天国の日々 / 19



 目当てのボタンを押すと、取り出し口に重たい音を立てていちご牛乳が落ちて来る。
 ストロー付きの紙パックのものだ。落下してきたそれを取り出し、パックの背に接着されているストローの入った袋を親指で上から押せば、尖った先端が袋の底を破って出て来る。そうして抜き取ったストローを伸ばして飲み口部分に突き刺す。
 もう何日も繰り返して慣れきった動作だ。ぷし、と空気の抜ける小さな音と同時に甘い匂いが鼻孔をほんのりと擽って行く。
 一日の楽しみである大事な糖分摂取タイムに、然し銀時の顔はほんの僅かも緩まない。ストローを中程の太さの違う所まで指でとんとんと叩いて押し込んでから、自動販売機の横にある草臥れた長椅子に腰を下ろして溜息を一つ吐き出せば、自然と背中が丸まった。
 (何、やってんの、俺……)
 まるで、高みから下々を睥睨する王様か何かの様に、酷く軽々しく他人の心を見下ろして戯れに踏み躙っていった後みたいだ。
 記憶喪失と言う現象と体験について理解はある。そんな理解があると言う驕りで、身勝手にも土方の喪失を喜んで、落胆して、分析して、与えておいて突き放している。
 失われた無垢な其処に、何を描こうと言うのか。何を刻もうと言うのか。そんな道理が赦される筈もないと言うのに。
 そうして、飽きて放り出されれば、後は無惨に何も残らない。何かを遺して、残らず消える。
 だからこそなのか。土方の裡に、真選組の副長として在るべき彼の途に、結局自分は何か痕を付けたくて堪らないのだ。
 忘れてくれたなら良いと賢しく思って、忘れた侭で真選組に戻してやろうと嘯きながら、結局はどこまでも己の情と独占欲が付き纏う。
 何も知らない土方が、何も憶えていない土方が、真選組の連中にではなく自分に心を開く事に、紛れもなく歓びを得ていた。
 そうする事で土方が銀時の元に新たな自己を確立すればするだけ、土方が『真選組の副長』であった己を受け入れ難くなる事を知っている癖に、気付かない様な振りをしていた。
 忘れて、それで良い、などと。
 禍根なく消える恋情などあるものか。
 (だって、苦しいのは俺だけじゃん。あいつは身勝手に手前ェの感情を忘れちまったんだから。俺の為に自分をも歪めた、あの情を消しちまったんだから)
 それが、不当な怒りである事は解っている。解っているのに、理性では感情の火消しが追いつかない。
 土方の形が変わって仕舞う事が酷い冒涜に思えて。変えて行く己の加虐心に愉悦を憶えて。これではいけないと別れを切り出した。
 その後で、そんな別れ話とは無関係に土方は疵を負って、そうして全てを失った。
 お前など憶えていたくもない。だからなのだと。そんな風に感じるのは、ただの被害妄想だ。解っている。そんな事に因果などない。理由もない。偶さかの生みだした運命の岐路だ。
 その出来事を無理矢理良い様に解釈すれば、やり直しが出来る機会を与えられたと言っても良い。だからこそ、土方を今度こそ真選組の副長としての有り様に返してやろうと、そう思った事は嘘ではないと言うのに。
 分かれて、もう同じ途を見る事はなくても。それでも、土方が歪んでその清廉で凄絶な形が歪められて仕舞うよりは良いと、そう思った事も嘘ではないと言うのに。
 自分だけが、土方を忘れられない。
 自分だけが、この恋情を棄てられない。
 それが、悲しい。
 それが、苦しい。
 それが、悔しい。
 …………恋しい。
 
 右手にぶら提げたいちご牛乳のパックを持ち上げて、吐き出した息の代わりにストローをくわえて思い切り吸い込んで行く。少しの間で温度を上げたいちご牛乳は妙に甘く喉に絡んで、苦い。
 腐れ縁、とは何なのか。
 そう問いた土方の不安に揺れる眼差しの向こうにはどんな感情があったのだろうか。
