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天国の日々 / 20 裏切られた、とか。悲しい、とか。怒り、とか。 そんな感情は驚く程何も湧いては来なかった。 ただただ、訳の解らない侭に何かを失った喪失感がそこにはあった。 何か、とは恐らく、信頼、とか。好意、とか。そう言った名前のものたちなのだと思う。 今は疾うに、ばらばらに砕けた記憶たちと同じで、理解も無い侭にただ、乱暴に引き千切られた残骸だけを晒して、無様に転がっている。 こんな無体を強いて、こんな無惨に人を傷つけて、その癖に土方に触れる坂田の手つきは酷く優しい。 こんな時でも、丁寧で、優しい。 しわくちゃのシーツの上に転がった、引きつって壊れた様に動かない身体は、何処が痛いのかも解らない痛みに苛まれて、抵抗なぞ失ってただただ愚鈍だ。 「なぁ?何でお前がそんな傷ついた様な面してんの……?」 背中に獣の様にのし掛かっている男が、荒い息の下でそう囁くのが聞こえた。 応える言葉を持たない、役立たずの記憶が。痛い、と言う反射だけで涙をこぼす。 「恋人の事ぽんとお手軽に忘れてさぁ?お前、なんでそんなのうのうとしてられんの?」 知らない男の、知らない言葉が、憶えの無い心を暴力的に殴りつける。 憶えてないから痛みは無い。憶えてないからこそ訳も解らず苦しい痛い辛い。 憶えてないから自覚が無い。憶えてないからこそ謝る言葉も持てずに竦む。 「なぁ、土方?」 耳元に当たる銀の髪が柔らかくて気持ちが良いと、こんな状況だと言うのに暢気に、そんな事を考えた。 * 消灯前に見た天気予報では、今晩は風が強く、明日の朝は大層冷え込むだろうとの事だった。 寝付きの悪い夜に意識を巡らせてみても、嵌め殺しの窓は風の音一つ、冷え込む気配一つ伝えてはくれない。本当に此処はテレビの言う『江戸』なのだろうか。本当に自分は真選組の副長だった男なのだろうか。 外界とひとつきりの籠の中で隔絶された今の土方の世界は、酷く曖昧な輪郭を保った侭そこにある。教えられる略歴、押しつけられる役職、与えられる過去、真っ白な記憶に上手く填らない真っ白なピースたち。何が確かなものなのかが解らない。何を寄る辺にしているのかが解らない。 狭い病室──他のものから見れば広いのだろうが──の中で、自己を上手く見出せない侭に居る土方にとっては、何もかもが言葉通りに『解らない』のだ。 夜の暗さに、開かない窓に、先の見えない事よりも足下の見えない不安に、土方が疑心や弱気を見出す事は何ら異常な事態ではないのかも知れない。 だが、はっきりと思う事がある。ただ与えられる餌を大人しく干して行く。それだけの作業に惑いなど抱いたら、籠の鳥はその不自由さにきっと生きてはいけぬのだと。 土方十四郎は、入院する以前は勤勉な仕事人間だったと言う。一日中執務に実務に稽古に斬り合いにと忙しく立ち働いていたその身体は、ここ最近の怠惰に臥しているだけの生活に早くも根を上げたらしい。最近では寝付きが悪かったり深夜に目を醒ます事にも慣れて仕舞った。 包帯の既に取れた掌を見る。爆破の時にあちこち擦って傷ついたらしい手にはもう目立った疵の名残はない。 右利きだった。無意識に何かがあると右手を動かすし、箸も筆も右手で持っていた。だからそれは確かなのだろう。その右の掌には剣胼胝が目立つ。 特別手入れされている訳では無さそうだったが、爪はいつも短めに切り揃えられていたらしく、伸びて一度切った今も爪先は綺麗に整っている。まめな質だったのか、剣の扱いの上での問題でもあったのか。知れないが。 指は長く節がはっきりとしている。先の剣胼胝と併せて、剣士の手であり仕事に武道に励む男の逞しさが伺える。それは坂田の手に少し似ている様に思えた。とは言っても、何くれなく器用に動くあの手と、匙の持ち方も思い出せなかった不具なこの手とでは大違いだが。 記憶や経験から生じる行動に断線が生じている事はあるが、それは飽く迄一時的に思い出せないだけだ。例えば手や指を動かす身体機能が損なわれた訳ではないから、再学習で喪失部分は補う事が出来る。 