リナリア / 7 悪くない、と不意にそう思った時から、思えば全ては破綻していたのだと思う。 仲が悪いと、周囲に口を揃えてそう表される男に、好意を抱いて仕舞った。それもこれも、何となく確信があったからだ。仲が悪いと言われている程には、己は坂田銀時に嫌われてはいないのではないかと。 嫌われてはいない。かと言って好かれている気もしない。挨拶代わりに喧嘩や言い合いをして、然し互いに決定的に仲違いをする事は無い。悪口雑言を投げ合って、掴み合って、刀を向けて。そんな関係であれば普通ならば極力互いに避けたり、露骨に迷惑だ、嫌いだ、と表現して、それで終わりだっただろう。 だが、銀時がそれをする事は無かったし、土方もそうする気にはなれなかった。ひょっとしたら嫌われているのに己が気付いていないだけなのだろうかと注意深く見た所で、やはり結果は抱いた確信の侭で変わらなかった。 忌憚なく言いたいことを言い合って、手が出れば足も出る。そんな関係は土方にとって酷く気楽でそして望ましく、好ましくもあるものであった。 然しその関係を、寄せられた唇ひとつが壊した。 銀時が一体どう言った意図で土方にそんな事をしたのか、それは長い事経った今でもよく解らない。気紛れだとか酔った勢いだとか判断が鈍っていたとか誰かと間違えたとか──想像は幾らでも浮かべど真相は解らない。銀時に直接訊いてみる以外に知る術は無いし、土方には今更それを訊く気は無い。 ストレス発散も出来る気易い関係であった筈のそれは、明確な好意を自覚して仕舞ったその日以降、ただの自堕落な肉欲へと変わり果て土方を酷く苛んだ。 段々と土方がその関係に溺れて行く中、銀時は特に何を言うでも無く相変わらず飄々と過ごしていた。何故こんな事をするのだ、とそれとなく問いても、セックスと言う言葉の不要な行為の最中では真っ当な答えなど返ってはこない。 万事屋稼業などと言う不安定な職の癖に、銀時は誰彼構わず、男女問わず人として一定のレベルで好かれている様な男だ。大凡人好きのしない土方とはその点で全く異なる。 そんな男が一体何を思って顔見知りの『仲の悪い』男とセフレなどと言う関係に興じていたのか。相応しそうな理由を想像してみてはいつも土方の落ち着く一つの結論は、 遊びや戯れで──酔い由来でも何でも良いが──何となく目の前に居た土方に手を出してみて、それが思いの外に悪くなかったから、なんとなくずるずると続いて仕舞っているだけなのではないか。機があるなり飽きが来るなりすれば、容易く手放される、そんな関係ではないのか。 そんなものだった。故に、何か本格的な間違いが生じる前に、或いはこの感情が恋と呼ばれるそれに明確に転じる前に、已めよう、已めようと幾度も思っては、結局言い出せずに、態度にも出せずに終わる。 そしてその悪循環から出られない内に、少しずつそれは侵食するのだ。落ちたら這い上がれぬ泥沼の様に。降り積む汚い感情の汚泥の澱に足を取られ、土方は苦痛の中でただいっときの甘さに無様に溺れて行く。 己が銀時との間に望んでいたのは、こんな関係では無かった筈だと、解っているのに。それでも。 銀時は已めようと、終わりにしようと、未だ言い出さない。セフレとしての関係を気に入っていると当たり前の様に口にしては、顔を合わせる度密かに誘いをかけて来る。 この薬壜が出て来たのはそんな最中だったのだ。壜を偶々手に取り、偶々戻すのを忘れ、偶々上着に突っ込んで、偶々上着がクリーニングに出されるタイミングでは無かった。そんな、幾つもの偶然を擦り抜けて、それは今土方の掌の上にある。 "投与された人間は、或る対象を認識出来なくなる" そう、薬効に簡素に記されていた言葉がぐるぐると頭の中を回っている。想う相手を自らの前から『消す』事で、忘れさせる、忘れる為の薬。 姿が見えなくなれば、存在が認識出来なくなれば、否応なく感情も摩耗しやがて消えていく。 それは、已めたくとも已められない、已めて欲しくても已めてはくれない、そんな酷い関係性にはこれ以上相応しい幕切れは無いのではないかとさえ思えるものだった。 逆らわなかった。逆らう気すら無かった。己を至近でじっと見つめた男の眸に、この瞬間は己しか映っていないのだろうと言う事実は、思いの外に甘美な味わいで土方の精神を侵食して形を変えて仕舞った。 そこから始まった悪夢の様な日々を思えば、今更、毒やも知れぬものひとつを賭けと思って干す事ぐらい何と言う事も無い。 手の中の小壜を見下ろし、土方は幾度か深呼吸をした。山崎の気配はとっくに遠ざかっているし、部屋の前を誰かが通りかかる様子も無い。 