天国の日々 / 28



 「ほぉ。大分様になって来たじゃないか」
 廊下で立ち止まった近藤がそう言って笑う。顎に手を当ててうんうんと頷いてみせる様子は子供や弟子の成長を喜ぶ老人の様で、そこには嘘がまるで無いと知れるからこそ、銀時は益々に苦い心地を憶える。
 普段は大概仕事を終えた夜か、それとも朝かに姿を見せる事の多かった近藤だが、今日は珍しく昼過ぎの中途半端な時刻に玄関を叩いた。靴を脱ぎながら「そろそろ復職は出来そうか」と言う旨を挨拶の様に投げて寄越して来るのに、迎えた銀時はその場では「さぁねぇ」と曖昧に返しておいたのだが、そうして実際に土方の様子を目にしての近藤の評価は頗る良さそうだ。
 それはこのぬるま湯の様な日々の終わりの宣言を示す、何らかの結果への布石でしかない。苦くもなる。重くもなる。
 土方は庭で、銀時の貸した木刀を手に素振りをしている。その姿は確かに、退院当初から見れば随分と様にはなっていた。衰えのあった体力や筋力も少しづつ取り戻しているし、剣の扱いもそこいらの剣士並にはなって来ている。
 土方の場合、元々天性的な勘や感覚とそれを運用するに適した身体能力とがあって、剣術はその延長線上に培われたものだ。沖田の様な天才的な資質は持ち合わせていないが、努力や実戦の積み重ねでひたすらに己を研磨して強くなった手合い。武骨な野刀を叩いて叩いて、己の剣としてものにして来た、そんな男だからこそ、繰り返し鍛え上げて行けば何れは『元』の強さを取り戻す事も叶うだろう。
 幸いにも、傑出した危機察知能力や相手の動きを瞬時に嗅ぎ分ける勘、それに因って自然と動く身体は土方の身から失われてはいなかった。故に銀時は土方のそう言った、能動的に強さを求める性質をこそ鍛え上げる為に、日々打ち合いに励ませていたのだ。
 「これなら、来週までぐらいには元の生活に戻せるかも知れんな」
 近藤の抱いた感想も銀時と似た様なものだったのだろう。無心に素振りを続ける土方の背中に向けて太い笑みを浮かべながら、また頷く。
 真選組の様な武力組織の、しかもその中核に居た男だ。幾ら病み上がりだのなんだのと理由を付けた所で、現場で後方に控えっぱなしと言う訳には体裁や士気の問題もあってそう易々とは行くまい。恐らくは復帰後も以前までと何ら変わる事なく前線に駆り出される事となるだろう。
 今はまだ、土方は腕を取り戻しつつあるとは言った所で実戦は未経験なのだ。その事を思えば、近藤の言葉は些かに配慮に欠けると思わざるを得ない。銀時の個人的な心情を除いたとしても。
 「……ま、てめーがそう見えるっつーならそうなんだろうよ」
 春は卒業の季節。そんなつまらない冗談をそこに当て嵌めた銀時は、肩を一つ竦めてみせたけで、廊下に未だ立ち止まる近藤をとっとと追い越して居間へと入って行く。そんな銀時の様子が投げ遣りにでも見えたのか。近藤は居間と廊下の狭間に立った侭、口元に困った様な皺を刻んだ。
 「お前ならトシの復職を一番喜んでくれると思っていたんだが……何かあったのか?」
 卓袱台の前の座布団に腰を下ろした銀時は、二度目の出涸らしの焙じ茶を湯飲みに注ぎながら、気付かれない様に舌打ちをした。全くこのゴリラは変な所で無駄に聡い事がある。そんな悪態の乗りかかる表情を無理矢理に軽い笑みで覆い隠しながら言う。
 「いーや?俺ァ別にこの侭の素敵な新婚生活でも良いのになーと思っただけだよ」
 風に吹き散らされそうに軽い銀時の言い種に、然し近藤は逆に顔を顰めた。
 「……万事屋。お前がトシの事を想ってくれているのはもう疑い様もないし、信じているし、感謝もしている。トシをここまで戻してくれたのは間違いなくお前のお陰だ。
 だが、──そんなお前が、真選組にずっと尽くして来た今までのトシの心を蔑ろにする様な、そんな考えには賛同出来ねぇ。そんなのは、」
 峻厳な形を作った近藤の表情が、苦さとも怒りともつかない色をその面に乗せようとするのを見て取った銀時は、嘲笑の気配も濃く溜息を吐き出した。あからさまに気分を害した様な意を込めて、それ以上を遮る。
 「冗談に決まってんだろ、何マジになってくれちゃってんのこのゴリラ」
 茶を注いだ湯飲みを、卓袱台の上を滑らせそちらに運びながら、
