天国の日々 / 17



 病室の中には、寝台に身を、リクライニングの効いた楽な角度にして横たえた土方と、傍らの椅子──普通の病室の丸椅子どころか、ちょっと目利きのある金持ちの屋敷のリビングにでもありそうな、座面にクッションの貼られた瀟洒な椅子だ──に腰を下ろして一生懸命に話をしている近藤の姿があった。
 ノックをして入室したが、パーテイションを回り込んで現れた銀時(と山崎)の方を向いたのは土方だけだった。何処か救いを求めている様にも見える面持ちは、二人の姿を認めてほっと小さく息を吐いた様だった。強張った目元が少しだけ緩められる。
 この様子だと近藤はこの病室に土方が移されて、銀時と山崎がフロアの様子見に行っていた間も、延々あれやこれやと話を続けていた──朝に見舞いに現れた時から喋り倒しだった──らしい。
 銀時は思わず山崎と顔を合わせて、奇しくも同時に嘆息した。
 「局長。そんな一遍に話をしたって、土方さんが疲れて仕舞うだけですよ。午前中一杯検査で気も張っておられたでしょうし、そろそろ休ませてあげて下さい」
 「…………そうだ、な。無理は良くねぇ。じゃあ、この話のオチはまた続きにしとこうか。すまねぇな、トシ。疲れてたのに無理させちまったか?」
 近藤は剛胆でお人好しで鈍い所のある男ではあるが、見慣れた土方の表情の変化、感情の動きにまるで気付かなかった筈もないだろう。土方が、己の知らぬ思い出話などに困惑し、拒絶したがっているのを解っていても、気付かないフリをして無理に詰め込まずにはいられない、その気持ちは解らないでもないが。
 「あ、いや……、別に、大丈夫で………だ。こんどうさん」
 (逆効果だよコレ。めっちゃゴリラ警戒してるもんこの子)
 押せ押せなのはストーキングだけで充分だ、とそんな事を思いはしたが、銀時は呆れよりも同情の色濃い溜息を吐き出した。近藤の退く気ゼロの長話に晒され続けた土方にではなく、そんな甲斐の無い事に、慣れない響きを紡ぐ様に名を呼ばれた、その瞬間に絶望を顕した近藤の横顔に向けてだ。
 感情まで翳りに染めた近藤が、その表情筋で無理に笑みを形作った。
 「じゃあ、また明日な、トシ」
 椅子をそっと引いて立ち上がる近藤に追従する様に、少し寝台へと近付いた山崎もぺこりと頭を下げた。
 「俺もそろそろこの辺で一旦失礼しますね、土方さん」
 「は、はい…」
 警察の格好をした二人に頭など下げられる憶えが己に無い土方は、狼狽を隠せない様子で、居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。それがパーテイションの横で佇んだ侭でいた銀時の所でふと留まる。
 (…何でそこで俺を見んの)
 疑問に思うより先に、咄嗟に逃げる様に視線を逸らして仕舞い、銀時は誤魔化す様に山崎の方を直ぐ様見た。視線を逸らしたのではなく、単に移動させたのだ、と言う如何にもな素振りで。
 「一旦?」
 気には留めたがスルーしようと思っていた事を仕方なく取り出してみれば、山崎は「はい」と銀時の方を振り返りながら頷いた。
 「俺は夕方にまた来ますんで。土方さんの私物とか当面の生活用品とかも必要になるから、そう言ったものの用意を」
 「マヨとか?煙草とか?」
 「旦那、土方さんは肺をやっとるんですよ。煙草なんて言語道断ですし、食事も病院から出されるものをその侭食べて頂かないと。
 今は兎に角栄養面に気を遣って、一刻も早く身体を治す事に専念して下さいね」
 後半は土方に向けてにこりと人懐こそうな笑みを作って言うが、土方は矢張り戸惑った侭、義務の様にぎくしゃくと首肯した。
 それを見届けて再び銀時の方を向く山崎の表情は、矢張り先頃の近藤同様に少し曇っていた。然程あからさまではなかったが。
 銀時も、冗談を躱された事に対して肩を竦める様な風情でその表情の指す所に同意するが、土方がこちらをそれとなく見ている為に顔には出せない。
 まさか、と思っていた訳ではないが、嗜好品の名前にも土方は矢張り何の反応も示さなかった。『坂田さん』の時は大好物の甘味に食指を無意識下で動かされた事もあって、ほんの少しは期待していたのだろう。こうしてまた一つ塗り重ねられる空白と虚脱感とに、最早落ち込みもしなければショックも感じない。
 宛の外れた落胆が不自然な間になるより先、山崎が動く。
 「…十八時頃ですかね。空き時間が出来次第また来ますんで。それじゃ行きましょう、局長」
 「ああ。またな、トシ。万事屋も、頼むぞ」
 居住まいを正した近藤と山崎とが、手を振りながら病室を後にする。それを見送った侭、銀時は眇めた目で閉ざされた扉を睨む様に思う。
 (今回の『頼む』には、どんな意味があるのかね…?)
