リナリア / 6



 遡ればそれは二ヶ月ほど前の話になる。
 
 踏み込んだ部屋の中は、ある意味では惨状であった。
 粗末なカーテン状の仕切りで大雑把に隔てられた、箇所箇所に寝台が並べられてその上には鎖に繋がれた男女が眠って、否、伏していた。彼女らの眼には一様に生気は全く無く、不明瞭な呻き声を上げているばかりで、突如として部屋に──『処置室』へと踏み入って来た黒服の集団と言った異様な光景にも何ら明瞭な反応を見せる事も無かった。
 室内は全体的に霞がかった様に煙っていて、甘ったるい薬品臭が充満している。恐らくどこかに質の悪い薬品でも炊いている香炉か何かがあるのだろう。土方は顔を顰めて、首に巻いたスカーフの端を掴んで鼻と口とを覆った。ガスマスクを装着する程に危険なものでは無いだろうが、明らかに真っ当な類の臭いでは無いのは、室内の光景を見れば今更確かめる迄も無い。
 手近なカーテンを除けて寝台の一つに近付く。そこには手術着の様な、紐で横脇を留めただけの衣服を着た女性が横たわっていた。女性は目を開いた侭でぼんやりと天井を見つめているばかりで、土方がその目の前で掌を振っても全く反応を示す様子はない。無視しているのではなく、気付いていないのではなく、まるで『見えて』すらいない様だ。
 「取り敢えず換気しろ。並行して被害者の保護と客の確保と『経営者』の逮捕だ」
 室内に追って入って来る部下たちに指示を飛ばすと、三々五々動き出す彼らの仕事ぶりと酷い有り様の室内とを見回しながら、土方は先頃開いたカーテンを乱暴にレールから外すと、目の前の寝台に横たわる女性の体へとそれを掛けてやった。然し女は──被害者たちは、相変わらず何か明確な意思を持った動きや言葉を見せる事は無かった。
 人身売買を目的とした宇宙の商隊が江戸の何者かと定期的な取引を行っている。そんな情報が入って来たのはそう前の話では無い。滅多にない事ではあるが、滅多にないと思える程に密やかに日々行われているそれは、宇宙では深刻な問題の一つだ。
 江戸に潜む取引先は、大胆にも繁華街の一角に築かれた店であった。地上を見れば一見単なる風俗店の一つにしか見えないそこは、表向きには性行為用の薬物やら道具を販売する店であったが、その地下では地球人や天人を『商品』として密かに扱っていたと言う。
 ここまででも既に胸の悪い話だが、地球の人間の──特に金や身分のある一部の人間がこの店の顧客であった、と言う更に気分の悪くなる様な調査結果までが出て来て仕舞い、早急にそして出来るだけ密やかに施設の壊滅が望まれ、その結果がこの、真選組の強制立ち入り捜査となったのだった。
 一見して概ねいつもの、違法風俗店の強制捜査ぐらいにしか見えないだろう状況の下、踏み込んだ店内、そして地下は酷い有り様であった。密やかに、などとは到底言っていられない、そんな有り様だ。
 事前に顧客連中に『新商品入荷』の嘘情報を流し、まんまと罠に掛かった所で突入した真選組の速やかな制圧に因って、客も商品たちも無事に確保が叶った。
 途中で客の『護衛』たちとは軽く揉めたものの、死者こそ出したが、客たちはその概ねが身柄を押さえられた。この成果だけで真選組としての仕事は成功を見ている。
 家名と金とを嵩に着せた彼らがどの程度の罪の購いを求められるかまでは真選組の仕事ではないが、極刑でも飽き足りない程の醜悪さだと、土方は悪くなった胸の侭にそう思わざるを得なかった。
 『商品』の中でも、売れ残りや余りと言った者らは店の地下にある別室──この処置室に捕らえられ、非合法な薬物実験の被験体や臓器売買の素体としての扱いを受けていたらしい、と言う事実を目の当たりにさせられたのだ。顧客の一人ぐらい、隊士の誰かの手が滑って死ぬ事になっても、容易く見逃せたかも知れない。
 「被害者たちですが、全員薬物漬けにされてますね。宇宙産の非合法のアレやコレをお試しして、商品化したら地上の店で売ったりしてた様です」
 「ンなのは見りゃ大体解る」
 手布で、口元を覆いながらのくぐもった声で山崎が言うのを、土方は苛々と突っぱねながら『処置室』の奥にある小部屋へと入った。どうやらここはそれこそ山崎の言う、質の悪い薬品を保管しておく用途の部屋だったのか、薬品棚の他には注射器などの器具の並んだテーブルがあった。
 土方は手近な薬品棚へと目を向けると、適当な壜を手に取った。小さく細い、親指程度のサイズだ。どこか余所の惑星産のものなのか、全く読めそうもない文字がラベルには書かれている。中は液体らしく、壜を揺らすと透明な水が踊った。
 同じ様に棚をぐるりと見回し、幾つかの壜を手に取って眺めたり確認する様に目を細め、山崎は呻く様に言う。
 「やっぱり見覚えの無い様な薬が多いですね…。被害者から薬抜きをするにしても、出来れば元の薬物が何だったかぐらいは知りたいですけど」
 「これだけの量があんなら、恐らく目録ぐらい作成してある筈だ。全部押収して鑑識に調べさせとけ」
 「そうですね。こりゃ、薬の方の売買ルートも別件で芋蔓式に出て来ちゃいそうですよ」
 「一匹尻尾掴んだら離させんな。こんな胸クソ悪ィ商売、これ以上江戸で──この辺りでやらせんな」
 言って土方は、手にした薬瓶ごと拳を握りしめてそっと視線を巡らせた。隊士たちの手に因っててきぱきと、鎖を解かれ、布や毛布を掛けられ被害者たちが地下から運び出されていく。
 地上は日の当たる街だ。風俗やいかがわしい店が軒を連ねるそこは、かぶき町と呼ばれる江戸随一の繁華街。
 それでも、九割以上の者らはその享楽と金と欲望とに溢れたその町の中でも、法(ルール)に則った商売をしている。それらに紛れて密やかに経営されていたこの店は、随一に質が悪いと言える。
 少し前までの土方であったら、賑わう繁華街全体が犯罪の温床みたいに見えたものだが、今はそれ程でもない。それは、この人間や天人が入り交じった雑多な、かぶき町と言う町に段々と慣れて来て仕舞ったからだろうか。それとも、見慣れた顔たちの暮らす町に居心地の良さにも似たものを見出して仕舞ったからだろうか。
 (野郎の暮らす町だから、とは言いたか無ェが)
 思いついて浮かんだのは大層に苦い笑みを伴う記憶。それを振り切る様に土方が煙草の箱を上着から取りだした時。
 「副長。奥に隠れてた店の人間を発見しました。…あと、ついでに何体か遺体らしきものも」
 処置室の周りを調べていた別働隊の隊士が、無意識に天井の方を向いていた土方にそんな報告を持って駆け寄って来る。
 「解った。直ぐに行く」
 俄に涌く不快感を眼前に用意された『敵』に向ける事にして、土方は隊服の上着のポケットに煙草の箱を突っ込んで歩き出した。
 