 「俺ァ伊達にあの子に惚れちゃいねェからね?記憶を無くそうがなんだろーが、アイツが真選組(テメェら)の所で生きるのが、当たり前で当然で正しくて一番活かされて幸福なのなんざ、もう大昔っから理解してんの。それを今更、お父さん面して説教するつもりですかこのゴリラは?」
 殊更に不機嫌に、心外です、と言う顔をしてそう一息に吐き出した銀時は、大仰な仕草でかぶりを振った。ヤレヤレ。そんな感じに。
 「………、」
 呻く様な声を上げた近藤はその侭気圧された様に暫し沈黙し、それからゆっくりと肩から力を抜いた。怒りや惑いの気配はそうする事でそこからたちまちに失せていく。
 「…当たる様な真似晒してすまねぇ、万事屋。俺は『今の』トシが何処で、どう在るべきなのか、と言う事を、どう考えてやりゃァ良いのかが未だに解らねぇんだ」
 そうして、謝罪と共にぽつりと零した言葉をそれ以上拾おうとするでもなく、近藤は庭で素振りを続ける男の背中をゆっくりと振り返った。
 縁側の窓は全て閉めてあるから、居間で誰が何を言おうが、隔絶された庭で剣を孤独に振るい続けている土方には何も届きはしない。だからこれは、無関係な傍観者たちの間の、勝手な会話。
 「……ああして無心に剣を振ってる所を見ると、昔を思い出すよ。いつでも、今でも、アイツの本質みてぇなもんは、剣(あそこ)にあるのかも知れねぇな。
 剣に捧げて、剣に活かされて、剣として生きる為なら手前ェの全てを尽くして来てた。アイツは…トシは、『それ』以外の何をも望もうとした事が無かった。誰をも遠ざけていた」
 不意に近藤が、巌の様な声音でそんな言葉を切り出した。自分の分のお茶を注ぐ銀時がそれを聞いていなかろうが構わないのだろう。己の紡ぐその意味を確認するかの様に、一度、深く顎を引いてから、続ける。
 「お前がトシと想い合う関係にあると聞いた時、最初はそりゃ驚いたさ。トシが真選組以外の事に情を向けた事にもだが、お前も自分の道連れにして仕舞う様なひとを作るのが苦手な性質だと思っていたからな…」
 或いは、銀時が聞いているだろうと言う確信でもあったかの様だ。僅かに顔を起こした所で、近藤の深い湖面の様な眼差しに出会って仕舞い、銀時は敢えて言う内容には触れず、ばつの悪い心地を持て余して肩を竦めてみせた。
 続きを促されていると思ったのやも知れない。近藤はそこで一度深く息を吐き出して、それからもう一度視線を土方の背へと転じる。
 「…………これは、トシが知ったら俺の事をそれこそぶん殴りかねねェ様な、感傷なんだと思う。だが、記憶を無くした今のトシが、お前の元で幸せに笑って過ごす事が出来るってんなら、俺ァ、それでも…、」
 ゆっくりと、左右に振られる頭。その重さこそが近藤の懊悩そのものであるかの様なそれは、拒絶の仕草と言うよりは、諦念に未だ至れない悔しさの様に見えた。
 「──…それは真選組の局長として望んじゃァいけねェ事なのは、解ってる。解ってるが、どうしても考えずにいられねぇ。万事屋、お前の事を言えた口じゃねぇんだ。俺にこんな手心があるから、躊躇っちまう。お前の言う『冗談』が、今のトシにとって一番良い事なんじゃねぇかと、考えちまう」
 庭の──土方の姿をじっと凝視している近藤の横顔の中で、口元がぐっと引き結ばれた。
 この男は矢張り組織の長には向いてはいないな、と銀時はその横顔を見つめながら思う。人柄の良さや情の厚さ、物事を深く考えず囚われず大らかで包容力のある、そんな人格だけで他者を惹きつける大将には、それこそ『鬼』の様な参謀が必要だ。人に好かれると言うだけで回る程、公人の組織とは優しいものではない。
 『この』為に尽くす、土方の気持ちは解らないでもない。が。
 (だからって、コイツらがアイツの事をそうやって縛り付ける、理由も無ェ、だろ)
 そう言う問題ではないとは解ってはいながらも、銀時はひねた様な思考が拡がりそうになるのを──澱みかけた感情を堪えきれなくなるのを感じながら、ただ吐き出さない様に奥歯に力を込めた。
 近藤が罪悪感──或いは本気の心配──に似たもので今までの土方と今の土方とに対する屈託を何ら抱えていたとして、それは懺悔室での呟きにしかならない。近藤が『土方を逃がしてやりたい』と思っていたとしても、それが全く叶わないのが現実だ。この大将の、無様な為体が責任だ。
 近藤はそれをどの様に感じて来たのだろうか。土方が、全てを尽くし全てを被ってでも手前ェの剣として手の先遠くで一人戦って来た事を。
