天国の日々 / 27



 そう言えば、明確な理由を聞く前に目を伏せたのだった。
 多分──それも、認めざるを得なくなるのが、怖かったから、なのだろうと思う。
 
 
 何かに押し出される様に、不意に目が開いた。
 寝起き特有の、靄の様に蟠る眠気の未練は開いた瞼の何処にも漂ってはおらず、全身は気怠い疲労感に包まれて、まだまだ休む必要性を訴えて来ているのだが、意識の方は困った事にそうでもないらしい。
 「……」
 土方は、是か否かと言うシンプルな思考に三秒で解答を出すと、布団から上体をゆるりと起こした。その動きで、土方の身体を抱き枕か湯たんぽの様に抱え込んでいた男の腕が解け落ちて、引き剥がされた部分が外気に触れるのが少し寒かった。
 坂田は基本的に寝付きの良い男だ。身の危険などの異変が起こったり、自分を呼ぶ声などを聞き取るまでは、意識の何処かが覚醒していても肉体的に起きはせず起床時間まで眠りを続行する。
 坂田に言わせればそれは、碌に眠れない環境でどれだけ効率的に眠れるかを身体と意識が無意識に構築したのではないか、だそうだ。だから眠れる時には貪欲に眠る。…解る様で解らない。
 一方で土方は、眠りが浅い手合いだ。ちょっとした事で直ぐに覚醒するし、起きた直後からもエンジンの掛かりがよく十二分に動く事が出来る。坂田の言い方に合わせると土方のそれもまた、無意識に培われた習慣なのかも知れない。
 即ち、記憶が幾ら失われようが、脳に保持されたデータが千々に切れようが、身体機能が後天的に学習した事とは存外に消えないものだ、と言う事だ。
 さて、そんな風に眠りの浅い土方だからこそ、深夜の唐突な目覚めにも特に何ら異変を感じる事は無かった。隣の坂田からも覚醒の気配はしない。
 「………」
 今度の思考の間は、是と否だけでは無かったからほんの少し長かった。寒さと、起き上がって仕舞った事とを天秤に掛ける事十秒足らず。土方は、眠りに落ちる前に坂田に着せつけて貰ったらしい白い着流しを引き摺って布団から這い出た。平和な面で夢の世界に居る坂田の顔を見下ろすと、我知らず浮かんだ微苦笑をそっと布団を掛け直してやる事で遮断する。
 数時間前に散々に睦み合った身体は酷く気怠い。頭の中は何処か甘く重たい。
 この先何処へ行っても、どんな立場になれど。真選組に復帰した後も、己の居場所は坂田の元で構わないのだ、と──求められて認めた心は、澱んでいるくせ靄が晴れた湖の様に突き抜けて清冽な心地を憶えていた。
 今まで何故、それを認めたくない、触れたくない、拒絶したい本能の様なものがあったのか。病院で目を醒まし生まれ直したあの時から、己には何ひとつ躊躇わねばならない理由なぞ無かったと言うのに。
 仮に。この、坂田に依存する様な有り様を拒絶せんとする『本能』があったとして。それは今の土方とは大凡無縁の感情である筈だ。
 『本能』が、嘗ての土方が培って得て来た、睡眠方法や危機察知能力と同一のものなのだとしても、今の土方が坂田に惹かれる、その感情と齟齬を生んで苦しまねばならないものであるのならば、それは最早不要となって良いものなのだろう。
