GOLA / 6 後は帰るだけで仕事の全てはもう終わる筈だった。 珍しくも部屋には残務の山は溜めていないし溜まってもいない。この休日を出来るだけ心穏やかに迎える為にと思って、日中必要以上に机仕事に励んだからだ。 誰からもその恥ずかしいばかりか浮ついてさえ思える理由を気取られる心算は無かったし、山崎もやけに仕事に励む上司の姿に特別何か思う所は無かったらしい。上手く誤魔化せそうな言い方も特に思いつかなかった土方には、何かを余計に問われなかった事は正直言って有り難かった。 そんな心地で居たからか、二人一組以上で行う事が原則の見廻りに一人で出て、急きそうになる気持ちを殊更にゆっくりと歩く事で堪えた。 浮かれていた訳では無い。ただ、忙しく血腥い土方の日常の中で、ほんの僅か許された恋人との時間は紛れもなく幸福であって安らいで満たされるものだったのだ。それは他の何にも代え難い存在感をいつの間にか得て土方の裡にすっかりと居座って仕舞っていた。もうそれが無い事など考えられない程に。 日中の内に片付けたとは言え、帰ったら机の上にひょっとしたら新たな仕事が増えているかも知れない。だが、もうそれに目を瞑って着替えて外に出ようと思っていた。そろそろ約束した刻限に迫っていたが、まだ十分に間に合う時間だった。 (って言うのに…、) そこまで考えて土方は舌を打った。傷口のリアルな痛みよりも感じていたのは寧ろ失血の心配だった。振り下ろされたのはごろつきの癖にやけに切れ味の良い刃。油断していたとは言えそれを貰ったのはよりによって利き腕の方だ。気休め程度の防刃効果がある筈の隊服の腕を縦にすぱりと裂いた忌々しい傷口からは、掌までを濡らす量の血が地面へと滴り続けている。 生ぬるい、湿り気のある風がふと吹いて、地面に散ったものたちから立ち上る血腥い臭気を攪拌する。転がる死体の流す血は薄暗い地面の上にじわじわと赤黒い染みを拡げつつあった。 手配書で見かけた様な顔を見た気がして入り込んだ寂れた路地。そこで名乗りも口上も無しに突然斬りかかられた。態と誘き出されたのだと土方が気付いたのは路地の入り口を塞ぐ様に前後に何人もの人間が現れた時だった。 人数の多さに手間取って手傷を負わされたものの、何とか目に見える敵は全て倒した。当面の危機はひとまず脱したと言えるだろう。 そこで気が抜けかかったのか、手に力が入らず刀が地面に落ちて乾いた音を立てる。まずい、と直ぐ様に膝をついて手を伸ばした土方は、然しそこで不意な脱力感を憶えて己が立てない事に気付いた。 何でだろうか。妙に緩慢な意識で足下に視線を向ければ、そこに転がっていた死に体の男が、己の膝裏辺りに刃を食い込ませているのが目に入った。 「──」 肺に穴を空けて血を吐きひゅうひゅうと荒い息をつきながら、その男は決死の形相で刃を握りしめていた。その膂力が更に深く刃を押し込むのに、土方は己の憶えた衝動が恐怖だったのか憤慨だったのか解らない侭にただ無言で口を開き吼えた。 刀を落として仕舞っていた手を思いきり握り固め、土方は足下の男の、こちらを見上げている顔面を殴りつけた。歯が折れ、鼻柱が砕け、上手く力の入らない土方自身の拳からも血が飛ぶ。然しそれでも男の手は、握りしめた刃から、それの食い込む肉から、離れようとしない。 刃が更に深くめり込み、鋭すぎる痛みが脳髄を刺した。視界が真っ赤に染まり意識がぐらりと揺れる。土方は失いかけていた思考を痛みに縋って手繰り寄せると、咄嗟に目についたものを逆の手で探って拾い上げた。割れた酒瓶の硝子の破片。