 そんな風に、手前ェの存在があった故に、土方十四郎と言うひとりの人間の鋳型を創り上げて仕舞った事を。
 当然だと享受したのか。仕方ないなと諦めていたのか。申し訳ないなと罪悪感を得たのか。
 或いは──なにひとつ感じる事が無かった、のか。
 (……俺ァ、恐れた。俺は、真選組の土方十四郎と言う形しか知らなかったから、そうではなくなって行くアイツの事が、怖くなった。アイツを変えた手前ェが、怖くなった)
 その情動をもしも感じなかったのであれば、それは何と──
 「…冗談でも、真選組の局長サンが言っちゃァいけねェ発言だよソレ。……ま、今回は聞かなかった事にしてやらァ」
 蟠った嘲笑にも近い感情を飲み下して、銀時は己で険しくなっていると言う自覚のあった目を伏せた。近藤がこちらを振り返るのを、気配だけで感じながら、続ける。
 「そもそも、それこそテメーらの勝手な考えだよ。戻せだの戻したくはねぇだの……あの子自身の意思を尊重する気も端から無ぇ癖にな?お宅のジミーも、前にテメーと同じ様な事言ってたけどよ、」
 土方がSICUから出た時だった。今の土方が真選組と言う存在を苦痛と感じようが、重荷と感じようが、以前までの土方なら『こう』だっただろうと言う想像の意志を遵守し、『そこ』へと戻すに躊躇う心算はないと、山崎は断言していた。迷いや罪悪感があったからこその懺悔の様なものだとは銀時もその時点で指摘してはいた。その時点で、少しでも『元に』戻そうと望んだ時点で、既に土方を解放する気なぞ無かった癖に。
 呆れた口調で投げ遣りに向けられた鋭い弾劾に、近藤が小さく息を呑むのが聞こえた。
 「押しつけられよーが、与えられよーが。今あの子は戦おうとしてんだろ。テメーらが半ば勝手に『今までのテメェだ』と言い聞かせた途だとして、それを受け入れる事を選んだから、ああして強くなろうと剣ブン回してんだろ。いい加減手前ェが他の連中だけじゃなく、アイツもまとめて率いる将だって自覚しろよゴリラ」
 そうでなければ、余りにも贅沢過ぎる。
 そうでなければ、余りにも今までの土方が報われない。
 そうでなければ、今の土方の努力が、銀時の抱く一定の諦めと、妥協とが、無惨過ぎる。
 「…………すまん。それは確かに、俺が、トシに言って良い事では、無いな」
 少しの間の後近藤の吐き出した、くぐもった声音に思わず銀時が目を開いてみれば、大きな片手で目元を覆う様な仕草をした大柄なゴリラ似の局長は、涙を堪える様な嗚咽を喉で鳴らしていた。
 (……ほんっと何処までもコイツ、大将にゃ向かねーなぁ…)
 その様子に何だか毒気を抜かれた銀時は、自らの後頭部をがりりと引っ掻いた。
 「だが、今までのトシとは違って、今のトシには義務や責任があったとして、覚悟が無ぇ。死ぬかも知れねぇ、酷い目に遭うかも知れねぇ、そんな危険に、本来覚悟の無い奴は連れていく訳にゃ行かねぇんだ。だけど、」
 その前で、嗚咽を堪える近藤はやがて限界に達したのか、弱音をぽろぽろと吐き出す。だが、と、だけど、と、それでも、と言うループだ。いつからここは懺悔室になったのか。銀時は近藤から剥離していく罪悪感を半ば聞き流しながら、少し冷めかけていたお茶を口に含んだ。溜息を誤魔化す。
 どうせ結論は変わらない。近藤の罪悪感や答えの決した往生際の悪い迷いが、行く先を見失ってふらふらと彷徨っているだけなのだから。
 近藤の土方を思う『本心』がどうであれ、組織の長として、その選択を選べない、選ぶ事の赦されない鋳型を作り上げて仕舞った責は残り続けるだろう。後悔か、或いは不甲斐なさか。知れたものではないが。
 「ま、テメーらの所戻っても、俺があの子を手放すとか別れるとかそう言う選択肢って訳でも無ェし?」
 ンな深刻に考えなくても良いだろう、と、愚痴にも似た繰り言を聞くにもそろそろ飽いた銀時がそう続けると、近藤はすっかり紅くなった目元をぐし、と隊服の袖で拭った。
 「すまねぇな。無様な所を見せた。確かにそうだ。お前の存在が居てくれるのと居ないのとでは、トシの気持ちも全く違うだろう。きっと今ではお前の方が、トシについては詳しい筈だからな」
 そうして顔をいつもの様に笑みの形にしてみせる近藤の表情に、僅かに差していたのは悋気などではなく哀惜だった。
 (…………何このゴリラ。マジでお父さん?お義父さん気取りなの??)
