リナリア / 5 書き直せ、と投げる様に突っ返した紙は畳の上に落ちて、縁側からの風に煽られひらりと舞った。慌てた「わ、」と言う一音と共に膝を立てる地味顔の部下の指先を掠めて、悪戯な風は白い紙片を弄びながら縁側から中庭へと無情にも押し流して行く。 然し、その紙が中庭へ落ちてそれから池の中や茂みの何処かへと行方を眩まして仕舞う事は無かった。まるで狙っていた様なタイミングで通りがかった黒服の体に、白い紙はぐにゃりとまとわりついて、そこで大人しく動きを止める。 「沖田隊長〜!」 地味な面相に安堵の表情を浮かべた山崎は、紙を──一応は門外不出の重要書類だ──期せずその身で受け止めてくれた形になった、通りすがりの沖田総悟の名を大袈裟に呼ぶと胸を撫で下ろした。 自らの腰辺りにくっついて、それから重力を思い出した様にひらりと剥がれ落ちようとする書類を、沖田は床に落ちる前に軽い手つきで捕まえた。恐らくは、ありがとうございます、と言わんばかりの表情で己に向かって来る山崎の姿と、部屋の中で仏頂面を形作りながら机に向かっている土方とを軽く一瞥すると、手にした書類へと投げ遣りな視線を落とす。 「なんでィ、いつも通りの報告書じゃねェか」 「わーッ!」 硬貨を拾ったと思ったら玩具のお金だった時の子供の落胆顔。沖田の表情をそう土方が胸中で表した時、正にその通りにあっさりと興味を失った風情で彼は掌を開き、再びひらりと舞う書類を山崎はダイビングキャッチして中庭へと転げ落ちていく。 あのドSの前であんな感謝全開の態度など見せたらそうなるに決まっているのに、と、土方は中庭に転落した山崎の恨みがましい呻き声を聞きながら、前髪を片手でぐしゃりと潰して嘆息した。 「書き直させる程の価値なんて無いでしょうが、あんなの。どうせ上の連中は読みもしねェって、いつも言ってんのは土方さんだった気すんですがねィ」 書き直せ、と山崎に命じた段までは少なくとも聞いていたからこその、タイミングの良い『通りすがり』だったらしい。それでいて少し前からの立ち聞きを隠しもせずに肯定する。こう言う時の沖田は大概、土方に対して何か釘か毒針かを刺そうとしているのだと、長い付き合いの経験則が警鐘を鳴らしている。 それが致命かどうかは解らないが、望んで応じたいものではない。辛うじて舌打ちを堪え、土方は手にしたペン先越しに書類を見つめながら、ふんと息を吐いた。 「今回の報告は内部監査の重要性を訴えるもんだ。上がってる成果は既に知れてる上、疑心暗鬼に駆られてる一部のお偉いさん方にゃ捨て置けねェ内容にもなりかねねェ。上手い事押し通すにはそれなりの説得力が客観的に知れる形で必要なんだよ」 どうせ関心など無い癖に、と思いながらも淀みなく、土方は沖田の嫌味に対して、『解り易い』解答を投げた。取り敢えず理屈が通れば良いのだ。形式上の書類も、土方の隙を伺う沖田にも。 何の興味や諧謔を見出しているのかは知らないが、無駄に構われるのは本意では無い。そんな胸中を隠さず表す端的且つ簡潔な土方の答えに、沖田は何ら意に介した様子もなく、その場に立ち止まった侭の姿勢でやれやれと肩を大袈裟に竦めてみせた。 「相変わらず不機嫌全開ですねィ。調子でも悪ィんで?」 「生憎いつもより元気だよ。悪かったな」 投げ遣りに返しながら、手の中でくるりとペンを回して土方は懐の煙草を探った。灰皿の中には吸いさしのものが幾つか入っているが、灰の中から拾い出す気はしない。 「まァ、確かに三度は殺したくなるぐれェ調子は良いみてーですけど、それで迷惑被るのはこっちなもんで。勘弁願いてェなと一言伝えとこうかと」 「調子が良いと殺したくなるのかてめーは。物騒極まりねェわ。そっちのが余程迷惑だわ」 「実行に移さねェだけ誉めて貰いてェもんですがね。……何でィ、やっぱ手前ェじゃ気付いてねェ様で」 火を点けた煙草から最初に一息を吸った所で、土方は今度こそ舌打ちをした。聞き捨てならない言葉を、何がなんでも無視させないつもりで居るらしい沖田の顔を座った侭見上げてみれば、彼は意図してか偶然か、縁側から這い上がって来た山崎の方へと視線を移した所だった。自然と土方の視線もそれを追って、山崎の地味顔へと向かう。 「ザキ、てめーもこの際だからきっぱりはっきり言ってやりゃ良いんでィ。手前ェの不機嫌をパワハラにして八つ当たりするな、って」 「え」 縁側に上って来たばかりの山崎は、何とかキャッチする事に成功したらしい件の『書き直し』を命じた書類を抱えた姿で、俺ひょっとして不味い場面で戻って来ちゃった?と自分自身に問う様な、引きつった表情を形作った。