握り込んだそれを指の間に固定し、鈍く尖ったその切っ先で、血塗れになってその表情さえ伺えない男の眼窩を目掛けて打った。先頃よりも何度も。何度も。 湿った音が鈍い殴打音に変わって、再び不明瞭な音に転じる頃、土方は漸くその手を止めた。と言うより、握っていた硝子が手からすっぽ抜けたので殴るのを止めただけの事だったが。 「……………」 いつの間にか呼吸が荒くなっていた。過呼吸に近い状態に失血も相俟って、寸時眩暈を覚えそうになる。 ぜいぜいと息を吐いて呼吸を徐々に整えながら、土方は己の足に深く食い込んだ刃に手を掛けた。それを握っていた男は顔面を潰され死んでいた。強く握った侭の手はその侭だったが、腕はだらりと脱力してぶら下がっている。 木にめり込んだ斧の様に刺さった刃と、そこから繋がる手。何だか現実感が無い割に酷く気分の悪くなる様な光景だ。土方は刃の柄を男の手ごと掴むと、焼けた火箸を押しつけられる様な新鮮な痛みに奥歯を噛み締め、悲鳴の類が己の喉から上がるより先に勢いよくそれを引き抜く。 ぶし、と血を一瞬噴き出させたそれが、次の瞬間には鼓動に合わせ水道の様に血液を吐き出し始める。急激に低下する血圧に忽ちに眩暈がした。 深いな、と何処か客観的な視点でそれをそう判じると、土方は辺りを見回し、先頃取り落とした刀を何とか手に握り直した。 足の傷は鋭い痛みを血を吐き出す毎に少しづつ忘れ、鈍く重い質量へと変換して行く。腱、筋肉、骨、血管、神経。それらの何かが、或いは全てが致命的な損傷を負っているのだろうと土方は本能的に理解する。今後の人生で未だこの足を使って歩きたいのであれば、速やかに──今すぐにでも専門的な治療を行う必要があるだろう。その為には早くこの場を立ち去らなければならない。 だが、この足ではそれも難しい。だからと言ってこの侭ただ力なく座っているのは余りに危険だ。足どころか命にも関わる事になるだろう。 襲撃を受けた直後に、携帯電話の緊急用短縮は鳴らしてある。救援はそう遅からず駆けつけてくれるだろう。土方がそんな連絡を寄越す事など普段はまず無いのだから、緊急事態である事は直ぐに察してくれている筈だ。 死体の正確な数はきちんと数えてみないとよく解らなかったが、最初に見た時はもっと人数が居た様に思う。 人間だったものの数を確認するには頭部の数を数えるのが一番良い。大抵の場合はそれで通じる。腕や足だと宛にならない。胴体だとそれだけしか無い時に判別が付き辛い。 一人の人間を一人と、或いは一体と証明するには首から上が一番だ。胴体と泣き別れになっている様な凄惨な状況であれば死亡確認も出来て一石二鳥。首を刎ねられ生きている人間は普通いない。 職業柄か。それにしても陰惨に思えるそんな事を考えながら見遣った首たちは然し何れも胴体と分かれてはいない。各々血を流して斃れて、湿った地面を生ぬるくどす黒く染めて行っているだけの、数えるには別段困る事もないただの死体だ。 悲しげとも恨めしげとも取れる表情を刻んだそれらを見返して、土方はもう一度その数を数えた。 矢張り、足りない。最初に見た人数より、明らかに転がる死体の数は少ない。一体が確実に一人とカウント出来る状況だと言うのに、足りていない。 三度目を数えた所で、土方は舌を打つ。どうにも失血で意識と思考とが散漫になっている。流れる血と共に意識まで地面に滴り落ちそうになって、慌てて刀を握り直した。然し紅く濡れた掌には力が上手く入らず、何度か指を震わせゆっくりと柄を掌中に捉える。 しっかりしろと己を叱咤しながら、息をゆっくりと吸って、吐き出す。 