匙の持ち方だってそうだ。目の前に置かれた時は、どう言う用途に使う道具であるかまで理解しながら、どうやって持っていたかが思い出せなかった。掴もうとしても上手く経験知識が働かず、上から鷲掴みにして持ったら、傍に居た坂田にやんわりと持ち方を直された。教えられた。 その瞬間に感じたのは紛れもない羞恥心だったのだが、教えて貰ったその使い方になんとか馴染んだ頃、偶々にテレビで匙を使う人の動きを見て、思い出せない侭間違った使い方を他者に晒していた可能性を思って心底安堵した。 そんな風に坂田の教えてくれた事は匙の使い方だけに留まらない。あの器用な手は、土方の忘れて仕舞ったのだろう動作や言語に気付けば、その度に偉ぶるでもなく面倒がるでもなく、きちんとそれを是正してくれた。 とは言った所で、坂田は土方の母親でもなければ父親でもなく、教師でも医師でもない。護衛と言った所でこれからも常に護ってくれる訳でもない。 土方の戻らねばならない『真選組』の中にもいない、他者なのだ。だから、いい加減に坂田の献身的な職務態度や親切心に甘えてばかりではいけない。 近藤や山崎の望む様に、『元に戻る』のであれば、坂田を寄る辺にして立ち上がってはいけないのだ。今は手伝ってくれても、何れその手は離れて行く。その時土方は自分で立って、皆の求める『真選組の副長』として歩き直さなければならない。 足りない劣等感や侭ならない齟齬。きっとこれからもそう言ったものは幾度も土方を苛むだろう。それでも土方は真選組の副長として立たなければいけない。怖い世界に投げ出されても、そう戻れなくとも、戻った様に在り続けなければいけないのだ。 (退院したら、坂田にちゃんと礼を言って……それから、ゆっくり真選組での仕事を学んで行こう。少しでも彼らの期待に添える様に。少しでも元に戻れる様に) そうでなければ、いけない。だから、そう在ろうと思う。寄る辺もない、ほんとうの事なぞ何一つ掴めない自分は、正しく籠の鳥でしかないのだろうから。怖い怖いと外界を、他者の比べる二人の自分の齟齬に怯えてばかりいても仕方がない。 前に進まなければ。坂田が、こんなにも身や心を砕いて接してくれる、その尽力を、手助けを、無為にする事になって仕舞う。天国の様な地獄の様な日々は終わなければ過ぎ行かない。 眼前に持ち上げた侭だった掌をゆっくりと折り畳んでシーツの上に下ろせば、視界にはベッドサイドの小さな常夜灯に薄らと照らされる天井だけが── 「!」 仰向けに横たわっている、その限定的な視界の中にあったのは己の手と天井だけではなかった。常夜灯の薄明かりからまるで隠れる様に、パーテイションの直ぐ横には坂田が立っている。 いきなり暗闇に人影があれば誰だって驚く。橙色の仄明かりが僅かに反射した、その銀の耿りが視界に過ぎらなければ、土方は坂田が其処に佇んでいる事に未だ気付きはしなかっただろう。 「さか、た」 吃驚させないでくれ、と言いながら、反射的に強張った身体から力を抜く様に息を吐き出す。坂田の目はじっと、寝台の上の土方の姿を見ていた。ぴくりとも動かず。息すら気取られずに。ただ無言で。 「どうにも寝付きが悪くて」 じっとこちらを見下ろしている坂田の視線が酷く居心地が悪く、土方は自分が起きていた理由を言い訳の様に口にした。ひょっとしたら無意識で声に出して何かを呟いたり、寝返りなどで音を立てて仕舞ったのだろうか。それが、護衛についている坂田を警戒させて仕舞ったのかも知れないと、申し訳の無さも込めてそちらを見上げる。 坂田は相変わらず無言で、ただ其処にじっと佇んでいた。置物か何かの様に。見たこともない様な無表情で。 ひょっとしたらこれは護衛の一環なのか、と。そんな事を思った、土方の考えが正しくはないのだと知れたのは、何の前触れもなく寝台に向けて動き出した坂田が、些かに乱暴な手つきで上へとのし掛かって来た時だった。 「さ、」 その先の言葉は続かなかった。寝台の上で仰向けに横たわる、土方を睥睨する様に見下ろしている坂田の片手が、あの器用な右手が、土方の喉を鷲掴みにした事によって。 