天国の日々 / 14 頭を強く打った事に因る外傷を要因とした、逆行性健忘の一種でしょう。 医師はそんな風に、固まった侭でいた三人に向けて切り出した。 「但し、事故の状況が衝撃的であった事や、まだ昏睡状態から目覚めたばかりと言う事を踏まえて、一時的な記憶障害を起こしているだけと言う可能性もあります。朝になって専門医が来ましたら、脳の精密な検査と口頭での問診を行いましょう」 説明は素人向けに噛み砕いて言ったものだろうが、要するに今の土方はよくある「ここは何処?私は誰?」と言う状態にあると言う事だ。 一時的なもの、とは言った所で、自分の名前すら言えなかったと言うのは、先行きの不安でしか有り得ない。認知症でも健忘症でも自分の生年月日と氏名だけはすらすらと言えると言う例も珍しくないのだ。 今は単にショック状態で、混乱しているだけだ、と思いたい。だが、茫然とした眼差しで世界を、自分たちを見つめていた土方の、常には憶えの無かった弱々しい眼差しを思いだしてみれば、そんな気休めも通じてくれそうもない。 自身記憶喪失になった覚えのある銀時ではあったが、自分が無い、と言う事は、その人それぞれの性質や状況もあるのかも知れないが、思いの外に焦燥感が無いものだった。ただぼんやりと、そういうものなのだろう、と目の前のものを与えられた情報として受け取って行く。単純なインフォームドコンセントの様に。何の疑いもなく。その他の選択肢を知らないのだから仕方なく。 だからこそ、次々突きつけられる事実が己の中でだけは事実ではない事が酷く不快で、己で全く異なった選択肢を求めて逃げたのだった。 取り敢えず今はまたその侭眠りに落ちて仕舞ったと言う土方はその侭に、説明を終えた医師と、看護婦たちも一旦引き揚げていった。 何かあったらナースコールを、とだけ言い含められて、結局未だ留め置かれる事になって仕舞った銀時は、近藤と、電話から戻ってきた山崎と、三人でSICUをぼんやりと見つめて立ち尽くしている。 沖田は、土方が記憶障害の症状を起こしている、と知れた途端に、「馬鹿馬鹿しくて付き合う気にもなれねーや。先に車に戻ってますぜィ」と不貞腐れた様に言い置いて去って仕舞っている。 ……まあこれについては何となく解るような解らないでもない様な──要するに解る気もしたので、敢えて触れも言い募りも銀時はしなかった。近藤も特に何も言わなかったので、こちらもまた大体察していると言う所なのだとは思うが。何れせよ外様の身には余計なお世話だろう。 ともあれ。先程と面子を多少変えた所で、重苦しい沈黙と空気と現実とが横たわっている事に何ら違いはない。寧ろそれぞれの心境は先程までよりも酷いだろう。 山崎は直接土方の症状を見た訳ではなかったが、話を聞いただけでたちまちに顔色を無くした。説明をした近藤の様子がそれ程までに悲痛であったと言う事も勿論だが、仕事柄事務的に現状と、今後をどうしたら良いのか、と言う所までを無意識に模索したに違いない。 土方は真選組の副長だが、同時に、荒くれ者共が辛うじて厳しい規律と指導者のカリスマと築かれた連帯意識や絆に因って体を為しているに過ぎない組織の、実質的な『脳』と言える存在だ。 真選組は組織としての役割だけを見れば、幕府に忠実な狗共として、只の武力として在った方が権力者には望ましい様なものだ。 放っておけば只の無頼漢として野に散る様な連中がその構成員の殆どだが、切れ味がそれなりに優秀な刃であれば、高級な鈍より余程使い途を模索する事は叶う。故に本来、彼らは只の刃として愚鈍である事こそが望まれる。使い捨ての投擲刃であっても構わない。そう言ったものでしかない。 だが土方の目指した『真選組』はそれらの思惑とはまるで異なったものだった。 この国の男が抱く『侍』を形として体現し、そう在る事を各々が自らに課す為の居場所。真選組がその形で在る事を望む為には、ただただ力自慢の厄介者であるだけでは駄目なのだ。 権力者達に『使い途』に足りる、実用的な存在である事をアピールしつつ、同時にそれを容易く飼い慣らす事は出来ないと知らしめる。 それを体現させていた優秀な舵取りが居て、その様に賛同を憶えた『侍』が多かったからこそ。