 偶然掴まれた左の肩の痛みには、銀時には憶えの深すぎる恋の残滓が確かに潜んでいた。眩暈のしそうな熱に咽せながら、衝動的に組み敷きたくなったのを堪えて、ゆっくりと身体を離して。目を逸らした。
 何の関係も無かった、と言っている癖。そうしようと決心した癖。気付けば以前までの様に、土方に気易く手を伸ばしそうになる自分が居る。諦めると、帰すと、そう決めた以上は、己の未練がどうあれ、土方の記憶が戻ろうが戻るまいが、離れる事が正解でしかないのだと、結論など何度も行き着く所にあると言うのに。
 理性で幾らそう言い聞かせていても、本心ではそうはいかない。侭ならない感情と爛れ落ちた恋情の痛みは、腐敗を伴ってじくじくといつまでも膿み続けている。
 (……やっぱ、失敗した、な)
 ほんの僅かでも己に、土方への未練があった以上、あの時安否を確認しようと受話器を手に取るべきではなかったのだ。依頼を持ち込まれた所で、断るべきだったのだ。
 土方への相対をどれだけ素っ気なくだの何だのと言った所で、銀時の行動や言動の端々からは好意と未練と消えない恋情が滲み出て、土方が真選組以外の他人の存在を得て行くのを、結局は歓んでさえいたのだから。
 今の土方が銀時に好意に似たものを抱いているのは、見ていれば直ぐに解る。
 だがそれは、生まれたての小鳥が孵った時に見たものを親鳥と認識する、刷り込みの現象と似たものから来た本能であり感情だ。決して恋情ではない。銀時の抱いている未練の恋情でも、以前までの土方の抱いていただろう無心の愛情の何れにも値はしない。
 それを思い違える事。ここは、まだ選べる途の何処かだ。今からでも、依頼として献身的に、でも過分な情を与えず与えられずに相対していけば、土方は無事に真選組に戻れる。
 今ならまだ、痕も疵も無い。今ならまだ、修正が間に合う。今ならまだ、互いにこれ以上の瑕疵を負わずに済む。
 (手放そうって決めた俺が未練たらたらで無自覚の悪足掻きとか、あー…ほんっとみっともねぇ)
 へこんだ紙パックが、ストローを口から放す事で、ぺこん、と音を立てて元に戻る。
 馬鹿な期待も尽きない有情も、欲するには今更何の権利もありはしない。初志貫徹。年甲斐もない未練にまみれた恋煩いで『誰か』達を巻き込む愚なぞ犯すべきではない。ナマゴロシだろうがなんだろうが、そんな愚痴さえ吐けた身ではないのだ、し。
 よし、と決意を再びくわえたストローと共に噛み締めて顔を起こした銀時の視界に、見慣れた黒い隊服姿が映り込んだのは丁度その時だった。
 「こんにちは、旦那」
 銀時の腰掛けている長椅子は、エレベーターホールにある簡易休憩所のものだ。右側に自動販売機、更にその奥にゴミ箱があり、向かいの位置にエレベーターが一基ある。ストレッチャーも乗る大型のものだ。
 銀時がここに初めて来た時と同じ様に、裏口から入って来たらしい山崎は、目的地だろう病室に向かう為にエレベーターに向かって来た所だった。長椅子に燃え尽きたボクサーの如く座す銀時の姿をそこに認めるなり、人懐こそうな表情を浮かべて近付いて来る。
 「休憩中ですか?ちょっと隣良いですか?」
 挨拶の代わりにストローを唇の間で上下させる銀時の表情は、客観視すれば恐らくはそう冴えないものだろうと言う自覚がある。だがそんな銀時の様子には全く構う事なく次々にそう言うと、山崎は返事を待たず長椅子の隣に腰を下ろした。
 椅子の面積を考えれば少し距離が近い。
 空になった紙パックを潰してぽいとゴミ箱に放る。かこん、と中の先客にぶつかる軽い音。
 「……何。なんかあんの」
 口に残ったストローを揺らしながら、エレベーターの方を向いた侭で銀時がそう切り出せば、「朗報です」と山崎。
 「件の爆弾魔こと犯人、数日中に逮捕の見通しが立ちました」