 思わず胡乱な顔になる銀時の前で一息を、何処か楽になった様に吐き出すと、近藤は寄り掛かっていた柱から背を浮かせた。また庭の方を振り返りながら言う。
 「出来るだけ近い内に、元の生活に──屯所住まいに戻れる様に調整を始める事にしよう。俺達も、トシを変わって仕舞ったなどと思わず、足りないなどとも思わず、全て受け入れる心算である事に変わりはない。銀時、お前がそう思っているのと同じ様にな」
 無駄に力強い言葉でそう断じると、「じゃあな」と玄関の方へと踵を返そうとする近藤の背中に、銀時は思わず声を上げた。
 「…………あァそう。つーか何、もうお帰りですか?アイツに会ってかねーの?」
 すれば近藤は事も無げに頷く。
 「ああ。実はこれから出る予定があってな、その途中で立ち寄らせて貰っただけなんだ。……それに、あれだけ集中してるトシの邪魔をするのも何だしな。なぁに、また直ぐ会えるんだから気にするな」
 別に気にしていた訳ではないのだが。思ったが、「あっそ」と得心は一言で済ませておいた。
 そう言えば、此処に来る時乗っていた車はパトカーでも覆面車輌でも無い、大型の高級車だった。その運転手も隊士の一人などではなく、きちんとした職業運転手だったなと銀時は不意に思い出した。如何にも公務で出掛けますと言った風情である。
 「トシの事、頼むぞ」
 そう、笑みの残滓を纏った侭の真顔で言うのに、銀時は軽く頷きだけを返しておいた。
 近藤にはこの件に関わって以来、幾度となく『頼む』と言われて来た。その都度どんな思いが込められていたかはいちいち斟酌したいとも余り思ってはいなかったが──それが、土方の事を心底に案じ思う故の、信頼だとは解っている。頼む、と言うよりもニュアンスとしてはきっと『任せる』に近いだろう。
 (……言われなくったって)
 反射的に思ったそんな言葉は、悔し紛れの反論の様で。銀時は苦い心地を結局は上手く消化させられず、肚の底で持て余すのだった。
 
 
 近藤を乗せた車の音が遠ざかった後も、銀時は己の内圧を鎮める為に暫しぼんやりと座り込んでいた。今更、憐れみも無ければ嘲りも、妬みさえも涌く事はないだろうと思っていたのだが、どうやら己の悋気は相当に根深いらしい。
 (……或いは)
 不安定な心地を憶えているからかも知れない。不安と断じる程の弱気では無いが、『何か』の変容しそうな心当たりが正に今日、あったばかりだからだ。
 やがて、決心にも似た息をひとつ吐くと、銀時は立ち上がって廊下に出た。ずっと無心に素振りを続ける土方の後ろ姿は、三十分くらい前に素振りを始めた時と全く変わっていない。腕もいい加減疲労に重いだろうに、背筋は全く曲がらず、『先』一点を見据えているのだろう視線も揺らぎもしてはいない。振り上げ、振り下ろす、その速度に乱れもない。
 熱心にやっているな、と近藤がそんな事を思うのは正しい感想だろう。三十分ばかり延々この侭であると言う一点を除けば。
 朝起きた時から、土方の様子がおかしかった事には気付いた。
 銀時より大分早く起き出していたらしい土方は、書斎に座ってじっと庭を見つめていた。おはよう、と言えば、おはよう、と柔い笑みを添えて返されたし、朝食も普通に摂った。話しかければ応じるし、自分から口もちゃんと開く。元気が無いとか落ち込んでいるとか言う風情でもない。──ただ、何処か気も漫ろな風情でいるのだ。
 何かを悩んでいるのか、考えているのか。己でどんどん屈託を深めて落ち込んで行っている訳でもなさそうだったから、銀時は敢えて「何かあったのか」とは問わずにいた。どうせ「何でもない」とこの様子ならば隠すのだろう。そうなると銀時に隠し事をする形になる土方に罪悪が無意識で生まれて、それこそ全然違う方角に落ち込んで行きかねないと思ったからである。
