リナリア / 8



 いつも何気なく目にするものが、ある時不意に見えなくなったら、どんな気分になるのだろうか。
 想像以上に不快だったその感覚と、何も言わず何も残さず消えて仕舞う訳は無いと言う確信と、見えない何かすら見ようとした己の直感、或いは妄想と。
 それら全てを混ぜて考えてみれば、一つの奇妙な仮説が出来上がる。
 銀時はあの関係性を殊の外悪くないと思っていた。つまり、土方の側にも些少なれど同一の感情があったからこそ、悪くない、などと思える程度には成り立っていた事なのだろうと思える。
 それでも土方は銀時の目の前『だけ』から姿を消した。新八や近藤の話では、いつも通りに過ごしているだろう様子だけを伺わせて。
 そしてその癖、万事屋の玄関先を(多分)訪れた。呼んだらその場からまた消えた。
 幽霊だとか妄想だとか──そんな言葉で片付けて仕舞った方がまだ解り易いとは思うのだが、銀時の直感はあの時、確かに土方の存在を『見た』のだ。居る、と強く確信したのだ。
 ひと一人が忽然と、銀時の前からだけ消えて仕舞ったなどと言うその原理は知れないが、兎に角、土方は銀時の前から姿を消して、そして一度は訪れて、また消えた。
 つまり土方には銀時の前から姿を消す様な理由が何かあったのだ。そう考えると一つしか思い当たりは無い。銀時と土方との間にはその思い当たりしか結びつける関係性は無いのだから。
 即ち。土方は、『あの』セフレ未満の関係性に何か想うところが──それも、どちらかと言えばネガティブなものがあって、銀時の事を厭ったのではないか、と。
 天人の技術やら刀の呪いやら、何でも起こる可能性があるのがこの世界だ。故に土方が銀時の前から『だけ』姿を消した、見えなくなって仕舞ったと言う事そのものぐらいは起こり得ておかしくは無い。
 ただここで問題なのは、土方が自らの意志で『そう』したいと思っていたのか、それとも偶発的に『そう』なって仕舞ったのかどうか、だ。
 後者であったらただのすれ違いの様なものだ。第三者でも介してコンタクトを取るなり事情を訊くなり、どうとでも解決方法が採れる。
 然しもしも正しいのが前者で、土方が望んで消えて仕舞ったのだとしたら、銀時が復縁を迫る事は、無謀でしかも逆効果だと言う事になる。
 だが。
 (嫌って、姿消して、それで終わりてェって思ってたんだとしたら、わざわざ俺ん家に来る筈なんざ無ェだろ…?)
 胸中でそう言葉にすると確信がより深まった。消えていようがいまいが、厭っただけなら、わざわざ会いに行こうなどとは思わない。呼ばれた図星の侭に去ったりなんてしない。
 聞き出すしかない。問い質すしかない。少なくともこの侭消えて仕舞うのも消して仕舞うのも我慢がならない。
 姿を消した相手に、恐らくは厭う感情が何かしらあってそうしたのだろう相手に、何が言えるのかなど解らない。が。
 (この侭、訳も解んねェ侭で終わるのは、厭だ)
 意を決した銀時は、目前の襖を勢いよく開いた。
 
