天国の日々 / 15



 前日までと変わらず、銀時はSICUの中で一睡もせずに夜明けを迎えた。正しくは、せずに、と言うか、出来ずに、だが。
 昨晩は山崎の計らいで、いつもは巡回警備をしている隊士がSICUの入り口に立って寝ずの番に当たってくれていた。その為銀時は転た寝の余裕が出来る程度には気を抜いて、土方の現状を観察しつつ休めると言う状況になっていたのだが──
 そんな気遣いもどうやら無意味に終わった様だ。気を張って起きて見張りをしているのと、寝ようとして眠れないと言うのとでは、前者、普通に意識して眠らずにいた方が楽なものらしい。
 朝一番の深呼吸、ではなく深い溜息が漏れた。差し入れて貰った毛布を適当に畳んで椅子に置きながら、立ち上がって傍らの寝台を見下ろす。マスク型の呼吸器に顔面の下半分を覆われながらも、取り敢えず安静そうに眠っている土方の姿は、昨晩までとほぼ変わりはない。様に見える。
 その眠りが未だ深そうだと言う事を目視で決めつけると、銀時は洗顔道具を詰めた袋を手に取って物音を立てずにSICUの外に出た。
 「あ、おはようございます」
 癖なのか、組外の部外者相手だと言うのに、わざわざびしりと背筋を正して敬礼をしてみせる隊士に「はよ」と適当に返しながら、銀時は入り口の壁掛け時計を見上げた。時刻はまだ六時過ぎ。銀時的には早朝も早朝である。
 「ちっと顔洗ってくるわ。まだ寝てるからその侭で」
 言葉の途中で後ろを軽く振り返って言えば、隊士は生真面目そうな仕草で頷いた。任せて下さい、と益々背筋を伸ばす姿に、朝から元気で結構なもんだと思いながら、銀時は廊下を慣れた方角へと進んで行く。エレベーターホールを通り過ぎた先、一般病棟のある方角の廊下の途中には男女に分かれた厠がある。
 男性用の厠に入って冷たい水で顔を洗うと、解消されなかった眠気の転じた怠さの様なものは幾分紛れた。その侭水の滴る顔で鏡を覗いてみれば成程、昨晩沖田が言った事は強ち冗談でも無かったのか、そこに映る銀時の姿は確かに酷い顔色をしていた。
 天然パーマの銀髪はいつもより乱れているし、頬も幾分窶れて見える。目の下には文字通り隈取りの様な青黒い隈が不健康にくっきりと出ている始末だ。それに、そろそろ無精髭が気になる頃かも知れない。
 入院患者用でもあるからか、この厠の洗面台にある水道がお湯も出るものだったのは幸いだった。温度は温めにされてはいるが、水よりはマシだろう。
 新八から山崎を通して届けて貰った洗面道具には、用意周到にも髭剃りまで入っていた。というかこれらは一式揃った使い捨てのアメニティのものだ。いつだったか浮気の調査依頼とかでどこぞの高級ホテルに投宿する羽目になった時(費用は必要経費と言う事で依頼人からふんだくった)に抜け目なく持ち帰って来た物だろう。
 一式は殆どがちゃっちいプラスチック製のものだが、こんな時には役立つもんだなと思いながら、お湯に浸した手拭いで顔を蒸らし、使い捨てのクリームと剃刀との袋を開けて生えかけの顎を手際よく剃ってからもう一度顔を洗い流す。
 二度目に見上げた顔は、蒸らした時の温度で暖められて血行が良くなったのか、随分と色を持ち直している様に見えた。隈や寄った皺は消えていないが、多少はマシになった気がする。
 良し、と及第点の評価をしてから、何が良しなのだろうかと気付いて銀時は眉を寄せた。合わせて鏡の中の銀時の表情も、小難しい悩みに翻弄される大人の様な表情になる。
 土方に合わせる面を、少しでもマシなものに取り繕えた事に安堵している?
 だ、としたらそれは何故だろう?
