GOLA / 2



 目を醒ましたのか、それともとっくに覚めていたのか。
 開いた両眼に映る光景は余り見慣れのしないものだった。床からは少し遠くて、天井からはただ見下ろされている、一室。決して手狭な面積では無いのだが、二人がけをして猶余るサイズのソファが二つに低めの卓が一つ、それに加えて、窓を背に机と椅子とが鎮座しているものだから、実際の床面積よりは狭い印象を憶える。
 ソファは別段高級なものではないから座面は、お偉い幕臣様の応接室の体の沈み込む様な柔らかさなどはなく、固い。背もたれも同じ素材で出来ている上にクッションの類など置いてないから、長時間同じ姿勢で居れば忽ちに身体が痛くなって仕舞う。
 「………」
 正にそうして痛めたのだろう背中が軋むのを感じながら、土方は慎重な動作で身じろいだ。真選組屯所は畳張りで、こう言った腰掛けの世話になる事などそうそう無いものだから、どうにも居慣れないと思えるのはいつもの事だった。
 見回す室内は見慣れないが憶えの無いものでは無い。幾度かこの家に上がった記憶はある。仕事を終わらせて軽くなった背を、この家の布団に横たえた事もある。
 然し今土方の背は長時間ソファに座していたのだろう症状を訴えている。どうせ休むならば布団で休めたら良かったのにと痛みに悪態をついて背筋を正せば、静かな万事屋の風景が全周囲から土方の事を見つめて来ていた。
 少し探して見上げた壁の時計は七時少し前を指している。窓の外が仄かに明るいから、時計が正しければ朝の七時なのだろう。
 (……確か、昨晩俺は、)
 目覚めたらいきなり万事屋のソファの上だった、と言う現実に繋がりそうな記憶を苦心して土方が引っ張り出そうとしていると、水場の方からこの家の主である銀髪頭が歩いて来るのが目に入る。
 「万事屋、」
 呼べば、銀時は肩に掛けたタオルで顔を拭いながら胡乱な目つきで土方の事を見た。裸足の足を床にぺたぺたと言わせながらソファに近付いて来て、目前で立ち止まる。
 別段、不機嫌と言う訳では無さそうだ。淡泊。否、普段通りと言うべきか。情も熱も特に無く、覇気に欠ける両眼を半分塞いでいる重たげな目蓋。
 そんな銀時の様子から、昨晩は少なくとも同衾した訳では無いのだろうとは知れる。元より土方がソファで休んでいるぐらいなのだから端からその可能性は除外してあったが。それにしたって、わざわざ此処に居ながらどうして独り寝をしているのかは気に懸かる所だった。そしてそれが原因なのかどうかは知らないが、土方の知る銀時にしては早起きに思えた。
 早起きの銀時。ソファで休んでいたらしい土方。記憶の空白を埋める材料は明らかに足りない。幾つか憶測を並べても確信には至らず、土方は目前で己を見下ろして来ている銀時の姿を見上げながら暫し考え、そうして、
 「俺は、どうして此処に居るんだ…?」
 漸く出た問いは己で思ったよりも間の抜けた響きを以て放たれた。受けて、銀時は一瞬虚を衝かれた様に瞠目したが、直ぐ様にいつもの半眼に戻ると鼻の頭に皺を寄せて溜息をついた。
 「どうしても何も、おめーがいきなり上がって来たんだろうが。何、素面の面して酔ってんの?それとも寝惚けてんの?」
 心底呆れた様にそう言われ、土方は銀時のその態度に苛立ちを憶えるよりも正直に羞じを憶えた。恐らくその指摘は間違ってはいないのだ。だからこそ記憶が絡まって結びつかない。しかも、酔っているにしても寝惚けているにしても、記憶が曖昧になって仕舞うなど余りに無様であるにも程がある。
 自己管理の至らなさやだらしのなさ。どちらにしても土方には大層不本意な評価であり行動だ。咄嗟に視線を床板の上に逃がすが、そんな所に解り易い答えが書いてある筈も無ければ、手がかりになりそうなものも見当たりはしない。
 必死に手繰る記憶を遮るのは鈍い手応え。酔っているにしても未だ酒が残っているのか、寝惚けて思考が散漫なのか。集中すべく額を押さえながら土方は記憶の中の己の行動を引っ張り出そうとするのだが、指摘されたものに合致する様な目指す解答に思考は行き着かず、曖昧な記憶を固めた推測がその代わりに得心となって落ちて来た。