死体が襲撃者の数に足りないと言う事は、死体になる前に逃げたと言う事だ。そいつらが仲間を連れて戻って来たり、静かになった現場に様子を伺いに戻って来たりしたら危険な事になる。 厄介な事になった。ぶるりと肩を震わせて見上げた空は、ぶ厚く黒い雲に阻まれて星も月も光明さえも伺えない。 ──真っ暗だ。 街灯の光さえも届かない薄暗い路地裏。遠い町灯りを受けて雲は仄かに明るいが、こんな狭く暗く凝った隘路にまでその僅かな光を行き届かせるには至らない。 光も無く人も無く、最早誰にも省みられる事の無くなった死体たちを見回して、土方は強く握り直した刀の切っ先を地面に当てた。立ち上がれるだろうか。無理ならばこの死体たちの仲間入りをするのもそう遠くは無い事になるだけだが。 考えながら視線を落とした先。流れる血に濡れた地面に、ぽつりと滴が落ちた事に不意に気付いた。まるく不定形に浸みる黒い色。そうする間にもそんな滴の数は増え、湿ったぬるい足下を忽ちに侵食していく。 (ああ、道理で冷えると思ったら、) 雨が、降り始めていた。 暗く湿って血腥い所に降る雨は、顔に当たっていっそ清々しい。寒いと言うのは余り宜しく無い状況だが、意識が冴え冴えとするのであれば有り難いとも思えて来る。 薄く笑って、土方は首からスカーフを抜くと、力の入らない手で苦労しながら足の傷口を押さえる様にそれを巻き付けた。白いスカーフは忽ちにどす黒く湿って重みを増して行く。今更だが少しはマシになるかも知れない。主に気分が。 ばたばたと足音が響いて来る。それが残念ながら真選組のブーツに因る音では無いと気付くが、土方は薄くはいた笑みを消しはしなかった。状況は限りなくも絶望に近いが、別に恐くは無かった。 ただ、惜しいとは思った。 道の先に複数の男達の姿が目に入る。想像した通り真選組の者らではない彼らの中には、先頃逃げ出したと思しき連中が混じっていた。矢張り仲間を呼んで来たのだろう。一人の人間を相手に全くご苦労な事だと皮肉な感心さえ憶える。 「こっちだ!手負いだぞ!」 呼び掛け合う声。出来たばかりの水溜まりを散らす足音。彼らは地面に膝を付いて動かない土方の周囲を少し遠巻きに取り囲んだ。殆どの者は得物さえ抜いていない。手負いと言う言葉通りに、後は首級を獲ってそれでお仕舞いの簡単な作業だとでも思っているのかも知れない。 (馬鹿共が。手負いの獣がどれだけ厄介か思い知れ) く、と喉が鳴った。土方は己の口端が凶悪に吊り上がるのを実感する。可笑しくて堪らなかった。大勢でかからなければ獣の首ひとつまともに獲る事の出来ない者らが。そして手負いにして猶獣を畏れる臆病さが。そんな連中に絶体絶命の危機に追い遣られている、愚かで、弱かった己が。 やがて、囲みから一人の男が刀を抜きながら悠然と近付いて来る。彼は土方の目前で足を止めると周囲の、仲間だったものたちの亡骸を見回し、憤怒とも憎悪とも畏れともつかぬ表情を寸時浮かべた。それから足下に膝を付いて動かぬ獲物を見下ろし、手にした刀を上段にゆるりと構える。 次に男の顔に浮かんだ表情は、嘲笑や歓喜や興奮だった。勝利を確信した者の、優越に彩られた余裕の笑みをそっと見上げて、土方は犬歯を剥き出し嗤う。 「真選組副長、土方十四郎!その首我らが、」 確信した余裕が生んだ、それは愚かな隙であった。唱える口上を無視して土方は脱力しきっていた様に見えていた手を、その指で握る刀を一閃させた。突き刺す。 「、」 声とも音ともつかぬ鈍い音を立てる男の喉から、突き立てた刀を引き抜いた。飛沫く血に目を眇めて、土方は──手負いの獣はただ静かに嗤う。