首は締めていない。気道も締めていない。頸動脈も潰していない。ただ、顎の直ぐ下を思い切り片手の指に掴まれて、憶えも知らない圧迫感に背筋がぞっと冷えた。 ひょっとしたらこれは、坂田に扮した刺客なのではないか。何か得体の知れない天人か何かが坂田の身体を操っているのではないか。思わずそんな荒唐無稽な事を考える。 「土方」 胸の上に坂田の尻が落ちた。途端に圧迫感が強くなり、痛めた肺の所為か酷く苦しい。折れた肋骨がまた割れるのではないかとそう思える様な加重だが、実際には坂田は土方の胴の横に膝をついていたから、全ての体重でのし掛かられた訳ではない。だが、今の土方にとっては何れであっても同じ事だった。 土方の胸の上に座る様な姿勢を取った坂田が、じっと上方から睥睨している。無表情よりも温度の無い色の眼差し。怖い、と反射的に思うが、喉を押さえる手を幾ら掴もうが、坂田は僅かも動じる気配を見せない。 常夜灯の明かりが銀色の輪郭をそこに鮮やかに描き出していて、これは夢ではないのだと土方に強く知らしめて来る。 「さかた、」 掠れてひしゃげた声が、苦しいのだと、怖いのだと、眼前の男に必死で訴える。だが、坂田は土方のそんな懇願に耳を僅かたりとも貸す心算はない様だった。ふ、と口元に刻まれたのは、憐憫ではなく冷笑。 「本当にお前、憶えて無ぇの?」 酷く乾いた声が、嘲笑の気配に乗せて耳朶を打つのに、土方は咄嗟に頷こうとして、喉元を掴む指に遮られた。ぐ、と喉だけが震える事を是と捉えたのか、坂田が「はっ」と嗤い声を上げる。 今更何を言っているのか、坂田が何を言いたいのかも解らず、土方は訳も解らない侭に息を呑んだ。押さえられた指の下で喉が引きつった様な悲鳴を上げて──こわいのだ、と。おまえがこわいのだと、必死で訴える。 坂田の目が、坂田の嗤いが、手が、行動が、態度が、言葉が、怖い。 お前が怖い。解らないものたちの様に、解らないお前がこわい。 「お前は、俺のものだった。それも憶えて無ェの?」 見下ろす坂田の、冽たい嗤いが自嘲めいた色を湛えて、それから静かに笑い声を立てる。喉をくつくつと鳴らしながら、「は」の音をフラットに繰り返して、嗤った。 知らない。 坂田の言葉も解らないが、それ以前に、こんな男など、知らない。 「──」 恐慌状態に陥った土方の口から、声にならない悲鳴がこぼれた。身を捩ろうと、暴れようと、逃れようとすれば益々に強く押さえつけられて、喉を掴む男の手に更なる力が込められた。すれば、潰されて仕舞う、と言う本能的な恐怖で身が竦んだ。 「お前は、俺のものだった」 ぐ、と近付いた坂田の顔が、眼前僅か数糎の所で、一言一言をゆっくりと紡ぐ。子供に言葉を教える様に。笑みを乗せながら。 身動きも取れない土方は、その言葉を理解するより先に恐怖に呑まれた。小刻みに四肢が震えだし、歯の根が合わずかちかちと音を立てる。 「それを忘れて──笑っちまうよな、処女みてェに無垢で無知でお綺麗なフリした面晒してるテメーを見てると腹が立って来てさァ。いい加減限界なんだよね」 解らない。坂田が、この男が何を言っているのかが、解らない。 ただ、男が酷く苛立っているのは解る。 竦んだ土方を嘲っているのが解る。 何かを忘れたことを咎めて、怒って、責めているのだけは、解った。 「さかた」 制止のつもりで上げた声は酷く乾いて震えてひび割れている。 謝らなければならないのだろうか。この男が何故か怒っている事を。 赦しを請うのが正しいのだろうか。この男に屈すると認める為に。 すれば坂田は、口元を歪めた。嗤っているとも泣いているとも怒っているとも苦しんでいるとも知れぬ、それは酷く歪な、然し──きっと、正しい感情の発露だったのだろうと、思う。 「さ」 「黙れ」 疑問も謝罪も制止も出来ず、ただただ名前を繰り返し怯えるだけの土方に苛立った様に、男は冷たく一言、そう言い放つと。 餌を前にした肉食獣の様に歯を剥き出しにして、酷薄に嗤った。 ちょっと長くなっちゃったので一旦区切り。全国の坂田さんごめんなさいその2。 /19← : → /21 |