リナリア / 3



 もーいいかーい。
 耳に届く子供の甲高い声に、思わず顔を振り向かせる。見れば、広めの路地の隅っこで、子供が一人両手で目を覆って座り込んでいるのが目に入る。
 まぁだだよー。
 返る同じ様な甲高い声たちは、多方面から反響して響いて来る。こんな路地では大人の身は隠せそうもないが、小さな子供ぐらいならば何処にでも隠れられそうだ。家の隙間、大八車の影、木箱の中…、一人一人を捜すのはなかなかに骨が折れそうだ。
 もぉいいかーい?
 目隠しをする子供は隠れんぼの鬼である事が不本意なのか、続けて焦れた声を上げる。その声が反響しやがて消えると、それを「もういいよ」の合図と判じたのか、鬼はぱっと両手を顔から引き剥がすと立ち上がった。きょろきょろと辺りを注意深く窺いながら歩き出す。
 鬼と言うのはどうしてこう損な役回りばかりさせられるものなのだろうか。空き缶を死守したり、逃げる相手を追い掛けたり、隠れた相手を捜し出したり。子供の頃から『鬼』とは何かと苦労させられるものなのだと言う決まりらしい。
 そんな小さな鬼の狩りの行方を追わぬ侭、銀時は前方へと顔を戻した。道端に立ち止まって仕舞っていた事に若干の気まずさに似たものを感じながら、後頭部を掻きつつ再び雑踏の中へと足を進めて行く。
 そうしながら行き交う人波を目で順繰りに追って行く。黒い服、銀縁の入った黒い隊服、黒い髪、警察の恰好をした物騒な面の口元から漂う紫煙。どれか一つでも目に入っては来ないものかと。
 気付けばそんな行動が癖になって仕舞っている。いい加減諦めが悪い、とぼやきつつもそんな行動を已める事が出来ないのは、一言で言えば煮え切らずすっきりしないからだ。
 会う事は疎か、全くその姿を見る事も、声を聞く事も、何一つが叶わない。それが、感情の齟齬よりも、もっと──有り得ないとすら思える様な奇妙な予感、或いは錯覚がその衝動を以て銀時を突き動かしていた。
 まるで、土方だけが自分の世界から消えて仕舞ったかの様だ──、と。
 初めから、銀時の記憶にしかそんな男は居なかったのだとでも嘲笑うかの様に。誰もが記憶にあると語る土方十四郎と言う人物は、銀時の記憶に住むその男とはいっそ異なる存在なのだとでも言う様に。
 そんな馬鹿な、と思っては打ち消せず困惑する。こんな荒唐無稽な考え、浮かんだ当初はそれこそ「そんな馬鹿な」の一言で容易く否定出来た筈だったと言うのに、こうも銀時だけが土方に会う事も見る事も叶わぬ日々が続けば、段々と自分の方が何か思い違えでもしていたのではないかと疑いたくもなる。
 だからこそ、あれが事実だった確証を得たいと思って道行く黒い人影を無意識に探し求めて仕舞うのだ。あの記憶全てが己の妄想ないし幻想だったとは思えない。だが、それでもせめて、銀時の記憶の裡以外には痕跡ひとつ残さず消え続けている『それ』の正体を突き止めてやりたいとは思う。
 多分最後だろう、会った日はいつも通り──そう、いつも通り普通に隣り合って酒を飲んでいた。筈だ。酔いも程良く回って、ふと気付いたら隣の椅子は空いていた。そこには誰も居なかった。
 それ以来、姿さえ見かけていない。
 仮に、土方が全力で銀時に遭遇しない様尽力していたとすれば、その異常はいつか何処かに表れるだろうし、誰かしらが妙に思うだろう。それまでの銀時と土方との遭遇率とトラブル件数を考えればそれは当然だ。それこそ沖田辺りが真っ先に気付いて、銀時を避けようとする土方の行動を妨害してくれているに違いない。
 会わなくなって、見当たらなくなって、もう一週間以上は経過している。その間ずっと銀時ひとりを避け続け、あまつさえそれを誰にも悟られずに居る事など、不可能だ。土方と言う男が銀時から逃げ隠れをしていると言う想像以上に有り得ない。
 (……どうかしてんな)
