天国の日々 / 5 ち、と擦れた手応えを指の腹に感じた時、仕舞った、と銀時は思った。咄嗟にくわえた指には紅い錆の味。やって仕舞った。 乾燥し始めた季節の紙は刃物並みの凶器だ。中指の第二関節辺りの腹をちりちりとした痛みが、遅れて襲って来るのに顔を顰める。 凶器のジャンプには血がついた様子はなかった。ページを捲る時、特にカラーページの部分にはこの季節、気を付けていた心算だったのだが、どうやら気付かぬ内に気もそぞろになっていたらしい。思わず溜息を吐いて、ぱたんと膝上のジャンプを閉じて卓に放る。 口から指を抜いて見ると、皮膚の上には斜めにさっくりとした断裂が出来ていた。紙の威力は侮れない。明かな異物が結構な速度で皮膚を裂いて行く感触と言うのは、刃物で斬られるのにも似て実にぞっとしない。 皮膚の割れ目を暫く見ていると、やがてそこに再びぷくりと血の球が浮かび上がる。結構深く入ったらしい。もう一度指を、今度は横向きにくわえながらきょろりと辺りを見回して銀時は立ち上がった。 ソファの向かいでは神楽が朝だと言うのにくうくうと寝息を立てて二度寝を決め込んでいた。怠惰なものだと思うが、仕事がないのだから仕方あるまい。その辺りの感想や文句やらは自分にも返ってくるブーメランになりそうなので割愛する。 神楽の眠るソファの横に丸まっていた定春が、銀時の視線を感じてかふと頭を擡げる。それを横目に、壁際の箪笥を探ってみるが、捜し物は出て来ない。 何処やったっけな、と首を捻る銀時の身体の横をもさもさとした毛玉が擽る。起き上がった定春がうろうろと傍を歩き回っているのだ。狭い家の中だから、こんな人の丈より大きな巨大犬が近くに居るのは、慣れたものではあるが少々鬱陶しい。尻尾に柔らかく頬を叩かれて、銀時は「はいはい」とお座なりな仕草でつきつきと痛む手を払った。 「餌も散歩もまだですよー、良いから大人しく眠ってやがれコノヤロー」 すれば、銀時の横に大人しく座った定春のざらりとした舌が、突き出したその掌をぺろりと舐めた。たった今切ったばかりの手だ。 動物は舐めて己や仲間の傷を癒すと言う。それとも単に血の匂いがしたからだろうか。そんな事をつらつら考えてから、銀時は逆の手で定春の頭をぼふりと撫でた。 「俺は良いから、神楽の枕になっててやってくれや。ガキは寝相が悪ィもんだしな」 仰向けに寝息を立てている神楽だが、何せ狭いソファの座面だ。少し寝返りを打っただけで床に転げ落ちて仕舞うだろう。そちらをちらりと見て思う。 ペットを飼う事は情操教育に良い。胸に僅か差した温かみに近い温度にそんな素っ気のない感想を置きながら、冬毛になって幾分柔らかみを増した気のする毛並みからそっと手を離せば、 「わう」 と小さく鳴いてから、定春は元通りのソファの横に陣取って丸まった。神楽が転げ落ちる様な事があったとして、その背中の柔らかな毛の上ならそれ程ダメージも無いだろう。 それで傷が治る訳では当然無いのだが、痛みは自然と遠ざかった気がした。傷は誰か思う人が触れる事で癒されるなどと言う。アレは強ち嘘ではないのかも知れない。まあ気分の問題なのだろうが。 一度、温く濡れた掌を見下ろしてから、さて、と銀時は和室の方へ向かった。居間の箪笥に入っていないのであれば、後はこっちしかない。 閉じた憶えのない襖を開きながら「おーい、ぱっつぁん」声を掛ければ、途端にひやりと冷えた空気が剥き出しの利き腕を容赦なく叩いた。見れば、新八が窓を全開にして洗濯物を干している所だった。思わず襖を後ろ手に閉める。成程、銀時や神楽に気を遣って襖をわざわざ閉めておいたらしい。 納得すると同時に、そんな動きにも全く気付かない程に俺ジャンプに夢中だったっけ?と銀時は首を傾げた。 