天国の日々 / 11 近藤が来たのはそれから更に三時間後の事だった。昨晩から休んでいないのだろう事に加えて精神的な疲労があるのか、逞しい顔つきは普段のいっそ脳天気な精彩をまるで欠いており、酷く草臥れて見えた。 隊服は着崩される様な事にはなっていないが、張りが無くよれている。記者会見やその後の会議だのなんだので、相当揉まれでもしたのかも知れない。 幾ら剛胆な性格のゴリラと言えど、流石に絶対安静の病人達の中で会話に励む様な非常識さは無かったらしい。硝子窓を軽くノックする事で呼ばれた銀時は、SICU内部や土方に異常が無い事をざっと確認してから廊下へと出た。休憩所へ行くかと促されたが、仕事中だ、と簡潔に断ったので、硝子窓越しに見るとも無しに、臥す人を見守りながらの立ち話になる。 「……すまんな、万事屋」 「アァ?何がよ」 開口一番そう言って目を伏せる近藤に、思わずつっかかる様な声が出た。こんなだから、不本意な依頼を受けているとでも思われたのかも知れない。思うが、どう取り繕えば『いつも通り』の自分たち足り得るのかがよく解らず、銀時は諦め混じりに一度天井を仰いだ。溜息を逃がしながら極力軽い調子を心掛けて言う。 「乗り掛かった船…て訳でも無ェが、依頼料がちゃんと支払われるんなら、万事屋(ウチ)的にゃ立派な仕事だしィ?テメーが気にする様な事じゃねーだろそんなん。寧ろ、依頼主らしくコキ使ってやるぐれェの気持ちでどんと構えてりゃ良いんだよ」 そんな銀時の言い種に、近藤は少しだけ、疲労した顔の上に笑みらしきものを浮かべた。 「すまんな。確かにらしくねぇ。有り難う、銀時」 言い直しの心算だったのだろう、大真面目な声でそんな風に返されるが、それを上手く受け止める事が出来ずに銀時は肩を竦めて躱す。 「らしくねェマジ面やめてくんない。それも立派なフラグだから。今度は局長が過労死とか流石に俺でも笑い辛ェからソレ」 「はは、そう簡単に死にやしないさ俺は。……無論、トシもな」 テメーはお妙に何遍撃退されてもいつもケロっとしてるしな、と銀時が揶揄しかかった台詞は、近藤の両拳が体の両脇で硬く、固く握り締められるのを見た事で留まって出ない。 「…………なら良いさ」 お互いに、軽口が冗談未満のものになる事を肌で感じている。殊更に空気を重たいものにしたい訳では無いと言うのに、気休めに足る接ぎ穂すら思いつかない。そして銀時には端からそれを探そうとする気もない。 故に、その侭暫く無言の時間が続く。そして、そこに居る人間が沈黙を保とうが大騒ぎをしていようが無関係に、硝子の向こうでは何かの時が刻まれ続ける。機械音に紛れた拍動と共に。 刻む音に誘われた訳ではないだろうが、近藤が壁の時計を見上げる。SICUの入り口付近の柱に取り付けられている薄っぺらな掛け時計は、ただただ勤勉に時を刻み続けていた。人間が見上げようが気にも留めないでいようが変わる事もなく。 何かを数える音、数える様な音と言うのは無駄に焦燥感を煽る。それは見えざる手で背を少しづつ押し出される様な実に厭な感覚だ。単に今の己の心境が反映されているだけだとは思うが。 そんな事をぼんやりとした頭で銀時が考えていると、エレベーターホールの方から山崎が小走りに駆けて来た。 「局長、旦那」 おお、と、顎を引く近藤へ軽く頭を傾けてから、山崎は手にしていたビニール袋をずいと銀時の眼前へ突き出した。一階の売店ではなく近所のコンビニ産の様だ。何処かで見た様なロゴマークがビニール袋の表面には印刷されている。 「なにコレ」 「差し入れです。お昼に大分遅れて仕舞ってすみません。もっと早く来ようと思ってたんですが、何分時間が空かなくて…」 お昼、と言う言葉に、近藤が再び時計を見上げた。時刻はもう夕刻に差し掛かる頃だ。どう間違っても昼と分類して良いものではない。そんな事を思ったのか、時計を見つめた侭の眉が少し寄せられて、それに合わせる様に山崎は申し訳なさそうな表情を面に浮かべた。 時計を見上げずとも、言われてみれば軽く半日近くは水分以外のものを口にしていなかった、と気付くが、不思議と腹が減っていると言う感じは余りしなかった。正確に言うと、腹が空いていたとしても食事が喉を通り辛そうと言う感じだった。 一応礼を言って銀時が袋を開いてみれば、そこには大量のあんぱんといちご牛乳のパックが入っていた。見事に予想を違えない光景ではあったが、一仕事やり終えた後の様に妙に晴れ晴れとしている山崎の頭を軽く叩いておく事にした。何かムカついたので。 「痛!」 「予想通り過ぎて涙出たよ。