天国の日々 / 22 伸ばした手に触れるものは無かった。 きっとそれが、気付く事の出来なかった報いなのやも知れぬと思う。 * 「まだ寝てっからあんま騒ぐなよ、ゴリラ」 「解っているさ。然し珍しいなぁ、トシがこんな時間まで朝寝坊するなんて」 「てめーらの所はいつも早すぎんだよ。五時とか六時とか、人間の起きる時間じゃないよ?ラジオ体操もビックリの時間だよ」 暢気な声の暢気な会話が近付いてくる。 「ははは、確かにそうかも知れんが、早朝と言うのは身が引き締まって気持ちの良いものだぞ?」 「俺ァ御免だね、ラジオ体操なんて終わる寸前に行ってハンコだけ貰って帰りてーもん」 未だ眠っていたい。声は煩いものではなく、寧ろ幾分潜められた音量だから、この侭浮上しかけている意識を再び眠らせるには邪魔にはならない。 眠りの淵にいる時の、誰かの声やテレビやラジオの音は子守唄の様に働く。ノイズにも似た無意味な音の中では、眠気に抗って立つ事も億劫だ。 「お前なあ…。偶には新八くんを見習え。お前が二日酔いで寝てる間も新八くんは朝早くから起きて朝食を作っているんだぞ?お妙さんなんて夜が遅い時の方が多いのに朝はちゃんと…」 瞼の上には温度の無い蛍光灯の白い光。近付いた声の片方が、寝台の横に置いてある椅子へとその気配を落ち着かせる。 と言う事は、見舞いに来てくれた来客だ。そう意識の何処かが認識するのとほぼ同時に、土方は未だ重たい瞼と気怠い意識とを無理に押し上げた。 言葉を途切れさせた見舞客は、土方の覚醒の気配に気付いてか口を噤むが。 「……、こんどう、さん?」 その時には土方は既に瞬きをしていた。寝台の直ぐ横の椅子に落ち着いていた見舞客は予想通りの男だ。その顔が、少し申し訳なさそうな形を作って笑う。 「おはよう、トシ。すまんな、ひょっとしたら起こしちまったか?」 まだ寝ていていいんだぞ、と、男臭い顔が気遣いを形作って緩められるのに、「いや…、」と小さくかぶりを振って、土方は目を擦った。流石に来客を横に二度寝が出来る程図々しくはなれそうにない。 「だから騒ぐなって言ったんだよこのゴリラが。おい、土方大丈夫かー?」 近藤の座る椅子と反対側から掛けられる、この一週間少々の入院生活ですっかりと聞き慣れた男の声に、土方はのろのろとした動作で頭を巡らせた。 「──」 目覚めは全くいつも通り。おはようさん、と眠たげな目で口の端を持ち上げる坂田の様子もいつも通り。ただ違うのは、耳に吹き込まれた男の声。脳にくっきりと刻まれている男の言葉。 土方は一瞬、昨晩の嵐の様な体験は何かの悪夢だったのではないだろうかと思った。そのぐらいに、坂田の様子はまるきりいつも通りだし、だらりとした姿も優しげな気配を湛えた眼差しも語りかける声も、昨日の男とは余りに違い過ぎた。 「朝飯食うか?っても冷めちまったから米だけ握っておいた奴だけど。まあもう昼飯って時間か?」 言う坂田の視線を追えば、壁掛け時計は10時と11時の間を指していた。確かに随分な寝坊だが── 「おい土方?まだ寝惚けてんのか?」 「っ!、」 眼前でひらひらと振られる坂田の手に、土方は身を竦ませた。そうして身体を動かせば否応なく解る、気怠い重さを纏った全身は泥袋の様だ。疲労とあらぬ所に憶える痛みと、身体中にこびりついている気さえする男の匂い。声。熱。欲。 「トシ?どうしたんだ?」 明かな緊張を示して全身を強張らせる土方に気付いて、近藤が優しく問う。だが、それに対する応えなぞ持ち合わせていない土方は、怯えた様に坂田を見上げる事しか出来ない。 全身も、記憶も、感情も、確かに昨晩の名残を訴えている。これで夢だったなどと言ったら、それこそ恥と穢らわしい妄想とに憤死しかねない。 坂田の様子も全くいつもと、昨日までと変わりがない。面倒な健忘症状の患者の護衛に立ち、面倒を何くれなく看てくれる男のその侭だ。 故に土方はひととき混乱した。事実とそれを認めたくない心とが鬩ぎ合って、どこに本当の答えがあるのかが知れない。どこに、誰が、何を刻んで言ったのか──知りたくはない、のに。 すれば、土方の惑いを見て取った坂田が事も無げに口を開いた。 