 吹いても散らない溜息を飲み込んで、銀時は人の往来の多い表通りから一本裏道へと入り込んだ。昔ながらの旧い街並みの残る街区は、あちらこちらに人間の一人ぐらい隠せそうなビルの谷間など拵えてはいないから見通しも良いし、一本通りを隔てるだけで人通りも途端に少なくなる。どんなに擦れ違う人の一人一人を具に見て歩いたところで、訪ね人がそこには居ない事は容易に知れて仕舞う。
 姿を見せなくて、見当たらなくて、でも会いたいと思うから捜す。それ自体は酷く普通の流れなのだとは思う。だが、街を歩いては人の姿を辿って歩く程にその行為に執着して仕舞っているのは何故なのか。
 すっきりしないから。
 一秒と置かず出た結論に、然し銀時は密かにかぶりを振る。避けられているとしても、妄想上の関係の人物であったとしても、どう考えても気にし続けている方が馬鹿だと思う。毎晩変わらず飲み屋に通っては一人酒を碌に味わわず流し込むだけ流し込んで帰る。どうしようもない、馬鹿だと思う。
 新八にも神楽にも、ここ最近の銀時の鬱屈は(原因までは解らないにしても)知られているらしく、妙に気を遣われたり妙に優しくされたりしているぐらいだ。彼らにはそれだけ銀時の様子が落ち込んででも見えているのだろう。
 今日も沢山居る飼い犬の散歩の依頼を受けているが、数が少ないから自分たちだけで大丈夫だと言う新八の言葉に甘える形になって、銀時はこうして当て所なく街を彷徨い歩いていると言う訳だ。
 (ガキ共にまで心配させて、何やってんだろうな、俺ァ)
 銀時が、真っ当な依頼(仕事)の無い時は大概不真面目にぶらぶらとしている事だけならばいつもの事と言えたが、仕事にまで身が入らないとまで見抜かれていたのだとすれば少々ばつが悪い。
 (いい加減、諦めるか見つけるかしねェと)
 セックスフレンドの相手を、自分がすっきりしないからと言うだけで何日も追いかけ回して。これではまるでストーカーだ。否、追い掛ける筈の相手の姿がそもそも見当たらないのだからストーカーとは言えないのかも知れないが。
 それでも、客観的にそんな己を表すればストーカーと、そう呼べなくもないかも知れない。そんな結論に銀時が淡く皮肉を笑みにして浮かべたその時、前方の電柱の影に黒い背中が目に入った。
 「、」
 寸時どきりと心臓が跳ねるが、こちらに背を向ける形で電柱にまるでしがみついている様な姿勢となったその黒服は、デザインこそ確かに探し求めていた黒服と同じものであったが、銀時の探し求める人物よりかなり大柄な体躯と、その体の大きさに違えぬ厳ついゴリラに似た面相をしていた。
 ストーカーだのと噂をすればこれだ。苦虫を噛み損ね、落胆とも安堵ともつかぬ苦笑を形作った表情筋をその侭に、銀時は電柱の影に大きなその体躯を無理矢理縮めて収めている男の背後にそっと近付いた。
 言うまでもなくこれは土方ではなく、その上司であり親友である近藤だ。その近藤の視線を背後から追えば、そこには見覚えのある女が、これもまた見覚えのある男装の女と共に歩いている背中が目に入った。
 ははぁ、と見え透いた納得に頷くと、銀時は電柱の影から熱心に二人組の女を見つめている近藤へ向けてぼそりと呟いた。
 「お巡りさーん、ここにストーカーが居ますよー」
 「ストーカーじゃないぞ人聞きの悪い。これは見廻り。お巡りさん今、見廻り中だから」
 同じ様な低い声音でぼそぼそとそう返してから、近藤はそのゴリラに似た風貌をくるりと背後の銀時の方へと振り向かせた。
 「なんだ万事屋か、驚かせないでくれ」
 「いやその台詞そっくりその侭、あそこを歩いてるお妙と九兵衛のものだからね?」
 「何を言う、俺がお妙さんを驚かせなどする筈が無いだろう!俺は飽く迄遠くからお妙さんを見つめ…もとい警護しているだけだ!」
 じっとりとした声音を作る銀時の冷ややかな言い種に、然し近藤は妙にきっぱりと自信たっぷりな風情で言い放った。正論ではなくストーカー論でしか無いその言い分に対するツッコミも反論も幾つか瞬時に浮かぶが、銀時は何とかそれを言葉にせず脳内に留める。今の己の精神状態では八つ当たりめいた事しか言えまい。