 此処に生まれ直した、この自分が坂田に必要とされるのであれば。坂田が、こんな、お前の事さえも忘れて仕舞った役立たずの土方十四郎の残骸でも欲してくれるのであれば。
 もうそれでいいじゃないか。
 きっと、これから求められ続けるのだろう『嘗ての土方』を。『真選組の鬼の副長』を。演じて、その通りに在る傍ら、坂田の元で生きれば良い。坂田の所有物として、それだけを頼りに、救いに、寄る辺にして生きれれば、それで良い。
 焦がれる様な欠乏欲求が何処から生じたものなのか。端からあったものなのか。最早どうでも良い。
 (坂田が居れば、それで、)
 掛けてやった布団の上から頬を撫でる様な仕草をしてから、土方は足音を立てずに寝室を出た。寝乱れた袷を整えて帯を軽く巻き直し、廊下の窓から庭を見遣る。
 未だ陽が昇るには大分早い時刻だ。時計は見ずに出て来て仕舞ったから正確な時刻は定かではないが、大体四時頃か、もう少し早いぐらいではないかと思う。
 冬も終わりの頃になってきたが、外気を伝える窓際はまだ少々冷える。先日は玄関先の白木蓮が咲き始めていた。江戸の桜も開く季節が近いだろうか。記憶になくともそのぐらいは何となく解る。落葉の季節がいつだったかは判然としない、そんな不具な頭であっても。
 「──、?」
 そんな時不意に土方の背筋を走ったのは、自嘲めいた思考の生んだ不安の予感では無かった。もっと具体的な、気配──否、目に見える異変だ。
 廊下の磨り硝子戸は細かな市松模様の格子を描いているので、そのところどころから外を窺う事が出来る。そこから途切れ途切れに見える庭は深夜の重苦しい気配を保ってただ静謐で、暗い。
 「………」
 その庭で何かが動いた様な気がして、土方は置物の様に硝子戸の内側に立った侭、油断なく目線だけで庭をぐるりと伺った。
 玄関の門扉に鍵はかかっていない。簡単な錠が戸を押さえているのみだ。庭はそのほぼ全周を椿の生け垣と大谷石のブロック塀とで囲まれている為、庭に入る為には玄関から家に入り、縁側に下りないと無理だ。不可能ではないが難しい。
 山崎は合い鍵を所持していると言っていた。だが、幾ら鍵があるからと言ってこんな深夜に予告もなしに入ってくるとも思えない。
 『何か』が動いた。風が木を揺らしただけかも知れない。見間違いかも知れない。何度か胸中でそう呟きを回すと、土方は足音を殺した侭、慎重に廊下を移動していった。向かうのは書斎だ。土方が書斎から庭へ下りる事が多い為に、書斎の上げ床の刀架に刀を置いてある。
 移動の間も暗闇の庭から目は逸らさない。塀の外の街灯は庭を照らしはしないし、家の中も灯り一つ点いていないから、正しくそこは闇だ。その闇の中で『何か』が動いた様な気がする、など、見間違いか勘違いか気の所為が良い所だろう。視界が九割方ゼロの闇に、一体妄想以外の『何』を見ると言うのか。
 だが土方は、己の──勘、とでも言うのか。それを信じる事にした。
 背筋を走って脳を直接叩く様な、その感覚を以て視界に映り込んだ(気のする)『何か』の実在を信じて、刀を掴むと廊下の硝子戸の錠を一つだけ開け、極力音を立てない様に戸を横へと滑らせていく。