「……まぁ、ちっと昨晩無理させちまったし?怠ィんならもうちょいゆっくり休んどけ」 まるきり何でもない事の様に、土方の胸の裡に蟠るものをさらりと肯定して寄越した男の。口調も態度も、矢張り先頃までと全く変わった様子は無い。だが、だからこそ土方は一気に温度を無くした。眩暈がしそうな程に急激に血が下がる。 「──っさ、」 土方の背筋を冷やしたのは、坂田のした肯定に対するものと、そこから一気に沸き起こる羞恥心と、認め難い困惑と、それと何より。 「え??昨晩?」 坂田と土方と、両者の間に漂った奇妙な緊張感と気配とに、ぱちくりと目を瞬かせる近藤の存在だった。 土方は咄嗟に坂田へと恨みがましさを込めた目を向けた。批難したい事ならばそれこそ次から次に浮かぶ。昨晩の行為にも、それを悪びれず肯定した事にも、よりによって他人の──真選組の、近藤と言う、土方にとって最も近しかった筈の人間の前で口にした事にも。 「え、何?なになに?何かあったの、」 きょろきょろと、坂田と、それを批難する様に見上げる土方とを見比べる近藤へと、土方が何か誤魔化す類の言葉を探るより先に、動いたのは坂田の方だった。 「だァから。どんだけ野暮なのこのゴリラ。恋人同士が同じ部屋で二人きりの夜よ?何もなにもナニしかねーだろーがそんなん」 直球を通り越して下卑た響きさえ混じる坂田の言い種に、土方の頭は寸時真っ白に漂白された。羞恥と憤慨と動揺と恐怖とでない交ぜになった感情で近藤の姿を捉える。 「………え?…え、え、えぇぇ?!」 暫し瞬きを繰り返していた近藤が、目を点にして仰け反った。紅い顔が坂田と土方との間を忙しなく行ったり来たり動き回っている。 「え、何、そー言うなにってそう言うナニ??」 「他にどう言うナニがありますか?恋人同士+夜+翌朝寝坊とか、昨晩燃え上がっちゃいましたー以外の何だと思うのお前」 察しろよ、とばかりに嘆息してみせる坂田を暫し凝視して、それから近藤の視線は、強張った表情の侭動かない土方の方へと戻って、もう一度坂田の方へと戻った。 「だ、だって、お前ら…え?ええ?あんなしょっちゅう喧嘩してたのに?いつ?いつから???いつの間にそんな」 「〜あのな。ちったァ考えりゃ解んだろ?幾らニュース観たからって、俺が好きこのんでコイツに安否確認の電話とか入れちゃう様に見える?しかもコイツ自身の携帯にだよ?更にはその後幾ら金払いが良いからって、こんな面倒臭そうな依頼に乗り続けると思う? 全部、恋人同士だからこその行動だったと思いませんかこのゴリラ脳」 坂田の指が、真っ赤になっておろおろとする近藤の頭をびしりと弾いた。 「だ、だって俺何もトシから聞いてな」 「まぁこの子アレだから。照れ屋だから。ムッツリタイプだから。オメーらには隠そうと躍起になってたみてェだけど。非番前の夜毎にゃそりゃもう」 「え、でも…、えええ?」 「奥までツっこんだまま揺さぶってやると、苦しいけどキモチイイみてぇで、啼きながら縋り付いてくんだよ。イきそうになると自分から脚絡ませて腰くねらせて来てさァ、もう普段とのギャップがエロ可愛いのなんのって」 「っっつっこn、ももももももももう良いから!わ、わかった、解ったから!!」 舌なめずりをする獣の様な嗤いが仔細を殊更に開けっ広げに続けるのに、近藤の方が泡を食った様子で止めた。ちら、と一瞬土方の方を見てから何か想像でもしたのか、しようとしたのか、 「ははは、そ、そうかぁ…、お前らがそう言う仲だったとはなぁ…」 真っ赤になった侭の顔を誤魔化す様に笑いながら言って、そうかぁ、と何度も頷いている。 もう怯えも怒りも羞恥も無くして、硬直した侭項垂れた土方の耳朶を、悪戯する様に伸びて来た坂田の指の背が軽く擽る。 そこから湧くのは恐怖でも嫌悪でもなく、いっそ絶望にも似た感情だった。 土方には坂田の言う様な『恋人同士』と言う明確な記憶の一切は無かったが、昨晩の坂田の言葉と行動とが、土方の全てを知り尽くしているに相違ないのだろうと言う確信は得ていた。 認め難い話だろうが信じ難い事だろうが、少なからず坂田は土方の身体を知っていた。