 浮ついて集中力がない、と言うより、集中し過ぎて周りが何も目に入っていない。そんな素振りを無心に只管に続ける様子を見て仕舞えば、いつもの打ち合いの鍛錬を急遽取りやめにして、「今日は体力作りで、素振りにしとけ」と木刀を貸した己の判断も強ち間違っていなかったな、と銀時は思う。こんな状態で打ち合いなんぞしても、碌に身になど入らないだろう。
 土方は以前から、単純な価値観と狭窄的な世界の殻で自らを覆う事で、あらゆる物事に立ち向かおうとするきらいがあった。真選組と言うひとつの目的に集約されていた事で、ともすれば思考停止ともなりかねないそれは良い意味で彼の勁い信念として成り立っていたのだが、今となってはそんな性質が逆効果になるのではないかと思わせられる。
 (……何が、あったんだかね)
 思うが、考えてもみるが、解る筈もない。厭な夢でも見たのか、昨夜のセックスの際に『頷かせ』た事に対して何か思うものがあったのか。
 俺のものになって欲しい、と希って、それに正しき判断で土方は頷いた筈だ。選択肢は極力排除しはしたが、最後の決断は土方自身に取らせた。
 その事自体に何か思うものがあるのであれば、もっと落ち込み悩んでいるか、銀時に直接何かを言っている、だろう。
 (……………駄目だな。やっぱ考えて解るよーなもんじゃねぇわ)
 自ら語るでもない他者の心をあれこれと斟酌してみたところで、そんなものは妄想と大差ない。銀時は程なくして訪れた諦念を躊躇いなく受け入れると、縁側のサッシを開いて土方に呼びかけた。
 「土方。もう素振りはそのへんにしとけや。一旦シャワーで汗流して、そしたら買い物行くぞ」
 取り敢えず素振りは止めさせなければ、筋肉痛になる前にどこかをいい加減おかしくして仕舞いかねない。思って、後は適当な時間相応の提案だったのだが、腕の動きを止めてゆるゆると振り返った土方は、
 「解った。少し待っていてくれ」
 流石に少し息を切らせながらそう言って、僅かばかりの、安堵にも似た気配を引き連れたやわい笑みを、汗ばんだ顔の上に作った。
 「……おー。風邪引くから、しっかり暖まって来いよ」
 「ああ、解ってる」
 何だか妙な心地になった銀時が瞬きをしつつ追う視線の先で、土方は縁側に上がると廊下に置いてあったタオルで軽く汗を拭いながら、風呂の方へと歩いて行く。
 「……………」
 違和感は、あった。だが、それが何に由来したどう言う効果を持つものなのかが解らない。
 集中し、他に何の意識も入らない程に一つの事に打ち込み続けたい様な『何か』があったのだろう推定事実は、土方の気性を考えると、そこには危うさと隣り合わせの想像がある様な気がしてならない。
 少なくとも土方がその『何か』──昨晩の承諾から起床するまでの間に起こり得た何らかの変化──を極力考えない様に、意識から閉め出そうと必死になっている、と言う事は確かだろう。
 と、物思いに沈み掛けていた銀時の耳に、ピリリ、と言う小さな電子音が響いた。居間に置いてある携帯電話の着信音だ。連絡用に、と真選組から渡されているものなのだが、どうにも身につけておくと落ち着かないので、日頃から殆どその辺に転がされている代物である。
 「はいはいっと……もしもしィ?」
 電話を寄越した主は地味な男の名前だった。何となく水を差された心地になりながらも銀時が携帯電話を開いて応じれば、《こんにちは、旦那》そう何処か朗らかな声で言われた。
 途端に厭な予感がして、銀時は露骨に表情を歪める。どうせ受話口の向こうには知れない事ではあるが。
 《さっき局長から連絡を受けまして、副長を戻す計画の日取りなんですが、》
 「…あァ」
