天国の日々 / 29 三日後には真選組での生活に『戻れる』と言う。 坂田からそう聞かされた時、土方は短く「そうか」と応えたのみだった。喜びは──本来最もあるべきなのかも知れないが、全く湧かなかった。不安は、病院で目を醒ましてからずっと付き纏っている感覚だけに、その朗報を聞いても矢張り消えてくれそうもなく、寧ろ逆に深まった気さえする。 それで、僅かに浮かない顔をした事に気付かれたのだろう、坂田は何も言わずに土方の背を抱き寄せて、幼子をあやす様なリズムで優しく背中を叩いてくれた。 子供扱いしないでくれ、と思わず苦笑を浮かべたものの、うん、と頷くだけで手を離そうとはしない坂田の体温に落ち着いて仕舞い、土方はその侭泥の波に穏やかに身を任せて仕舞う事にした。 昨晩の。まるで何かの幻か夢だったかの様な、栗色の髪の少年の弾劾の刃は、未だ土方の裡に突き刺さっているが、こうして坂田の存在を間近に感じている時は、全てを忘れても良い様な気がしていた。 何故なら、坂田は記憶にはない土方の罪悪感には殆ど触れようとはしないからだ。 坂田だけは、何も詰め込まれないこの土方十四郎の残骸を欲してくれたからだ。 真選組の副長としての生活に『戻った』としても。それは変わらず。 戻りたくない訳ではないのだ。戻らねばならない理屈も解る。それを理不尽だと嘆いていられた時間は一度も触れずに通り過ぎた。 だから、此処に来て不意に沸き起こった不安感は、この胸を貫いた侭の弾劾の刃によるものだ。 必要がない。戻れない。役に立てない。沸き起こったそれらの実感は、ただの中傷の刻んだ疵ではないと、何処かできちんと知っている。 (………?) 違和感にも満たない違和感の正体を掴み倦ねて──記憶を失くして以降時折そう言った、自分の思考だと言うのにそれを客観的に俯瞰している様な心地になる事があった。また『それ』だろうかと、土方は己の裡に生じた疑問符から目を背けようとして、然しそこで留まる。 躊躇う理由は何だった? 本能とも思しき記憶? 残骸となったこれにあらゆる情動を詰め込んでくれた坂田を恐れた。受け入れた。『真選組の副長』である事より先に、坂田の所有物となる事を享受した。 それは、幸福な事であると感じた。坂田さえいれば良いと思った。 だから今更、嘗ての仲間に何と糾弾されようが関係など無い筈なのに。 * 坂田の態度に変化もなく、土方の思いと時は相容れず、恙なく二日目の夕刻を迎える時刻になった頃。 「土方、ちょっと公園までぶらっと散歩に行こうや」 そんな事を坂田に言われて、机仕事に没頭していた土方は矢も盾もたまらず頷いた。なんとなく、この侭『いつもの』様に日が暮れて行く事を、思えば少し恐れていたのかも知れない。 念の為にと言われ刀を渡されたので、帯刀して歩く。思えば、刀を持って外を歩くのは初めてだと言うのに、腰に収まった得物に違和感は何もない。重量感も。嘗てはまるでこれが身体の一部だったのだと言う証明の様に。 僅か前方を、土方の手を引く様にして歩く坂田の腰には見慣れた木刀が下がっている。柄に彫られた文字は銘なのか飾りなのかは知れない。何で坂田ほどの腕の持ち主が、真剣でなく木刀を使うのかと訊いてみた時に、ついでに何と書いてあるのだと問いたのだが、結局は教えて貰えなかった。 以前の己ならば知っていたのだろう。或いはそれについて何かを言った事でもあるのかも知れない。土方に問われた時の坂田の顔は、針か棘かを呑み込んで仕舞った様な表情をしていた。 (…………解ってる、のに) そんな事を思い出して、土方は胸の裡に刺さった痛みと共に考える。 坂田とて、土方に己の事を忘れられ、それで全てをあっけらかんと受け止め受け入れる事が出来る程には本当は達観なぞ出来ていないのだ。 記憶を失ったのは故意では決して無い。だから、土方に罪がある訳ではない。 それでも、失くした記憶の中の『土方十四郎』を誰もが求めるのだから、仕方がない。 『俺』は一体、坂田銀時と言うこの男の事をどう想っていたのか。どう愛していたのか。どう愛されていたのか。 失われたそれに、沿わなくて良いのか。この残骸でしかない己は、ただお前のくれる想いに大人しく隷従して縋るだけのもので良いのか。 ──どうしてお前は、本当の意味で、失われた『俺』を求めようとしない? お前は俺のものだから。その確信ひとつだけを寄越して、植え付けて、与えてくれて──どうして、一度たりとも今までの『俺』である事を望まない……? 「……坂田」 「んー?」 「坂田、」 「……」 繰り返せば、返事の代わりの様に手を益々強く握りしめられた。 坂田は、振り向かない。だから土方も、それ以上は呼ばなかった。 辿り着いた自然公園は、坂田と土方が時折散歩に訪れる場所だ。木々が舗装された散策道を囲い立ち、スポーツに興じれる程の広さを持つ芝生の広場もある。また、付近を流れる運河の小さな支流が園内を通っており、中央部分にある日本庭園風の池へと流れ込んでいる。ちょっとした景勝地だ。 元々何処ぞの名家の史跡か何かのあった地らしい。余った土地を取り敢えず整備したと言う体裁ではあったが、住宅地として近年少しづつ町並みの拡がりつつある頃では、近隣住民にとっての保養緑地としてそれなり役立っている様だ。 子供なぞ殆ど見かけぬ土地だからか、子供用の遊具や若者や中高年向けのランニングコースなどはなく、老人の軽い運動やペットの散歩を目的に訪れる人が殆どの様だった。 それらも、この薄暮の時間帯では随分と少なくなる。園内でも広場や少し道を外れれば人気は大分失せる。そんな薄暗い散歩道で、ちかちかと僅かに明滅し、街灯が点灯を始める。人々が家路に着くのを見送るかの様に。 坂田に言わせれば、桜の木が結構多いから、花見の時はそれなりに名所として人気が高いのではないかとの事だ。思い出してぐるりと見回せば、染井吉野の大木はそろそろ先端に蕾を蓄え始めている様だ。もう何週間かすれば、レース模様の様な尖った枝の天蓋も満開の見事な桜並木に変わり、その下では人々が花見の賑わいを楽しむ様になるのだろうか。 何度となく見つめた写真の中の、真選組の人たちと花見を楽しんでいた、あの風景が。程なくして己の体験する所となるのだろうか。 居なくても良いものの様に。写真の隅に無言で座しているのだろうか。 (…………詮もない事を) 自己否定にも近い感情は、不安から産み落とされるものだ。あれからずっと、習い性の様に。 その度に己がただの残骸でしか無い事を思い知らされる。 土方十四郎と言う男の性質は、気難しく内罰的なきらいにあったのやも知れない。これが本能に因る警鐘だろうが何だろうが、己の心を削いで行くばかりの思考を止められないとは。 そうして、土方がかぶりを振って埒もない思考を振り捨てようとした時、先を歩いていた坂田が足を止めた。掴んでいた土方の手を解放すると、二歩、離れて振り返る。 気付けば道を外れ、芝の植えられた広場に出ていた。 「つー訳で、」 立ち止まった坂田は、こほん、と咳払いなぞをする素振りをして、勿体振った調子で口を開く。 「明日からは実戦もあるかも知れねェ、物騒なチンピラ警察の仕事にお前は戻る訳だよ。だから、ここは一つ卒業試験みてェな余興で」 そこで一旦切って、とん、と自らの木刀に軽く触れながら、 「真剣勝負、してやるよ」 口角を持ち上げて言われたそんな言葉に、土方は思わず目を瞬かせた。 「………………は?」 「いつもの打ち合いの延長線みてーなもんだよ。但し俺は回避も反撃もするし攻撃にも出る」 事も無げにそう言い、坂田はぐるりと辺りを見回す仕草をしながら続ける。 「ンな驚くもんでも無ぇだろ…?この時間なら人通りも殆ど無ェからご近所さんに通報される心配も無ぇし?ま、仮に通報されたとしても警察(アイツら)に何とか収めて貰うとして」 「い、いやそうじゃないだろう、何でいきなり真剣勝負なんて」 土方から見れば坂田のその行動も発言も完全に想像の埒外だ。鍛錬と言う意味なら解るが、そもそもそれだと『真剣勝負』などと表するものではない。精々言い得て実戦訓練、とでもするべきだろう。 だが、坂田の方はそうでもない様で、わざわざ散歩と称して出て来た公園で告げた『真剣勝負』などと言うその申し出を、眠いから寝る、ぐらいの至極当たり前の調子で言ってのけている。土方から見れば、眠いから踊る、ぐらいに突拍子もない言い種だ。 「……まーホラ、あれだよ。