天国の日々 / xx



 夢を、見た。
 
 夢を見た、のだろうと思う。
 全身を容赦なく打つ衝撃と、重たい浮遊感。厭に緩慢に働く思考の中、視界は真っ赤に染まっている。
 今までだって大なり小なり怪我を負った。紙一重で命の危険から逃れた事もある。
 それらの数々の記憶や体験から見ても、きっとこれは相当な修羅場になるだろうと直感する。
 そんな中で、夢を、見た。
 

 *
 

 「──ッはァ、っ」
 がは、と、急激に気管に入り込んだ空気に噎せ返る。酸欠状態になりかかっていた脳がぐらぐらと揺れて、生理的な涙で視界が不明瞭に歪んだ。
 仰向けの侭だからなかなか咳が止まらない。噎せ返って背を跳ねさせて、然し上に圧し掛かった侭の男が居るから、身動きする事も侭ならない。
 「    だ、」
 耳鳴りの向こうで、男が呟いている声が聞こえる。
 つい今まで土方の首を絞めつけていた手をぎくしゃくと引き戻して、戦慄かせて、怯えた様に。
 ずきずきと、頭が痛んだ。
 締めつけられていた首が、痛い。
 食い込んだ指先が、熱い。
 呼吸を阻害された気道が、苦しい。
 気絶させたいのであれば、殺したいのであれば、頸動脈を押さえていれば僅かの時間で事足りた筈だ。だが、男が選んだのはより長い苦痛だった。
 だから、思った。
 殺したかった訳ではないのだろうと、思った。
 心の底から、虐げよう、とか。嬲ってやろう、とか。苦しませよう、とか。恐らく、そんな事だけがしたかった訳ではないのだと。思った。
 そうやって見下ろす、白い鬼の貌に確かに浮かんだ暗い愉悦の中に。愛、以外のどんな情があっただろうか。
 独占欲?執着?嗜虐?憐憫?期待?それとも──畏れ?
 それらを全部含めて、愛と呼ばないと言うのであれば、他に何と名付けてやれば良いだろうか。
 震える手で、言葉にならない感情を込めた泣きそうな顔で、掻き抱かれたその腕の温度を。何と呼べば良いのだろうか……?
 
 酷い愉悦に歪んだ顔をしながらも、一瞬後には我に返った様に戦くお前に、心配しないで良いのだと手を伸ばす。
 締められた喉が痛い。噎せ返る肺が苦しい。拾う快楽が、浅ましく醜い。
 後悔とも、歓喜ともつかない表情で。強張った己の手を見つめるお前の、自嘲めいた表情が。
 ──………………"嬉しい"。
 だから大丈夫だと、笑いかける。
 お前に望まれる事が叶うなら、他には何も要らない。
 
 
 夢を見た。
 夢であったらよかったものを、見た。
 
 
 だから。
 ──だから。「すまない」。
 嘘ではないと。今更幾ら叫んだ所で、もうきっとお前には届きはしないのだろうけれど。
 
 「ごめん。好きなんだ。本当なんだ。ごめんな」
 
 あの時、声にならない声をそう、投げて寄越したお前へと、俺はきっと謝らなければいけなかったんだ。
 
 「すまねぇ、な」
 
 走馬燈の様な瞬間の終わりを感じて、瞼を強く瞑った。
 目蓋の裏で砕け散った、夢のようなものを、どこか遠くへと追いやって。
 あとはただ、その瞬間を、待つだけだった。
 

 *

 
 瀑布に打ち付けられた様な衝撃に感じたのは、酷く重たい浮遊感。灼かれた視界と可聴領域を越えた轟音とに晒されて、世界がぐにゃりと歪んだ。
 ああ、爆発したのだろう、とすんなりと脳は理解していた。
 何故だろう、かは解らない。ただ、『犬』と揶揄を込めた爆発物が、この幕府の狗共を前に牙を剥かない理由なぞ無かったのだ。
 嫌われ者の警察は、厄介な幕府の狗は、死ねと。それは明瞭な殺意。
 今まで爆発物が殺傷を目的としていなかったからと、勝手な油断をした。
 爆発物なんて、文明を壊してニンゲンを殺傷──否、破壊する以外のどんな必要性があって存在すると思っていたのか。示威でも自己顕示でも何でも良い。花火は上がった方が人目を惹くのだ。
 そんな単純で解りきっていた帰結に、虚ろに笑いがこぼれる。
 