 思わず緩やかに視線を転じるが、横に座ってブリーフケースを膝の上に乗せた山崎の表情には、投擲したボールを取って来る犬の様に得意気と言った様子でも無い。労いを期待している風でも無い。
 単なる報告だけならばこんな風に腰を落ち着けてする程のものでもないだろうに。そう訝しみながら銀時は、口元で弄んでいたストローを縮めて、紙パックにやや遅れてゴミ箱へと送ってやった。今度は軽すぎて音もしない。
 そうしながら先の話を思い出す。確か、偶々爆破物所持だのの容疑で逮捕した人物が彼の鬼の副長様であったと言う不運から恨みが生じていた奴だったと言う様な話を聞いた憶えがある。
 だが、この話は銀時が偶々沖田の世間話に聞いたものであって、山崎の口から出たものではなかった。つまり山崎は銀時が犯人の仔細を知る事を知り得てはいない筈である。
 だと言うのにわざわざ犯人の話などを持ち出したと言う事は、犯人の事についてどうとかではなく、その先に続く本題があるのだろう。
 案の定か、銀時が問い返したり促すより先に、その侭話は続けられる。
 「奴さんは周囲を詰めた時点で逃走しましてね。知人や友人とは疎遠で碌な協力者も無く、かと言ってこの季節ですし野外は自殺行為。となると宿泊施設系、放逐された倉庫やら、と言う事で地道な捜索活動が続いてたんですが、今日漸く潜伏先にアタリが付きまして」
 そこで少し声のトーンを落とす。潜めたと言うより、重くなったと言う感だ。
 「ただ、問題は、現在の所明確な殺意の証拠が出ていない事で、どの程度の罪科に問えるかと言う点です。以前にも一度爆破物所持で逮捕されているんですがね、その時は被害は無かったし取り調べでも比較的協力的だったのもあって、執行猶予付きだったんですよ。
 ですから二度目、て事になりますが──記憶の殺人は殺人罪には問えませんから……まず、極刑は無理でしょう」
 山崎の言い種は珍しくも皮肉気だった。「死んじゃいねぇだろーが」取りなす様に銀時がきっぱりと投げてやれば、そうですよね、と苦すぎる上に正直過ぎる言葉が零れ落ちた。
 確かに、真選組にとっての今の土方は不必要な存在にも近い。彼らの必要とする、副長である土方が『戻る』保証など無い。幾ら上書きをして教え込んでも、それは以前までの土方にはならない。虫に出鱈目に食い荒らされた様な土方の記憶は健忘と言うより正しく欠落であり『喪失』だった。
 外傷が衝撃として一時的に脳の電気信号の一部が不通を起こしているだけならば、まだ可能性もあったかも知れない。だが、土方の脳の停電はばらばらに、記憶野の至る所で発生している。余程強い衝撃でも加わったのか、障害は多岐に渡っているのだ。
 MRIでは、重篤な命に関わる危険は無いと出た為、開頭した訳ではない。健忘症状の詳細な原因が何であるのかは、肉体が取り敢えず健常であるのならば二の次だ。
 そんな『喪失』は、起こるべくして起きたものではない。だが、起きて仕舞った。起きて仕舞った以上はそれを受け入れるほかない。
 「オメーは、何がなんでもアイツを取り戻すんじゃなかったのかよ」
 「勿論、その心算ですよ。それは変わりません」
 溜息混じりに言えば、少し憤慨した様な固い声が即座に返る。「沖田隊長もあれから不気味に大人しいし、局長もやはり元気がありませんし。隊内にも副長の不在で少しづつ動揺の気配が拡がっています」けど、とそこで小さく吐息。苦笑に装飾された弱い笑み。
 「ちょっと、弱音くらい吐かせて下さいよ」
 「却下。あの鬼っ子に尽くす事を決めたんなら最後まで貫きなさいよ。大体、愚痴ったり弱音吐いたりしてる余裕ある訳お宅ら」
 痛手を晒した山崎の隙に遠慮のない言葉を矢継ぎ早に投げて、銀時はふんと息を吐いた。
 エレベーターホールに見舞い客らしい親子連れが入って来て、ボタンを押して、迎えに来た筺に乗って上階へと運ばれて行く。その間黙していた山崎だったが、改めて降参を示す様に両手を軽く挙げてみせる。