 「ああ…、そうか。約束してたのに、すまねぇ、」
 そう、昨夜土方は銀時と会う約束をしていたのだ。だが、屯所に戻る途中の夜道で攘夷浪士たちに因る襲撃を受けて、結局約束の時間に出会う筈だった店には辿り着けなかった。そこまでは記憶に描ける。
 問題はそこからだ。襲撃現場から約束した店、或いは万事屋への道程が半端に欠落している。だが、そこまでの経緯や己の性格を思えば恐らくは、約束を護れなくなった事に気が咎めて、深夜なのに万事屋まで押しかけて戸を叩いたは良いが、その侭疲労で寝落ちた。多分にそんな所なのだろう。
 「良いって」
 他人の家の迷惑も顧みず押しかけておいて眠り落ちるなど、幾ら知った仲とは言え失礼にも程がある。思って正直に落ち込む土方のそれ以上の言葉を遮る様に銀時は短くそう言うと、俯いた肩にそっと掌を当てた。
 「……来て、くれたんだろ。だからもう良いさ」
 顔を洗っていたからか、触れた掌に本来感じる暖かな温度は遠い。だがそれでも土方は密かな安堵に目を細めた。昨晩待っていてくれたのだろう銀時に対する申し訳の無さは勿論あるのだが、迷惑にも朝まで眠りこけていたのだろう己に向けて寄越す彼の態度は柔らかかった。恋人のそう言った優しさに付け込む様にして仕事や私事を優先して仕舞っている自覚は土方の裡に確かにあったが、それでも矢張りこうして実際に赦されるとその度胸を撫で下ろさずにはいられない。真選組の副長としては決して得られない、ここで与えられるぬるま湯の様な穏やかさは、いつだって土方の期待を裏切らないのだ。
 「朝飯は?食うか」
 そんな土方の様子を見下ろしてそう問いて来る銀時に、土方は少しの間考えたが断る事にした。昨晩散々斬った張ったの騒ぎを起こして疲労はしている筈なのに、血腥い感覚がまだ近しい気がして余り食欲が湧きそうに無かった。今更、人を斬ったら食事が喉を通らないなどと言う繊細な反応など起こしもしないが、何だか今はそんな気分にはなれない様だ。
 後になって腹が減るかも知れないが、まあその時になったら適当に考えれば良いと決めて、土方は若干の申し訳の無さを潜ませた仕草で小さくかぶりを振った。
 「そうか。じゃ、その辺で楽にしててくれや」
 控えめな拒否を表現する土方の様子からは、食事が不要と言う詳しい理由は伺えなかっただろうが、銀時はそれ以上を追求するでも親切の押し売りをするでもなく、軽く頷くと肩に掛けていたタオルを窓辺に干して水場へと戻って行った。
 その背中を何となく見送っていると、銀時とほぼ入れ替わりに居間に大きな白い犬がのそのそと入って来た。確か名前は定春と言ったか。小型犬の様な形をしてそのサイズは『お座り』の姿勢でも優に成人男性の身長を上回る、何かと規格外な万事屋の飼い犬だ。
 その巨大な存在感のインパクトは何度目にしても今ひとつ馴染めそうにない。若干腰の退けた、そんな土方の存在に定春はふと気付くと、何が楽しいのかうきうきした様な足取りで近付いて来た。くんくんと巨大な鼻面を向けながら、土方の座すソファの周りをぐるぐると回る。
 ぱたぱた揺れる尻尾が幾度も顔面に当たりそうになって土方は顔を逸らすのだが、ぐるぐる動く定春はそんな事にはお構いなしで鼻面を寄せて来る。
 動物は別に嫌いじゃないが、これだけ大きいとそんな認識も易くは通らない。犬猫を目の前で愛でて可愛いと思っても、同じ様に象や犀を目の前で愛でて果たして可愛いと思えると言うのか。
 ぐるぐると回っては時折鼻を向けて来る巨大犬の姿から微妙に距離を取ろうとしていた土方だったが、暫くそうする内に特に害は無さそうだと判じて、身体に無用に入っていた力をようよう抜く。
 慣れない客が気になるのだろうか。思いながら土方はいつも銀時のしている所作を思い出しながら、その鼻辺りをそっと撫でてみようと手を伸ばした。
 すると、土方の手が届くより先に定春が首を擡げた。尻尾を勢い良く振ってぐるぐるとソファの周りを歩きながら「ワン」と一吼えする。
