天国の日々 / 4



 身体を繋げたから、と言うのが理由なのかは果たして解らないのだが、あの日以来銀時と土方の距離はぐっと近くなっていった。
 とは言え、傍目にはいつも通り喧嘩や言い合いに興じている様にしか見えないかも知れない。だが、紛れもなく両者の接点は以前よりも増えていた。
 例えば町で見かけて素通りする事は無くなったし、互いの予定などを必要に応じて伝えたりもする様になった。
 世間一般で言われる『恋人同士』などと言う甘い付き合いが出来ているとは到底思えなかったが、深夜に人目を忍んで逢瀬は重ねた。歪な筈のセックスにも随分と慣らされた。
 土方は未だ己の本心が何処にあったのかを知る事が叶っていなかったが、銀時にあんな行為まで許したのだから、今更「冗談だと思って告白を受け入れた」などと言う状態を額面通りに認める気にはなれなかった。
 恐らく。否、確実に。土方は銀時に対して羨望や憧憬と言った好意を抱いていたのだ。そうでなければあんな行為を許す筈もなかった。
 最早それは否定する事など出来ない現実ではあった。真選組と言う鋳型に収まる己こそ正しいと思っていた土方だからこそ、敢えてそれ以外の他者に目を向けて実感しようとはしなかっただけで。
 ただ、その好意は銀時の告げて来た『好意』とは異なるものだった筈だ。だからこそ未だに土方は己の心の上手い着地点が解らずに悩み続けている。
 銀時に好意があったとして、それが愛や情の類でなかったとしても。銀時からの愛や激しい執着を逢瀬の度に見せられて、支配する様な手管に怯えと憤慨とを抱きながらも、それで良いと思っている自分がいた事も確かなのだ。
 だから、酷い言い方をすればこの関係は、土方からの確かな情は、身体の関係から始まった、と言う事になる。組み敷かれて支配されて抱かれて愛されて心ごと受け入れさせられた、そこから土方は己の感情を──情愛に昇華しなければならない、銀時へのあやふやな形をした好意を得た。
 あの男に欲しがられるのは悪くないものだった。応えるのも、抱かれるのも、あの男にだけ許した形ならば良いかと認めて享受した。
 果たしてこれは情や愛なのか、それとも単なる恭順なのか。
 関係そのものに取り立てて何かを言う心算はない。ただ、己の感情だけが何処へ行ったら良いのかが未だ解らず、行為の最中についぞ『はじまり』へ手を伸ばして仕舞う。
 銀時の左肩に白く刻まれた、真っ直ぐな刀傷。あれを負わせたからこそ、真っ向から負かされて、その勁さに心を奪われたのだ。
 それが過ちだとは思わない、が──まるで何かの意趣の様に時折感じずにいられない。マーキングの様に、刻んだ傷がその侭己のあやふやな好意に似た感情になった。
 一時上書きされる爪痕が、本物の好意に──愛を孕んだ様なもの、或いはその証になればいいのに、と思って、何度も。何度でも、手を伸ばして仕舞う。
 そうでもしていなければ、身体を重ねると言う無為が──単なる、支配される悦びに変わって仕舞いそうで、怖い。行き先の解らない己の感情なぞ、組み敷かれ求めにただ応じる無為の前では何にもならないものだと思い知るのは、怖い。
 土方は、不自由な生き方をする事に安息を得ると言う己の性質をよく知っている。縛られる生活に在れば、ほかのことを一切構わない、そんな性情の言い訳にもなる。雁字搦めの因果は寧ろ逆に心地よい。公事に携わる事や多忙な職務は尽きない癖、厄介な責任や社会的規範と言う物の見方で常に己を縛り付けてくれる。其処に在るべきものだと言う鋳型を己に与えてくれる。
 真選組と言う『家』に。そこにずっと尽くそうと思った。外の世界など、それ以外の『誰か』など必要無いと心底に思っていた。
 それこそ銀時に言わせれば、「自由や幸福慣れしてないのは解るけど、悲劇のヒロイン気取りですかお前は。何、プリンセス?茨のお城のお姫ィさん的なアレですか?」、とでも辛辣に突っ込まれそうな決意だとは思う。……要するに自分でも些か狭窄的だと思える自覚は十二分にある。
 ただ、縛られ其処に留められる、それを望む自分が居る事実は消え難い。ワーカーホリックだのとよく称されるが、仕事や『やる』事、責任感に縛られる事は己を高められたし、己を限界まで酷使出来た。それに充足を憶えているのもまた、間違い無い。
 ……縛られる不自由に安堵する、そんな居場所に落ち着きたいのも。苛烈な環境にこそ必要とされる事実に耽溺していたのも間違い無い。
 結局のところ、自分は齢を幾つ重ねれど茨から出る事の出来ない、臆病な癖に尖ったバラガキだと言う事だ。
 そんな己の性質が、果たして銀時との関係にどう作用しているのか。
 抱かれて悦びを得る性情。愛情には満たない、置き所の解らない役立たずの好意。あの男に比べれば大凡人間味のある価値など無い自分自身と言う実感。それらが膨らんで、銀時に厭われる事を畏れて想いを寄せる事が義務の様になって、やがてはあの男にただ尽くすだけになって行くやも知れない。そんな期待未満の期待。
 この侭では何れは、坂田銀時と言う男に縛られる、その不自由さに充足をこそ得る日が来て仕舞うのかも、知れない。或いは、もう既にそうだったのかも知れない。
 銀時のあの時の告白に、「冗談だと思った」と正直に告げられなかった時点で──己の中の不確かな好意を通す事で銀時に厭われたり嫌われたりするのを避けた、その時点で。既に土方は銀時の意に沿う事を、己を曲げてまで望んで仕舞ったのだ。
 そう言う意味では、土方は既に銀時を『選んで』仕舞った事になる。
 それからは、銀時の手に引かれる侭に出会う毎に宿に入り、望まれる侭に淫らがましい事をさせられて声を上げてきた。余りにアブノーマル過ぎるプレイには至らなかったが、散々に啼かされても拒絶の一切はしなかった。
 選択権はその都度あった筈なのに、土方が拒まないからか、銀時が自身をドSと評す程度には行為も要求もエスカレートはしていったのだと思う。時には銀時自身も、本当に良いのだろうか、と躊躇う様な表情をする事はあったが、何れの時もその躊躇いの向こうには確かな情欲の焔が灯っていた。
 その様を客観的に見る事が叶えば、正しく隷属の関係に見えたやも知れない。土方自身は与えられる選択肢にちゃんと相対していた心算でいたが、それが消去法から出た諾である事には気付けなかった。
 最後まで、気付く事が出来なかった。
 