「どうしたんですか、銀さん」 手拭いの水気を、ぱん、と勢いよく振って飛ばしながら洗濯ばさみで止めて行く、新八の慣れた手つきを暫し目で追ってから、銀時は忽ちに冷えて仕舞った右手をひらりと持ち上げた。上げ様に見れば、再び滲んだ血が毛細管現象の様に皮膚に紅い染みを作っている。その所為で大した出血でも何でもないのに、自分の事ながら妙に痛そうに見えた。 「絆創膏的なもんどこ仕舞ったっけ?」 「って、怪我したんですか?大丈夫ですか」 丁度、干していた手拭いが最後だったらしい。空になった洗濯籠を部屋に引っ込めると、新八は窓を閉めてこちらへやって来て銀時の右手を覗き込んだ。 「魔剣ペーパースライサーにちょっとな。触る者皆傷つけるガラスのティーンな年頃なんだよなぁアイツ。困ったもんだね」 「ああ、紙で切ったんですか。しみるんですよね暫く」 銀時のいつもの冗談をさらりと躱すと、「ちょっと待ってて下さい」と言い置いて、新八は押し入れから救急箱を引っ張り出して来た。中から脱脂綿を一つ摘み取ると台所に向かって、水に浸したそれを持って帰って来る。 「座って下さい」 言われて、銀時が大人しくその場に座ると、新八は脱脂綿に吸わせた水を絞る様にして傷口の周りを軽く洗った。それから絆創膏を取り出すとくるりと患部に巻き付けて終了。実に慣れた手つきである。ガーゼ部分にほんの少し血が滲み出したがそれ以上は広がらない。 「はい、終わりです。折角貼ったんだから余り濡らさないで下さいね」 傷は、薄いガーゼと安いテープの下で、押さえられて静かに痛みを訴える。忘れて仕舞いそうな程に密やかに。隠した、と言うそれだけで。 「おー。さんきゅ」 「あ、そうだ銀さん、」 立ち上がりかけた所を呼び止められて、銀時が顔を起こせば、洗濯籠の横に置いてあったらしい『それ』を新八が差し出してみせるのが目に入った。 「これ、銀さんの着物の袂に入ってましたよ。洗濯しようかなと考えてる時に見つけたんですけど…」 掌に収まる四角い箱。見慣れた銘柄の、『それ』。自分の所持品には無い、『それ』。 汚れた黒の着物を洗濯している間、銀時の着ていた白い着流しを素肌の上に纏って、そこに座っていた、黒髪の男の姿が鮮やかに脳裏に蘇る。 「あー……すっかり忘れてたわ。悪ィな」 不意に思い出した様に痛む。傷を自覚しながら、後頭部をがり、と掻く銀時の複雑な表情がどことなく申し訳なさそうに映ったのか。「別に悪くはないですけど」と笑って言いながら、新八は煙草の箱を銀時の手の上に、はい、と渡してくる。 銀時が喫煙出来ない訳ではない事を知っているからこそ、習慣的に喫煙を好む訳でもない事も知っている筈なのだが、新八は余計な詮索も勝手な感想も寄越さなかった。気を遣ってくれたのか、気にしなかっただけなのか。どちらにせよ今の銀時には有り難い話だ。 「で、その…、コレ入ってた着物は?洗濯したのか?」 手の中で、開封済みの小箱を弄びながらそう問えば、「いえ」と否定が返る。 「洗濯しようかと思ってたんですが、あんまり汚くなっている様子も無かったし、丁度洗濯機も一杯になっちゃったんで、また次にしようかな、と」 晴れたら次やりますね、と衣紋掛けの入っている押し入れを指しながら順を追って答えると、洗濯籠を抱えた新八は、襖を開けて神楽が眠っているのを確認した。振り返って小声で口早に言う。 「ところで、銀さん、今日九時から大江戸スーパーでティッシュペーパーのタイムセールやるんで、僕ちょっとこれから出て来ますね。もし依頼があったらメモでも残しておいて下さい。後から追い掛けますから」 「おう、まあ依頼とか来そうも無い日だよ今日は。晴れてるもん。天気良いもん。つーか面倒クセーし。絶好の昼寝日和だって神楽も言ってるしィ?」 