その視線の先に居る己は果たしてどんな表情を浮かべているのだろうかと、土方は諦め混じりに考えながら煙草と一緒に歯をぎしりと噛み合わせていた。 「えー…、ええぇ…?…ま、まあ、確かにちょっと厳しい所はあるかなーとは思いますけど、いつもの副長と大差無いって言うかその…、」 控えめに言った所で怒っている様にしか見えないだろう、唇を思いきり歪めた土方に、山崎は身を竦めながらも、沖田のはた迷惑な指摘を一応は肯定する。 どうやら取り繕う気が無い程度にはその指摘は正しいと言う事らしい。土方は益々渋面になる己を自覚しつつも、言葉通り鬼の首を取った様にじっとりとした眼でこちらを振り返る沖田の姿を睨んだ。 「ホラ見ろィ。部下にパワハラする程調子悪ィんでしょうが。観念して誠心誠意謝んなら許してやらんでも無ェって山崎も言ってまさァ」 「いや言ってないですから!そこまでは言ってないですから!」 「半端に認めてんのが余計腹立つんだよ」 嘆息混じりに煙草を吹き出すと、土方は「で?」と沖田に続きを促した。立ち聞きから一連の流れだ、部下の意を以てパワハラだの何だのと言い回してはいるが、要するに抗議したい事があると言う事なのだろう。単なるいつものイヤガラセにしては幾分質の悪いその態度は若干気になる所ではある。 「で?も何も。要するにアンタの不機嫌が迷惑って事でさァ。近藤さんは隊が引き締まったとか喜んじゃいますがねィ、下の者にして見ちゃ、副長の機嫌一つで厳しさの匙加減が変わるのなんざ、迷惑以外の何でも無ェんですよ」 「……」 「ま、余り不満を溜めねェ様にって言う、優しい部下からの忠告ですぜィ」 アンタ昔っから他人の気なんざ構わねェお人だ、と、余計な一言を付け加えて言うと、渋い表情の侭言い返す言葉を碌に探しもせず黙りこくる土方に向けて、更に沖田はもう一歩を踏み込んで来た。 「ひょっとして、万事屋の旦那と喧嘩でもしたんで?」 「アイツと喧嘩なんざしょっちゅうしてんだろうが」 向けられた蜂の鋭い一刺しを、然し土方は余裕の体で躱した。沖田の背後で、どうしたものかと気配を殺している山崎に向けて、行け、と仕草で退出を促しながら卓の上の帳面を捲る。 それは仕事にもう戻りたい、と言うあからさまな表現であったが、案の定か沖田が素直にそれに従う様子は無かった。 「旦那との喧嘩だの言い合いだのって、土方さんにとっちゃストレス発散みてーなもんでしょ。ここの所町で見かけても遭遇しても、互いに無視でもしてるみてェに言葉一つ視線一つ交わしもしねェと来たもんだ。こりゃひょっとして、簡単な喧嘩も出来ねェ様な深刻な意味の喧嘩でもしたのかと思いやしてね」 「それでその分のストレスが俺の仕事ぶりに回ってるって?偶然だろう。そんなんてめぇの気の所為以外の何でも無ェわ。忠告とやらは一応憶えといてやるから、とっとと手前ェの仕事に戻れ」 沖田の眼には探る様な色は伺えなかったが、土方は慎重に、然し素早くそこから逃れた。この話題は御免だと言う態度は余り出ない様に努めたが、果たして沖田はそこに気付いたのか、いないのか。目を僅かに眇めたのみで、自ら振った筈のその話にそれ以上頓着する事は無かった。 するりと視線を逃がすと、縁側を歩いていたのを停止し会話していた事など無かったかの様に、沖田はその侭平時の足取りで歩き出す。 だが、その去り際に余計な棘を刺して行く事は忘れない。 「そう言う言い種も明かに不機嫌全開なんですがねィ。全く、副長ともあろうお方が公私混同たァみっともねェや」 平然と去って行く足音が完全に消えるのを待ってから、土方は再び手を懐へと伸ばした。手元の箱から最後の一本になる煙草を唇で抜き取って、その侭俯く。 (……自覚があるから厄介なんだよ。煩わされてる手前ェを、手前ェ自身で肯定出来てるからこそ、) 無言でぼやきかけた胸中を然し直ぐ様罵倒し、土方は手から落ちるペンの行方を追わずその掌で目元を覆って深々と息を吐いた。口中から出ずに溶けたその味わいは果たして後悔か怒りか。 それを八つ当たりと言わしめている、この様では。どうしようもない事など解りきっている。 (何で、あんな事をしちまったんだかな) 己を探す銀時の目から、逃れたかったのか、それとも再びそこに映り込みたかったのだろうか。 問いに答える様に浮かんだ言葉に、土方は苦しくなって息を継いだ。全ては己の撒いた種だったと言うのに、今更何を出来ると思ったのか。知れると思ったのか。 一体己は何を求めて、あの家の戸の前に再び立って仕舞ったのだろう。 あの男の世界から消える事を選んだ身でありながら、──何故。 。 ← : → |