 サッシの滑る音が、沈黙しかない夜の庭へと不気味に響く。いつもならば気にも留めない様な雑音が、耳を塞ぎたくなる様な騒音に感じて、土方は緊張に唇を湿らせた。
 人一人が通れるぐらいの隙間を開き終えると、土方はもう一度そこから、硝子越しではない庭をじっと見つめた。然し矢張り、闇は視界を呑み込む闇でしかなく、そこから何かの気配を感じ取る事など到底出来そうもない侭だ。
 街灯の薄ら灯りに縁取られそこだけが光って見える、椿の枝先たちが、境界。『外』とこの中とを隔てる壁。その狭間の庭は鎮と浸され夜闇に沈んだ、狭間。恰も此岸と彼岸の間に横たわる川の如く。
 左手で鞘を強く握りしめて、土方はごくりと喉を鳴らした。
 本当に『何か』を感じたのであれば、坂田を起こした方が良いのだろう。だが、真選組の鬼の副長などと呼ばれた男であればそんな真似はすまい。仲間たちに求められるものは、土方が心の置き処を坂田の元であると決めたからと言って変わるものではないのだ。
 手の中の刀はこのリハビリの期間で随分と扱い慣れたが、自信がある、と言う訳ではない。それでも、この妄想とも勘とも気の所為ともつかない程度のものにさえ怖じけると言うのは情けない。
 丁度良い機会だ。己が『鬼の副長』として『使える』のかの試金石として、この度胸試しに乗ってやろう。
 決然と顔を起こすと、土方は刀の鞘を握り直し、殊更にそこに意識を置きながら、縁側の下に置かれている草履を突っ掛ける様に履いて庭へと下りた。
 刹那──
 『それ』を『何』であると意識が判別するより先。土方は無意識のうちに柄に掛けた手を強張らせた。抜刀出来るかも知れなかった寸分の隙を、躊躇いと緊張とが完全に打ち砕いた。
 だが、土方は咄嗟に顎を仰け反らせる様にして後方へと倒れ込んだ。風のような、或いは単なる衝撃の様な『それ』の一点に凝縮された行き先から逃れねばならない、と言う原始的な反応。死と言う名の絶対捕食者の暗く開いた顎に、噛み砕かれるより先にそこから疾く動けと言う神経の電気信号の強烈な警告音に因って、訳も解らない侭に背中が土についていた。
 顎先数糎の所を通り過ぎた、『それ』を纏う冽たい刃の緊張感。坂田との打ち合いでは一度たりとも得た事のない、『それ』の正体はきっと恐らく、殺気とか、怒気とか、敵意とか、殺意とか、殺意とか、殺意とか──そういう、名前のものだ。
 『それ』が殺意であるならば、倒れた獲物を前に退く理由などない。だから土方は背中を撥條仕掛けの人形の様に素早く、弾かれた様に起こした。
 「   ──、」
 そして、起こした所で停止した。
 眼前僅か数粍の所に光る、刃の切っ先。明瞭な殺意の残滓を未だ纏わせた侭のそれが、土方の左眼球の先。瞬き一つも躊躇いたくなる様な、文字通りの『目の前』にあった。
 死ぬのだろうか、と思うより先に、何故抜刀の叶うかも知れなかった空隙を逃したのか、と後悔よりも疑念が湧く。
 坂田との鍛錬で感じた事の無かった、本物の刃の殺気に怖じけて身が竦んだのか。
 或いは。
 それが、どこかでよく知った者の気配や太刀筋だったから、なのか──
 