 「解ってます。働き蟻の如く無心に尽くす所存ですよ。後ですね、愚痴をこぼさせて頂いたお礼に朗報二つ目です」
 人差し指を立てながら言って、その隣で中指も立ててみせる山崎の仕草に、銀時は取り敢えず無言で続きを促した。弱音も愚痴も、聞く聞かないに拘わらず結局はこぼした方の勝ちだ。
 「刺客の可能性ですが、取り敢えず無さそうです」
 「確定?」
 「はい。ほぼ。こちらも色々と調べ回っていたんですが、そもそも生粋の攘夷派の浪士にとっては『義人党』事件は、攘夷の名を借りただけの子供のお遊びみたいなものだと言う認識が強いきらいにあるらしく、そう言った連中にとっては真選組の副長が重症を負ったと言うのは、逆に下らない連中に獲物を取られた、ぐらいの感覚の様です。
 実際に副長の入院以降、不逞浪士や不審人物を何人か院内外で逮捕していますが、何れも攘夷浪士くずれと言うか、裏社会に足を突っ込んだ犯罪者紛いの浪士ばかりでしたしね」
 山崎の順を追った説明に、銀時は得心を示して頷いた。
 確かに、桂の様に思想として攘夷を謳う──侍でもある攘夷志士達にとっては、『義人党』だのと言う連中の犯行は、自分たちの思想や名をテロリストと貶めるだけの所行に過ぎない犯行だった筈だ。幾ら仇敵が深手を負わされたとは言え、そこに乗じたら自らをも思想の無いテロリストであると喧伝する様なものだ。
 因って、土方が重症でこの病院に居ると知って機会とばかりにやって来た者らは、単に名を挙げたい三下か、鬼の副長に恨みがある者と言う事だ。当然そんな浪士の有象無象が組織力やコネクションを持つ筈も無い。そんな連中が容易に院内の警備を抜けられる訳がない。
 故に、今のVIP用病室に置かれた土方の安全はほぼ保証されたと言う訳だ。更に、狙う敵が組織力を持たない極僅かの人間と知れれば、退院以降の運びの計画の目処も立つ事だろう。
 「じゃあこれで一安心て所だな。護衛つー程の役は結局何もしちゃいねェが、依頼料はアレだから、時給だから。驚異度レベルで金額下がらないから。上がりはするけど」
 護衛、と来てから向こう、気は張っていたが基本的には何事も起きてはいない。寧ろ土方との会話だのケアだのの方に殆どの手間と時間とが割かれていたのだ。
 その事からも、警備の厳重さ以外にも襲撃や暗殺を躊躇う何かがあるのではないか、と銀時は思ってはいたのだが──ともあれこれで納得がいった。
 護衛に専心しなくて良いのならば、これ以上無用に土方との過分なコミュニケーションを図らずとも済む。身体を拭くのも、食事を運んで来るのも、看護婦に頼めば良いし、深夜の連れションもしないで良くなる。眠っている振り、と言う逃げも出来る。
 職務的な意味で、近付かないで良い、と言う事に対する安堵か。それとも、近付かない事で自分に余裕が出来るだろうと言う事に憶えた安堵か。銀時はほっと息を吐く。
 「他に朗報は?良いニュースと悪いニュースどっちが良い?とか言うノリで、オチに悪い話だけは置いていくなよ、後味悪ィから」
 そんな銀時の様子が、自分の持ち込んだ朗報に対する安堵なのだと取ったのか。山崎は少しだけ妙な間を置いてから、不意にこんな事を口にした。
 「正直、旦那が護衛だけならまだしも、その後まで依頼を請けてくれるとは、俺、思っていなかったんですよね」
 「オイオイ。頼んでおいて言う台詞じゃないよそれ」
 「先に頼んだのは俺でなく局長ですよ。今言った通り、俺は当たりの出目は低いかなと思っていましたからね。まあ言ってはみる心算でしたが、それはもう少し旦那に依頼を確実に請けて貰えるだろう好条件を準備してからにしようかと考えてる最中でしたよ、あの時は」
 口を尖らせて云う銀時に、山崎は肩を竦めて淡々と述べる。茫洋としたその表情から感情は読み易いのかそれとも読み辛いのか──銀時は何と返して良いものか解らず、代わりに口の端を下げた。
