天国の日々 / 25 朝、目を醒まして隣を見たら既に土方の姿は無かった。 一つの布団で一緒に寝ると言うのは流石に、セックスの後でもあるまいし狭くて仕方ないので、寝室に用意されていた二組の布団を並べて伸べてある。その片方だけが足下側に綺麗に畳まれていた。 押し入れまで仕舞うと流石に銀時が目を醒ますやも知れないと気を遣ったのだろうか。なんだか旅館で一人だけ寝坊した時の様な妙な気分になりながら、取り敢えず銀時は起き上がって背筋を伸ばした。新品と言う訳では無いが、綿のしっかりと打ち直された布団は柔らかく、万事屋の煎餅布団や病院の簡易ベッドとは大違いで酷く寝心地が良い。良すぎて身体に違和感を憶える程だ。 首をぱきぱきと鳴らしながら、大きく欠伸をする。それからゆっくりと枕元のジャスタウェイ型目覚まし──は無いので、少し頭を巡らせて時計を探した。 「……七時」 程なくして見つけた壁掛け時計は、七の字に短針、三の字の辺りに長針を置いていた。銀時的には二度寝を決め込む時間だが、病院の健康的なサイクルに合わせた生活をする内、ひょっとしたら自然と早く起きて仕舞う様になったのかも知れない。早く(万事屋比)起きる己と言うものも吝かでない。 早朝は気も引き締まるとか宣っていた近藤の言葉を思い出したりしつつ、銀時は布団を除けて立ち上がった。気が引き締まるかどうかはさておいて、土方の行方が気になったのだ。 畳まれた布団の温度なぞ触ってみたところで、眠る人の抜け出た頃合いなぞ解る訳でもない。銀時は寝癖で収まりの更に悪い頭を掻き掻き、足下で丸まった掛け布団を蹴って寝室から出た。 襖一枚で隔てられた廊下へと、室内の凝った気怠い空気を引き連れて行く。寝室には陽光は入らないが、廊下は庭側に面しているから明るい。磨り硝子の向こうの空は今日も今ひとつ精彩が良くなさそうだが、余り肌寒さは感じない。朝から気温がそんなに低くないなら、日中は暖かめになるかも知れない。 つらつらと考えながら居間に向かうと、探していた姿は果たしてそこにあった。卓袱台の上に拡げたファイルを前に、ボールペンを熱心に動かしている土方の表情は真剣そのもので、銀時の頬は僅か笑みの形に持ち上がった。その真剣さは眼前の仕事に向かうと言った風情よりも、初めての試みに取り組む子供のそれに近い。幼子が私塾で手習いを受けている姿を思わせる、そんな土方の様子に、嘲りではなく微笑ましさを憶えたのだ。 「はよ」 笑みに乗せて声をかければ、没頭していたらしい土方がはっと顔を起こした。「おはよう」そう、銀時の表情に釣られる様に柔く緩めた様子を見せる土方に、面映ゆさや愛しさの様なものが沸き起こって、近づきながら自然と手が伸びる。そんな心地を挨拶代わりに込めて、背中に回り込んで耳の後ろに軽く口接けると、昨晩切ったばかりの毛先が固く銀時の鼻先を擽った。 「起きたの、何時よ?」 問いながら、切り口の新しい襟足の感触を指先で楽しむ。 昨晩風呂上がりに、予てから言った通りに軽く土方の毛先を整えてやったのだ。矢張り元来制服姿の人種なだけあって、だらだらと全体的に重たい頭をしているより引き締まって見えて良い。 「七時…少し前ぐらいかな」 考える様な仕草をした土方がボールペンをことりと置いた。銀時が触れた事で自分でも気になったのか、前髪を軽く弄っている。寝癖は特に見られない。相変わらずの綺麗な直毛ぶりである。 「じゃ、腹も減ってんだろ。すぐ朝飯作るから待ってろ」 ちゅ、と行きがけの駄賃の様に項に音を立てて唇を落としてから銀時が立ち上がると、「あ…」と土方が困惑した様な表情を浮かべるのが見えた。「?」疑問符と共に見下ろせば、おずおずと立ち上がる。 「…その。すまない。本当は朝飯ぐらい作っておくべきなんだろうと思ったんだが、……よく、解らなくて、」 そんな風に心底申し訳なさそうにぽつりとこぼす土方の様子から察するに、台所には一応入ったものの、何から手を付けて良いのかが解らなかったと伺えて、銀時は寸時にやけそうになる顔を背を向けて逸らした。