 セキュリティが万全に近い部屋での、護衛と言う無意味な『役割』。
 或いは『話し相手』としての期待。よもや、真選組の事をひたすら教えろとか持ち上げろとかそう言う意図は無いと山崎は言外に言ってはいたが──近藤は、この暫くの間の対話で恐らく厭になる程に思い知った筈だ。届かない苦痛を、空回りする心の空しさを。戻らないものに対する哀しみとその大きさを。
 その上で『頼む』。その意味は、期待以上の期待なのでは、或いはあるまいか。
 (……やめてくれよ、そう言うの)
 今度こそ手放そうと思ったのだ。リセットされて、それで良いと、そう思ったのだ。
 今なら諦めるだけ。どちらも瑕を負う事はない。その形を歪めて仕舞いそうになった土方も、歪んだ侭を望もうと思って仕舞った銀時も。
 土方の記憶が戻らねば良いなどとあからさまに思っている訳ではないのだが、結果的にそう願いたい己の本心が介在しているのも事実で。どこまでも手前勝手な思考しか出来ない己に腹が立つ。
 これ以上余計な願望をこの空白に、押し込む隙を与えないで欲しい。
 望む心算が無くとも、目の前に転がされる選択肢の賽子を踏み付けて望んだ出目にしてやりたくなる。衝動があるのは事実だ。
 いつまでも扉を見つめているのも不自然だ。銀時は軽くストレッチをする仕草を作りながら、ぐるりと室内を見回した。
 先頃確認したのと同じ風景。広めの個室はシンプルながら『気を遣われて』誂えられているのが知れる。他の一般の病室とは異なった壁紙や家具。寝台は寝心地の悪いパイプベッドではなく、ベッドボードが木製の、セミダブルぐらいの大きなものだ。
 当然部屋も広い。一応病室と言う体裁を保ってはいるが、寝台と二脚の椅子と小さめのテーブル、テレビ(料金代わりのカードが不要な上、大きめの薄型液晶のものだ)、小型の冷蔵庫、物入れ、どんな豪奢な花を見舞いに持ち込まれる事を想定しているのか首を捻りたくなる程大きな花瓶。更には電源コンセントのプラグ受けが幾つかと有線LANポートまであった。至れり尽くせりである。
 入り口脇には洗面台があり、水もお湯も出る上、部屋には電気ポットまで備え付けてあった。下の売店か近くのコンビニでお茶やコーヒーを買って来る事で、優雅にブレイクタイムと洒落込めそうな感じだ。
 厠と風呂だけは残念ながら一旦部屋を出ないと無いが、その気になれば籠城も出来そうな設備だ。もっと高級な病院に行けば厠と風呂の両方共が個室に完備されているVIPルームもあるとかで、全く、病院をホテルか何かと勘違いしているのではないかとしか思えない。
 だが、実際にある、と言う事は、需要がある、と言う事でもある。…とは言った所で一般的には到底お目になど掛かり得ない設備であり部屋だ。その中に置かれて、本来病室の主である筈の土方は、借りてきた猫の様に大人しく、萎縮しきっている風にも見えた。
 ……原因の半分近くは近藤の長話故の憔悴かも知れないが。
 部屋を見回した最後に土方が身を預ける寝台へと視線を遣れば、土方は困惑と不安とに揺れる眼差しで、己に掛けられている毛布を握りしめていた。強張った指の形作る深い皺は、正体の分からない世界に怯える土方の心を荒らす波濤をその侭表している様だった。
 銀時は、近藤が移動させたのだろう、寝台脇の椅子ではなく、テーブルに向かい合う様に置かれた侭のもう一脚の椅子に向かい、わざと音を立てて腰を下ろした。