 *
 
 山崎が押収した目録を持って現れたのは、胸の悪くなる様なそんな摘発劇の何日か後だった。
 「ご丁寧なこった」
 忙しなく動かしていた筆を置くと、代わりに手渡されたファイルを捲って、土方がすぐに呆れと感心混じりにそうぼやいたのも致し方のない話。分厚く束ねられた紙面には、薬品の壜と中身の写真に加え、薬物の外見的特徴と製造の為の化学式、効能、製造元の惑星名、ついでに投与した対象の観察記録などがびっしりと書き込まれていた。
 「ちょっとした違法薬物のカタログだって、鑑識も苦笑いしてましたよ」
 「つーか、何の目的に使うのかさっぱり解らねェ様な薬(もの)が多くねェか?」
 紙面を斜め読みしながら思わずぼやく。化学式や製造方法などは端からさっぱり解らない部分だが、日本語で書かれている筈の薬効がよく解らない。"性的に興奮すると記憶が無くなる"。二度、三度読む。やはりよく解らない。正確には効能がと言うより意味がだ。薬物なんて何も用途なく作成するものでは普通無い。
 「結構、マズい事に使おうと思えば使える類もあるんですよ。例えば、この…、惚れ薬とか」
 これです、と言って山崎は手を伸ばし、土方の手の中のファイルを幾つか捲った。やがて手を止めた目的のページへと視線を落としてみる。
 (……"特定の色をトリガーにして、薬を投与された者は次に目にした者に惚れる"…?)
 「ね?なんかヤバそうでしょう、そう言うの」
 説明箇所を読みながら徐々に口端を下げた土方の顔を見て、読んだと判断したのか山崎が肩を竦めて言う。
 「いや、普通に訳解んねェんだが。何だその、絵に描いた様な『惚れ薬』は」
 「だからつまり、薬を飲んだ──飲まされた人の脳に直で影響を及ぼしてるって事です。この薬の場合だと、例えば紅い色を見ると同時に脳内物質が予め投与された薬に因って制御され、結果、次に見た人間に自覚無く心奪われて仕舞うって事ですよ。めちゃくちゃヤバいでしょう」
 地味な表情筋を小難しげな形に歪めて、何故か得意げに言う山崎の顔を見返しながら、土方は口元に手をやった。説明と、目の前の紙面の文字とを脳裏で追い掛ける。
 大概の場合『惚れ薬』などと言うものは絵空事である事が多い。精々が性的なものに直結する薬で、まあ要するにムードと状況とに流されて相手に惚れた心地になるとかそう言った類だ。
 だが、山崎の言う説明が事実だとすれば、そんな前提を大きく覆す『惚れ薬』と言う事になる。少なくとも、脳に科学的に影響を及ぼして他者の心や感情を人為的に操る事が可能だとしたら、それはとんでもない話だ。
 考えながら土方はファイルを再び幾枚か捲った。記憶を消す。想う対象を認識出来なくなる。夜出会う人間全てが憎い相手に見える。ありもしない記憶を刷り込む。等々──説明文を拾い読みしていくだけで、適当に書いているとしか思えない様な薬効が次々出て来る。
 「…………ヤバいはヤバいだが、可能なのか?そんな事が」
 一つのページで手を止めて、ファイルを両手でぱたんと強く閉じると土方は卓に肘をついて掌で目元を覆った。乾いた唇を湿らせ、溜息を吐くふりをして深呼吸をひとつ。
 「可能だからこその記録と、あの地下の処置室だった訳でしょう。目録の全てが、どこぞの惑星産の原材料が元になっています。人間や人間型の天人の脳に、脳内物質の変化を伴う様な強い感情を介して、小規模ながら影響を及ぼす事が出来ると言う効能が発見された事で、あの非人道的な研究が始まった様ですね。
 被害者たちも皆一様に、それに載っている薬物やまだ載っていない様な薬物を投与されていましたし。実際彼らには記憶障害や認知機能障害、酷い混乱や恐慌など、多種の症状が確認されています」
 憎たらしいぐらいに順を追った丁寧な肯定。土方は目元を覆った掌の下で視線を、真剣に説明する部下からそっと逃がす。