想像はすっかり、台所で狼狽える料理下手の新妻にまで進行している。我ながら目出度い脳だと思いながらも。 「それは『副長サン』の仕事じゃねーから。気にすんな。真選組(あっち)に帰ったお前が──鬼の副長サンがエプロンいそいそ身につけて台所になんて立ってみろや。士気に関わるとか言う問題じゃなくなるからソレ色んな意味で」 男子厨房に入るべからず、などとよく言う。庶民の間ではそうでもないが、特に武家や良家では多い傾向だ。土方の幼少の頃がどうだったか、近藤の道場に居たと言う頃がどうだったかは知らないが、少なくとも好んで厨房に入る手合いでは無いだろう。 そんな所にもってきて、侍を自負した身なればこそ、その例に倣って江戸に出て来てからは間違い無く調理器具なぞ手にしていない筈である。と言うかそんな場面があったら寧ろ見たい。 銀時の珍しいフォロー混じりの言い種に、「でも、」と土方は食い下がった。これもまた記憶を無くして以降は珍しい。 「手伝いぐらいは、……と言うか…、何か出来る事があるなら、した方が良い気がして」 記憶喪失は、特に土方の場合の症状は顕著な自己の喪失である。詰まる所、全ての喪失でもある。二十何年分かの土方十四郎としての生き様が、人格を置き去りにばらばらに引き千切られている。その事実は思いの外に土方の自己評価を下げて仕舞っているらしい。 以前、病院で匙の持ち方に困惑を見せていた時もそうだったのだが、そうした僅かの疵が、立つ根と言う人生や信念の意味を失い、寄る辺の曖昧になった人格を自らで更に引き裂こうとする。自嘲を通り過ぎて自虐的ですらあるその心理的な反応は解らないでもない、が。 「ここでずっと銀さんと同棲生活満喫してくれるなら、寧ろ願ってでも料理憶えて貰うとこだけどねぇ。料理下手な新妻は最初の内は可愛いけど段々実用的な意味で不安になってくるしィ? ま、手前ェの本来やんなくちゃなんねぇ事をまずは考えろや。料理を仕込む事は取り敢えず対象外だしな」 銀時には土方の申し出を殊更に突き放した心算はないが、今の土方には突き放された様に感じるだろう。予想通りに表情を曇らせるのに向かって付け足してやる。 「っても、手伝いくらいなら良いんじゃねぇの?真選組に戻ったら到底出来やしねぇ体験、的な?」 おいで、と手を伸べれば、土方は銀時の指先を見つめて、それから少し安堵した様に、然しはっきりと頷いた。『自らの意思』で諾を示したのだ。 またひとつこうして、見えない依存の縛鎖が絡みつくのにも気付かず。何処かで何かの破綻が薄ら笑って忍び寄るにも気付かず。 触れた指を包んで引き寄せれば、容易く導かれる侭歩き出す無垢の足。 迂遠とも言える、天国の様な鎖された日々の。それが始まりの合図となった。 食後、土方は書斎に場所を移して書類仕事のリハビリ作業に没頭した。特に一日に厳密なスケジュールがある訳でも無い為、好きな時に好きなだけやれば良いんじゃね?と軽い気持ちで銀時が言ってみたのが失敗だったのか。はたまた成功だったのか。先頃見てから早三時間が経過しているが、机の前の土方の姿はそこから僅かたりとも動いてはいない。見事なぐらいに手元以外は置物と言った状態だ。 どうやっても元来、一つの作業に没入すると何かのスイッチが入る性質らしい。その様子を遠目に見るだけでは、爆破テロに巻き込まれる以前の土方と何ら変わりがない。 進捗が果たしてどうなのかは見た目ではまるで知れないが、一心不乱に齧り付いているのを見る限り、順調ではないと言う事もないだろう。 一方の銀時は、暇を持て余したのと今後の予定もある事だしと、今の内に庭草の除去にかかっていた。夏の間はさぞ野放図に繁っていたのだろう枯れ草を、軍手を填めた手で根っこから掴んで引っこ抜いて行く。雑草の駆除は万事屋にも時折持ち込まれる雑用にも多いので、慣れたものである。……まあ普通は夏にやるものなのだが。 防犯目的だろう、家屋の裏手にある勝手口付近には枳が植えてある。刺さると痛いので気を付けた方が良さそうだ。 