いちご牛乳って所に気ィ遣う前にもっと他に気ィ遣うべき所あったよね。絶対なんか他にあったよね」 まあ言った所で詮の無い話かと諦める。わざわざ買って来たものらしいと言う事に変わりはないし、食べ物と言う名の栄養である事にも変わりはないのだ。 SICUの中は流石に食べ物の持ち込みは禁止だろうと思ったので、銀時はその場であんぱんの袋を一つ開いた。それこそ、無理をして護衛が先に倒れるとか馬鹿馬鹿しい話は真っ平御免だ。念じる様にそう諳んじると、半ばヤケクソな心地であんぱんを囓って無理矢理に嚥下していく。 機械的にあんぱんを押し込む銀時の様子を、あんぱんと言うチョイスへの不満であると判じたらしい。山崎は叩かれた頭を軽くさすりながら言う。 「今さっき病院側に話つけてきましたんで、入院患者用になりますが、定時に食事が用意出来る様にしておきました。あんぱんはこれっきりですので安心して下さい。……あと、椅子的なものも用意した方が良さそうですね」 山崎は立った侭あんぱんを黙々と咀嚼していく銀時を見上げて、それから廊下を軽く見回すが、生憎集中治療室付近に椅子は用意されていなかった。ナースステーションの方まで戻れば待合い用のものがあるのだが、SICUからは少しだが距離が空く。 いちいち立ちっぱなしなのは流石に不便だと感じたのだろう。山崎は提案するなり応えも待たず、ナースステーションに何やら話をしに行った。簡易的な丸椅子とかパイプ椅子的なものでも借りに行ったのだろう。いちいち尋ねるのも考えるのも億劫だったので勝手にそう思う事にしておいて、銀時はいちご牛乳を一気に煽って喉でカサつくあんぱんを押し流した。溜息。 「病院の飯だからそう贅沢は言えんが、糖尿のお前の健康状態には良いかも知れんなぁ」 何一つ楽観的な何かが出た訳でも無いのだが、近藤は少しでも空気を明るくしようとでもしたのか、いつもの様な豪快な笑い声を交えて揶揄混じりに言う。 それ自体に何か厭なものを感じた訳ではない。だが、銀時は寸時出掛かるくろい感情を呑み込むのに苦労した。顰めた顔を見られない様に硝子窓の向こうへと真っ直ぐに向けて、 「糖尿じゃなくて寸前ですゥ」 と気分を害した様な振りをして逃げる。 疲れて、いるのなら。多少は感情のぶれ幅が上手い事制御出来なくなる事もある。だから、そういうものに違いないのだと、思う。 それが、意に沿わぬあんぱん食や、近藤の言い種に拗ねた様な調子で、それで誤魔化せるならば良い。 そんな銀時の横顔に何か拒絶の色でも感じたのか。近藤は巌の様なその面相に何かの感情を浮かばせかかった様だが、やはり結局は口を噤んだ。山崎と言い、どうにも銀時の『今』の様子には彼らが感じる『何か』が──言葉を濁す様なものが覗き見えるらしい。例えば、気まずさ、の様なものが。 その正体を銀時は無論知る由もない。知りたいとも、多分今は思わない。不快感であろうが戸惑いであろうが不安であろうが、目先数糎の所にあるやも知れないそれを、わざわざ暴き立てて見てやろうとは到底思えないのだ。 そうする内、近藤は壁の時計をちらりと見上げてから、「そろそろ捜査会議の時間だから、戻らねばならん」と切り出した。何度も時計を見上げ確認する、そわそわとしたその動きからも余り時間が無い中無理に此処に来たと言う様子は最初から伺えていた。 時間が無かろうが、疲労に見舞われていようが、本当ならば土方の傍でその無事を確認していたいと誰よりも思っているのは、近藤のほうなのかも知れない。 (俺、じゃ、なくて) 警護対象の安否を気遣う、気に病む、などと言うのは、部外者、の本来関わるものではない個人的な部分だ。だからこれは至極当たり前の話で。自分は単に、瞑る警護対象(それ)を見守っていれば良い。 ……それだけの話だ。 ビジネスとして扱えば、それだけ気が楽になる。わかれた、と言う事実を思い知るとも知らせずとも拘わらずに済む。土方が目を醒ました暁にも、お前が心配で付き添っていた訳ではなく、依頼だから居ただけだ、と言ってやる事が出来る。 「おう。犯人逮捕まで気張れやお巡りさん」 ほんの僅かだけ口の片端を持ち上げて言ってみせれば、近藤は少し安堵した様にも見える、小さな笑みをこぼして頷いた。 その笑みを向けられる側から逃げようと、SICUの入り口へ向かう銀時の背を追う、声。 「無論だ。──銀時、」 「……なァにィ?」 未だ何かあるのか、と殊更そんな調子を隠さずに言いながら、入り口にある消毒液を吹き付けて手を清潔にする。SICUは別に無菌室と言う訳ではないので、この程度で立ち入って問題無いのだ。 