密花に宿れば / 11



 (……何やってんだ、俺)
 喉奥で呻くのに合わせて、眉間に皺が寄るのを感じて思わず俯く。そうして見下ろした足下は精緻な花々の図柄で彩られた着物の裾。そこから見える足が常より大分狭い歩幅で歩んで行くのに、まだ『変装』の体裁を保とうとしている己の無意識に気付かされた気がしてそっと息を吐く。
 言うまでもなく土方は平民の生まれで育ちだ。家には金だけはあった様だが、だからと言って格式が高かった訳ではない。こんな、贅よりも重厚さを重視した様な装束を纏った事は疎か、扱った事すら無い。そんなものに囲まれ暮らす者の気持ちも苦労も実感出来よう筈が無いのだ。
 女物の装束を纏い施した『変装』──恐らく沖田辺りに言わせれば『仮装』と一笑に付されるに違いない──に使う神経の他にも、立ち居振る舞いや佇まい、そう言ったものにも気を張っていなければならない。
 賓客であり珍客である姫に向けられる密やかな『目』は、初日よりも確実に増えている。これが想像以上に土方を疲弊させていた。
 ウェイトでも付けて鍛錬している様な心地にさせられる、重たい着物と飾られた頭部。これでも外泊だからと随分控えめだと言う話だったが、女と言う生き物──或いは姫と言う『職業』はこんなにも大変なものなのかと同情の様な忌ま忌ましさの様な複雑な感情を抱えて仕舞う土方だ。
 腰ほどもある長い黒髪は鬘で、高く結い上げて軽く団子を作ってから背に流されている。土方にも髪が長かった時期があるので、項に長い髪の揺れる事に違和感は然程に生じなかったのだが、何分久しぶりなもので、装束同様に矢張り重たく感じる。
 人毛を使った上等な鬘なのだが、長さが長さなだけに頭を揺らす度に何だか女の幽霊にでもまとわりつかれている気がしてならない。
 だが、土方がこの『変装』で最も辟易させられたのは、重い着物でも長い鬘でもなく、化粧の方であった。
 銀時が筆(にしか見えないもの)や鉛筆(にしか見えないもの)など、土方には使い方の知れない様なメイク道具をあれこれと駆使して、その顔をキャンバスの様にして女の人相を描いてくれた。その出来映えはと言えば、見慣れた己の顔である事さえも信じられない程の変貌ぶりで、土方は滑稽な己の化粧姿よりもその事にまず感心して仕舞った。
 白粉などを使って輪郭のシャープさやキツい目つきを和らげ、後は睫毛を持ち上げたり眉や目尻を描いたりと何やら色々調節された。そうして渡された鏡の中に居る、全く異なる自分以外の何かを見て仕舞った気のした土方は、銀時の意外な特技にただただ驚かされるばかりだった。
 最後に、指に掬った紅を唇に薄く差されて仕舞えば、そこには確かに、女になった土方十四郎としか言い様のないものが居た。
 化粧の濃さや、首から下の体つきを見て仕舞えばそれは矢張り滑稽な『仮装』でしか無いのだろうが、少なくとも正視には耐えうる代物に仕上がっていたのは言うまでもない。
 しずしずとした足取りで池の傍に佇んで、遠くを見つめる素振りで辺りを窺えば、『お姫様』への興味なのか、従業員が中庭の通路にちらちらと姿を見せている事に気付く。矢張り仕事以外に大した娯楽も無さそうな高級宿だ、降って湧いた興味には誰もが引きつけられるものらしい。
 引き篭もりのお姫様のお散歩行事は、これで二日目になる。あれやこれやと飾り付けたり化粧を施したりするのには結構に時間と手間を食うので、銀時も仕事中に度々抜けては来られない。それもあって土方は、一度一度のお姫様のお散歩に結構な時間を割く事にした。
 時間を掛ければ掛けるだけ興味の『目』も増えて、土方のストレスも加速度的に増えて行くのだが、致し方あるまい。