 どれだけ万事屋をケチ臭く金に汚い商売だと思っているのか──否、強ち間違っていない事もあるが。山崎の言い方は『そこ』を指すものではないと言外にしている。
 逆に。条件が良くもないのに、どうして面倒になる事が請け合いの依頼なぞを継続して請けたのか、と。
 眉根をぐっと寄せる銀時に、山崎は慌てた様に、
 「ほら、お二人って仲が悪いと言うか相性が悪い感じでしたし、接点がそうあった訳でもないじゃないですか。あったとしても殴り合いとか斬り合いとか、何かしら血が流れてそうな感じの憶えぐらいしか無いんじゃないかなと」
 そんな風に続けるが、余計に銀時の裡で不穏な内圧は高まる。
 まあ確かに、傍目にはそうとしか見えなかっただろう自覚はあるのだが。ありすぎるぐらいにはあるのだが。況してそんな二人が並んで飲み屋にいたり、夜毎忍んで逢瀬を重ねていたり、などとは到底想像にも及ぶまい。銀時の方もそれは概ねの点で同様である。
 裏の顔、と言う程ではないが、自然と憚る様に営まれた関係性ではあったのだろう。同性同士の付き合いだとかそう言った点を除いても、特に土方は己の周囲には頑なに隠し遠そうとする傾向があったのは間違い無い。男としての自尊心の問題より、公人としての立場の問題を理由に。
 「だから無茶振りしといて何なんですけど、旦那が土方さんの事を嫌っている訳ではないんだなと解って良かったと言いますか……安心したと言いますか…、」
 「そりゃ、護衛つー名目で世話してんだしィ?何しろあっち怪我人だし?こっちだってそれなり折り合いくらいつけるわ。良い大人なんだし」
 我ながら白々しいとは思ったが、構わず続ける。今後こう言う模範的な仕事ぶりを発揮すれば嘘にはならない。
 話が余り楽しくない方角に来ていると感じた銀時は、長椅子から腰を持ち上げると、エレベーターのボタンを押した。もう休憩は終わりだと言うその態度に、山崎も遅れて立ち上がる。
 先程の親子を運んでいったエレベーターがゆっくりと戻って来る。その合間に溜息混じりに言う。
 「つーか俺ァ寧ろあちらさんに嫌われてる方だと思ってたわ。歩み寄るって言葉を辞書で念入りに教えてやった方が良いよ?あの子」
 これは半ば事実。と言うより、そうだと思っていた事だ。
 酒の勢いと、すっきりしない片思いに似た日々を終わらせようと告白めいた事を口にしたのは銀時の方だったが、それ以前にはこちらが積極的に土方を嫌っておらずとも、向こうが勝手に寄るな触るなとばかりに避けている様な気配を表していたのは事実だろう。訊いた訳ではないが。
 殊更に気分を損ねた素振りで己を誤魔化しながら銀時が言い終えるのと奇しくもほぼ同時に、エレベーターが扉を開いた。二人では些か広い筺の中へ乗り込むと、通い慣れた階数のボタンを押す。
 「気を悪くしないで下さいね?」
 後に続いた山崎が、そう宥める様な仕草を添えてぽつりと言う。どうやらまだこの話は続くらしい。うんざりとしそうになる銀時を余所に、逃がさないとばかりに扉が閉まる。ワイヤーを巻き上げる機械の駆動音。重力と浮遊感。
 「そうかも知れません。と言うか、そうだと思ってました。土方さんは旦那の事を嫌っていると言うか…その、攘夷浪士との関わりの疑惑もありましたし、余り関わりたくはない風でしたね」
 昇って行く、一階。
 「……ふーん」
 興味なぞない様に頷いた心算の銀時の裡で、ぞわり、とくろいものが首を擡げた。
 純粋な疑問。不信。見落としていた訳ではなかった筈の、足下の孔。見なかっただけだ。
 それは、銀時が土方に感じた印象と一致する。慣れない家畜ではない。近付かない野生の獣だ。

 (…………………関わりたくない様な奴なら、何で俺の、あの時の告白にアイツは応じた…?)