大量に生成された『安全な』薬物とは言え、未認可の、しかも記録されていないとは言え押収品の一つだ。当然だが私物には出来ないし、万一この薬物の摂取に因って何か問題が起きた時にはおおごとになって仕舞う。今からでも遅くはない。手荷物にうっかり混じっていたらしい、と鑑識に持って行くのが正しい。 それを出来る機会は、恐らく『今』しかない。躊躇う余地のある、『今』にしか。 (一種の暗示薬。惚れている相手──つまりは脳内の興奮物質が出る相手にのみそれは作用し、その存在を脳が無意識に希釈して仕舞う。対象にまつわるもの全ては意識から無意識に排除される) 目録に記された効能は、一度しか読んでいないにも拘わらず土方の脳に強烈に焼き付いている。望んだものであったが故に、くっきりと刻まれて仕舞った。 (つまり、これを飲めば俺は自然と万事屋の事を諦められる。万事屋も俺の事を棄てられる) 厳密には『見えなく』なる事で諦めるなり心変わりを待つ為のものだが、結果としては変わるまい。手の中の小さな、小さな壜とその中で揺れる水の様な液体とがそんな効果をもたらすとは俄には信じ難い話だが──、あの処置室に居た被験者たちの酷い有り様を思い起こしてみれば、それは確かに事実なのだろうと思える。 薬が目録の説明通りに作用すれば、口にした土方の認識からは自然と銀時の存在や彼にまつわるあらゆる現象が自然と排除される事になる筈だ。仮に声をかけたり音を立てたりしても、それらの情報を得る感覚がその存在の自覚を無意識的に拒否する様になる。端から見れば気に食わなくて無視でもしている様に見えるだろう。 土方が銀時の存在を気取る事が叶わなくなった故に、無視し振る舞う姿が続けば、銀時はそれを「終わりだ」と判断するだろう。土方が己とのセフレの関係を已めたくてつれなく相対する様になったのだろうと思わざるを得ないだろう。何しろ互いに大きな声では言えない様な関係性だと言う自覚はあるのだから。 然し、小瓶の蓋に震える手を掛けた所で不意に土方は気付いた。 (もし万事屋にこれを飲ませて、俺の存在をアイツが認識できなくなれば……、それはつまり、) 愕然とした衝撃に揺れる感情とは裏腹に、背筋が甘く震えた気がした。乾いた笑いに、重ねた自嘲に、全身から力が抜けて思わずその場に座り込む。 ──薬効が出る対象は、興奮や情動と言った脳内物質の出る相手。もっと限定的に言うと、想いを寄せる対象。 故にそれはつまり。銀時が土方の存在を認識出来なくなると言う事は、つまり銀時も土方の事を想っていると言う事でもあるのだ、ろう。──……恐らくは。 逆に、効果が出なければ銀時は土方の事をセフレ程度にしか想っていなかったと言う事である。 (……どちらの結果であっても、今の俺には丁度良い、か) 後者なら己がすっぱりと諦めれば良いだけで、前者ならば自然に互いに距離を置く様になる。 葛藤は勿論あった。己が誤っている自覚もあった。だが、同時にこれは千載一遇の偶然の招いた機会。幾つもの偶然を通り抜けた先にあった、望んだ結果。 己を罵倒しながら、軽蔑しながら。それでも土方は、小瓶を机の抽斗にそっと仕舞い込んだ。 次にいつもの飲み屋で銀時に会うのは、最短で週の末だと、カレンダーを確認すると、この何分間に起きた全ての事を忘れ、土方は副長としての仕事へと戻ったのだった。 * そうしていつも通りに落ち合った飲み屋。 隣り合わせて飲む銀時は、矢張り今日もセフレの関係をするつもりで居るらしかった。 銀時が厠に立ったその隙に、土方は彼の盃に小壜の中身を半分、流し込んだ。 幸いにか銀時は酒の異変に気付いた風でもなくそれを干して、そして。 「……あれ?アイツ先に帰っちまったのか…」 そう、どこか肩透かしなだけではなく寂しげな表情でぼやき、やけくその様に酒を煽ったのだった。 その瞬間に土方が感じたのは、歓喜よりも遣る瀬の無い苦味であった。 想像していたものより余程に苦しいそれを、自ら小壜の残り半分を干して、自らの視界から、感覚から余りにも簡単に消え去って仕舞った男の隣で土方もまた、やけくその様に酒を煽った。 確かに想い合っては居たのだろうと言う確信は得られた。だからもういい。それだけでいい。 想いが合えど、土方にとってこれは楽な恋では決して無かったから。恋ではない、元の、気安く喧嘩をして言い合っては腹を立てながらも笑い合う、そんな関係が欲しかっただけなのだから。 これで互いに無様な恋は終わるのだと、終われる筈だと、そう言い聞かせ、願いながら。 頑なな自己完結型。 ← : → |