「それ単にサボりたいだけじゃないですか。駄目ですよ、家賃もまた滞納してるってお登勢さんも怒ってましたし」 まるで駄目な大人丸出しの銀時の言い種に、新八は口を尖らせて小言めいた事を述べると、財布を持って「いってきます」と慌ただしく飛びだして行った。 大江戸スーパーの午前のタイムセールは主婦に人気がある。時刻は九時の数分前と言った所だが、早めに行かないと先着順のお買い得品は直ぐに完売して仕舞う。況して、ティッシュや洗剤と言った日用品や、食材のまとめ売りのものは特に人気が高い。 常に家計が火の車の万事屋財政的には非常に有り難い事である。新八の健闘を祈りつつ、銀時は再び襖を閉めて、和室に戻った。押し入れを開けば、同じ着流しを掛けた衣紋掛けが二つ並んでいる。残る一つの空いたものは、今着ているものを掛けておく為のものだ。 その中から、少し皺の残る一着を外して、左袖の袂にそっと鼻を近づけてみれば、隠しきれない煙草の箱からの移り香がした。 この着物の中に包まれていた男の気配や温度まで未だ残っている様な錯覚を憶えて、銀時はそれを抱えてその場にしゃがみ込んだ。 痛んだ気がしたのは、着流しを掴んだ指先の傷か。それとも、匂いから手繰った肖像への感傷か。 酷く変態じみた事をしている自覚はあったが、何とも堪え難い、切ない様な心地になって仕舞い、布地に額を、鼻先を埋めて小さく息を吐く。 好きだった、のだ。 否。好きなのだ。そう簡単に頭の中から忘却して仕舞える程に、銀時は潔い性質をしていない。 それが仮に、自分から「別れよう」などと、ありがちな別離の言葉を押しつけた相手であったとして。それも否、か。だからこそ、なのか。 土方十四郎と言う男は、噛み砕いて言って仕舞えば色男だった。それも、頼りのない優男と言うより、勁く鋭い刃物の様な手合いで、どちらかと言えば女が遠目に近付き難いそれに色めき立つ様な、観賞用のイキモノだ。 同性で年齢も恐らくそう変わりなくて、性格も社会的地位も対極に位置する銀時にとっては、他の多くの男が同じ様に抱くだろう妬みに似た感想と同じ様に、いちいちクールぶって格好つけて鼻につくタイプだと思われた。実際当初はそう思っていたのかも知れない。 と言うより、それは向こうが警察と言う立場もあってか、元攘夷志士なのは明かだろう銀時の事をいちいち警戒しては目の敵の様に見なしていた事が主な原因だったと言える。だからこっちもついむきになってやり返して──と言った事を繰り返す、『苦手』な、寧ろ関わりたくはない人種と言うカテゴリに分類して、それでお終い、だと思っていた、のに。 何の因果か、同じ飲み屋に偶々通っていて、何度かの悶着を不定期行事の様に経る内に店側から『お仲間』とみなされたのが問題だった。こぢんまりとした店にむっつりとした店主は一見さんお断りの風情を醸している所為か、質の悪い酔客や無粋な輩や余計な知己が入店して来る事が少なく、つまみも美味いしで、かぶき町中に馴染みの店を持つ銀時的にもちょっとした息抜きの出来る店だったのだ。それもあって、あの男に遭遇するのが厭だからと諦めるのも非常に癪で。半ば意地になって通うのを止めずに居た。 いつもの奥席に通されて、先に黒い姿があれば互いに「げ」から始まる挨拶を交わしつつ、それでもどちらも退かずに、下らない気分になるくせ、酒の勢いもあってなんでかんで無言では終わらない。 土方の大概居る事の多い曜日に、いつまで経っても隣が空席の侭な時は、急な仕事でも入ったのか捕り物でもあったのか──そんな事を考えている自分に気付いて、これではまるで待ち合わせでもしてるみたいじゃないかと、己の想像に胸を大層悪くした。 