 布張りの座面には適度な弾力のクッションが入れてある。ぼす、と音をさせたこちらに向けて、土方が恐る恐る顔を起こすのが見えた。
 そんな土方の意識が完全にこちらを向くのを待ってから、銀時は「その、なんだ」後頭部を掻きながら口を開く。
 「あのゴリ…近藤も、別にテメーを虐めてる訳じゃねぇんだよ。ただ、ちっとお前を心配し過ぎてるだけで、だな。その、」
 近藤や真選組に土方が抱いただろう印象をフォローしてやろうと言う心算があった、と言うより。自身に憶えの無い『責任』に鬱ぎかかっている土方を、極力軽口で救ってやろうとしただけだった。それが酷い無責任な話である事は承知の上である。
 (あのゴリラ、本当にゴリラ脳か?ンな、今のこいつを『真選組副長の土方』像で追い詰めたって仕方ねぇだろーが…。逆に遠ざかるわこんなんだと)
 銀時が先頃思った様に、明かに今の『土方』は、記憶と共に消えた、皆の知る所の土方に気後れを憶えて仕舞っている。近藤が真選組の事や、土方を心底案じる気持ちがある事を加味してみても、幾ら何でも焦り過ぎだろうが、と呆れを通り越して義憤さえ沸き起こる。
 「……あのひとが心配しているのは、俺、じゃなくて、『トシ』を、だろう」
 韜晦する様にぽつりと零したその響きの弱さに、銀時は目を眇める。
 「お前を、だよ」
 「…………」
 「アイツらにとっちゃ、お前も鬼の副長も、同じ『土方十四郎』だ。『お前』が連中の望む『土方十四郎』じゃねぇとしたって、そいつは変わりゃしねーよ」
 『同じ』ものを探している。『同じ』だったものを、空虚な残骸の中から引っ張り出そうと躍起になっている。今の土方がそれを望むか望まないかなど、置き去りにして。
 『土方』の懊悩が解らない訳ではない。自分自身の存在を拒絶されて、そこに彼らは彼らの知る『土方十四郎』を流し込もうとしてくる。その形にしようと、ぐちゃぐちゃに壊れた粘土を無理矢理に捏ねて形にして行こうとする。
 今の土方は、それがきっと正しい事なのだろうと頭で理解している。いるからこそ、早く彼らの望む『土方十四郎』へと戻らなければならないと、戻れない事に苦しむ。意に沿わぬ事を行わねばならない苦痛と、自己を否定する事への苦悶と、過敏に感じる周囲との温度差の焦燥感。そうしても得るのは己への劣等感と言う矛盾ばかり。
 お前ではない。常にそう言われ続ける事の痛みなど、普通の者に解る筈などない。
 土方は酷い自己の否定と劣等感とに苛まれて、それでも逃げ出そうとはしていない。受け入れようとしているからこそ、こうして痛む傷口なぞを晒して自嘲しているのだ。
 (根本的なコイツ自身の性質みてーなもんは、存外違えちまってる訳じゃ無ぇのかもな。あの地味顔、こうなるのが解ってたみてェな配剤しやがって)
 まるで、土方ならば仮令記憶が無くなったとして、人格が損なわれたとしても逃げずにこの苦しみに立ち向かうと、そう確信していたかの様だ。土方の性質自体が確固たるものなのか、山崎の見立てが確かだったのか。
 何れにせよはっきりとしているのは、こう言う事態の為のケアを担うのが、万事屋に頼まれた依頼と言う事だ。
 「あのゴリラ、普段ストーカーとかやってるからね。それでついグイグイ押しまくってんだよ。シツコい男は嫌われるってのが根本的に解ってねェから、本当救い様の無ぇゴリラだよ」
 困ったもんだ、と強調しながら苦笑を添えて言えば、土方は俯かせ加減でいた顔にほんの少しだけ追従する様な愛想笑いを浮かべた。
