GOLA / 5 そう。毎回の事だ。あの多忙な恋人とまともな逢瀬など滅多には過ごせない。事前に約束をするよりも急な約束の方が未だ勝率が高いと思えるぐらい、恋人の予定は侭ならないのだ。 そんな思考を割いて、店の戸が開く音に反射的に頭を巡らせるが、銀時の希望とは異なりそこには見ず知らずの中年男性が立っていた。その男もまた、手にしていた傘をあの役に立ちそうもない傘立てに突っ込むと、店主と世間話めいた挨拶を投げ合いながら席について行く。置物にしか見えない傘立てだが、そう思えていたのは銀時の感じたひねた印象だけだったのかも知れない。 雨は結構降っているのだろうか、と銀時は酒を舐めながら、二本並んで傘立てに放り込まれた傘を見た。傘を置いて座る客の姿を見れば、それ程酷く降っていると言う訳では無いのだろう、着物が雨に濡らされている様子は見受けられない。 それでも、傘が必要だと感じられる程度の空模様なのだろう。果たして帰るまでに止むだろうか。それとももっと酷くなって仕舞うだろうか。思い起こせば、夜に家を出る時にはもう既に雲は厚く、風は生ぬるい湿気を含んでいた様な気がするが、今更そんな事を思い出してみた所で銀時は傘など持っていないし、あの役立たずに思える傘立てを見ても、誰かの忘れ物を借りたり出来る様子では無さそうだ。 (仕事でも、捕り物でも、雨に降られてなきゃ良いんだけどな) だから銀時の心配は寧ろ、この雨の中外に駆り出され仕事に就いているだろう恋人の方にあった。約束した待ち合わせの時刻には未だ雨は降っていなかった。そうなるとそれ以前に入った仕事ならば傘なんて持たずに出掛けている可能性の方が高い。 店内は穏やかな喧噪に包まれ、暖かな壁に阻まれて、幾ら耳を澄ませど雨音の一つでさえ銀時の耳には届かせてはくれない。それでも、扉一枚を隔てた外では雨が降っているのだろう。あの男の元にも、恐らくは平等に降り注いでいるのだろう。 そんな雨の触れぬ場所にいる銀時に出来る事は、ただその訪れを待って怠惰に酒を干す事ぐらいしかない。もしも遅れても来てくれると言う可能性が僅かにでもあれば、それを待たず帰る気になどなれない。 どうせ暇なんだ。 その度に諳んじて来たそんな言葉に、銀時は自ら淡く笑う。そうまでして約束が履行された回数は限りなく少ない。それでもきっと、店じまいの時間になって店主に追い出されるまでここを動かないのだろう己を思って。 それからひとりきりの盃を傾ける事数時間。結局想像していた通りに待ち人は来ず、銀時は店じまいにかかる店主に見送られながら店を出て、夜道を一人歩いて帰った。 いつもの事だ、と慣れた言葉を、幾度目になるだろうか諳んじながら、アルコールの抜けない鈍った頭を枕に沈めて眠りにつく。 そう、いつもの事だったのだ。恋人が多忙で約束の場所に現れない事など。その事をわざわざ翌日に謝りに来る様な事が決して無い事も。 全く、いつも通りの事だった。 そんな『いつも通り』が数日続き、突如鳴り響いた電話の音がその全てを変えるまでは。 * 電話が鳴った時、銀時はソファの上に寝転んで転た寝をしていた。何も無い怠惰で気怠い昼下がり、寄せ集めの昼食を胃袋に収めて仕舞えば他にやる事も特に無く、座っている事に疲れて寝転んで仕舞えば後は自然と暇を持て余すばかりの眠りに落ちるしかない。 目蓋の重みに逆らう事はとうの昔に止めている。何分前の話ではない、何年も前にだ。やる事の特に無い時間の空隙を潰すには眠る事が一番だ。体は休まるし、無駄にカロリーを消費しないで済む。 