もう仕事に戻る、とそんな意志を示した銀時の行動に、近藤は小さく息を吐いて、然し直ぐに思い直した様に呑み込んだ。続ける。 「…………トシを、頼む」 「……、」 直ぐに応えなかったのは、言葉に詰まったから、と言う訳ではない。 向けられた言葉に託された切実さを読み取って仕舞った故だ。 近藤は、どう言う意味で『頼む』と口にしたのか。それが解らない程に銀時は鈍くはなれそうもない。 護ってくれ。と。 依頼とか、使命感、とかではない。そんなものに、近藤の最も大事にするだろう人間のひとりを軽々しく『頼む』訳がない。 本来ならばきっと、自分が代わりたいぐらいの、その役割。 臥す人の傍らに居る事で、症状が改善されるなどと言う眉唾な話は銀時は特に信じていない。だが、願わくば『そう』在って欲しいと、頼んでいるのだ。 「…こっちの心配はすんな。仮にも大将なんだ、テメェの方はもうちっとマシな面しとけや」 軽口の様な調子でそうさらりと言うと、後は近藤の返事は聞かずに銀時はSICUへと入った。 恐らく、土方が喋れる状態であれば、自分達の大将にきっとそう望んだ筈だ。……そんなお為ごかしに聞こえれば良い、と。態と、思いながらも言葉を選んで口にした。 振り返りはしなかったが、硝子窓の向こうの近藤は何か是に類する事を応えた様だった。それからゆっくりと立ち去って行く足音。 山崎は廊下に椅子を置きに一度は戻って来るだろうが、あの男とて暇ではあるまい。銀時が『仕事』に真面目に戻っていると見れば、長居もせず帰るだろう。 一人になれた、と言うのは、何故だろうか、仕事に戻ると言うだけの話だと言うのに逆に解放感があった。何しろ言葉を一つ探すのにも億劫で、望まれている様な役割で在る事に酷い虚脱感を憶えているのだから。 ふらり、と丸椅子の上に腰を下ろす。通常の入院用のベッドより少し高い位置に寝かされている土方の顔は、そうすると銀時の視線の僅か下ぐらいに見える様になる。 気管まで通った挿管の器具が痛々しい。向かって右側は目元までを覆う包帯が痛々しい。手当もされない小さな擦り傷や打撲痕が痛々しい。 近藤の様な情に厚く感情的な男だったら、この空気に堪えきれず何分間隔で号泣するやも知れない。 苦笑すら浮かばぬ思いつきは、静かなこの空間には酷く似つかわしい。或いはこれは、臥す人を見つめ待つだけのこの時間は、突きつけられている現実を呑み込み易く、じっくりと咀嚼して行く為の段階なのだろうか。 こうして間近で見るとまざまざと、『ここ』と『そっち』とが違うのだと思い知らされる。それをこの手で捕らえる事はきっと出来ない。手を伸ばす事も躊躇われる『今』は余計にだ。 それは何の境界だとは、理解している。俺とこいつ、とか。公僕と浪人、とか。或いは、生と死、とか。交わる筈の無かった途が偶さかの心の向いた方角一つで交わって、そうしてまた分かたれた、そんな境目の事だ。 分かたれても、こうして関わって、消えていない身勝手な想いがじりじりと身を焦がす。喚き散らしたい程の不安不快感閉塞感願望、奪わないでくれ殺さないでくれこの侭にしないでくれ関わらせないでくれ。こうして傍に置かれている、それだけで心のどこかの裂け目から形にならない声が漏れ出しそうなんだ。 諦めなければならないと思って、手を放した筈の意志が、揺らぐ。未だ、どうやってもこんなにも好きで諦めきれなくて苦しくて悔しくて、弱々しく瞑るお前に、何処にも行くな、俺の元に帰って来てくれと叫びたくなる。 ただの『依頼』で留め置かれた筈、と言う己の立場を勘違いして、恋人としてお前を案じたくなって仕舞う。 突き放して分かれて、それで後は淡々とこの恋情を閉じ込めておこうと思ったのに。そんな銀時の慎ましい努力を嘲笑う様に、近藤達は確固たる信頼の眼差しを向けて、言うのだ。 「……………頼む、ってよ?」 簡単に言ってくれるよなァ。 酷く無惨に打ち据えられた様な心地を憶えながら、銀時は瞑る土方に向けてひとりごちた。 返るのは。相変わらずの呼吸器の音やモニタの電子音のみだ。 全身が砕ける様な怪我を負って、手術で持ち直されて、今は様々な機械に繋がれる事で生き長らえてそこで『眠って』いる土方は、銀時の呟きにも何の反応も示しはしない。恐らくは嘆きにも。呼びかけにも。怒りにさえも。 点滴を打たれて布団からはみ出た、負傷の痕も痛々しい腕も、指も、ぴくりとも動きはしない。 (俺が居たんじゃ、余計、目なんざ醒ましたくなくなんじゃねぇかなァ…こいつ) そんな、埒もない事を考えてから銀時はそっと無言で目を伏せた。 お見舞い一号。アレ、進んでないようにみえる…。 /10← : → /12 |