天国の日々 / 8 ふわ、と一瞬の浮遊感を感じたかと思えば、銀時の身体は次の瞬間には床の上にあった。 「……ってぇぇ…」 眠っている時にふと全身がびくっとなるアレどころではない。何しろ痛い。肩が痛い。あとテーブルにぶつけたのだろう膝。 どうやら寝惚けてソファの上から転落したらしい。思いながら頭を軽く振って、のそのそとまだ温いソファの座面へと戻る。 「そんな寝相悪くないよ銀さん。普段はこんな事ねーよ?アレ、なんか寝惚けてソファから落ちたとかよく考えると超こっ恥ずかしいんですけど。神楽の事笑えねーよ、なんで定春(クッション)そのへんで寝てねーんだよこんな時に限って」 ぶつぶつと愚痴──と言うより怨念の様にこぼして、銀時は、こちらは転落の際にぶつけた訳ではない、二日酔いの鈍痛を引き連れた頭を抱えた。 テーブルの上にはカラになった缶ビールが三本。ツマミは賞味期限の切れかかりでワゴンセールされていた鯖煮の缶詰。当然既にこちらも食べ切ってあり、底に残った矢鱈味付けのしょっぱい汁の中に爪楊枝だけが放り出してある。一個しか買わなかったから爪楊枝でちまちまと食べていたのだ。みみっちいと言う莫れ。 普段なら、いつもの飲み屋で適当に安酒を煽っていた所だ。値段を考えると缶ビールと缶詰(安売り)の方が余程高くつくのだが──昨晩は、何事も無ければ土方が夜番でも翌朝の朝番でも無い曜日だったのもあって、あの店に行く気にはなれなかった。 土方が、銀時に別れなぞを切り出されたあの店にまた平然と居る、と思った訳ではないが、思えない訳でもない。万が一遭遇して仕舞ったらどうしよう、と考えて仕舞えば、とても足を運べたものではない。臆病と言う莫れ。 それで適当に夜半コンビニに出掛けて、神楽の眠った後一人酒を決め込んだは良いが、どうやら途中で寝落ちて仕舞ったらしい。酔い潰れたと言う程飲んでもいないので、普通に眠くなっただけだろう。 然し寒いのと寝辛かったのと、酒と少量のツマミだけで眠った事もあってか、二日酔いの症状は脳と胃の下を責め立てているし、打ち付けた肩や膝も痛い。 もう大体朝だろうか。冬の空は日の出が遅く光も弱いから、ただでさえ薄暗い部屋が益々景気悪く見えていけない。あくびをひとつ噛み殺した銀時は、ふと頭を巡らせた所で、テレビが点けっぱなしになっている事に気付いた。 酒を飲みながら楽しめる深夜放送なぞなかったから、音量を適当に絞って灯りの代わりに点けておいたのだが、途中で寝て仕舞ったとなれば旧式のブラウン管のテレビは当然点きっ放しだったのだろう。電気代、と一瞬考えてから、まあいいかと、朝のニュースと思しき画面から直ぐに意識を逸らした。 (今日の朝飯は……、神楽か。となるとまた卵かけられご飯か?別に食欲は無ェが、やっぱ二日酔いの朝にゃ味噌汁的なもんが効くよなあ…) 水分と塩分は勿論、栄養をさらりと吸収出来る味噌汁は二日酔いに良いと言う。蜆があれば良いらしいが、生憎冷蔵庫に蜆は棲んでいないし、蜆売りが街を歩いている気配もしない。 一汁一菜と口煩く言う心算は銀時には無いが、この朝の食卓に卵かけられご飯だけと言う想像は流石に胃が全力で抗議をしてきた。今日は特に仕事の予定も外出の予定も無いが、朝飯を抜くと昼前に怠くなる。 階下の大家を頼ると言う選択肢が無くも無かったのだが、家賃滞納中の今は極力顔は突き合わせたくない。 寒いし頭も痛いし、ここは自分の為と思って味噌汁ぐらい作ろうか、と言う気になって、銀時はのろのろとした動作でソファから腰を持ち上げた。冷蔵庫にもやしの切れっ端ぐらいは残っていただろうか。 『、爆発に因って、任務に当たっていた真選組隊士数名に重軽傷者が出ている模様です』 その時、存在感を忘れかけていたテレビの中の、真面目そうな顔をしたアナウンサーの淡々とした言葉のひとつが不意に銀時の耳朶を打った。 「──」 聞き慣れた単語に、思わず腰を浮かせた侭でテレビを振り返る。 