一方で玄関の近くにそれなり見栄えのしそうな白木蓮の木が植わっていたが、こちらは特に手入れは必要なさそうだった。枯れ葉を散らしているでもなく枝が折れてるでもない。蕾はまだ厚い毛皮を纏って沈黙している。後は枯れた侭の紫陽花。こちらは折角だから整えておいた。花の季節までここで暮らすとは幾らなんでも思えやしないが、まあ一応気分の問題で。 こうなると、でこぼことした外見になっている生け垣の椿にも手を入れたくなるものだが、生憎銀時は園丁でも何でもない。わざわざ専門職に頼む気もしないしで、諦めて放置を決め込む。 家の外周をぐるりと見回してから、庭に戻って枯れ草を詰め込んだゴミ袋を隅にまとめておく。この辺りのゴミ収集日なぞ知らないので、後で調べなければいけないだろう。 それから、庭土を均すついでに散った草っ葉の掃除でもしようかと思って、ブーツを脱いだ銀時は縁側に上がった。そうして廊下の突き当たり、角っこにある納戸に向かう道中。納戸のすぐ隣にある書斎の、半分開け放たれた侭の内側に見たのが、件の土方の様子だったと言う訳である。 「……」 納戸に向かいかけていた足を二歩、戻して振り返った姿勢のその侭、銀時は無言で眉根を寄せた。自然と瞼が重たくなる。それから、同じくらいかそれ以上に重量感のある溜息。 半眼に顰めた顔を前方に戻すと、銀時は納戸の戸を開いた。が、目当ての庭掃除用の竹箒は入っておらず、代わりに土間やアスファルトの地面などによく使うシダ箒が先端にビニール袋を被せた状態で横の壁に下がっていた。 まあ用途は同じだから良いかと、銀時は軽い手つきでそれを取り上げた。流石に納戸の中までは掃除されておらず、箒は掃除用具の癖に埃っぽい。 柄の部分をざっとを袂で拭って、掌に握り込んでみる。少し細い。長めのもので、柄の長さだけでも一米近くはある。 手にした箒を無造作にぶら提げながら、銀時は書斎へと戻った。部屋の中央付近に机を置いて、襖を半分開けて庭からの日差しを灯りに、土方は相も変わらず黙々と筆を動かし続けていた。傍らの屑籠の中には書き損じらしきものが幾つも転がっており、時に苦心しつつも熱心に机仕事のリハビリに励んでいる様子が伺える。 書斎にごく普通の足取りで入って来た銀時に気付かないと言う事は流石に無いだろうが、集中しているのもあってか特に構う様子も無い。 机の横五十糎ぐらいの所を通り過ぎて、銀時は書斎の奥へと入った。箒を手に歩いて行く姿は、部屋の掃除でもしようとしている風にしか見えないだろう。そんな事を考えながら突き当たりの壁まで歩いて、ゆっくりと振り返る。 部屋の、廊下寄りの中央付近に机。その前に土方の背中。距離は三米にも満たず。逆光気味の光の中で、少し丸まった背中が手を動かし続けている。それを見据えた侭、銀時は不意に手の中の箒をくるりと回した。毛部分と柄の境目辺りを右手で強く握り直すと、一息に踏み込んだ。 辿るのは袈裟の軌跡。土方の右肩から背にかけてを断ち切る様に、箒の柄を振り下ろす。 然し、閃いた木製のその柄が土方の身体を狙い通りに打ち据える事は無かった。銀時は眼前、振り返らせた身で左腕を頭の上に翳す様にして刃を──否、柄を受け止めている土方の姿を、僅かの感心を持って見下ろす。 腕で受け止めた柄を払い除けてその勢いで立ち上がるべく、土方の全身の筋肉が強張るのと──振り向いてこちらを凝視している瞠られた瞳の、色を失い開いた瞳孔。 力をどろりと抜いた表情の知れない眼が物騒に笑う、底の見えない泉の様に清冽な癖に沢山の血に澱んだ眼のいろ。その憶え深い記憶に、開いてはいけない筺の中身を覗き見た心地になって、銀時はあっさりと自ら身を引いた。土方が腕を払い除けるより先に、柄を引き戻して自らの肩上にとんと乗せて笑いかける。 「流石は真選組の副長サン。病み上がりでも良い反応なこって」 座り込んだ侭茫然とした表情を形作った土方は、驚きと憤慨とが入り交じって混乱そのものと言った風でいる。突然銀時に箒で斬り──もとい叩かれにかかられねばならない思い当たりなどないのだから、まあ無理もない。 (ついでに言や、それを手前ェの身体が回避した、っつー憶えも無ェ、と) 銀時は驚きに固まる土方へと非礼を詫びる様に、眉尻を下げながら肩を竦めてみせた。苦笑に似た表情を作って言う。 「机仕事のリハビリも勿論大事なんだけどな、真選組(アイツら)から俺が頼まれてんのは『鬼の副長』サンのリハビリなんだよ。ちったァお前も聞いてたろ?あの鬼っ子が指揮官の癖に前線にガンガン斬り込んでくタイプだってのは」 表情を困惑に傾けた侭、土方はぱちくりと瞬きをしてから反射的と言った感でこくこくと頷く。そんな、以前までの土方であれば無かった様な、幼ささえ感じる仕草に、銀時は寸時苦いものを口中に溜めた。飲み下すにも気が進まないのだが、取り敢えず続ける。 「で、だ。そこまで血気盛んになれたァ言わねーけど、多少は剣士的な勘みてーなもん取り戻して貰わねーと、と思って」 そこで一旦言葉を切って、とん、と箒の柄で自らの肩を叩いてみせる。 「不意打ちしたらこの様って訳だ。なかなかどうして、身体が憶えてるモンってのは忘れねぇもんなんだな」 誉める様にそう言うが、土方の反応は恐らく反射的で、そして本能的なものだったに違いない。その証拠に、銀時の箒に因る不意打ちの斬撃を防いでみせた土方当人は自分のした事をまるで理解していない様だった。戸惑いそのものを湛えた目が、上げた侭でいた己の手に気付いて狼狽えている。 箒の一撃は確かに不意打ちではあった。初動の速度は室内と言う狭さもあって、利き足一歩の踏み込みだったから余りバランスが良く放たれたとは言えない。とは言え、座っている人間に対する上方からの打ち込みなのだ。片手持ちでも充分に速度も威力も、油断しているしかも素人であればまず反応出来ない程度には乗っていただろう。 とは言え、土方が回避行動を取る可能性が無かった場合も考慮し、刃(柄だが)の触れる寸前に銀時はそれらの慣性を無理矢理殺して速度を抑えていた。そうでなければ、記憶喪失である事以前に、病み上がりで体捌きにも筋力にもブランクのある人間の反応速度では、仮令それが土方であったとしても腕で止めるには間に合わなかっただろう。 まあ、止められなければ、肩に柄の一撃を食らいながらも転がって威力を殺しつつ起き上がる、と言う動きぐらいは、今の様子から見れば簡単にやって除けそうではあったが。 ともあれ。土方が肩を痛打されても呻くぐらいで済む程度には威力を殺していたとは言え。振りかぶった得物が迫る寸前に、土方の身体は自らに迫る危険を察知し振り返っていた。目視に頼ろうとするのは土方の癖の様なものでもあるが、油断状態だった故の確認の無意識もあったのだろう。思いもかけぬ人物からの不意打ち、と言う認識で。 そして振り向き様に、間に合わなかった目視より先に手が出ていた。左の腕。利き腕ではない事と、丸腰であった事も手伝って、それは何の躊躇もなく土方の眼前に差し出され身を防いでいた。その次の瞬間には襲撃者の得物を払い除け様立ち上がり、反撃の手に出ようと、本能が思考し動いたのだろう──見下ろした先にあったのは、瞳孔の開いた茫漠の孔の様な瞳。その孔の向こうには獰猛な鬼の子が棲んでいるのだと、銀時は知っている。 暫時の間の後に『帰って』来た、幼い挙措を見せる男と、それは矢張り決定的に異なるものだと。まざまざと思い知らされた気がした。 先頃呑み込み損ねたものをなんとか嚥下した銀時は、「ちょっと待ってろ」と言い置いて、まだ混乱と理解が上手く片付けられていない土方を残して寝室へと足早に向かった。途中で縁側から庭に箒を放り出してから寝室に入ると、隅にまとめてある荷物の一つを引っ張り出し、続け様刀架から自分の木刀を掴み取って戻る。 土方は机の前に座り込んだ侭、頭部を庇う様に持ち上げた己の左腕を不思議そうに見つめていた。『どう』、『何故』動いたのかは理解出来ないのだろうが、それが反射に因る己の行動だった事にはきちんと理解を示している様である。 「坂田、」 戻った銀時が目の前に膝をつくのに、土方は何処か怯えすら漂う風情で俯いた。 