銀時のそんな昼寝姿を見慣れている新八や神楽は、依頼や用事の特に何も無いこんな日では雇い主に何を言っても無駄だと知っているからか、特に何も言わずに各々出て行った。遊びに行くなり買い物に行くなりしたのだろう。 だから銀時以外の誰も居なくなった万事屋の家屋内は静かで、程良い曇り気味の空模様の中ただただ怠惰な昼寝に相応しい時を刻むばかりだったのだが、そんな中に鳴り始めた電話の音はそれら全てを騒音と言う攻撃で無粋に裂いて響くものだった。 呼び出し音と言うより最早それは騒音の様に聞こえた。重たげに閉じた目蓋をそう易々持ち上げる気の無かった銀時だったが、依頼か知り合いかと言う可能性をなかなか止まない電話の音に無理矢理当て嵌めると、目を薄く開いてのろのろと背を起こした。 一応万事屋として電話帳に名前は乗せているから依頼人かも知れない。直接訪ねる前に電話を掛けて寄越す依頼人は多い。知り合いの方が寧ろ、わざわざ電話など鳴らさず直接門を叩きに来るだろう。 あと三回鳴ったら出よう、そう二度考えた所で結局銀時は立ち上がった。この調子だと幾ら鳴らした所で電話の向こうの人物は諦めてくれそうもない。留守番電話などと言う機能はこの黒電話には生憎ついていないのだ。これで間違い電話だったらどうしてくれようかとぼやきながら受話器を掴む。 「はいもしもしィ、万事屋ですけどー?」 依頼人だとしたらその一言だけで無言で電話を切ったかも知れない。そんな声が億劫な態度から自然と出て、銀時は思いの外にふて腐っていたらしい己に気付いた。 暇なのも昼寝をしているのもいつもの事だと言うのに、暇を持て余した思考から逃避しようとしている意識がどうにも拭い切れないでいる。それだから妨げられた睡眠や差し挟まれる面倒にこんなにも苛々しているのだろう。 ひとりきりの思考は疲れる。それが答えの出ないものならば猶更。 然し、受話器の向こうから返って来た声は、その答えに幾分か近い──少なくとも寝転んで思考を眠りに融かそうとしている銀時よりは確実に近い人物のものだった。 《…どうも。まさか留守かといい加減気を揉んでた所でさァ》 受話機越しに聞こえて来たそんな音声は銀時にも憶え深い、栗色の頭の少年の姿を容易く思い描けるものに相違ない。 出るまでいつまでも鳴らしていた、とも取れる沖田の喋り調子はいつも通りにフラットだった。目の前に顔が無い事もあって、銀時はその感情を量る事に思考を裂く事にした。なんだか知らないが電話をずっと鳴らして寄越したのだ。単なる挨拶や悪戯では済まない、何かしらの用が──それも碌でもないものが──ある事は間違い無い。 「留守にしたかったぐれェだよ。で、何か用?」 短く溜息を乗せて言いながら、銀時は椅子に腰を下ろした。電話を目前に引き寄せて背もたれに深く身を沈める。 電話の主は、銀時の飽いた思考に一番欲しい答えの持ち主では無かった。だが、ひょっとしたらそれ絡みの何かの話の可能性はある。そうでなかったとしても、それとなく様子を訊くぐらいは出来るかも知れない。そう思えば余り刺々しい態度に傾くのもどうかと思ったのだが──、 沖田の沈んだ声音は、欲する『答え』を、何かしら銀時の望ましくないものとして与えるのではないか、と。 ……そんな予感がして仕舞ったのだ。 そして果たして、その予感は違える事が無かった。 《……訃報でさァ。知らねェ仲じゃねーですし、一応旦那にもお伝えしとこうかと思いやしてね》 履行されなかった約束についての答えも、そこから始まる言葉で全て理解が叶った。同時にそれは、続いていたいつも通りの生活が途切れた事でもあった。 葬儀は行わなかったと言う。良いテロの的になっても困るし、副長不在となる現実をわざわざ、嘆き悲しむ仲間達の姿を以て示す事も無いだろうと。 