 とは言え、この『作戦』の成功に既に疑問も出始めている。変装にどれだけ苦労をしようが、煙草を噴かしたいのを堪えて楚々とした仕草で歩き回ろうが、既に失敗を見ているのだとすれば、正に言葉通りの徒労になって仕舞う。そう思えばこそ気鬱と自嘲にまみれた溜息も出ようものだ。
 取り敢えず、絹姫ご本人を護衛している本隊との連絡要員でもある山崎がまだ戻らないし、代わりの伝令が寄越される事もない。携帯電話が使えない場所ではあるが非常用の連絡手段が他に無い訳でもない。それでも本隊から何も言って寄越さないのは、恐らくでなくとも、まだこの囮作戦は継続中と言う事だ。
 江戸の方でも、事の発端となった脅迫状についての捜査はしている。そんな迷惑なファンレターを投函した者さえ確保されれば全ては円満に解決出来るのだが、そちらの方も動きが無い以上、土方に他に出来る事はない。即ち変装でも何でもして『囮』としての職務を黙って全うすると言う事だ。
 (警察組織の面子、か)
 舐めた真似をされて黙っている訳にもいかない。松平のそんな言い分は土方にもよく解る所ではある。将軍家の名を貶め軽視する者が増えれば、攘夷を謳う輩も増える。国を、幕府の政権を、民草の平和をと願い尽力する事が警察の務めなればこそ、そう言った平穏を乱す芽は早々に摘まねばならないのだ。
 たとえそれが、女装をして庭に佇むと言うだけの仕事であっても、だ。
 口内でともすれば愚痴に転じかねないぼやきを呑み込むと、土方は背後にある気配をそっと窺った。中庭のあちこちに手配してある真選組隊士による護衛とは別に、銀時もまたこそこそと潜んでいる様なのだが──、いつもの彼らしくもない事に、気配を殺すどころか身を隠す事さえも何だか下手くそだ。
 自分の仕事ぶりでも確認したいのかも知れないが、躑躅の茂みから体が半分ばかり飛び出しているのを見れば、土方にとっては──もとい囮にとっては邪魔でしかない。
 正直な所ではそう思うのだが、別段声を荒らげて怒らねばならないと言う気もしないし、そもそもにしてこの作戦の唯一無二の協力者と思えば無碍にも出来まい。
 否、それ以前に。
 (野郎の施したこの『変装』の出来が良い様に見えたから、だな)
 この失敗か無謀良い所の囮作戦に、土方が今になって真剣に取り組む事を已められなくなったのは。この『姿』であれば、本当に囮として足りると、暫定敵を誘き出す事も出来るのではないかと、そんな確信を抱いて仕舞ったからだ。
 当初は寧ろ懐疑的であった筈の手段に、然し光明を見出そうとしている己は果たして愚かだろうか。或いは短絡的になっているだけなのか。
 (何、してんだかな)
 滑稽だろう己の有り様に、然し想像していた様な自嘲の気配は無い。足を止めて、立ち止まった池の畔で一息をついた土方は池の対岸へと何となく視線を投げた。今のところは宿の建物の方に当たる、そちら側から覗き見をしている様な者の姿は無い様だ。
 その侭暫く愚痴とも考え事とも知れぬ事を喉奥で転がしていると、不意に池に大きな波紋が拡がった事に気付く。二度、三度とぽつぽつと増えて行く波紋に土方がそっと空を見上げれば、頭上を覆う様な薄暗い曇天から雨粒が降って来始めていた。
 濡れると、ただでさえ重たい装束が余計に重くなる。化粧も落ちて仕舞うかも知れない。
 土方は浮かべかけていた渋面を即座に消すと、ゆっくりとした、然し決してのんびりではない歩調で池の逆側へと向かった。離れからは少し距離が空いて仕舞うが、池を渡る太鼓橋の向こうには小さな四阿があった。取り敢えずそこで雨を凌ごうと言う判断だ。土方の雨宿りに気付けば部下か銀時が気を利かせて傘ぐらい持ってくるだろう。