 己の鬱屈を他人で晴らす程に性根は腐っていないつもりだ。銀時は念の為に三度胸中でそう唱えた。目の前で大真面目な顔で堂々と持論を述べる近藤の姿は妙に晴れ晴れと堂々としていて、思わず四度目を唱えたくなってそこで堪えた。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 浮かぶ嫌味の数々を何とか呑み込んだ銀時は、近藤の体越しにちらと道の先を見遣ってみた。果たしてストーカーの存在に気付いていたのかいなかったのか、お妙と九兵衛の姿はもう辺りには見当たらなくなっている。
 振り向いた近藤は落胆するのか、それとも変わらず捜索と追跡とを続けるのだろうか。ストーカー論を堂々と大義名分にそれを日々行う彼の精神は余りにタフで且つ斜め上過ぎて、銀時の理解を疾うに超えて仕舞っている。
 「ストーカーも良いけど、程々にしねーと周りが大変なんじゃねェの?」
 そう、皮肉や嫌味を何とかすり替えて出した言葉には含みがあった。尤も、人が好く真正直な近藤には銀時の含みなど聞き取れなかったのか、「そんな事はないぞ」とかぶりを振った。やはりいっそ嫌味なぐらい自信たっぷりである。
 仕方がないので銀時はもう半歩は踏み込んでみる事にした。少々不自然にな会話の流れにはなって仕舞うだろうが、聡い沖田ならば兎も角、近藤なら恐らく意にも介さない。そんな想像にも後押しされた。何しろ、偶然のこの遭遇の機は、捜し歩く対象に近付く何かの手がかりにはなる筈なのだから。
 「お宅の副長さんとか?ただでさえいつも忙しそうにしてんだし、あんま苦労させると過労死すんじゃねェの?」
 「トシなぁ。うぅむ、確かにトシは働き過ぎなきらいはあるが、息抜きも結構上手いんだぞ?」
 「例えばどんな?」
 見事に話に乗って来た近藤の言葉に、咄嗟に食いついてから仕舞ったと思う。余りに早すぎる。不自然を通り越した反応速度だったかも知れない。
 だが、矢張り近藤は銀時の食いつきに気後れする様な事もなく、はは、と口を大きく開いて笑ってみせた。まるで親兄弟の自慢でもする様な、楽しげで頼もしげな表情だ。何だか腹立たしくなるが、黙って続きを促す。
 「アイツは昔っから、稽古で身体動かす事が好きでなあ。意外と体育会系と言うか…、そうそう、最近もやたらと張り切ってて、あんまり稽古に熱が入ってるもんで隊内がしゃっきりしちまったぐらいだ」
 「じゃ、過労死どころか絶好調って事?最近なんかあんま見ねェから、てっきりおっ死んじまったかと思ってたよ」
 「はは、トシに限ってそんな事はないさ。見廻りも内勤もちゃんとしてるし、頗る元気だぞ」
 竹刀を素振りする様な真似をしながら言う、近藤の笑顔からほんの僅か目を逸らして、銀時は「ふーん」と殊更気のない態度で返事を濁した。その、余り良いとは言えない反応に近藤は、自分で訊いておいて、と怒る様子を見せる事もなく、その侭笑い混じりに世間話めいた事をあれこれと投げて来る。
 最早それらの話題に意味を見出す事も出来ず、銀時が頷くのと殆ど変わらない適当な相槌を打っていると、やがて近藤はストーキング対象を見失った事に気付いたのか、口早に暇を告げると瞬く間にその場を走り去って仕舞った。あの執念でまた、江戸の何処かへと消えたお妙をすぐに捜し出すのだろう。
 賑やかな声が慌ただしく途絶えた路地の片隅で、銀時は真横にあった電柱にごつりと肩からぶつかって顔を俯かせた。足下が砕ける様な不快な感覚に憶えたのは、眩暈のしそうな失意。わかっていた、と言う言葉が妙に空々しく胸を叩く。
 (……やっぱ、俺だけか)
 日々諦め悪く飲み屋で空いた隣席を埋める者を待って、雑踏の中に姿を捜して、抱えた鬱屈を余り器用とは言えない問いに代えて。