 「……何でィ。鬼の副長ともあろうお方が、随分とまァ腑抜けたもんで」
 
 眼球をあと一押しで貫く、そんな位置に刃を置きながらも、声はどこか涼やかな程に平淡な響きを伴って吐き出された。
 「……っ、」
 恐る恐る視線を巡らせれば、庭に尻餅を付いた土方に刀を突きつけて来ているのは、暗闇に同じ様な黒い装束で立つ少年だった。真っ暗な庭の中、街灯の僅かの照り返しと低い月明かりを受けて、辛うじてその輪郭が判別出来る程度。
 ただ、冴え冴えとした刃の気配と、侮蔑に彩られた言葉の響きと、黒い装束を縁取る銀の色だけが、厭になる程はっきりと土方にその存在を知らしめて突きつけて来ている。
 その姿形は、真選組の副長の命を狙って来た攘夷浪士ではない。見たことはないが断言出来る。
 何故ならその服装は、ここを訪う仲間たちのものと同じ、警察の──真選組の、隊服だったからだ。
 闇に少しづつ慣れた目が、刃の形を確かな存在感として突きつけて来るのと同時に、それが写真の幾枚かに見覚えのある、栗色の髪をした少年の姿をしているのだと知って、土方は弾劾にも似た狼狽と緊張感とを憶え、肝を凍り付く程に冷やした。
 先頃まで確かな殺意を纏わせて何の先触れも躊躇いもなく、庭に下りた土方へと刃を突き出して来た少年は、薄い色の瞳の奥で確かな瞋恚と侮蔑の焔を揺らめかせている。
 怒りが、蔑みが、嘲りが。その侭殺意となって凝縮された様な。そしてその意志を否定する気も翻す気もまるで無い、小揺るぎもしない鋭いばかりの切っ先が、己に確かに向けられていると言う、この状況。
 混乱と理解の無さとで、土方は不安定に揺れる思考以外、指先一つたりとも動かせずにいた。この均衡はほんの僅か、例えば目の前の少年がちょっとくしゃみをしただけで崩れる様な──当然その時には土方の眼球は頭蓋の内で脳漿ごと潰されているだろうが──シビアなバランスの上で保たれている空隙だ。
 少年は、土方の緊張を刃越しに感じ取っているのか、いないのか。退屈そうな眼差しを暫し無言で投げた後、嘲り混じりの息を吐く。
 「偶に様子見に来てみりゃァ、旦那も良くやったと言うか物好きと言うか…」
 ぴく、と刀の切っ先がほんの僅か、息を吐く動きに合わせて上下し、それから無造作に引かれて、街灯の反射を受けた刃が滴を散らす様な動きで離れて行く。
 然し未だこちらを見据えた侭の少年の眼差しは、土方の事を酷く蔑む様な色を保った侭でいる。
 その事実が、土方から緊張を解く事を許してはくれない。
 「真選組(うち)に──近藤さんに必要なのァ、てめーじゃねェ。そんなの重々承知してるだろうに、そんでも帰って来ねぇってんなら仕方ねーですがねィ。
 ま、そんならそれで、心おきなく副長の座、奪わせて貰う事にしまさァ」
 きん、と軽やかな音を立てて、引かれた刀が少年の腰に下がる鞘へと納められて仕舞えば、もう彼は地面に茫然と座り込む土方の事なぞ興味も何も失い果てた風情で、背中を向けた。
 その姿が完全に闇の中へと埋没した頃、がさがさと裏の生け垣の方で音がした。ああ、乗り越えるか何か、そうやって侵入したのだろう──と、そこまで考えてから、土方は虚ろに笑った。かぶりを振る。
 問題はあの少年がどうやって侵入したかなどではない。どうして、彼が、何を思って、こんな時間に、『此処』に来たのか、だ。
 それは全て、あの侮蔑の表情が物語っていた。詰るにも値しないこの男を、見限りに来たのだ。
 否、順序が違う。詰るにも値しない男であると見て取ったから、見限って去ったのだ。
 詰るのであれば理由がある。相手に期待をするからこそ文句を言う、不満をぶつける、理由がある。だが、今の土方にはその『理由』さえ無いと言う事、だ。
 必要が無いと言われた。
 ……そうなのだろう。こんなにも腑抜けたと言う副長なぞ、きっと何の役にも立たない。抜けなかった刀など何の力にもならない。何の用も為さない。
 逡巡の是非はどうあれ、戦う意志を放棄した。だから、こうして土の上に座り込んで、一寸先にあったかも知れない死とその理由とに竦むほかない。
 だから、こんな男では、あの人の元には必要無いのだ。
 もう、こんな有様では、あの人の元には戻れない。
 坂田に寄り掛かり、坂田に手を引かれる侭に、求められる侭に甘んじて立つ男なぞ、真選組の副長でも何でも無い、無様な存在でしかない。
 ……それを、選んだのは自分だ。
 己を曲げてまで選んだ。あの男の意に沿って縛られる事を選んだ。
 横で煩いぐらいに存在を主張している、臆病な愛し方しか寄越せない不器用な男の事が、好きだったから。
 仲間たちを裏切って、その意志に背いて、己に不自由を選ぶ自由を赦した。
 だから、忘れたかったのに。だから、そう享受したのに。
 
 ──何を? 何が?
 
 束の間の混乱は、果たして『誰』のものだったのか。
 冷えた土の上で、暗い狭間の闇に浸されても。土方はそこから動く事が出来ずに居た。
 







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