 *
 

 わかれよう。
 その言葉を脳内で反芻するのが、気付けば習い性の様になっていた。それが自嘲なのか、己の心に対する戒めなのかは全く定かではない侭。
 何度目かの寝返りに飽いた時、土方は眠るのを諦めた。らしくもなく寝乱れた布団に溜息をつきつつ、寝間着代わりの浴衣の上に羽織りを袖を通さずに引っかけて、片付いた机の前へと座り込む。
 枕元にあった行灯を引き寄せて手元灯りにすると、煙草の封を切って一本をくわえ出した。かちりと火を点けて一息を吸って、吐く。
 たったそれだけの動作が酷く重たい。煩わしい倦怠感は恐らく眠気や疲労に因るものの筈だと言うのに、幾ら布団の上を転がった所でまるで眠れる気がしないのが困った事に現状だった。
 歯を使って唇の間で煙草をゆるゆると上下させながら、机の横にある書類ボックスを適当に手でまさぐってみるのだが、夜の間にする事がなくて熱心に残務処理に励んで仕舞った勤勉な己にこんな時ばかりは舌打ちしたくなる心地だ。ボックスには殆ど仕事が残ってはいない。それも提出期限が先だからと、後回しにしても良い様なものばかりだ。
 では、残務が無いなら作れば良いのだ、と直ぐさま閃き、土方は抽斗の中から真っ白な紙束と台帳とを引っ張り出した。暇が出来たらやればいいかと後回しにしていた、設備に関する新規予算の計上案である。今までの帳簿と照らし合わせれば実に胃が痛くなる事請け合いの内容であり、苦労して作成したその案を会議で上に提出するのも、財布の紐ばかりは固い老狸たちを説得するのも、何れも骨が粉々に折れる事は間違いないだろうものなのだが、時間と思考とを無為に潰すぐらいならば挑んで見ても良いかと思ったのだ。
 計上案を作成する為に、勘定方から帳簿の写しは予め受け取っている。赤い文字の目立つそれを忌々しく思いながらファイリングしたのをつい先日の様に感じながら、土方は算盤の珠をぱちりぱちりと弾き始めた。
 一番隊:器物破損。一番隊:器物破損。一番隊:器物破損。一番隊:諸費。一番隊:器物破損。
 同じ様な赤い文字の連なる内容は、直ぐさまファイルを閉じて布団に逃げ帰りたくなるものだ。この月は余りの負債に泣きついて来た勘定方と共に、アレを削減してコレに充てて、などと奮闘した、そんな金回りの苦労を詳細に思い出して仕舞い我知らず溜息がこぼれた。
 公務員とは言え、財政状況は規模が違えど万事屋の所と余り変わりそうもない。あの男もしょっちゅう、居候と飼い犬の食費がどうとか、家賃がどうとか、仕事で報酬が殆ど出なかったとか、などと言った愚痴を冗談交じりにこぼしていた。一番の浪費はお前のジャンプ購読だろうと笑って指摘すれば、一番の浪費はパチンコですゥ、などと無意味な開き直りをされた憶えがある。