お前もちったァ剣術的なもの?身につけて、自信つーか、確かめてみてぇって言うか……そう言うの、あんじゃねぇ?」 疑問系ではあったが、坂田がにやりと笑って言うそれは、断定的な口調だと、土方は思った。 イキモノの持つ闘争本能を刺激する様な、獰猛に過ぎる誘いに思わずごくりと喉が鳴る。 「………無い事は、」 無いが、と言いかけた土方の脳裏に新しいのは、数日前の深夜、庭に一人飛び出したあの時の苦い様な苦しい様な記憶だ。 あの時は刀を抜く事すら出来ず終わった。自ら戦う意志を放棄して死んだ。 躊躇った訳ではない。親しかったかも知れない者を傷つける事を恐れて刀を抜かなかった訳ではない。 当然だと、思ったのだ。 温度の無い眼差しで土方に弾劾を突きつけた、あの栗色の髪の少年にならば、その権利があるのだと、思ったのだ。 具体的に『それ』を理解していた訳ではないが、少なくともその躊躇いは土方から立ち向かう意志を奪った。 「ほれ、殺される気が無ェなら、本気でかかって来な」 僅かな衣擦れ一つを残して、土方の惑いなぞに拘わらず抜き放たれる木刀。 ああ、そうだ。逃げる事は赦されない。赦す心算も己にはない。 恐らく、この残骸の身に必要なのは、『真選組の副長』ではない事を望んだ、己の魂に対する罰だ。 そして、そうだとしたら、それが出来るのはこの男ではない。 この男には、負けたくない。負ける訳には、いかない。 「──」 その時不意に沸き起こった感情が、己の何処から出でたものなのかは判然としない。 意味ではなく、衝動に昇華した理由にも拘泥せぬ侭、土方は激情にも似た高揚感をただ憶えた。 ひゅ、と息を呑む。肩の殆ど動かぬ姿勢から神速の早さで突き出される切っ先を、僅かに身体を反らす事だけで避けると、土方はいつの間にか刀の柄にかかっていた手にぐっと力を込めた。 抜かせまい、とばかりに、坂田が突き出した木刀を横薙ぎに打ち払おうとするが、ほんの僅かの速度で土方が鯉口を切る方が早い。反らした身の侭、抜き出しかけた刀身で木刀の一撃を受け、押し返す様に一歩、踏み出す。 押されて体勢を崩されるより先に坂田が後方へと飛び退いた。その隙に土方は追い掛け様に刀から鞘を飛ばした。着地後即座に駈けた坂田の木刀と土方の刀とが肉薄し、ぎしりと組み合う。 一対多の戦いでは、眼前の敵一人と切り結ぶ様な鍔迫り合いは隙にしかならない。坂田も土方もその習性が身体に染み付いているからなのか、至近距離で睨み合ったのは秒の間。 坂田は掬い上げる様な動きで土方の刀を飛ばそうとするが、何とか堪え、返す刃を再び打ち合い、少しずつ両者は移動しながら、結び合う。 一進一退の何度かの剣戟の衝突の後、埒が開かないと判断した土方は足下の土を蹴り上げた。その勢いで体勢を崩しながらも向かって来る一撃を回避し、寸時湧いた土煙に目を眇める坂田の、秒にも満たない隙に土方は無理矢理に斬り込んだ。 足下に転がっている、先程飛ばした鞘の片側を、姿勢を取り戻す為地面についた足で思い切り踏み付ければ、鞘の逆側がシーソーの様に跳ね上がって坂田の足を狙う。 坂田は土方の動きをまるで予想していなかった訳では無い様だった。故にそれを避けるよりも逆に蹴り飛ばす方を選んだ。決断は早い。持ち上がった鞘を蹴られて、逆側を踏み付けている形の土方の体勢が今度こそ蹌踉めく。 「!」 後方に思い切り身を投げながら、土方は笑みを浮かべた。手首をくるりと回し、下方から無理矢理掬い上げる様な動きで坂田へと斬りつける。 「………」 その動きもまた予想済みだったのか。坂田は寸時その場に静止する事で土方の刃で致命傷を貰う事は避けた。だが、その切っ先はギリギリ、その左肩の着物の表面を薙いでいっている。 手応えの浅さに反撃の失敗を感じた土方が、後方へ転がりながら起き上がって追い打ちに出るより先に、一息に踏み込んだ来た坂田の木刀の切っ先がその喉元へ到達していた。 「ッ──、」 土方は咄嗟に手の先の刀を意識するが、刀を動かすより先、足を払うより先、己の喉が掻き切られる方が早いだろうと察して、暫しの歯噛みの後、負けを認めて項垂れた。木刀では斬れない、などと言う話ではない。これは真剣勝負を想定した打ち合いなのだから。 