 「……」
 雨の所為か、先頃後方に感じていた筈の銀時の気配も遠い。配されている筈の部下たちも。不安と言う程ではないが、気付いて傘を持って来てはくれるだろうかと言う懸念はある。
 離れに戻るのが最も話が早いが、この池の対岸からでは元来た道を戻る必要がある。そうなると先頃茂みでごそごそとやっていた銀時に遭遇する可能性もあり、それは少々勘弁願いたい所だ。幾らこの『変装』を施した張本人とは言え、演技の所作付きの姿で知己の前へと立つのは抵抗があった。
 別に銀時が今更笑うとか、そう言った事を思った訳ではないのだが。
 とにかく一度踏み出した足を翻すのも奇妙だ。思った土方は池へ注いでいる人工の滝の前に渡してある、朱塗りの太鼓橋へと結局向かう事にした。
 濡れた木の板は思いの外足場が悪い。転ばない様に慎重に傾斜を昇り、左手の方を見遣ればそこには水を循環させて流しているのだろう、小さな滝がある。
 幾つかの岩の上を下って、水量の割には比較的に穏やかな音と速度で流れ落ちている水の傍には電気で灯りを通した石灯籠が設置され、柔らかな光の反射を水面に煌めかせていた。
 「お客様」
 「──」
 背後からかけられた静かな女性の声音に、土方は思わずびくりと肩を跳ねさせた。咄嗟に身構えて振り向かなかったのは奇跡だ。どうやら体に宿った無意識は未だに、『演技』を続ける事を憶えていたらしい。
 声には聞き覚えがある。チェックインの時に山崎が相対していた、この宿の女将と言う女性だ。佳い女だが性分はなかなかにきつそうだと、そんな事を遠目に思ったのを、土方は浅い記憶から手繰る。
 水の跳ねる音からして、女将は傘をさしている。恐らくは離れまで傘の供にしてくれると言う事なのだろう。然し如何んせんそれでは距離が近すぎる。銀時の施した化粧は見事な出来映えではあるが、余りに至近距離で、しかも言葉まで必要とする状況になれば、流石に『姫君』と噂される客が男である事はばれてしまうだろう。
 「その様なところにいらしたら濡れて仕舞いますよ」
 再度促す様な声。土方は、振り向くのは横顔までに留めて、視線だけで背後の女将を振り返った。想像した通り、彼女は少し大きめの番傘をこちらに向けて差しかけてきている。然し丈の問題もあって土方の──客の頭を入れるには至らないが、それでもそれが傘をどうぞと言うジェスチャーなのは誰にでも解る。
 どうしたものか、と土方は一瞬の内に思考を巡らせた。立ち位置はまだ太鼓橋の上で、四阿には遠い。離れへは、元来た道を戻って池を回り込んで通路まで戻らなければならない。どちらも距離があるが四阿の方が離れよりマシだ。
 然し雨の中、差し出された傘に入ってわざわざ散歩の物見を続けようと、庭の更なる奥へ向かうと言うのは明らかに不自然である。
 柄を受け取って図々しく頂戴するのも一つだが、傘はこちらに向けて斜めにさしかけられている。近づいて無理矢理奪い取りでもしない限りは不可能だ。
 雨が少し強くなって来た様に感じられた。滝の水音に紛れてよく雨粒の音は聞こえないが、傘を打ち鳴らす音が勢いを増して来ている。護衛や銀時の助け船を待とうにも、時間に余裕は余り無い。
 鬱ぎ込んで喋らぬ演技を決め込むしかないか、と半ば自棄に決めた土方は、差し出されている傘と、それを傾けている女将の方へと足を一歩進め──
 次の瞬間、傘が僅かにぶれたと思えば、紅い滴が咄嗟に押さえた掌から滴り落ちていた。







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