その代わり、内々で弔いを行い、仇討ちや今後の結束を固めたと言う。 それが、その日から数日前の事。 報を聞かされた銀時は、ただただ淡々と関係者の口から紡がれる事実の説明を、同じ様に淡々と咀嚼していった。 いつも通りだと思っていた。 途切れて、数日。全くそれに気付く事も無く、未だ『いつも通り』なのだろうと漫然と信じていた。またひょっこり遭遇した時に次の約束をするとか、反故になった約束について文句を言ったり呆れられたりと言った、いつも通りの光景が──この先もまた在ると思っていた、その世界が今はもう途切れていたなどとは、思いもしていなかった。 それは虚脱にも似た感覚。 幾度も憶えていつしか慣れた筈の一種の諦め。どうしようもない、と乗り越えて来た何かの感慨。 それは、慕わしい誰かの消失と言う現実に対する、人間性を保った正しい対処方法だ。 《……旦那、大丈夫ですかィ?》 やがて黙り込んだ銀時の耳に、沖田がどこかおずおずと問う声が聞こえて来る。 「ああ」 何でも無い様に出た声は、唾液を呑み込んで少し乾いてひび割れていた。 諦めと納得と理解の果てには、どうして、とか言う疑問や、どうして、とか言う後悔は無い。ただただこれを現実なのだと受け入れる理解だけがある。 だから銀時は、多分動揺はしていなかった。少なくとも取り乱して声を荒らげたり嘆いたりはしなかった。 何でも無い様に首肯だけを返す銀時の態度から、果たして沖田はその様を見抜いていたのか。定かではないが、やがて彼は小さく呟く様な声で言った。 《枕とか、良いらしいですよ》 独り言にも似た調子で寄越された、余りに不意に出た単語に銀時が訝しんだのは当然だった。 「?何が」 《一人で泣き喚きたい時に》 からかう様子も無く放たれた言葉をどう受け止めたら良いのか、銀時はここに来て初めて困惑を憶えた。或いは電話の向こうの沖田はそうしたのかも知れないとどこか定まらない思考でそんな事を考え、後は適当にお決まりの挨拶を残して電話を切って、そして。 「……………」 聞かされた事実を咀嚼したは良いがどう呑み込めば良いのか。惑いながら銀時は受話器を握っていた強張った手指を時間をかけてゆっくりと外して、それから寝室の方へと寸時視線をやった。確か今日は天気が悪かったから布団は敷いた侭だった。枕もそこにある。 然し、思ったが結局銀時が枕に縋る事は無かった。 諦め。納得。理解。受容。そのプロセスを頭の中で転がした所で目を閉じると、暗くなった視界を更に掌で覆って、叫ぶにも嘆くにも足りない感情をその裏側に押し込める。 昔はよくある事だった。隣で笑っていた誰かが突然消える事も、自らの手で誰かの命を消す事も。 あの恋人の職業柄、或いは性格柄、こんな日の訪れをまるで予期していなかった訳でも無い。 刃を以て自らの意志と目的とを果たす以上、同じ刃に因る応報は覚悟して然るべき道理だ。 それを彼が知らなかった訳が無い。覚悟していなかった訳は無い。 それでも。──それでも。 自らの尊びたいものは慥かに在るのだと、銀時はその時思い知った。己を形作るこの世界から知った誰が消えても同じ様に苦しい筈なのに、今初めて憶えたそれは消えた納得や諦めに対する苦痛ではなく、その事実そのものを得るのに憶える苦痛だった。 諦めるには飽いた。納得するには抵抗があった。理解は得たくなかった。受容など、出来る筈も無かった。 どうした所で、その現象を受け入れたくなど無いと思った。 もうこの世界の何処を探しても、土方十四郎は居ないのだと言う現実など、知りたくも無かった。 。 ← : → |