坂田は、土方が決したのを認めるなり木刀を退けた。それから、どこか捨て鉢にも見える感情を持て余す様な、ほんの少しの苛立ちを内包した仕草で、自らの左肩をそっと撫でる。 「あ、…怪我、は」 刃に手応えは無かったとは言え、その判断に自信がある訳ではない。だから土方はおずおずと問いを発するが、坂田は無言で小さくかぶりを振ったのみだった。 白い着流しの、肩口を。ほんの僅か縦に割いただけの一撃。ひらひらとした布を斬るのは本来至難の業だが、着物が、動きを停止させた坂田の身にぴたりとくっついていた為に、辛うじてそこに引っ掛かった土方の切っ先はそこに僅かだけ刺さり、切り上げる事が叶ったのだ。 坂田の表情は、重苦しい倦怠感を纏って、浮かない。先頃まで平然と真剣と切り結んでいた人間とは思えない程に固く、目には見えない腐敗を宿した様に──たった今、それに気付いたばかりの人の様に──虚脱し沈み切っていた。 「………坂田、」 躊躇いの末に上げた声に、坂田はゆっくりと土方の姿を視界へと収めた。 理解する様に。認識する様に。言い聞かせる様に。じっと瞠らせた視線を注いで、黙り込む。 これではない、と。 勘違いするなと。己に、何度も、何度も、言い聞かせる様に。 「さか、た」 繰り返した。返事はない。 『そう』ではないから、返事はない。 男が土方の前へと膝をついた。視線が合って、笑みが浮かぶ。 「お見事。流石は真選組の副長サンだよ」 それは、土方にもはっきりと解る作り笑いだった。 (──ああ、) 解っていたのに。思って土方は、力無くその場に膝を崩した。 思考が千々に乱れていく。消えていく。透徹としたひとつの刃が、胸の深いところを貫いて、痛い。ただ、痛い。 刃の名前は理解。痛みの名前は絶望だ。 依って立とうとした世界の、不安定さが。ずっと熄む事のない不安の正体は、はっきりと目の前にあるじゃないか。 だから坂田は与えようとしたのだ。他に何もない、俺だけのものになれと。 『真剣勝負』に心を沸き立たせ、お前に挑みかかる『真選組の副長』だった土方十四郎をそこに描きながらも、それが二度とは戻らないのだと知るからこそ、持て余した感情の無聊を慰めようとしたのだろう。 つくりなおして、とめおいて、つなぎとめて。 俺のものになって。いなくならないで。 その望みは。その鋳型で打ち直すを望む事は、もう二度とは取り戻せない土方を手放さない様にする為の願いでしかない。 わかっていた。はじめから、きっとわかっていた。 お前は俺のものだと、繰り返した。真選組と言う形を失った土方に、ひとつだけの価値観を流し込んで──『これで良いのだと言い聞かせて』、『縋れと』、『依って立つ為の標にしろと』、『俺の為にだけ生きていれば良いと』囁く癖に、『真選組の副長として在るべき形に近いものへと戻そうと』していた。 手に入れたかっただけならば、そんなものは不要である筈なのに。逃げて、俺の元へおいで、とは決して言わなかった。そんな選択肢がある事すら、きっと気付いていなかったのだ。 男が望んでいたのは、今までによく似た土方十四郎を、今までとは違い、躊躇いなく手に入れる事だった。 その望みを受け入れたこの残骸の身は、何も憶えていない癖にそれを酷く恋しがって、畏れて。 きっと『無意識』で、坂田の想いを、逃がす気なぞない一元的な選択肢を、甘んじて受け入れたのだ。 失くす前と同じで。与えられた選択肢はあっても、無くても、何れも消去法から選んだ諾。 今、初めて気付いた。全てが千切られたあの爆発の瞬間に朧気に理解していた事を『思い出す』。 失くしたかった訳ではない。それでも失ったものはきっともう戻りはしない。 知っているんだ。突きつけていたかも知れない残酷な可能性を、知っている。 だからこそ、ばらばらに千切れた俺の記憶は、たったひとつの気持ちだけをここに遺していった。 お前に謝って、ちゃんと伝えたかった。 俺は──『俺』はずっと、お前の、 失くしたかったのは、記憶ではなく── 「……すまない、万事屋」 お前を欺いた事。 お前に手放された事。 そして、お前が『俺』に未だ執着し欲しているのだと、知って仕舞った事。 。 /28← : → /30 |