 その顔の向いている先を土方が振り向けば、そこには眠たげな眼をした神楽が目を擦りつつ立っていた。見事な迄に寝起きとしか言い様の無い様子で佇む少女の薄桃色の髪には酷い寝癖がついて仕舞っている。
 そんな神楽はじっと、ソファに座している土方の方へと不審そうな眼差しを向けている。それはそうだ、と土方は今更の様にその事に気付いた。ここは銀時の住まう家だが、神楽にとっても家なのだ。見覚えのある不審者が居る、と見られるのは当然だ。
 折り合いの宜しくない武装警察の一人が、朝早くから私服姿で万事屋に上がり込んでいるなど、どう考えたって普通の事とは言えないし、どう答えれば上手い説明がつくのかも解らない。
 「あ…、」
 これはだな、深い理由が、などから始まる言い訳の数々を土方が脳内で煮詰めるより先に、ソファの周りを回っていた定春が神楽の方へと向かった。すれば神楽は定春の方へと視線を移し、よしよしとその頭を撫で始める。
 「オイ神楽ぁ、早いとこ顔洗っちまえよー。誰が見るとも知れねェが、あんまみっともねェ姿で居るもんじゃねぇからな」
 「解ってるアル。偶に自分の方が早起きしたからって、銀ちゃん偉そうネ」
 割り込んで来た銀時の声に、ぶすりと唇を尖らせて、神楽。彼女はその侭二度目の欠伸を噛み殺しながら水場の方へと向かって行って仕舞った。定春はそれを追いはせずにもう一度土方の方へと戻って来て鼻を鳴らしながらソファの後ろ辺りに座る。
 不審者を見る様な目と、思い浮かびはしない『こんな所に居る』正当な理由も見つからず、俄に張り詰めていた緊張を溜息と共に吐き出して、土方は真後ろから鼻を寄せて来る定春を苦笑混じりに見遣った。
 「……何だ、血腥ェか?」
 「わぅ」
 問いの意味が解らないのか、そうでもないと言う意味なのか、定春は小さく喉を鳴らして鳴くと、待て、の様な姿勢で土方の事を見返して来る。その大きな目に本来映る世界の優しさを思えば、突如としてそこに無遠慮に入り込んだ土方の有り様は、振り返って考えてみずとも余りに異質であった。
 昨晩の襲撃は思い出しても結構に凄惨なものだった。その後風呂には入っている筈だが、それでもきっとこの身を包む血腥さは完全には取れはしない。そう言うものだ。身で得た業も、それを罪悪とは感じぬ心も、すっかりと血と死臭とに浸されきって最早容易くなどそこから逃れられはしない。
 洗う気も、拭う気も、雪ぐ気も無く、己では決して得られはしない安らぎや優しさを──それを与えてくれる男を欲して、土方は此処を、坂田銀時を選んだ。罪悪感の軽減でも罪悪感を感じない心の慰めでも無い。ただの理解が欲しくて。
 想いを交わして安堵を得て、肉を交わらせて充足を得て…、それ以外の何を求めてやって来たのだろうか。それ以上の何を探してわざわざ辿り着いたのだろうか。
 (迷惑、なのも解りきってただろうに、な)
 思考の侭に眉間に皺が寄る。万事屋の日常風景に無遠慮に入り込むにしては、今の土方には覚悟も度胸も足りていなかった。血を流してハイテンションになっていたのか単に疲れていたのかは憶えていないが、やって来てその侭寝落ちると言った無様をやらかした昨晩の己を罵らずにはいられない。
 居心地が悪い、と言うよりは居堪たまれない。別に昨晩銀時と散々に睦み合った後と言う訳では無いのだが、一応はそれも此処を訪れる判断基準の一つにして居た筈である。そんな、誰に気取られる訳でも無い筈の己の心まで、当たり前の日常風景の中では酷く浅ましく思えてならない。
 「定春、朝ご飯アルよ〜」
 「ワン!」
 舌を打って軽く頭を抱える土方の横を、戻って来た神楽の声に応じて定春がまた通り過ぎて行く。僅かだけ視線を持ち上げて見れば、大きなドッグフードの袋を両手で持ち上げて見せている神楽の姿が居間の入り口辺りにあった。
 その前にお行儀良くお座りする定春の前には、これもまた大きめの餌皿が用意されていて、神楽はその中に抱えた袋の中身を空けて行く。巨大な体躯の犬なのだから、見た目に違わぬ量を平らげるのだろう。あの一袋が普通の犬にして何食分なのかは知らないしその価格も想像の埒外だが、万事屋が常に火の車の家計を抱えているのもなんとなく頷ける光景だと土方は思った。