 ……矢張り碌なものではなかった。思った銀時は溜息を呑んで相槌を打った。携帯電話を途中で破壊したり、通話口の向こうの山崎に嫌味を幾ら投げた所で、一度通達された決断が覆る様な事もあるまい。
 戻して、それでも自分の手元に『残る』。それが理想であり、叶えられる勝算はもう十二分にあるとは言え、それでもこの天国の様な煉獄の様な日々がいよいよ終わりを迎えるとなると、それなりに未練の様なものは矢張りあるのだ。
 《色々と前後のスケジュールも考えますと、今週末──つまり三日後ですね。そこがベストだと思います》
 「そりゃ随分急だなオイ」
 自然とトーンの低くなった銀時の声色に、流石に申し訳ないと思ったのか、受話口の向こうから苦笑する様な気配。尤も、申し訳ない、のは銀時と土方の同居生活を終わらせると言う事に対してではなく、急な話ですいません、と言う意味で、だ。
 《丁度、来週辺りからは急な事件でも起きない限り、要人警護とか定例会議とか、比較的楽なスケジュールが続くんです。リハビリと言うか、慣れて貰うには一番良い時期だと思います。旦那のお陰で副長の回復は目覚ましいですし、仕事面でも、真選組(ウチ)での生活にも、後は実戦で体験してみる方が良いでしょう》
 要するに習うより慣れろ、と言う事だ。幕閣絡みの面倒な仕事などになると、復帰直後の土方では上手く立ち回れない可能性も高いだろうし、簡単な予定から始められるのは、復帰の段階としては極めて理想的だろう。
 渋々と言った体でも、一応銀時は諾を示して頷くが、それは矢張り電話の向こうには伝わらない。
 《三日後…十五日の朝、お迎えに上がりますね。それまでに手荷物等はまとめておいて下さい。家財一式についてはこちらで何とかしますんで、そっちはお構いなく》
 考え込む銀時の沈黙に構わず、活き活きとした──余程嬉しい事らしい──声で一気に言い終えると、それでは、と山崎は電話を切った。向こうも仕事中だろう時間だと言うのに、近藤から連絡を受けて即断した、と言う事か。偉く話の早い事だ。
 (……終わる、か)
 無論それは実用的な意味での『終わり』ではない。だが、一旦の終わりではある。
 土方の意思はもう銀時の元へと留められた。彼自身が是を示した事もだが、それ以上に確信もある。
 土方はもう、銀時に縋る事に、銀時を想う事に、銀時に愛される事に、何の躊躇いも疑いも抱かない。真選組に尽くす事と坂田銀時に溺れる己とを天秤に掛けた時にも、きっと容易く後者を選ぶ。
 本来戻りたかった筈の場所に、然し土方はもう戻れない。土方が在るのは己の腕の中で良い。心だけここに置いて、仲間たちを欺いて生きていく。それが、銀時の望んだ侭に形作られた、土方十四郎だ。真選組の副長と言う肩書きを残骸に纏わせただけの、酷く冒涜的で、歪で、愛しいばかりの木偶人形だ。
 (……………あと、三日、か)
 その『後』がどうなって仕舞うのかは知れない。土方が、折れるか、死ぬか、逃がされるか、棄てられるか。知れない。
 愛する者に健全に生きて貰いたいと思い、その有り様を歪める事を恐れたりする反面で、あれを踏み躙って縛り付ける愉悦を憶えたい己が確かに同時に存在しているのだから、銀時の嗜好の感性はやはり何処かが歪んでいるのかも知れない。尤も、今更それを嘆いたり後悔する程に青くはない。二十何年も付き合って来た己の性情は最早変え難い。
 己が身に染みついた悲しい性の纏いつく無聊は、どうしたって己の思う様にしか、相手を愛する事が出来ないのだ。
 あと三日。
 その時間をどう費やして、最期に何を遺すのか。
 躊躇いの箍を外した思考は、傲慢で、陰惨で、そして凄絶だ。
 







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