 初対面かも知れない相手になるなら、良い印象であった方が良いとでも思ったのか。それとも、憶えているなら、心配で憔悴していたと取られそうな無様な自分の姿なぞ見せたくはないと思ったのか。
 どちらでもありそうで、どちらでもなさそうだ。銀時は小さく喉奥で唸ると、乱暴な所作で洗顔道具を仕舞い始めた。
 土方の健忘が一時的なショックにも似た症状なのか、それとも衝撃で破壊された状態なのかは未だ解らない。今日検査をすればそれもはっきりするのだろうか。
 即ち。生か、死か。鬼の副長か土方十四郎──否、それですらない者──か。
 何れであっても、真選組としての対応は、暫くの間は土方の状態は公には伏せておくと言う事に落ち着いている。その『暫く』と言うモラトリアムが、治るまで、と言う意味なのか、治る見込みが無いと判断されるまでなのか(その場合は、同時に土方の代役となれる様組織の再編を行う様に手を打つ必要があるだろうが)。
 何れであっても、かぶき町の万事屋で、恋人であった事は過去形以前の忘却となっただろう銀時には無関係の話だ。思って、つまらない結論にまたしても溜息が漏れる。今度は少し乾いていた。
 
 
 SICUに戻った時、真っ先に気付いたのは、横たわっている土方の口元から呼吸器のマスクが取り除かれていた事だ。周囲に看護婦の気配は無いし何者かの出入りがあった様子でもない。と、なると自分で外したと言う事になる。
 それが寝惚けた故の行動で無いとすれば、まさか目覚めて起きているのだろうか。思わず慎重に、入り口に佇みながら伺い見る。
 (……いや。何で俺隠れてんの?)
 こそこそと覗き見る様な己の行動に訝しみながらも、銀時の目は土方の姿から逸れる事無くSICU内部を油断なく伺っている。
 他に同室している、眠り続ける患者たちは已然様子を変えてはいない。
 その中で一人、明確な意識を取り戻した男は、横たわった侭で布団から右腕を出していた。何をしているのかと思ってよく見れば、寝台の横に取り付けられている手書きのネームプレートをその指で辿ろうとしている様だ。
 ぼんやりとした表情で、マーカーで走り書きされた文字を視線がなぞる。指が辿り着く。『土方十四郎』。それを、異国の言葉か何かを読む様に、辿々しい声が紡ごうと唇が動く。
 「ひ…じ……か…」
 「土方十四郎」
 掠れた声がその呪文を紡ぎ終えるより先に、銀時はそうはっきりと、大きめの声で口に出して言った。これでは隠れていた意味もない。否、端から隠れている必要も無かったのだから問題はない。
 呼吸器の音や計測機器の煩いSICU内であっても流石に人語を聞き逃す事は無かったのか、臥した侭の土方の頭がゆるゆると動いて、己に近付いて来る銀時の姿をその視界に捉える。
 物騒に瞳孔が開き気味で、いつも周囲を威嚇する様なキツい眼差しをして、眉間の皺のなかなか消える事の無い男が。
 自由になっている片目だけで、銀時の姿を酷く寄る辺のない子供の様に見上げていた。
 「……ひじかた、とうしろう?」
 慣れない発音を舌先に乗せる様な声だった。『土方』とは真っ当な漢字に当てた読みでは無い変則的な姓のものだが、漢字の字面と読みとが瞬時に結びついたその割には、読み慣れない響きであるのだろうか。
 弱々しい眼差しが不安に揺れて、じっと銀時の顔を見つめて来ている。その様に。
 「そ。ヒジカタトウシロウ。──お前の、名前」
 何故か酷く傷ついた心地がして、銀時は些か投げ遣りとも取れる声でそう言い置くと、丸椅子の上にどすりと腰を下ろした。わざと乱暴に座ったのではなく、力が抜けたのだ。
 「ひじかたとうしろう」
 教えられた言葉をその侭鸚鵡返しにする様な発音。『それ』を己の名であると認識してはいないのだと言う、何よりも明確な証拠の様に。
 土方はその侭暫く、困惑に満ちた表情を浮かべながらネームプレートの名前を読んでいたが、やがて銀時の方をゆるゆるともう一度、見た。
 「俺、は、──」
 「ストップ。ちょっと待った」