利害の一致の様な形で、真選組は結成以降ずっと他の警察組織には無い超法規的な権限を保ち続け、武力に於ける一任者として何とか長らえ続けているのである。 彼らが少々厄介な騒ぎを起こした所で、それが最終的には放免に近い事に終わっている事がその良い顕れである。 さて、その真選組から、舵取りを一手に担う土方が消えたとしたらどうなるのか。 無論組織としてある程度の実績や功績、評価もあって当面はなんとかやり過ごせるだろうが、長期的な目で見るとそうも行かなくなるだろう。早い所土方に代わる頭脳とカリスマを持ち、何より信頼に足る柱が必要になる。 そして、そんな人材が──もとい存在が、土方以外には居はしないのだと、誰もが解り切っている。 故に山崎は顔を強張らせた侭、無駄口も叩く事が出来ずに俯いて動かない。近藤や銀時の様に記憶喪失から戻った例もあるのだし、未だ希望が全て絶たれた訳ではないとは思っているだろうが──或いはだからこそだろう。『真選組の副長が記憶喪失かもしれない』などと言う現実を、どう隠して治療したら良いものかが解らないのやも知れない。 土方の存在に何らかの瑕疵が生じたとなれば、ここぞとばかりに動き出す輩は攘夷浪士だけではない。警察組織側にも、これを機に真選組を解体ないし力を削がせるなどと言う目論みを抱く者も居るだろう。 行き詰まって、息の詰まった山崎の懊悩を横目に見て、真選組を率いる大将である近藤がどれだけの未来を考えていたかは解らない。が。 「……万事屋」 長く重たい沈黙の末に、近藤はやがてそう切り出した。真剣な話だと言うのに屋号が出たと言う事に、銀時は胡乱な表情を向けて応じる。 「依頼だが、もう暫く継続してはくれないか」 「……」 どうして、とは聞き返さなかった。近藤は先の先の未来は描けてはいなかったかも知れないが、少なくとも確実に来る『明日』を見ているのだと知れたからだ。 「記憶、の方はまだ解らねぇが、容態の方は快復に向かうだろうって話だ。と、なると一般病棟に移る事になるだろう。そうしたら病室に泊まり込み、と言う形で、頼めないか」 頼む。それの指す所は無論、護衛の事だ。他意などはそこには差し挟まれていない。 靴先に向いていた頭を俯き加減にまで起こした山崎が、そこに割り込む様に続ける。 「少なくとも、記憶がどうとか、その事は部外秘と言う事にしなきゃなりません。だから、この侭の副長では警察関係の病院には到底移せません。警察関係の病院では、当然話は関係者全てに知れます。副長が……こんな状態では、俺達では真選組を護りきる事は、難しいんです」 「…………世知辛い話だねェ。味方の筈の組織にゃ足下を掬われるし、一般の病院だと攘夷浪士に命狙われるかも知れねぇと」 自ら口に出して見せる事で、正しく現状把握が出来ていると言う事を示しながら、銀時は態とらしい仕草で肩を竦めてみせた。 その様が呆れから出たものだと解釈したのだろうか、不意に近藤が頭を下げた。思わず銀時も山崎もぎょっとなる。真選組の局長、仮にも隊士の命を多く預かる責任ある立場の公人が、一般人に頭を下げて哀願する事など、あってはならない姿だ。それをどちらかが咎めるより先に、近藤は声を振り絞って叫ぶ。 「頼む、万事屋!トシが…、こんな事に、本当になっちまったって言うんなら、本来は俺が、戦う事も出来ねぇだろうアイツを護ってやらなきゃならねぇんだとは解ってる。厚かましい事を言っているとは思う。だが、お前しか頼るに値する男を俺は知らねぇ。お前にしかトシを任せる事は出来ねぇ。頼む万事屋、頼む、トシを、」 その背も固く握られた拳も、ぶるぶると戦慄いて震えていた。屈辱にではない、怒りや悔しさや悲しさや不安、形にならない感情がその逞しい体躯の至る所から堪えきれず溢れ出しているのだ。 下げた頭から鼻声混じりの、然し真剣さと切実さ以外の何もない様な声で言い募られて、逆に銀時の方が狼狽した。咎める様に、ぺし、と軽く近藤の肩を叩く。 「オイオイ、だかららしくねぇマジ面やめろって言ってんだろーが。そういうのもやめてくんない、なんかスゲー悪い事してるみてェな感じするしよ。 延長料金キッチリ払ってくれんなら、こちとら文句はねーよ。あと仕事に支障がでねぇ程度の仮眠が時々摂れれば」 照れ隠しの様に聞こえて仕舞ったかも知れない。