現在の映像ではないのだろう、テレビには、夜空の下集まった報道陣や野次馬達が、突然の爆発音に戦いてどよめく姿が映し出されている。 『い、今爆発音らしきものが聞こえてきました!辺りは騒然として……きゃっ、え、?は、はい、我々も一旦少し離れます!』 インタビュアーの女性が、野次馬たちが走り回る中おろおろとしながら、真選組隊士らに制される様な仕草を受けて小走りでその場を離れていく。カメラもあちこちを見ているのか映像が定まらない。『これ、爆発したのか?!』テレビクルーらしき男性の声も入って、状況は全く解らないが、とにかく現場が相当に騒然としている様子は明かだった。 映像は続けて、視聴者提供、と言うものに変わった。余り精彩とは言えない動画には、何処か建物の上から見下ろしたのだろう、夜空の下、何処かの屋敷から煙が上がっている様が撮影されている。撮影者の驚く様な声に混じって、眼下、紅い回転灯が目立つ夜闇の中を忙しないサイレンが不吉に響き渡っていた。 見る間にまた切り替わる映像。急発進していく救急車の後ろのパトカーがほぼ正面の角度から大写しになる。その後部席に座っている見慣れたゴリラ似の偉丈夫の顔が、車輌を囲む報道陣のフラッシュが明滅する度に、見たこともない程に険しく強張っている様をまざまざと映し出していた。 画面の隅にはVTRの文字と、きのう夜8時27分頃、と言う文字。右上の現在時刻は直に朝の七時になる所だ。この騒ぎからは優に半日近く経過している事になる。 編集された映像はそこで切り替わり、スタジオの二人のアナウンサーに戻る。両者の間にある大きなモニタには先頃までの映像と似た様な映像が無音で流し続けられており、その上に重ねて表示されたテロップの文を、銀時の震える目が追う。 "爆破テロで警察関係に重軽傷者" 報道陣を掻き分ける様に出て行く救急車と警察車輌。夜空に上がる煙。規制線から慌てて逃げ出す野次馬たち。非常事態に揺れるカメラ。 慌ただしく動く録画映像達の中に、真選組の隊長服姿の人間が時折映るが、そこに銀時の探す姿はない。いつもこう言った時は陣頭指揮を執って否応なく目立つ、あの姿が何処にも見当たらない。 その事が、先頃の近藤の強張った表情と相俟って、銀時の背筋を不吉に冷やした。 「……ンな、まさか、だろ」 とすん、とソファに腰が落ちた。味噌汁なぞ無くとも、頭は厭になるぐらいに冴えきっていた。全身は冷え切っていたが、動く気にもなれない。 そうする内に、スタジオの二人が簡単な状況説明を読み上げた後、『現場の花野アナ?』カメラはライブの中継へと切り替わった。先頃の避難した規制線と似た様な、報道陣と真選組隊士の見張りばかりの映る朝の風景の中、若い女性アナウンサーがマイクを握りしめて立っている。 『はい、花野です。現在はもう爆発の心配はないとの事で、丁度先程、規制線及び避難指示は解除されていますが、避難所から帰宅する住民の姿は未だありません。現場付近は已然騒然としています。 私が現在居るのは現場となった黒川邸の近くになりますが、爆破物処理班や鑑識など大勢の捜査員が真選組以外にも慌ただしく出入りしている状況です』 『花野さん、これはやはりテロなのでしょうか?』 『はい、現場の捜査関係者の間では、警察庁に送られて来た犯行声明も併せて、警察を標的にしたテロではないかと言う見方が強いようです』 『負傷者を出した真選組の方はどう言う状況でしょうか?また、爆弾の爆発を未然に防ぐ事は出来なかったのでしょうか?』 狭い筺の向こうの遣り取りに、銀時は咄嗟にテーブルの上のリモコンを引っ掴んだ。音量ボタンを適当にばしばしと叩く。 『現場に居た真選組隊士の数名が重軽傷を負って病院へと搬送されていますが、詳しい人数や容態は不明です。爆発物については、処理班が現場に近付いた所を狙って爆破されたと言う情報も入って来ています。