 見たことがない程に寄る辺無く揺れる眼差しを視界から隠す様に、銀時は掌を立てて制止した。疑問の類だろう言葉を紡ぎかけた土方が不安そうな面持ちの侭で固まるのを見て。銀時は手を引っ込めると自らの後頭部を掻いた。絞り出す様に言う。
 「悪ィが俺は、お前の仲間や家族みてーなもんじゃねぇ。だから、俺からお前には、俺の知るお前の情報や話をしてやる事は出来ねぇ。資格も無ぇし、責任も持ってやれねぇからな」
 「……………」
 銀時の言葉を果たして理解したのか、出来なかったのか。土方は表情を不安そうに曇らせた侭、何か縋るもの、確かなものを求めるかの様に視線を彷徨わせ、やがて再びネームプレートへと辿り着いた。唇の動きだけで紡ぐ、それが今唯一得られる己の所持品──自分を慥かに保つ一つの寄る辺。『名前』であるのだと読み聞かせる様に。
 名前とは自己に与えられ、自己を確立するのに必要な印だ。人は己の存在を認識してから、他者を知って成長していく。己の存在を何かで形作る事で寄る辺を得る。例えばそれは、名前。性質。形質。個性と言ったものだ。
 己の存在が不確かな侭では、人は何から何を得て良いのか、何を生きるのか、それすら慥かに出来ない。
 銀時は己の記憶が消えた時、特に焦燥や不安を覚えはしなかった。己を知る人間たちの親身な態度もあったのだろうが、今その時の事を思いだしても奇妙に、ジャスタウェイ工場で働いていた『坂田さん』と万事屋の社長をやっている『坂田銀時』とは、記憶の有無の違いと言うよりも、まるで別人格の乖離の様にも思えるのだ。
 強いて言うのであれば、酷い生い立ちも、攘夷戦争も、喪失の挙げ句に生まれたありの侭の享受への希求も無い、ただ立つ根を失った──だからこそ、その『根』の先に在った駄目人間の様だった己を認め難く思ったのだろう──坂田銀時、と言った所だったのかも知れない。
 それらの、坂田銀時たる根幹が無かったからこそ、『坂田さん』は何の畏れや不安も感じなかったのだと思う。
 だが、土方はどうだろうか。『自分』を失った土方は、今己の置かれている状況をどう思っているのだろうか。少なくとも酷く不安そうには見える。
 銀時が先んじて土方の質問したいだろう内容に対して『答えられない』と言い置いたから、と言う事や、負傷で満足に動けないと言う事もあるだろうが──本当に、身や意識の置き所をどうしたら良いのか解らないと言った風情で、居る。
 その侭放っておけば、その侭ただ己が消えて仕舞うまで茫っとし続けるのではないだろうかと。そんな事を思わせるぐらいには、土方の様子には『坂田さん』の時とは対照的にも、畏れや不安しかない様に見えた。
 「……坂田銀時」
 見つかりもしない己の記憶を手繰ると言うよりは、記憶が無いと言う事実そのものに戸惑っている風にも見える、そんな土方を見かねて、ついに銀時はそう吐き出した。諦めに似た心地で。
 「…………え?」
 「坂田、銀時。俺の名前。これだけはお前らとは無関係な情報だから、教えてやれる」
 それが何の意味を指す言葉なのかを理解出来なかったのか、不安な顔に真っ当な疑問符を浮かべてこちらを見る土方へともう一度繰り返してやる。そう。矢張り諦めとしか言い様のない心地で。
 土方は不安感を噛み締めていた唇で、「さかた、ぎんとき」そう一言一言を呟く様に発声した。聞き知らぬ、紡いだ事もない言葉の様に。生まれたばかりの無垢な子供が貰った、初めての贈り物をそうとは知らず抱く様に。
 ……矢張り、これにも何の反応も見れなかった。
 自分の名すら思い出せない人間が、恋人だった男の名前などを憶えている道理もない。
 解ってはいたが、何処かに何かの期待があったからこその落胆なのか。銀時は胸にぽかりと空いた空洞に刃を穿たれる様な痛みを憶えて、思わず目を伏せた。在った孔を再び刃が貫いた所で痛みなどない。ない筈だが、不快で、痛い。痛い事が、痛い。
 「もう少しすりゃ、近藤とかテメーの仲間が来っから。したら検査受けて、聞きてぇ事聞きゃ良い。アイツらはお前に──『お前』にとって信用出来る奴らだよ」