 *
 
 銀時の姿はあれからずっと、見ていなかった。
 だがこれは果たして、己が無意識で銀時の居そうな場所を避けて仕舞っているだけなのか、それとも『見え』なくなって仕舞っただけなのか。諦めを易くしてくれる薬効として見ると、却って気になって仕様が無いと言うのは逆効果なのでは無いだろうか。
 だが、終わるつもりで含んだだけ、土方にはまだ覚悟も割り切りもあった。遭わない、見えない、意識しない、気にしようとしても出来ない、だからもう関わる事など無いのだから、自然と感情が大人しく風化して行くのを待てば良いだけなのだ、と。
 だが、銀時の方はどうなのだろうか。未だ彼は土方の事を見る事が出来ないでいるのか。避けられる事から関係の終わりを感じたとして、そうしてその時どうするのだろうか。
 万事屋の従業員たちから話を伝え聞く限りでは、銀時は相変わらずだらだらとした生活を送っては、夜毎に酒をかっ食らって朝には二日酔いに苦しむと言う、普段と全く変わらなそうな生活態度を送っているらしい。
 土方には端から、あの関係を終わりにしたいと言う明確な望みがあったから、その事実に落胆は無かった。
 そうして仕事により没頭──沖田に言わせれば八つ当たりめいていたそうだが──して漸く、ささやかな恋情とそこに刺さった侭だった棘の痛みを忘れかけて来た頃に、近藤から聞かされた。万事屋がお前の事を気に懸けている風だった、と。
 そこで生じたのは、有り体に言えば衝動としか言い様の無い感情だったのだと思う。未練と言うよりはただの憤慨。ただ、踏み越えられなかった己を無視して踏み越えて来た癖に、その場で留まり続けていた銀時に腹が立って、それを振り切りたくて必死だった。筈、なのに。
 万事屋の玄関戸の鍵は開いた侭だった。開いて、然し踏み込めずに閉ざして、玄関先で馬鹿みたいに俯いて佇んだ土方は、まるで得た様に自ら戸を開けた銀時の存在に愕然とした。
 土方の眼に、銀時の姿は見えていた。それは土方の心から銀時に対する恋情に類した感情が薄れていると言う事なのだが──、多分にそれは、土方が積極的に銀時への想いを棄てようと努力していたからでもあったのだろう。或いは、薬の効果が薄れて来ていたと言う後押しもあったのかも知れないが。
 だが、一方の銀時は土方の、目の前でただただ立ち尽くす人間の姿を認識しなかった。見えてはいなかった。
 ……つまりそれは。
 「どうして、そこまで明確に俺の事を想ってやがった癖に、一度も、何も、必要な言葉を寄越そうとしなかったんだ、この、クソ天パが…!」
 軋る様に吐き捨てた土方の言葉は、直ぐ目の前、手を伸ばせば容易く届く場所に居る筈の銀時には然し届かなかった。ここを訪れた衝動の、腹が立って堪らなくなったその感情の侭に土方は、いっそここで銀時の横面を思いきり殴ってやったらどうなるのだろうかと考えた。
 声は聴覚から排除されて届かず、目は視界から無意識にそれを消す。あれは、そう言う暗示をもたらす質の薬だ。但し触覚に関しては完璧ではない。直接触れたとしても知覚は上手く認識出来ないが、例えば殴ったり傷つけたり、害すれば、当然だが傷も痛みも生じるから無意識にも綻びが生じる筈だ。
 つまりは、気付かれて仕舞うと言う事だ。
 故に土方は、その衝動を怒りと言う形にして消化出来ず真っ向から受け止めざるを得なかった。握りしめた拳に己と銀時への罵倒の全てを隠して、己が未だ銀時の世界から消えた侭であった事に憶えた安堵と絶望とを呑み込む。
 それと同時に、再び銀時の存在が己の知覚から揺らぎ始めた事に気付いて、凄惨に笑った。好きな癖に何も言えなかった──そんなお互い様の、馬鹿な自分を、銀時を、嘲笑った。
 更に悪い事に、銀時は、その獣並の直感で何か違和感を感じたのか、己の知覚に存在していない筈の土方の存在を何故か悟った。
 好意が無くなっただけならば銀時は今はっきりと土方の姿を目にしている筈だ。だが、見えていないからこそ確信無く、奈辺を見つめながらも、気付いているかの様に名を呼んだ。
 薬の効果が薄まって、知覚に悟られて来ているのならばまだ良い。
 それとも──、好きでいるが故に気付こうとでもしているのか。
 また、銀時の眼差しにひとりだけ、映れるのか。
 そう思った瞬間に、土方の視界から銀時の姿が消えた。余りに甘い想像に、再び沸き起こりそうになった感情を、今度こそ振り切りたくて、棄てたくて、咄嗟に土方はその場から逃げ出していた。
 
 それから痛烈に後悔を続けて、今。
 土方は突如副長室の襖を開き飛び込んで来た銀時の姿を、あの時とは異なり、ただ茫然と見つめていた。





4と5の直接の続き。解り難い上に畳み掛ける様なモノローグ続きで申し訳ない…。

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