 「化学合成された麻薬の類とは違うのか?」
 「習慣性は無いですし、必ずしも多幸感を齎したり解放感を与えるとは限らない。そもそもにして脳に意図した影響を出すと言う目的からして全く違うと言えます。あとついでに店の人間たちの証言では、」
 「この国じゃ認可が下りていないだけで、人体に悪影響や害が出るものでは無いから、違法な実験と言う認識は無かった、だったか」
 調書を思い出してうんざりと土方が言うと、山崎は眉間に皺を寄せ頷いた。犯罪者の言い分としては実にありきたりでふてぶてしいと思えるのは共通の認識らしい。
 「被害者たちから真っ当に、薬品を同意なく投与された、と言う証言が聞ければ良いんですが、何しろ脳に直で影響を及ぼす類のものですからね…。証拠として有効と扱われるかは正直、微妙な所です。中には十年ぐらい前までの記憶が丸ごと失われて仕舞っている被害者も居ましたし」
 気鬱さを隠さず両肩を落としてみせる山崎に向け、土方は片手で閉じたファイルを突っ返して言う。
 「泣き言なんざ被害者を思い出したら言えねェだろうが。鑑識にもこの巫山戯たカタログを総当たりさせて、何とか薬物の影響を抜く方法を探させろ」
 「押収した現物も大量にありますしね。頑張らせてみますよ」
 副長の無茶振りはいつもの事だ、と言外にはせずそう言うと、山崎は幾つかの報告書や調査書を置いて部屋を後にしていった。
 「……」
 その足音が遠ざかり、もう誰の気配も辺りから無くなった頃。土方は目元を覆っていた掌の下で目蓋をゆっくりと下ろした。息苦しさと眩暈とが背筋を伝って脳を揺するのを妙にはっきりと感じながらも、その足はそっと立ち上がり長押に掛けられた隊服の上着の前に向かっている。
 意識していた訳ではない。これはただの偶然だ。偶然だった。何か意図していた訳では断じて、無い。
 胸中で幾度もそう繰り返す。それでも、まるでやましい事でもしている時の様に手が震えた。戦慄く指先がポケットの中を探り、そうしてそれを──件の店の摘発の際に煙草と一緒に押し込み、すっかり忘れてその侭になっていた『それ』を己の手が取り出すのを、まるで他人事の様に土方は見る。
 それは小さな親指ほどの大きさをした小瓶。全く読めぬ言語のラベルの貼られたその色も、壜の外見も、先程目録の中に見たものとまるで同じだった。
 (…………"投与された人間は、或る対象を認識出来なくなる")
 想う相手を自らの前から『消す』事で、忘れさせる、忘れる為の薬。望まぬ、叶わぬ恋に身を灼くご婦人などに需要あり。もう少し効果の範囲を拡げる事が可能になれば、例えば護衛が護衛対象のVIPを認識出来なくなるなど、誘拐や殺害に用いる事も考えられる。
 ファイリングされた説明文を思い出しながら脳裏に読み上げ、土方は震える手で小さな小さなその壜を握りしめた。
 命を断とうと思った瞬間に目の前に拳銃でも落ちて来た様な偶然。意図ではない。望んではいたかも知れないが。
 これは──望んだ結果をもたらすやも知れない『それ』は偶然に、こう言う形をして、この手の中に在る。
 ずっと以前から、望まぬ様な不可思議な関係をとある者と築いて仕舞ったと言う自覚はあった。そして恐らくそれは、土方の側にだけある認識なのだとも。
 戯れに向けられた眸に、寄せられた唇に、抗うことが出来ずに始まった、最悪の関係。最悪に成り得る筈だった関係。
 已める機会も突っぱねる理由も幾らでもあった。幾度もそれを思った。それだと言うのに、あの眸が己だけを見ているのだと認識したその瞬間に、土方の心は己の意思とは違え、敢え無く陥落して仕舞ったのだ。







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