思うが、向こうが良い方向に取ってくれるならばそれは悪いものにはならない。 近藤は「すまねぇ、恩に着る」と、一旦は起こした顔をもう一度下げてから、山崎の方を振り返った。 「山崎、病室の確保と泊まり込みの件、何とか病院側に請け負って貰える様、話してみてくれ」 「はいよ、了解です」 応えて走り去る山崎の背を見るとも無しに見送る。まるで昼間の再現の様だと思うが、似た様な光景はまたしても、ほんの少しの時間の間に全てが違えたと言う現実と陰鬱になりかかる心境とをまざまざと思い知らせてくる。 「ま。時間が経ちゃ、一瞬前の事なんざどうなるか解らねぇよ」 無責任な気休めだと解りつつも、銀時の投げたそんな言葉に近藤は小さく頷いてみせるが、次の瞬間には曖昧に表情を曇らせた。独り言の様にこぼす。 「総悟は……酷く拗ねちまったみてぇだが」 それは問いかけではなく、正しく独り言だったに違い無い。だが、銀時はそう吐きこぼした近藤の精悍な顔に悲痛な重みが乗せられているのを見て取った。 土方と言う、傍にずっと居た存在が遠ざけられて、沖田と言う最も長く傍に居た存在も遠ざかろうとしている。三者のバランス、とでも言うのか。そこから外れた事を悄然と受け止めようとしている近藤の様子はまるで、仲違いして仕舞った子供の様な印象を受けた。良い齢をした、ゴリラ並の厳つい男だと言うのに。 こんな男だから、見放す事も出来ず力になろうと邁進する事も止められないのかも知れない。土方の、時に甘すぎる事もあるかと思えば驚く程辛辣な事もある、近藤との相対を思い出して見ればそれも頷けようものだ。 沖田がそんな年長者二人の様子をどう思っていたのかは銀時には到底知れない。想像はしても意味のないものだ。沖田の姉であるミツバの事で土方との間に確執らしきものはあった様だが、その事を未だ引き摺っている様子でもない。 彼らがどう言う形で在ったのか。どう言う形で在る事が誰にとっても望ましい事だったのか。だが、幾ら望めど今はっきりしている事は、少なくともそれは、『この形』では有り得ないだろうと言う事だけだ。 「沖田くん的にゃアレだろ、勝手に色んな事しでかして勝手にここまで来た癖に、勝手に忘れるたァどう言う料簡だって言う所かね?」 沖田としては、真選組と言うものにはそれ程の思い入れは無い。寧ろ近藤勲個人にその全てが注がれていると言っても良い様な少年だ。 もしも真選組が解体されて戻るものも失うものが無くなったとして、近藤には部下と立場と責任とが生じて仕舞っている。沖田は、真選組の残骸なぞ棄てて近藤を連れて逃げても構わないぐらいの心地でいるやも知れないが、そんな事を近藤本人が許す筈もない。 それが土方によって作られた『今』の──今までの形だ。侍として、組織として在る故の代償の様なものだ。その均衡を保っているのが土方自身の存在であると、沖田はしっかり理解しており、また自分ではそれに代われない事も承知で居る。 性分でも人徳でも能力でも。沖田は『今』を望む近藤が居る限りは、土方を失う事が出来ない。募る感情が色々と殺意や悪戯になって出ても。それを土方が理由まで得てした上で好きにさせている事も。それを理解している自分自身も。全てが沖田には意に沿わない様な事だと言うのに、それでもその一箇所の欠乏を赦す事は出来ない。 まるで無いものねだりをする子供の様に。世の中は、侭ならない。 今回の事も、土方の状態が記憶含めて快復に向かえばそれで問題無かったのだ。それが、ここに来て、誰在ろう自分達に向けて「だれ?」などと問いたのだから。沖田が瞬時その怒りや苛立ちを上手く処理出来ないのも無理はなかった。 実のところを言えば銀時とて同じ様な心地で居る事に変わりない。折り合いがなんとかつくまで。納得か、或いは諦めか、新しい考え方が出来るまでは。 「……あのへんの年頃の子は色々複雑なんだよ。解ってんなら解ってやれや」 応える代わりの様に項垂れていた近藤の肩をまた、ぽん、と叩いてやりながら、銀時は己の裡に湧き出しかかっていた感情を飲み下した。 きっと今はまだ、これは見てはいけないものだと、無意識でそう理解していたのかも知れない。 或いは。それこそが、予兆だったのか。 。 /13← : → /15 |