『初めて』身体を拓いてやったあの時の様に、己の意識とは無関係に、身体が無意識に記憶している事に戸惑い、酷い焦燥や噛み合わない意識と身体の乖離に苛立ち苦しんでいるのだ。 縋る様な響きさえあるその声には応えず、銀時は無言で、寝室から取って来た細長い包みを土方へと手渡した。 「…………」 受け取った土方は伺いを立てる様に銀時の目を見上げて来たので、是と言う代わりに無言で顎をしゃくって促してやる。 すれば土方は、一見竹刀袋の様な蘇芳色のその包みをゆっくりと解いていった。紐を解いて、袋の口をたぐまらせながら、その中身を自らの手の中に晒け出す。 「……かたな、」 小さな声で紡いだその通りに、それは刀だった。金糸の刺繍の細やかに施された蘇芳色の包みの、その中から現れ出でた、武骨で血腥い刃。 包みから鞘を全て解放して仕舞うと、土方はそれを両の手で水平に持ち上げた。視線の僅か下辺りで、鞘を左手に、柄を右手にぐっと握りしめると、鞘走りの音も涼やかに抜刀する。 刀身を垂直に立て、ぐるりと見回す。まるで何かの確認をするかの様に。使い込まれ、研ぎ澄まされ、磨き抜かれ、鍛え上げられた刃物にの上にはその時確かに紛れもなく、鬼の有り様が映っていた事だろう。 土方の使っていた愛刀だ。一度は魂を食らうなどと言う巫山戯た怨念だかオタクだかの宿った妖刀だったが、それもすっかり祓われたらしい今となっては、寧ろ鬼の副長が斬り殺して来た人間たちの憎念の方がこびりついていそうである。まあどんな曰くがあれどどんな用途で扱われようと、それが研ぎ澄まされて美しい『実用的』な刃である事に変わりはない。 暫し魅入られた様に刀を見つめていた土方だったが、やがて、「これは、俺の…『俺』のものか」と消えそうな声で呟いた。問いと言うよりも確認の為の呟きに聞こえた為、銀時は特に注釈や説明は付けずにただ頷いて返してやる。 そうか、と感慨もなさそうにこぼすと、土方は己が一部でもあったその刃を静かに納刀した。 握った記憶が無くとも、柄はきっと恐ろしい程に手に馴染んでいた筈だ。血腥く鉄臭い冴え冴えと冷えた刀身は畏怖のひとつも無く、容易く受け入れられた筈だ。 無意識の内に、刀を抜くのに適した角度や速度をこなす挙動が、『それ』が身の一部にも等しく近わしいものであったのだと、何よりも実感させている。 そしてその事に、また無意識の齟齬を感じて、己の裡に記憶の断片を探して沈み込む。 幾ら整頓したところで、探した所で、千切れた記憶が死んで仕舞ったのであれば、そんなものは見つかりはしないものだ。だが、惑乱と自己の否定とで揺れる黒い波間の中、必死で立とうとする土方の懊悩を見るのを銀時は嫌いではない。 惑いながら、苦しみながらも安易に逃げたり縋ったりはしようとしない、土方の勁さだけは、以前までのものと全く変わらないから、なのかも知れない。 「見た所、」 納めた刀を膝上に抱いた土方に、少し思考が落ち着く迄を待ってやってから銀時は続けた。 「お前の記憶は確かにバラバラになったり無くなったりはしてるが、本能的な部分や──月並みだが、身体が憶えてる事は存外に確り残ってるみてェだな。 だから、本当はいきなり真剣なんざ持たせんのは気が進まねぇんだけど、実戦向きに鍛え直すんなら、寧ろ木刀や竹刀でヘンな癖を付けちまわねぇ方が、多分お前にゃ向いてる」 月並み、とは言い置いたが、身体が憶えている、などと言われた事で、土方は咄嗟に血の上がった頭を逸らした。別に揶揄をしたかった訳ではないので、銀時は苦笑混じりに要点を言う。 「だから、素振りとか体力作りはともかく。剣術の訓練に関してっつーの?体捌きとか、そう言うお前の勘が憶えてる所から呼び起こして鍛えてェ所は、その真剣を使おうと思う」 きっぱりと銀時の言い切った言葉に、思わず膝上で持った刀を見下ろして、土方は狼狽えた。 「だが、俺は……いや、今の俺は剣なんて全く使えない素人だし、危険過ぎる」 朝食を作る為の包丁ですら上手く持てなかったのだ、と、土方が余りにも心底に困った顔で訴えて来るので、銀時は不安を払拭する意も込めて笑う。 