 ── わかれよう。

 「っ」
 口を尖らせて言う男の顔に、数日前の淡々とした声音が重なって聞こえて、土方はペンの動きを止めた。カシ、と紙に引っ掛かったボールペンのインクが歪な汚れを残すのに、思わず舌打ちする。
 勤務時間ではないが、仕事中だ。仕事とは言えないが、仕事だ。自分事で煩わされて良いものではない。
 繰り返して、土方は短くなった煙草を灰皿へと押し込んだ。書き損じの形になった紙を横に退けて、新しい紙に書き写してから破り捨てる。
 こうして、己の感情を書いた紙も破り捨てて仕舞えれば楽なのに、とそんな益体もない事をついぞ考えてから、土方はペンを置いて代わりに煙草をくわえた。だが、ライターに手を伸ばすより先に、ばたりとその侭仰向けに倒れ込んで天井を見つめていた。
 わかれよう。そう言われて、その声が余りにも淡々とした静かな調子だったから、土方もまた何事もない様に応じた。何しろお互いに良い齢をした大人の男同士なのだ。裾に縋り付いて泣くでも無し、心中してやるなどと言う憎念も無し、アナタの子供がお腹にはいるのよと吼えられる筈も無し。
 付き合うと言ったって、好意を寄せ合った所で、それはきっと気の知れたセックスフレンドの様なものだったのかも知れない。お互い因果な身だし、どうせセックスをするなら行きずりの正体も解らない何某よりも情が湧く知り合いの方が良いだろう。
 恥ずかしくて居た堪れない、でも温かな、恋愛ごっこの様な真似もした。あの男が存外にロマンチストな事は知っている。だから、人並みの男性の様なそんなものに少し憧れでもあったのかも知れないとは思う。
 (……いや、)
 そこでふと気付いた。自分は、銀時の最初の告白を質の悪い冗談や悪戯だと思ったのだ、と言う事に。
 本心を探す真似もせずに流される侭に受け入れる事で、己が多少なりともあの男に好意を抱いていただろう推定事実を認めて──それを、男の望む侭の形に昇華させようと必死だった。縛られて仕舞おうと、必死だった。
 ひょっとしたら、あの、昼行灯の様な風情をしている癖に妙な所で聡く頭の良い男は、土方の裡のそんな部分に気付いたのではないだろうか。
 (まさか、な)
 土方自身でさえ未だに正しくは判じれない様な類の惑いを、あの男が、幾ら野生の勘が研ぎ澄まされていたとして、そんな事に気付ける筈もないだろう。
 薄ら寒い想像は忽ちに自嘲に変わった。
 わかれよう、と言う男のその言葉に。
 淡々とした態度に。
 後腐れも未練も何もない様な様子に。
 あれだけ愛を寄越したその癖に。
 あれだけ人に尽くさせる事で愛を欲しがったその癖に。
 何か、整合性の取れる様な理由を探そうとしているのだ。そうすることで、自分に落ち度があったのだろうと。自業自得なのだろうと。そう結論を運ぼうとしているのだ。
 (怨むも、憎むも、問うも、縋るも──余りにみっともねぇし、そんな女々しい野郎だとも思われたく無ぇのか)
 身体を繋いでから作り上げた情の鋳型が、ここまで無様な形に己を歪めて仕舞っているとは思わなかった。そこまであの男に囚われようとしたのか。あの男の熱情が、己を所有し支配するものであって欲しいなどと思い違えをしたのか。
 要するに、自身で考えた事もなかった、思いもしなかった、あの男への想いが勝手に一人歩きした挙げ句に依存に近いものになって仕舞った事で、大方、男の方が逆にそんな土方に辟易でもしたのだろう。
 子供でもあるまいし、恋愛感情を拗らせた挙げ句に自分をも見失うなどと。情けないにも程がある。
 もう自嘲する気にもなれない。呆れ果てる気にもなれない。自分自身の性質は幾ら目を背けた所で、形を変えて何度でも付きまとう因果だ。
 わかれよう、と銀時が告げた事に、多分酷く動揺して。多分、少しは痛くて。それに慣れるまで。その間の辛抱だ。忙しい日々の中では、自身の些細な執着も思い入れもどうでも良くなる。
 実際、銀時と『付き合って』いた時も、仕事を優先してその存在を蔑ろにしかけた事だってあるのだ。罪悪感や後悔を憶えるのならば、その時に気付くべきだった。
 "分かれよう"。
 つまり、そう言う事だ。……そういう、ことだ。
 恋した女への想いは、皮肉にも女が死んで仕舞った事で、思い出と言う忘却へと昇華出来た。だが、それでさえ苦痛だった。もう二度と是正は出来ないのだろうなと言う理解と、彼女の幸福を見届ける事が出来なかった事への未練にも似た悔恨は、長い事土方の心の中を切れ味の悪い刃物の様にぞりぞりと刮げ落とし続けていた。
 ならば、愛そうとした男への想いは、どうだろうか。
 笑い飛ばすより先に、土方は瞼をそっと下ろした。全く眠れそうもない事に已然変わりはないが、心の奥底がどろどろと腐敗した井戸の様になった今は、仕事が出来る心地でも無くなっていた。
 次に目を開けた時には、もう見上げる天井板は朝日に白々と照らされ始めている事だろう。
 朝になれば仕事が待っている。警察の忙しい一日が待っている。余計な物思いになど浸されない、血腥い戦場が待っている。
 眠れはしない。悪夢も見ない。思い出しもしない。ただ、世界に見えるあらゆるものをとにかく拒絶したくて、土方は安易な暗闇を選ぶ事にしたのだ。







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