密花に宿れば / 12 反射的な動作と言うよりは最早それは本能だった。目一杯に仰け反った喉に走る鋭い痛みに、眼球だけを下に向けて目を見開くと、土方はいつもより自由にならない足でたたらを踏む様にして後ずさった。 「!」 途端、慣れぬ足下と濡れた橋の不安定な足場とに踵が滑り、無様にもその場に尻餅をついて仕舞う。然し痛みに呻く暇も、のんびりと事態を確認している暇も無い。続け様に見上げた前方から、まだ新鮮な紅い血の尾を翻して突き下ろされようとしているそれを、土方は咄嗟に帯から振り抜いた小太刀で払った。 カン、と遅れて鈍い音が耳に反響し、いつの間にか勢いを増していた雨音が一気に轟音となって降り注いで来る。煩い程に耳朶を打つそれが、本能的な動作と感覚として解る、自らの生命を脅かそうとする『何か』へと向ける警戒に対して異常なまでに早まった血流の音なのか、それとも雨粒が膚を叩く音なのかさえも判然としない。 忽ちにずぶ濡れになった全身の、長い髪が顔面にべたりとまとわりついて鬱陶しい。それを拭おうとすれば着物が水を吸っていやに重たいと気付く。 高級な仕立てだろうが華美な装飾だろうが何だろうが、防水と防刃に多少は役立つ真選組の隊服の方が余程に良い。悪態を飲み込んで舌を打つと、土方はその場に片膝をついて予期せぬ襲撃者の姿を油断なく見た。紅い番傘を開くと自らの肩にその柄を乗せ、薄く微笑む女将の姿を。 (成程、) 道理で、宿泊客が総入れ替えとなっても容疑者が絞れない訳だ。対象が最初からこの宿に潜んで隙を窺っていたのであれば当然の事だ。土方は『囮』としては不足な事にも、不用意に部屋を出る事すら出来なかったし、あちらはあちらで警戒の固い離れに近付く事が困難だった。 まるで根比べの様なそんな状況に、銀時の提案したこの作戦は、期せず敵側にとって待ち望んでいた展開となったと言う事である。 喉に出来た小さな筋状の痕に触れれば、指の腹をぬるりとした感触が伝わり、雨に混じって滴った。凶器は女将の差す傘の尖端に仕込まれた、針か何か、とにかく鋭利なものだ。 「その様子では、矢張り絹姫ご本人では無かったようですね。全く、無駄な手間を取らされたものです」 そんな明白な言葉と、佳い女の顔立ちが刻む歪んだ微笑みに、土方は手にした小太刀の鞘を放り棄てると油断なく逆手に構えた。念の為にと帯に隠す様にして持たされたもので、本当に女性の護身用に扱う様な気休め程度の長さの刃物だ。刃渡りと柄の長さはほぼ変わらず、鍔も無い。土方が常に扱う刀とは使い勝手も用途も全く異なるものだ。切り結ぶのなどは以ての外だし、相手の得物との相性も悪い。尤も、あの仕込み傘だけが女将の武装の全てとは到底思えはしないが。 実に心許ない武装だが、それでも『変装』の中で不自然にならぬ程度に隠し持てる様なものはこのぐらいしか無かったのだから仕方がない。 (取り敢えず時間を稼ぐしかねぇな…。格好から状況から、何もかもが足を引っ張りやがる) 降り続ける雨は夕立の様なものでそう長くは続くまいが、完全に辺りの視界を悪くしているし物音も吸って仕舞っている。これでは土方が悲鳴をあげようが怒声をあげようが、部下の元へ届くかすら怪しい。 (くそ、せめて万事屋がまだ近くにいりゃあ、) 脳裏を寸時過ぎる銀髪頭の暢気な顔を、然し土方は途中で軽く顎を引き結ぶ事で振り払った。真選組の人間でもない、本来この無謀良いところの囮作戦には無関係の民間人が、いつの間にか気配も姿も消していようが、どう言う行動をしていようが、それは土方の咎められる事では無い。 そんな万事屋よりも気にかかるのは部下たちの方だ。一応は、『散歩』の偽装中には中庭に三名以上の護衛を配する事にしていた筈だ。