「包丁と刀を一緒にすんなや。似た様なもんだけどな、用途についての先入観で、使う奴(お前)の意識は大分違うもんだよ?」 そもそも料理技能は端からゼロだろうから仕方がない、と続けかかった言葉は呑み込んだ。そんな事はどうでも良い話なので割愛。何より不安を得ている土方に無駄なマイナス要素を押し込んでも仕方がない。 「だが、」とまだ言い募ろうとする土方を促して、銀時は立ち上がった。まずは軽く扱いにでも慣れておけ、と言って、掃除したばかりの庭に連れ出す。 それから生け垣の、不格好に飛びだした椿の枝を適当に折って、紅色の花をつけたそれを指の間で軽く回して見せた。 「まぁありがちだけどな、まずはこう言う『斬り難い』もんを相手にしてみんのが良いだろ」 「待て、持った事すらない筈の、刀で、俺がそんな事を出来る筈が」 「ホレ行くぞー」 諦め悪く、と言うよりは、それで銀時を傷つけるか自分を傷つける可能性を畏れているのだろう。言い募る土方を無視して、銀時は手を振り上げた。 本来人を断つ為の刃などと言う、日常を生きる作業には全く無縁である筈の『それ』を、人が忌避するのは当たり前の事だ。 ──だが。 銀時の無造作に放った椿の枝が、重たい花を下に向けて、放物線を描きながら落ちて来る。 土方の左腕が、無意識に腰の辺りに携えられた手が、持った刀が。 ──それは恰も慣れ親しんだ抜刀の瞬間の如く。 定めた目標は、椿を手放した瞬間、突如として突きの形で伸ばされた、銀時の手にした、木刀。 ──自らの腕の延長の様に容易く、美しい弧を描く銀の軌跡。 鞘走りの音と同時に、土方の構えた剣腹に木刀は切っ先の辿る軌跡を逸らされている。弾かれるより先に腕を引き戻して、銀時はもう一度、今度は横薙ぎに土方の胴部分を狙って刃を閃かせた。 突きを躱した勢いで揺らいだ身体をその侭捻らせてそれをも回避すると、土方の猟犬のじみた獰猛な眼差しは次に──、 「……ッ、」 「はいストップ」 蹴り上げかけていた足が地から離れるより先に、銀時はそう言って無造作に両手を挙げた。ぽす、と軽い音を立てて椿の花が足下に落ちる。 土方が息を呑んだのは、銀時のその行動に対してではない。ここまではっきりと『使い慣れ』ていた己の挙動にだ。 「ホラな?」 落ちた椿の枝を拾い上げて、それを手の中で弄びながら銀時は謳う様に言ってやる。……ああ困った。楽しい。 「意識して的に当てろって言うのは無理でも、ちゃんと反射行動は出て来る訳だ。俺はその辺を変えさせる心算は無ェから、長所とでも思ってその侭保っとけや。 アレだよ、強くてニューゲーム的なもんだと思や良いんだよ」 またしても己の思う事実より雄弁な事実に打ち拉がれた様に俯く土方にそう言ってやりながら、銀時は木刀をゆったりと構えた。 「でも、本能で回避が傑出してるだけじゃ仕方ねぇからな。一対一なら斬り合いは勝たなきゃ意味が無ェ。つー訳で、打ち込みの特訓から行こうか?」 「………」 今度は唇を噛んだものの、土方は特に反論はして来なかった。木刀相手に真剣で斬りかかる事にも、銀時の腕であれば何の心配も不要なのだと言う所までを、恐らくは肌で感じ取ったのだ。 この男の根は想像以上に生真面目で、生来の剣士だった様だ。机仕事ではない、こんな時にも覗き見えるのは確かな向上心だ。己を磨こうと邁進しようとする勁い意志だ。 「構えぐらいはまあ指導すっけど、俺も我流みてーなもんだから。お前らン所みてェな道場剣術って訳にゃいかねーから、思う侭に打ち込んで来てみな」 仕草で、慣れない様な構えを訂正してやりながらそう挑戦的に笑ってやる。己の本能こそが正しい筈だと、土方も無意識で自覚しつつあるだろう。 土方の今までに身につけて来た挙動全てが、記憶喪失と言う症状だけで忘却されたものではない。その確信は同時に、銀時の裡に不快感を生む。 それは、どう在ってもお前には折れる事が出来ないのだ、と言う──土方の、元々抱いていた、銀時へと近付く事を忌避していた『本能』の顕れの様だとも、感じられたのだ。 。 /24← : → /26 |