で了解を寄越した。
 誰、が。どう、とは。お互いに一言たりとも触れはしなかったが、真選組が爆破に巻き込まれ重軽傷者を出した事と(報道規制をかけ、怪我を負った者らの素性や怪我の程度は未だ明かされていないと言うが)、それに関連して銀時が暫く帰れない様な依頼を受けたと言う話から、万事屋の──もとい、銀時の『腕』が見込まれたのだろう理由に、なんとなく想像はついている様だった。
 誰だって、顔見知りの人間に何かあったのかも知れないとなれば、それは不安にもなるだろう。
 それらの感情を込めた様な精彩の無い声からは、自分達も銀時と同じ万事屋の一人なのだから、共に依頼を受けたい、不安とも焦燥ともつかないこの感覚を共有する事で薄めたい、とは思っているに違いないだろう、そんな様子も伺えた。だが、新八は銀時の説明した事以上に無用に話を掘り下げる事はしなかった。
 電話を替わった(と言うより無理矢理受話器を奪い取った様だった)神楽も、心なし普段より声が沈んでいる様に聞こえた。こちらは単に未だ眠いだけなのかも知れないが。
 「銀ちゃん、助けが要るならいつでも呼べヨ!」……などと、どこかの映画かドラマの台詞なのか、無駄に気取った言い回しと口調とで言って寄越した神楽に、定春の餌忘れんなよ、と最後に言い添えてから、銀時は通話を切った。
 騒がしい声が途切れて、開院前の病院の静けさがひととき痛い程に鼓膜を打つ。
 現実味の失せた報道。無意味なニュース速報。無関心な世界。今、ここにいたかも知れない人間が、次の瞬間にはもうそこにいない、無辜な社会。無惨な犯罪。無慈悲な現実。
 一気に背を伝う倦怠感に上から押し潰される様に、銀時は為す術もなくその場にしゃがみ込んだ。
 『死』の実感は、戦の有無に拘わらずとも、人が生きる上では不可避の現象だ。ただ、その中でも自分は、戦に出ていた経験から、与えるも被るも、普通に暮らす人々よりは慣れているのだろうとは思っていた。割り切る術も知っていた。
 近くはない。未だ、遠い。だが。
 死体だらけの戦場は、剣戟も闘争の声も最早無く、ただ鎮かだった。
 見回せば手に触れる場所全てに、目に入る場所全てに『死』があって。堪らなくなって吼えた。生きて動く何かがいないかと、声を上げて哭いた。
 こんな、日常の、朝のはじまりの様な陽光の中で。朝餉の匂いなぞの漂う中で。外科手術と機械に因ってひととき長らえた『だけ』の命がそこに在って。今も猶その命を摘み取らんとする人間や気紛れな死神が其処に居ると言う、一種現実から乖離した様な、余りにそれらしい現実が目の前に置かれた。
 恰も此岸と彼岸の境界線の様に、『死』の気配など無かったものの周りを瞬く間に覆い尽くしている。
 それを認めると言う事は、目の前の死と等価の煩悶だろうかと暫し悩んで、かぶりを振った。
 これは、本来ならば己の纏ろう筈もなかった、現実だ。
 「ひじかた、」
 戦慄く手で顔を覆った。指の隙間から掠れた声が、『その』現実を思い知ろうと、紡ぐ。名前。
 「ひじかた。土方、」
 掠れた声はその響きで空気を奮わせる事もなく、吐息にも似た音に混じって、消えて。

 *

 途方に暮れた酷い感情は、それから早六時間、いっそ虚無感にも似て銀時の裡をひたひたと湿らせ続けていた。
 別れを切り出したあの日から、数えてみればまだたったの八日しか経っていない。それだと言うのに、刻む時は何をどう違えたらこうなるのか、と言うぐらいに余りにも全てを違えて仕舞っていた。
 自分が何かをしたからこうなった、などと言う因果を無理矢理探そうとは流石に思わない。そこまで不幸に耽溺する気になぞなれはしないし、話を聞くだに土方は別に原因を銀時との別れに端を発する様な、例えばミスを犯す程の疲労やショックを抱えていた訳でも無さそうだった。
 単に、職務の中で、卑劣な罠に掛かった。それだけの顛末だ。
 生きていても、死んでいても、傷を負っていても、臥していても。自分には何も纏わる様な理由は存在しない。分かれた、と言うその有り様の通りに。
 だから、別段罪悪感を感じる訳ではない。──当然だ。無関係なのだから。
 仮に『付き合い』が未だ続いていたとして、ここへの帰結は同じだ。土方が生死の境に立たされている、その事実はどうした所で、どうなった所で覆し難い現実だ。
 警護を初めてからは二度だけ、SICUの直ぐ外で見張りに立っている隊士に断りを入れて厠に立ったのみで、銀時はそれ以外には一秒たりとも、管に繋がれ生命維持を受ける土方の瞑る姿から視線を外す事はしなかった。
 看護婦が何度か様子を見に来ては声を掛けて行くが、返す言葉も簡単な相槌のみしかない。ナース鑑賞し放題と普段ならば浮かれただろう状況だと言うのに、銀時の意識は治療や検査に動くその手つき以外には向けられなかった。
 医者は回診時間に一度、軽く様子を見ていった。前にも何度かこの病院で見た事のある医者は、難しい顔をしながらカルテを記したのみで、それ以上は何もしたりはしない。付き添っている男が部外者であるとは知らされているのだろう、容態についてわざわざ何かを説明したりもしない。ひょっとしたら問えば答えてくれたのかも知れないが、銀時には問いかけひとつ浮かばなかったのでそれは解らない。
 それらの際に覗き見た手術着の下には、痛ましい傷痕が幾つも残されていた。銀時が嘗て何度も辿った肌の上には無遠慮な手術痕があり、顔を含めた身体のそこかしこには大小破片などで穿たれたのだろう傷が認められた。ガーゼを当てられたそれらの傷は、果たして残るものだろうかと、そんな益体もない事を考える。
 半開きになった口に填められた挿管が、か細い土方の呼吸を助けている。手に繋がれたチューブの先の点滴が、弱った土方の生命力を補っている。
 それらと同じ様に、傍に座しているだけの自分が、土方を護る何かであれば良いと思った。少しでも目を離したら死んで仕舞うと思った訳ではないが、何かが届かないかと、何かが変化したらそれを見逃すまいと。只管にじっと、熱心な程に。
 ともすれば仄暗い想像に囚われそうになる意識を叱咤して、ただ見つめていた。







/9← : → /11