今のところ死者は出ていないとの事ですが、詳しい状況が解り次第またお伝えします』 再びスタジオに戻ったカメラを前に、アナウンサーがゲストに招いた専門家らしき人間にあれやこれやと質問をしている。『義人党を名乗るグループの起こした事件で何しろ初の負傷者が出た訳です。不正を暴く彼らを英雄視する様な声も市井にはある様ですが、彼らの行っている行為は歴とした犯罪で──』 スタジオであれやこれやと繰り広げられている会話の内容が耳から素通りしていくのと同じ様に、銀時の手からリモコンが滑り落ちた。ことん、と軽い音を立てて床に着地するのにも頓着せず、空いた両手で頭髪をぐしゃりと掴んだ。混乱で煩く思考をぶつけて来る頭を抱える。 いつか居酒屋で見たニュースのテロップの一文の様に。違う世界で自分に関わらぬ者が無関係に死ぬし、傷つくし、生まれる。信頼も確信も感想も関係無く、人は容易く命を落とす。 ただの文字列が、ただの報道が、それが顔見知りの人間のものと言うだけで、どうしてこんなに苦しいのか。隔絶された世界はどうしてこんなに残酷なのか。 「ひじ、かた……」 小さく呻いて、銀時は絡まった銀髪を引っ掻いた。見つめる爪先が床に触れて、かちかちと音を立てている。 予感や、何か特別なものを感じた訳ではない。仮に感じたとして、そんなものは妄想に過ぎないだろうけれど。 それでも銀時は、ふらふらと立ち上がると机の上の黒電話の受話器を掴み取った。既に憶えきっている番号を震える指先で辿る。 と、プルルルル、と受話器の向こうで控えめなコール音が鳴った。ちゃんと通じた、と言う事に視界が開けた気がして思わず顔を起こす。もしも爆発などと言うものに巻き込まれたりしていたら、携帯電話が無事である筈はない、と常識的にそんな事を考えていたらしい。 三度、鳴ったコール音が、ぶつん、と途切れた。そこから聞こえる雑音未満の環境音に、繋がった音だと判じて、銀時は思わず声を上げた。 わかれよう、と言った自分がこんな事を言う筋合いなど無いのかも知れない。 今までの、凛と戦う鬼の副長相手にならばこんな心配など恐らくは寄せなかっただろう。だが、『今』の土方は果たしてどうだろうか。 そんな焦燥感を破る様に。 「オイ、テレビで今偶然見たとこなんだけどよ、その、お前大丈夫な」 《……もしもし?》 然し、受話器から聞こえた声は予想とは違う。銀時はぎくりと動きを止めた。 《旦那?旦那ですよね?天然パーとか言う名前で登録されてたんですけど、万事屋の旦那ですよね?山崎ですけど、》 どうやら受話器の向こうの相手は曖昧な地味顔だったらしい。よく思い出せないその顔を脳裏に一瞬描いた銀時だったが、次の瞬間には口元を歪めていた。乾いた唇を湿らせながら、極力平然と言い放つ。 「オイオイ。なんで可愛い子にラブコールしたら他のヤローが出る訳?」 《すいません……ってそうじゃなくて、》 責める様な口調に反射的に謝罪を口にした山崎だったが、そこで少し慌てた様に咳払いをした。何処かに移動しているのか、足音がかつこつと響くのが遠く聞こえてくる。 《旦那、テレビってひょっとしなくてもニュースを見て、それで副長に電話を掛けて来たんですよね?あの、なら丁度良いんで、緊急の依頼、受けて下さる心算はありませんか?》 土方は銀時との関係性を誰にも気取られてはいない様だったが、銀時の軽口も相俟って山崎は普通にいつもの冗談と取ったらしい。だが、特に不自然さを感じた様子もなく続けて来る、その声音には冗談に乗る余裕どころか、隠しきれない焦燥感が滲んでいた。 銀時は黒電話を持った侭、ソファになんとか戻った。脱力に任せる侭座り込んで、息を吐く代わりにぐっと目を閉じる。 「……本人の携帯を部下が預かってて我が物顔で通話中。オイ、朝っぱらから胸の悪ィ冗談は止せよ?」 すれば山崎は寸時の間の後、絞り出す様に。力のない息を泣きそうにこぼした。 《……………大江戸病院です。悪い冗談で済むんなら、俺だってそうしたいですよ…》 。 /xx← : → /9 |