 神楽は異物の男に対しては、どうせ碌な理由ではないと察しでもしたのか、特に何を言うでもなく問うでもなく無視を決め込む事にした様だ。尤も、あれこれと訊かれたり言われたりした所で、当たり障り無い答えなど思いつかなかった土方としては、正直言って神楽のそんな態度は助かった。
 「……」
 定春を撫でてやっている神楽から視線を逸らして、土方は無言の侭窓の方へと意識を逃がした。最早早朝とは言えない時間だ。今頃屯所では定例の朝議が行われている頃だ。朝には戻らない旨ぐらいは山崎辺りに伝えてあるだろうから別に心配はしていない。ただ、矢張り後ろめたさはそこにも生じるのだから、堪ったものでは無かった。
 楽になれないのに楽になろうとする。なりたい、と言う自覚は朧気にだが在って、それに対して嘘を吐く罪悪はいつだって土方を懊悩させる。真選組の鬼の副長で居ようとする己と、時折それを脱ぎ捨ててみようとする己とは、どうしたって相容れないのだ。主に感情の面で。
 「お早うございまーす」
 爽やかで穏やかで平和な朝には、何処までも似つかわしくない溜息を口中で転がす土方の耳に、玄関を開ける音と共に万事屋の最後の一人の声が聞こえて来た。何処までも相容れない存在を裡に内包していた所で、彼らの日常は構わず流れて行くのだろう。当たり前の様に。当たり前では無いものには無関係に。
 「お早うさん。今日いつもより遅かったな?」
 「それがもう、朝から大変だったんですよ。何に影響を受けたのか、姉上が突然お弁当を作ってみようかしらとか言い出すもんだから…」
 水場で銀時と話しているのか、眼鏡の少年が居間まで来る様子はまだ無い。話に加わるのか内容が気になるのか、神楽が首を擡げて水場の方を伺っている。
 「どうせ食べさせられるのは僕たちですしね、勿論全力で止めときましたよ。卵にも犠牲が出なくてホント良かったですよ」
 「そりゃお手柄だなぱっつぁん。お前今世界の卵と俺らを救ったよ。救世主だよ」
 益体もない会話に、卵や魚の焼ける匂い。水音。足音。平穏な一日の始まりでしかない時間。
 土方は音を立てずにソファを立つと、続き間になっている寝室へとそっと移動した。襖を閉ざしてそれらの日常風景から意識を閉め出すと、我知らず苦さの強い笑みが浮かぶ。自嘲も呆れも、呑み込めないから吐き出す他無いと言うのが益々に居心地を悪くするのだろう。
 この風景にもこの世界にも、土方の纏った血腥さや、大人の身勝手な感情や欲は余りに似つかわしくなかった。
 そっと後ろ手に閉ざした襖から離れると、土方はその侭窓辺へと移動した。細く窓を開くと懐を探って煙草を取り出す。火を点けて一息を吸っては吐くが、意識も思考も余りクリアにはならない。矢張り昨晩の今日で、疲れているのかも知れない。
 やがて朝食が始まったのか、閉ざされた襖一枚を隔てた向こうで談笑の気配がする。
 果たして俺は彼処に居たかったのだろうか、と吐き出した紫煙に交えて考えて、直ぐ様に、違う、と打ち消した。
 向こう側。襖を挟んだ向こう。それで良いのだと土方は思う。彼処に近付きたい訳でも入り込みたい訳でも無いのだ。遠ざかった所であっても、それで彼らの暢気で平和そうな姿を見ているのが己の性分には一番合っている。それこそ市民の安全と平和の為に陰で働く警察の領分の様に。
 そこに混じって穏やかに平和に過ごしたい、などとは思わない。そんな居堪れが無くて居心地が悪いのなど御免だ。
 ソファの上でごろごろしている神楽、その横で欠伸をする定春、掃除をしている新八、社長椅子にだらだら座ってジャンプを読んでいる銀時。そんな風景が『日常』なのだと、目に浮かぶ様だった。
 そしてそれが幸せなのだと、土方は思った。心の底から。嘘偽り無く。







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