店の天井付近で野球中継を流し続けていたテレビ画面の、上の方に無機質で小さな白い文字が刻んだ『幕臣の何某と癒着していたXX星の商船団を真選組が突入し拿捕した』と言った内容のニュース速報は、次の瞬間に打者の打った逆転タイムリーヒットの歓声に掻き消されてあっと言う間に埋没して消える。 そんなものだろうと思う。ここで座って杯を傾けている者には、どこぞの国や星の内乱の状況も、警察の一斉捜査の成否も、まるで無関係の話だからだ。それは改めて土方との立場の違いや距離感をまざまざと思い知らされるものだと言うのに、別段それに何を感じるでもない。 戦場で案じる別働隊の働きの成否は、その仲間への信頼で出来ている。何しろ失敗したら後が無いと言う事が殆どの場合だったのだから。 あの男がそうそう死ぬ筈はない、などと簡単に言う心算はない。それは土方に対する信頼でも何でもない、ただの感想だからだ。 そして、信頼も確信も感想も無関係に、人は容易く死ぬ。 思って銀時は空いた隣の席をぼんやりと見つめた。店主がここを空けておいているのは、果たして店がそれほど混んでいないからなのだろうか。それとも、もしもあの男が来た時に、知己の隣と言う席が空いていないと面倒だと思うからなのか。 また来てくれれば良い、と言う気持ちの、ほんの少しの顕れであれば良いのにと。願望ではあったがそう思った。 入れる場所を決められた、在る場所を決められた、『棲んでいる』実感は好きだった。苦手だと思う反面で、好きだった。 子供の頃のお気に入りは窓の近い、教室の一番後ろの角の席。拾われた野良犬みたいな自分がそこに『居ても良い』のが、嬉しかった。 土方と言う、大凡自分とは相容れない手合いの男が、自分の隣に在ると言う『世界』が確かに此処にあって、それはこの小さな飲み屋の中ではそれなりに『当たり前』の風景になっていたのだろう。 そして此処から一歩、敷居を跨いで仕舞ったら容易く消える『世界』だ。 ──持ち出してみたい。連れ出してみたい。この小さな世界の裡でなくとも、この感情が持続するものなのかを知りたい。 感情って何だっけ?恋だの愛だのと謳う心算はまるでないが、それに付随する様な愛着や執着に似た何か? 不味いなあ、と思う。それは今の己には最も不釣り合いで不必要な感情だった。 人にも、物にも、金にも。『所有』する充足を得たくはない。地に足がついていないなどと言われながらも、曖昧に、なんとなく生き延びれる、そんな身だけはいい加減で良い生き方を選んだのは、誰在ろう銀時自身だ。 定住する場所を与えられて、誰かに適度に関われる仕事を選んで、従業員が来る様になって、居候が落ち着いて、巨大な犬なんて言う規格外のペットも居る。馬鹿騒ぎや面倒事を起こす知り合い達が居る。 そんな不安定な充足の中で。 幼い頃にたった一つ抱える事を選んだ刀の様に。 『それ』を欲しいと思った。 真選組の副長として立つ男を。 どっちが犯罪者かも解らない様なチンピラ顔負けの物騒な警察を。 可愛げの欠片もなく、隣り合っては喧嘩をする知己を。 侭ならない相手なのは百も承知で。絶対に手前ェを曲げない厄介な頑固者だとも承知の上で。 自分と、土方の居るこの『場所』を、決して誰にも独占される事も所有される事もない、あの男だけの『世界』を。 欲しい、と思った。 いつでも何処でも隣に置いて、『ここ』にあの男が居る事を当たり前の様に感じて居たいと思って仕舞った。 そうして、つい伸ばして仕舞った手を。己でも血迷っているとしか言い様のない想いの丈を。受け取って受け入れてくれた男の事を。 叶うならば、手放す心算なぞ無かった。 叶うならば、今からでも取り戻したかった。 ……叶うならば、そうしている所だ。 叶わないと知るから、こうしているのだ。 ちょっと切れ目悪いけど銀さんのターン前編。 /4← : → /6 |