リナリア / 4



 落ち込んでいようが憂鬱だろうが腹は減る。食べ物が喉を通らない程に滅入るなんて事はそうそう起こり得ないと言う、出来れば実証されなくても良かった情報を脳の片隅に記すと、銀時は机の上で組んでいた足を組み替え天井を仰いだ。
 溜息を吐けばまるで応える様に腹が音を立てる。横目で見遣った時計の示す時刻はそろそろ夕刻に差し掛かる頃だ。腹が減ってくる時刻としてはそう間違ってはいないのだが、カロリー消費が碌に無くとも、時間が来ればきっちり減る腹の勤勉さには呆れるし腹も立つ。
 車ならば走らなければガソリンを消費する事は無いが、人間は動かなくとも腹を空かせるのだ。呼吸も水分補給も食物摂取も、肉体を維持する本能が勝手に欲する。それこそ、落ち込んでいようが憂鬱だろうがそれは変わらない。
 今日は新八がお通のコンサートで出掛けている為、万事屋の営業は午前中で終いにした。尤も、午後どころか午前中でさえ依頼は一つも飛び込んで来なかった訳だが。
 午後は休みだと決まってから、神楽はいそいそと定春を連れて遊びに出掛けて仕舞った。今日は薄曇りなので傘も常時と言う程に必要無く、夜兎にとっては絶好の遊び日和なのだそうだ。
 鳴らない電話も呼び鈴も、そうしてひとりきりで退屈を持て余している銀時を煩わせる事は無かったが、空腹と言う生理的な反応だけはそうもいかないと言う訳だ。
 冷蔵庫の中身を手繰りかけた記憶は僅か三秒で放棄して、銀時は椅子に益々深く背を預けた。ぎしりと軋む音が薄暗い夕暮れの居間の中に虚しく響く。面倒臭い、と言う感情に対する様なその相槌に一人頷くと、空腹を訴え抗議の音を立てる腹を軽くさする。
 階下のスナックに適当に何かを無心しに行くべきか。否、そろそろ営業開始の時刻だから、呆れられたり心配されたり馬鹿にされたりと面倒な事になりかねない。
 かと言って、飲み屋に足を運ぶには少々気が重い。訪れる事の無い待ち人を待ち呆けるのを肴にするのには、正直もう疲れている。疲れているのだと、己で認識している事そのものに、疲労している。
 (どんだけ傷心に浸った所で腹は減る、か。どうしたもんかね)
 酒を諦め、次には脳裏に幾つか食事処を浮かべてみるが、特に何が食べたいと言う願望は涌かず、減るばかりの腹はその空白を持て余して困り果てている。
 やはり適当に冷蔵庫を覗くか。何かしらインスタントの食料があった様な記憶もある。億劫ではあるが気ぐらいは紛れるかも知れない。
 消極的な結論に口端を歪めながら、銀時は勢いを付けて椅子から背を浮かせた。机に乗せていた足を下ろして立ち上がると、湿気の少ない板張りの床をぺたぺたと歩いて廊下へと出て行く。
 「………」
 台所へ入りかけた所で、然し銀時はふと立ち止まった。何かにまるで促される様にして首が自然と玄関を向く。
 薄曇りの下の夕暮れ。仄かに橙の光源を纏った外の色彩が、曇り硝子越しに三和土を照らしている。玄関には銀時のブーツと突っかけのサンダルが一つづつ。他には何も無い。ただそれだけの、いつも目にする風景だ。
 「………」
 だが、銀時の足は自然と玄関へ向いていた。その侭流れる様に裸足の足裏が三和土へ降りて、手はからからと音を立てて施錠されていない玄関戸を開いている。
 玄関から首を出して左右を見回すが、階下の通りを行く雑踏以外には誰の姿もそこには無い。階段を昇る、家賃の取り立ての足音も、依頼人や来客の姿も、そこには確かに無い。
 「……………」
 それでも銀時は何かの違和感をそこに感じていた。誰もいない家の中と、己の履き物しかない三和土とをじっと見つめて眉を寄せる。
 気配。或いは気の所為。そうとしか言い様の無い、奇妙な感覚が背筋を撫でている。誰の姿も、存在も、そこには確かに見当たらない、存在していないと言うのに。
 仮に、気配を消して隠れている様な何者かが居れば、それを気取れぬ程に勘は鈍っていない自信ぐらいは銀時にはある。もしも不審者(そいつ)が姿を消す様なステルス装置などを用いていたとしても、それを見破れる自信だって同じ様にある。
 「……、」
 眼球と首とが忙しなく辺りを見回す。確かにそこには、銀時の鍛えられた鋭敏な感覚に『解る』様な者は何もいない。だが、勘か、それとも気の所為かが、銀時の脳を揺さぶっている。
 なにかが、居る。
 勘が囁いたのはそんな予感にも似た結論だった。確かに何も無いし何も見えないし誰も居ない。だが、それでも。
 見えない誰か。消えた誰か。幽霊。妄想。思い違え。
 その『何か』に向けて、銀時は乾ききった唇を恐る恐る開いた。自然と、本能の様なものがそう訴える侭に、呼ぶ。
 「……土方……?」
 それは余りに荒唐無稽で、余りに馬鹿馬鹿しい間抜けな光景。
 誰も居ない玄関先。誰も居ない家の中。空々しく響いた声は然し、恐らく、『それ』に届いた。
 その証拠にか、ふつりと、まるで糸が途切れる様な感覚がしたかと思えば、玄関に居た何かの気配──或いはそんな気のするもの──は忽ちに消え失せて仕舞う。
 気の所為だったと言えば恐らくその通りの。黄昏時のそれは恐らく、銀時の都合の良い妄想だったのだろうと、理性的な思考がその訴えるのを無視して、銀時は衝動に背を押される侭に、途絶えた『それ』を追う様に玄関を飛び出し階段を駆け下りていた。
 「………っ」
 階下のスナックの入り口の前まで走って、そこで辺りを今一度見回す。
 だが、当たり前だがそこには何の姿もない。逃げていく背中も無い。捜していた人も居ない。
 裸足の足を見下ろして、銀時は片手で頭を抱えた。遂に参って妄想まで本当に見る様になって仕舞ったのだろうかと己を罵倒する声に重なる様に、そんな馬鹿な、と冷静に問いかける声がある。見えもしないものと隠れんぼや鬼ごっこに興じるなんて、どう考えた所で普通ではないのに。有り得ない筈なのに。
 結論を惑いに持て余した侭、銀時はふらふらとした足取りで階段を昇り、開け放しの侭の玄関へと戻った。誰の気配も痕跡も確かに無い、見慣れた筈の我が家への入り口を見つめる。
 その頃には、これは理屈ではないのかも知れないと思い始めていた。
 妄想か気の所為か幽霊か思い違えか願望か。何れであっても、何れ以外であっても、ここには確かになにかが居たのだ。
 (いや、何か、じゃねェ。…だから、呼んだんだ)
 己の引き開いた戸をゆっくりと閉めながら、銀時は奇妙な確信を抱いていた。
 この場にはついさっきまで『何か』が──、土方が居たのだ、と。





切れ目が悪かったんで…。

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