土方の身体も、坂田に慣らされ躾けられ抱かれる事を憶えていたのだから。 その、何よりも雄弁に感じられる真実に──土方の喪失して仕舞った記憶に、坂田は尤もらしい役割を与えて寄越した。何度となく言い聞かせて寄越した。 お前は俺のものなのだ、と。 坂田のあからさまに下卑た言い方には、己の所有物を自慢するにも似た後ろ暗い歓びと、それを知らしめる事が出来るのは己だけだと理解している執着心とが込められており、それを聞かされた近藤は納得と理解とを示している。 少なくとも、坂田の態度や物言いと、今までの土方の様子や行動などから、近藤にとってそれは得心するに足りた結論だった、と言う事だ。 以前までの土方はそれを──事実だとすれば──隠そうとしていたと言う。坂田は今それを無視して明け透けに暴いて示す事に、間違いようもない歓喜を得ている。 お前は俺のものなのだ、と。曝け出す事の出来た、強い独占欲。 「そうかぁ」と未だ何度も頷いている近藤の様子には、家族や親友の独り立ちを知った時の様な、安堵や一抹の寂しさの様な感情が滲み出ている。疑いなぞ微塵もなく。拒絶や忌避感なぞ一切持たず。 土方に記憶がないとは言え、坂田の強いたこの関係が大凡普通の類ではない事ぐらいは解る。 男同士での恋人を謳う事だのセックスだのに及ぶ歪さぐらいは解る。 それが世間的にどう言った目で見られるものかと言う事ぐらいは、恐らく解る。公人であったのだと言う己の経歴を思えばこそ余計に。 だが、そんな一般的な評価は、近藤の納得を何ら妨げる様なものには成り得なかった様だ。その事からも益々、土方は羞恥と困惑とで身の置き所を失うのだ。 近藤の納得と、土方の、逃げ場のない絶望感を待っていたかの様に、坂田の手がするりと頬をなぞって行く。優しさと愛しさしかない指先。執着の果てを密かに嗤う口元。 「で、流石に忘れられちまったのは堪えて。スゲー悩んだけど。踏み留まろうともしたけど。ひょっとしたら俺の事、思い出してくれねぇかなあって期待があって。つい無理させちまったって訳ですよコノヤロー。ったく、人の性生活に何堂々と踏み込んでくれやがんのこのゴリラは」 煮詰まった挙げ句の行為とは言え、無体を強いて傷つける様な真似はするものか、と示しながら言う坂田に、近藤は己の身でも当て嵌めて考えでもしたのか。少しの沈黙の後、曖昧に頷きを返す。 その間も坂田の手つきは酷く優しく土方に触れては撫でていたし、土方にもそれを拒絶する様な動きの一切が無かった事から、近藤は少なくとも坂田が強姦めいた真似を強いた訳ではないのだろうと判断したのだろう。 「お前がトシを…幾ら恋人同士だったからと言って、今のトシを傷つける様な真似をしていたら殴り飛ばしてやる所だったが……」 近藤も、今の土方が己らよりも坂田に慕わしさを感じている事には気付いていたのかも知れない。溜息にも似た深い首肯を落としてから、まるで娘の交際を認める父親の様に鷹揚な様子で笑みを浮かべてみせた。 「これで、お前がトシの事に親身になってくれてた事にも納得が行った。ありがとう、銀時」 「……お父さん?お父さん気取りなのこのゴリラ」 思い切り渋面を作ってみせる坂田だが、その中には確かな安堵の色がある。 土方はどこか現実離れした劇でも見る様に、坂田と近藤とが笑い合うその様子をぼんやりと見上げていた。 坂田に躾けられて抱かれていたのだと言う、己の身体は正直だった。 記憶なぞ無くともそれを知っていた。 真選組の事も散々に聞かされていた。鬼の副長と呼ばれた男がそこにどれだけ心血を注いでいたのかも幾度となく教えられた。 近藤と言う人が自分に近しい人だったのだと言う事は、記憶に無くとも実感にはある気がしていた。 その人までもが、認めた。 坂田と恋人同士であったと言う土方の事を納得した。理解を示した。 真選組に籍を置きながらも、土方は坂田のものであるのだと。そんな納得が、いよいよ形になって作られたのだ。 坂田の指がもう一度、そっと土方の耳朶を探っていく。 言い聞かせる様に。吹き込む様に。囁く様に。教える様に。知らしめる様に。思い出させる様に。 これは俺のものなのだ、と。 。 /21← : → /23 |