生きる事しか見据えず、ただ密かに願う。 こんな所で時間を食っている場合では無いのだ。 今日は約束があって、それが終わればまたいつも通りの一日に戻って、机の上を埋めている仕事を片付けて……、ああそうだ、近藤さんに報告する事があったし、総悟に注意しとかなきゃならねェ事もあった。新人が最近弛んでるから稽古の時間にも顔出ししとこうと思ってたし、シフトの調整もそろそろやらなきゃならねェ頃だったし…、 思い出して連ねればきりなんて無い程に、真選組副長の日常はどうしたって忙しい。重要な事から下らない事までこなす時間は有限で、銀時にはきっと随分と酷い事をして来たのだろうと土方は己でも思う。この身であの男に割いてやれたものは、思い出せるよりも多分に少ない。 それでもその時間は土方にとって安らぎや幸福ささえ感じるものだったのだ。そしてそれは恐らく銀時にとっても。 だから、約束は叶えたい。いつもだってそう思ってきたけど。叶わない事も多かったけれど。それでも。 「退け、三下共」 嗤った侭そう吐き捨てる様に命じながら、土方は路地のずっと先を見つめた。囲む人垣の向こう、町の灯りの遠い道、然しその向かう先に目的地はある。いつも通りの、約束した場所へと続く道がある。 時間はもう約束の刻限を既に回っているだろう。だが、きっとあの男は待っている。待っていてくれている筈だ。 だから、向かう。帰る為に。辿り着く為にも。今日もまた会う為にも。 断末魔を血泡の中に吸い込ませた男が仰向けに倒れるのを目の当たりにして、残った連中が慌てて刀を各々抜き出した。彼らはあと少しでくたばる筈の獣を伺い威嚇する様に、表情を憤怒と恐怖とに歪めてじりじりとその距離を縮め迫って来る。 獲物が生きている内に、悲鳴や命乞いでも聞きながら首を落としたければ向かうしか無い。手負いなのだからそれは容易い作業に見えた筈だ。然し彼らは鬼の様相と、目前に新たに作られた死体を畏れ動くのを躊躇う。 遠くでサイレンの音が響き、男らの間に狼狽の気配が交じり始める。その音が目の前の真選組副長と無関係の筈は無い。時間切れの前に、何が何でも追い詰めた獲物を仕留めるべきなのは誰が見ても間違いなかった。 「くそ、怯むな!」 自らを叱咤する様に叫んだ男が一人斬りかかってくるのを、土方はその足下を斬り付ける事で払う。同時に背後から斬りかかって来るもう一人は一顧だにせず返す刀で払い、別の方角から来た刺突は身を捻って何とか致命部位から躱すが、避けきれずに脇腹に突き刺さった。手応えに笑う男の首をすかさず脇にその侭挟んで体重を掛けて倒れ込む事で首の骨をへし折る。 体が少しでも動く限りは、刃が届く限りは、簡単に諦めてたまるものか。 だって惜しいのだ。命が。 散々人の命を奪っておいて言えた台詞では無いかも知れないが、惜しい。誰かの為に在るこの命が、自分が諦めた瞬間に損なわれる事が、惜しくて、悔しい。 だから土方に諦める気は無かった。諦めたくは無かった。 今日は約束があったのだ。だから。否、そうでなくとも。 立てるか、と踏み出した侭に一人を斬った。 傷を負った足が力を失い崩れ落ちる。意思と異なり肉体とは脆いものだと他人事の様に思う。 刃が迫るのが見えた。 足が動かない。避けるのは難しい。一本は払える。もう一本は刀の無い手で受ける。もう一本はどこで受けようか。体の何処か、未だ致命にならない部位ならどこでも構うまい。 生きていれば。 生きて、あの男の元に辿り着くまでは。 だって、約束が。他愛もない、いつもの約束が、 。 ← : → |