 何かを望んで、何かを蔑ろにした。或いはそれが代償だったのかも知れない。
 愛するのと同じで、要求を投げるのと同じで、嗜虐心の顕れを被虐心の望む侭に受け入れた。
 首に絡んだ指に感じたのは近い死の予感ではなく、寧ろ得心にも似た心地だった様に思う。
 だから、苦しさに意識が朦朧としたが、止めも、逆らいもしなかった。
 弾かれた様に指を外して、恐らく俺の首にくっきり刻まれたのだろう、指の食い込んだ痕を戦いて見つめて、言葉にならない声が、ちがうんだ、と謝るのを聴いた。
 愉悦と加虐の悦楽とに目を細めるお前が怖くて。
 お前がそんな自分自身を恐がるのが可哀想で。
 俺をそこまで想うお前の存在だけが嬉しくて。狡くて、嬉しくて。
 なんだか悲しくなって、大丈夫だと手を伸ばして、古い傷をまた、なぞる。
 ここに、俺が居る。ここからはじまった、お前が居る。
 望まれて初めて確立したあやふやな情だったけど。ここだけは、違えていないと信じられる寄る辺だったから。

 いっそ全て、お前のものになれたら、よかったのに。
 だって、死ぬ寸前までこんな事を考えているんだ。馬鹿みたいだろう?
 お前の言葉が、茨の様に足に絡みつくのを感じた時、恐怖ではなく歓喜を憶えた。
 それは大凡はじめての感情だった。
 真選組以外のものが自分の中に根付く、そんな背信を望まれる事を歓び受け入れるなんて、有り得ない話だったのに。
 ストーカーに励んで女の尻ばかり追い掛ける馬鹿な親友で、大事な大将。
 油断のならない事ばかりをして人の頭を悩ませ、無駄な職務を増やす、厄介な弟分。
 学も能も無く、腕っ節だけで渡り歩くには不安も感じる、頼れる部下や仲間達。
 そんな連中を面倒だと思った事も、憎んだ事も、疎んだ事もない。叱りつつ、小言を投げつつも、それが自分がここに、彼らに必要とされる理由であればそれで良かった。

 近藤さん、すまない。本当は俺はアンタの為に、真選組の為だけに生きなきゃならなかった。
 でも、俺は、『真選組の副長』ではない『俺』を、ガキみてぇな独占欲と執着とで求めてくれた馬鹿野郎の事が、欲しくなって仕舞ったんだ。
 繋がりながら繋ぎ止めて、俺のものになってくれと、俺に全部染まって仕舞えと、そう苦しそうに願う馬鹿野郎に、縛られたくなって仕舞ったんだ。
 だからもう、きっと俺はアンタの元には戻れない。
 些細な罪悪感から生じた綻びのはじまりは、あの男に寄せられた愛情と、隠しきれなかった熱情とで変わって仕舞った。
 自分の小さな自尊心とか本能とか、そんなものは直ぐにどうでも良くなった。
 お前が必要とする、求める、与える、縛る、押しつける、希う。押さえつけて奪って貶めて、それでも満たされない隙間を埋めようとでも言う様に、俺を欲しようとするのが、『俺』にとって何よりの充足になっていったんだ。
 いなくなれば淋しい。傍に居れば恋しい。求められれば嬉しい。実感があれば満たされる。
 
 ── お前が、好きだ。
 
 なればこそ、謝るべきだったのだろう。最初の時点で。
 お前の気持ちにゃ答えられねぇが、欲しいなら口説いてみやがれ。
 そんな風に、不遜な鬼の副長らしく挑戦的に笑ってやればよかった。
 疑って厭がって解らなくなって、挙げ句の果てに望む事と、望みを受け取る事しか出来なくなっただなんて。馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう?
 
 なんで、もっと早くにちゃんと口に出来なかったのだろう。
 すまない、でも、好きだ、でも。ありがとう、でも。
 アイツが行って仕舞う前に、どうして、待って欲しいと言えなかったのだろう。
 縋り付くのはみっともないなどと、こんな所でばかり自尊心の高さが邪魔をして。
 散々閨では好き放題に望まれる侭従順に居たのに、何を、今更。
 お前はそれを解っていた筈だろうに、それでも、わかれよう、と言った。
 それは、もう二人手を取り合って同じ途を行くのをやめようと言う事だ。
 分かれよう、と言う事だ。

 ……………………………もういいよ、と言うことだ。
 
 お前に求められたくて、必要とされたくて、膝を折った浅ましい男など。そう、呆れたのだろう。
 侍でも、真選組の副長にも値しない無様な男など。惨めなものでしかないと。そう、見切ったのだろう。
 
 すまない、万事屋。──いや、銀時?
 それでも俺は、お前の事が好きなんだ。







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