 停止する、二階。会釈して乗って来た看護婦を一人加えて、筺の中に沈黙が落ちる。

 (攘夷志士関係の情報を白夜叉(俺)から引き出そうとした…、とか。
 ……いや、幾らなんでもあのプライドの塊みてェな野郎が、幾ら情報源になる可能性のあるかも知れねぇ野郎相手だとしても、組み敷かれて足を開く手段なんぞ選ぶとは思えねぇ)

 三階。看護婦が乗って来た時同様小さく会釈して出て行く。閉じる扉。閉ざされる筺。

 (俺に極力関わらない事を選んでいた男が、何でその関わりたくねぇ相手の世迷い事としか思えねぇ告白なんぞ受け入れて、しかもそこから溺れるみてぇに手前ェを折っていった?)

 後は止まる事もなく上昇する筺は、目的階に到達すると、静かにその扉を開いた。
 エレベーターホールで警備をしている真選組隊士の敬礼を受けながら、銀時は山崎の後に続いて廊下を進んで行く。
 程なくして辿り着く病室。開く扉。挨拶をしながら入室する山崎。
 先頃取り乱しかかったのを恥じる様に、土方は寸時銀時を見て──それから視線は不自然な程に早くそこから逸れた。
 掴まれた左の肩が、仄暗さを増した感情に浸されてじわりと熱い。
 そこに遺された傷を、夜毎に辿った指の行く先と、理性の侭に屈した眼差しを、不意にはっきりと思い出す。餓えた獣に黙って身を喰わせる程の献身を、思い出す。
 それは例えるなら。……罪悪感?或いは、縋る様な欠乏欲求?
 傷を遺したから?疵を遺すから?受け入れたから?虐げられられる事を選んだから?其処に留まろうとしたから?
 ……否。仮にそんな可能性があったとして、土方はそんな刹那的な情に憶えて己を見誤る様な男ではない筈だ。
 だからこそあの男は常に理性で銀時に掴まり続けた。捕まり続けた。
 殺意を抱かれなかったから、達観だけで諾々と受け入れた──そんな道理があるものか。
 土方には自らの意思で、『ここ』に居たのだ。
 (…………………それを、放した時──分かれた時、アイツはどんな顔をしていたっけ……?)
 記憶を辿るが、憶えていない。そうだろう。銀時は土方から自ら目を逸らしていたのだから。どんな顔をして、どんな風に分かれを聞いたのかなぞ、知るものか。
 ……これは都合の良い妄想だろうか。勝手に紡いだ幻想だろうか。
 何れにせよ、それは記憶を喪失した今の土方に問いた所で出る解答では最早、無い。それに何より、今となってはそんな真実なぞ無意味だ。
 分かれた。放した。逃がした。今となっては、全てが迂遠だ。
 失った今では、この先の全ての想像なぞ、砂の様に味もなくこぼれ落ちる日々と変わらない。大凡天国とは縁遠い、土方と、土方の抱いていただろう情愛の様なものを亡くした世界でしかない。
 土方が、何を思って『ここ』に居て、銀時に全てを砕いたのか。溺れる様に抱かれていったのか。解らない侭で。
 戻らない存在だから。覆らない決断だから。
 これは、それを『やり直す』機会なのではないか……?
 利口に、賢しく、物わかり良く、安堵に近い帰結なぞを選んでやらなければならない理由が、何処にある?
 今ならば、選ぶ事が出来るだろう。
 この侭を望むだけで、戻らないお前を、選ぶことが出来る。
 土方十四郎を手に入れる事に。自分だけの所有物にする事に。何の邪魔も、障碍も、躊躇う空隙も、最早在りはしない。
 
 土方を、真選組と言う大きな籠から逃がして、今度こそ自分の籠に閉じ込めて仕舞えば良いのだ。
 







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