 痛みを誤魔化す様にそう続ける銀時の方を見ている、土方の目が──そこから感じられる意識の片鱗が、近藤の名前に何の反応も見せなかった事に安堵を覚えている自分に、酷く苛々とした。それは嫌悪感よりも、不満に似たものだっただろうか。
 そんなのは、おまえじゃないと。土方十四郎には決して有り得ぬ事だと。
 「さかた、ぎんとき、…さん」
 寄る辺の無い眼差しと声とがやがてそんな言葉を紡いで寄越すのに、銀時は苦さを通り越して泥の様になった苦笑を浮かべた。
 「呼び捨てで構わねーよ。なんか落ち着かねーからやめてくんないソレ」
 さん、だなどと敬称を付けて、銀時の事を名字で他人行儀に呼ぶ人間は、親しい者には存外少ない。近い人間の中では大家の家の従業員であるキャサリンぐらいのものだ(まああのネコミミ妖怪は誰に対しても他人行儀に口を聞く癖、そんな物腰とは裏腹に図太いのだが)。柳生の変態こと東城歩でさえ『銀時殿』などと妙に馴れ馴れしい呼び方を選んでいる。
 名字で呼ばれぬ理由は大概、銀時の外見的特徴の一つであり最たるものである頭髪の色が、名と印象を重ねて親しみが得易いから、らしい。坂田と呼ぶより余程しっくり来るとか、そもそも名字なんだっけ?と問われる事さえある。
 そんな、名字と敬称と言う、最も他人行儀の様な呼び方が癇に障った。障ったが、不快感は何とか表には出さなかった。これ以上土方の顔が不安や畏れに染まって行くのを見るのは、正直言って堪える。
 然し、よくよく考えれば、この男は日頃から『万事屋』と屋号で銀時の事を呼んでいたのだ。屋号の方がどう考えても名字より掛け離れている。土方にとって坂田銀時は『万事屋』であるべき形が正しいのだとでも言う顕れの様に。
 名前で呼んで欲しいと思った事はあったが、そんな事を厚顔に要求出来る程に銀時は甘い恋愛感には浸れていなかったし、土方も銀時と同様かそれ以上の忌避感があった事は想像に易い。
 だが、幾ら屋号で呼ばれたとして。その時には特に不快など感じなかったと言うのに。
 では、何と呼んだら良いのか。続け様に二度の否定を貰った事で自信が無くなっているらしい土方は銀時の方を、そんな疑問を訴えながらも伺う様に見ている。
 「…屋号でも、呼び捨てでも」
 好きな方にしな、と言ってやれば、土方は瞼を無理矢理に開く様な重たい瞬きをして、それから口を開いた。
 屋号と選択肢を用意しながら、万事屋と言う単語は口にはしない。我ながら淡い期待だと自嘲が隠せない。
 「坂田、」
 敬称は消えた。だが、今までの位置から最も遠い場所に置かれた心地がして、銀時は土方が疲れた様に目を伏せたのを見るなり、前歯を噛み合わせて顔を歪めた。
 銀時の気配が不穏なものに転じそうになった事になど気付きもせず、瞼を下ろした侭の土方が続ける。
 「坂田は、土方と言う俺と、一体、どういう関係だったんだ…?」
 紡がれた疑問は心底のもので。子供が些細な疑問を親にぶつける様な調子だった。
 だから銀時はそこで安堵した。
 漸く解った。漸く思えた。この不快や不満は、どうしたら消えるのか。
 今の銀時の裡には相反する二つの感情が介在している。
 片方は、土方に、何故自分を忘れて仕舞ったのだと責める、沖田の感情に恐らくは似たもの。
 そしてもう片方は、この侭土方の中から坂田銀時が失われているのであれば、それで良いのではないかと思う、賢しい感情だ。
 理解と同時に、銀時は咄嗟に後者で在る事を選んだ。きっとそれが、互いの為になる、最も安堵に近い帰結へ向かうものであると。
 禍根なく消える恋情であるのだと。
 「……ただの腐れ縁」
 孔の中の刃物を素手で捕まえながら、銀時は嘘らしく笑って見せた。

 「飲み仲間でも友達でも家族でも恋人でも何でもねぇ、ただの、腐れ縁だよ」
 





と言う訳で○○○○の一つは記憶喪失でした。他はデレ気味とかヤン気味とかうそつきとか。

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