 そうして捜していた相手は、矢張り全く変わらぬ日々を過ごしているらしい。
 息抜き、と言う言葉に、誰かとよく呑みに行ってたとか、朝帰りをしていたとか、恋人の様なものが出来たのかも知れないとか。そんな土方の記憶の痕跡を手繰れないかと寄せた僅かの期待に返ったのは、銀時が『それまで』知っていた土方と言う人間の行動でしかなかった。
 まるで無かった様に。まるで居なかった様に。
 あの記憶が、あの関係性が、いつまでも裡に残り続けては苦しいと苛む、銀時の憶えにしか確認出来ない『あれ』は、少なくとも真選組副長である土方には、なにひとつ残っていないか、存在していなかったかの、どちらかでしか無かったのだ。
 彼を日頃近くで見ている筈の近藤から見て、その様子や態度に何の異常や変化も感じないほどに。
 (気にしていたのは、俺だけ、か)
 言葉にならぬ鬱屈、すっきりと昇華しない感情、面白くないと感じる空隙、持て余した不快感。それらを抱えては日々捜して待ってを続けていたのは、銀時の方だけで。
 あれが妄想でも事実でも、それを手放せずに留まり続けていたのは、初めから銀時だけしか居なかったと言う事だ。何処かで想像していた通りなのだが、実際に第三者からそれを聞かされると言うのは、正直堪えた。
 この遭遇の無さが、ただの偶然続きであるだけなのか、土方自身がどうにか手段を巡らせ避けているだけなのか。どちらであったとしても、変わらない。
 否、矢張り想像した通り、土方が銀時を避けていると言うよりも、銀時がただ一人必死になって空回りし探し回って居ただけだ、と言う方が正しいのかも知れない。だからこれは拒絶でも何でもなく、ただの、他人同士と言う関係性の正しい有り様。
 土方が全く気にせず、今まで通りに過ごして居ると言うのならば。銀時ひとりと会わぬ日々が続いた所で、彼の周囲に何の変化も無いと言うのならば。
 (面白くねェ訳だよ)
 捜していたのも、待っていたのも、会いたかったのも、何か一言言ってやりたかったのも、銀時の方だけだったと言う事だ。
 大事なものは失ってから気付く、とか。大事な事は見えなくなってから解る、とか。よくある言い回しだが、これ程までに相応しい言葉は無いのではないだろうか。
 (あの、セフレ未満の関係を俺は思いの外気に入ってたらしいってのに、野郎にとっちゃそんなのは手前ェの日常生活以下の気紛れだったってこった)
 ここ連日の鬱屈も苛立ちも、銀時の完璧な独り相撲。ある意味では確かに、あの関係性から逃げ回る土方、と言う想像は正しく銀時の妄想でしかなかったと言う事になるが。
 それでも、だなんてもう言える筈も無い。近藤も新八も証言する通り、土方が常日頃と全く変わらぬ生活を今も猶送っているのならば、会った所で一体何を言えると言うのか。
 気にしていたのも引き擦っていたのも捜していたのも焦がれていたのも、自分だけ。ならば、何を口にした所でみっともない未練か無様な執着の自覚を顕わにするだけだ。
 そしてそんな元セフレの銀時に対して土方は果たして何と答えるのだろうか。
 あんな遊びの関係に拘るなと冷たく言い切られるか、口止め料を兼ねた手切れ金でも投げつけられるか、そんな記憶は無いと断られるか──何れであっても、それが銀時がこうして延々土方を捜し続けてまで望んだ答えでは無い事は確かだ。
 「……良い歳こいて、馬鹿かってんだよ」
 拗れた想いの糸は、手繰っても手繰っても何処にも届かず己の足下に絡みつくばかりだ。銀時は浮かんだ自嘲に促される様に空を仰ぐと、恨みがましさのこびりついているだろう視線を奈辺へと逃がす。
 雑踏や飲み屋の入り口、何処かを見つめては捜して居た気になっていたが、見つからない人と見える筈の無い身勝手な想いなど、端から何処にも無かったと言う事だ。
 隠れん坊か鬼ごっこか。追い掛けたり捜したり、鬼の役なんていつだって損なものだった。ただ、それだけの事。







  :