 こうして、共通の見解を示す敵──と言う訳ではないが便宜上だ──が居ると示す事で、味方意識を強くしておく。近藤には悪いが自業自得と思って少し悪者になって貰う事にする。
 すれば土方は、此処に居ないものを悪く言われる事や思う事に後ろめたい罪悪感を感じたらしい。これ以上続ける気が退けたのか、申し訳なさそうな面を作って、まるで違う事を口にした。
 「腐れ縁、て、どう言うものだった?」
 「ん?」
 思わず聞き返すと、土方はおずおずと疑問を舌に乗せる。
 「腐れ縁。て、坂田はさっき言ったろう」
 さっきと言っても朝の話だが。思ったが突っ込みは控えた。首を軽く傾けて、更に続きを促す。
 「……真選組、の事は、一応どんなものかは教えられたから解る。坂田はその…、何でも屋だと」
 「万事屋な」
 「そう、よろずや。警察と腐れ縁なんてものが出来る様なものには思えなかったから」
 銀時が万事屋で、自分の護衛を頼んである、とまでは説明されたのだろう。よろずや、と慣れない調子で紡ぐその様子や言い種からしても、万事屋、と言うものが──言葉通りの『万事の事を請け負う』と言う意味が──どうやら良く解っていないのではないかと知れた。
 束の間銀時は考えたが、今座っている椅子から寝台脇の椅子には移動しなかった。些か喋り辛い距離だろうとは思ったが、その空隙を保った侭で構わずに続ける。
 「じゃあ、よ。お前も真選組の話ばっか訊くのは流石にもう疲れんだろ。お前もアイツらにある程度は話聞かされたみてーだし、もう質疑応答は解禁された訳だし、……万事屋の──俺の話でもしようか」
 自分の話をする事は、自慢ではないが苦手だ。思ったが、意外な事にその提案に土方は顔を輝かせた。こくりと深く頷きを返す。
 その積極的で肯定的な様子を見て銀時はふと気付く。今の、自身に纏わる話を欠落した『土方』にとっては周囲の人間は初対面の他人だ。そんな連中がこぞって土方十四郎と言うまるで知らない他人の話をする。お前なのだと押しつけてくる。
 だから土方は、誰とも知れぬ己よりも、己を知っている他人たちの事をこそ知りたいと思ったのだろう。他人のただ押しつける『自分』には無い、他人たちのディティールをこそ、知りたがっているのだ。
 どうやら、ただの気分転換の提案の心算だったのだが、思わぬ効果が出た様だ。
 他人に自分の説明だの昔話だのを語れる程に良い生き方をしているかどうかは解らないが、取り敢えず土方の気持ちを前向きにしてやれる助けになれば良いかと思いながら、銀時はところどころに笑い話を詰めて、万事屋の生活ぶりや仕事ぶりに、真選組との腐れ縁を交えながら話して聞かせてやった。
 土方は、目覚めて以降初めて見せる様な──否、今までに一度も見た事が無い程に表情をくるくると変えて、銀時の語る誇張や冗談の多い話に真剣に聞き入っていた。
 
 ──これは、別人だ。
 でなければあの土方が、万事屋の話を、銀時の紡ぐ話を、こんな風に楽しそうに聞く筈が、ない。
 別人だから。
 元に戻さなければならない。
 別人だから。
 この侭に、しておきたい。
 
 思考の乖離の誘惑が囁く。
 見てはいけなかった、その淵へ、自ずと進むべきだろう、と。
 







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