幾ら土砂降りだからと言って──否、土砂降りだからこそ、当初の土方の考えた通りに、傘でも持って様子を窺いに来るのが正しい行動の筈だ。 土方が手ずからこの囮作戦の為にした人選には危なげな部分など無かった。信の置ける者や勤続が長く経験も豊富で、身元も確かな者ばかりだ。そんな部下たちがこの状況になっても駆けつける気配すら見せないと言う事は──、 目の前の女将に注意を払いながらも、雨の庭を窺う土方の様子からその疑問を察したのか、彼女は紅の綺麗に引かれた唇を嘲りの形に歪めてみせた。 「『姫君』様はこちらでご用意したお食事は余りお気に召してはいなかった様ですが、護衛の方々はそうでは無かった様ですね」 含みのある物言いに思わず舌を打つ。恐らくは直近の食事に何か薬や毒でも盛られたのだろう。囮か本物かも知れぬ襲撃対象がここに来て活発に動き出した事に、形振りを構うのは最早止めたと言う所か。 つまりは、ここで片を付ける気満々と言う事だ。 松平の立てた計画と言う意味では、現状の流れは理想的ではある。ただ、こちらの脇が少々甘かった。待機期間が長すぎた事で油断もあったのだろうが。 ともあれ、救援は来ないと断言された。その真実の是非はさておいて、助けが来ない以上は土方が自ら、この危機的とも言える状況を脱しなければならないと言う事だ。 女将を演じていた女は、恐らくは件の脅迫状の送り主によって雇われた者だろう。それも、仕込み傘に薬物の使用と言う事から想像するだに、暗殺に長けた忍か何かだ。忍や乱破素破の出身で、フリーの傭兵、仕事人と言った商売に身をやつす者は少なくはなく、そう言った者らは政治的な思想を自ら持つ事は無い。 得物のリーチは明らかに向こうの方がある。更にそれ以外の武装を隠し持っている可能性も高い。着物姿とは言え、恐らくは土方の変装している装束とは異なり動き易い様な改造を施している筈だ。 豪雨。悪い視界。滑る足下。動き難い着物に履物。おまけに頬や額に鬱陶しく貼り付いて滴をぼたぼたと落としている長い髪の鬘と来たものだ。これ以上酷い状況もそう無いだろう。 (だが、言ってもられねェ) ぐっと奥歯に力を込めると、土方は眼前の脅威を、敵を睨み据えた。幾ら絶望的な状況と嘆いてみた所で、これを打ち倒さない限り、殺されるのは自分の方なのだ。そればかりか荷物の類や連絡の痕跡を調べられたら本物の絹姫が何処に匿われているのかも知られて仕舞う。そんな最悪の状況にだけはさせる訳にはいかない。 橋の上で片膝を地面についた侭、土方は足を動かして履物を脱ぎ捨てた。白い足袋一枚でも濡れた木材の足下は覚束ないが、仕方がない。 土方の応戦する気配を見て取ってか、女が肩から傘を僅かに持ち上げた。素早く畳める様にか身構える。 「誰が依頼人なのか、きっちり吐いて貰うとしようか」 向かい立つ敵との戦いは刃を合わせる前から既に始まっている。胸中の懸念を一切見せずに、逆手に小太刀を構えて柄頭をもう片手に添えて笑って口を開いた土方に、然し女はどこか間抜けな仕草でぱちりと瞬きをした。 「、……まさか、男?」 「……、」 言われて始めて、そう言えば万事屋作の万全の女装をしていたのだった、と思い出した土方は、着物の袂で乱暴に顔を擦った。紅や白粉の色彩が斑な汚れを作るのをちらりと見て顔を顰める。どれだけ落とせているのか、どんな状態だったのかはそれこそ鏡でも見なければ解らないが、自らの外見などを気にしている余裕もないので取り敢えず考えから締め出す。 高級な着物だから汚すなと松平には言われた気もしたが、どうせ雨でずぶ濡れの、尻餅もついて泥だらけになっているのだ、今更の話だろう。 それよりも、この仮装としか言い様のない様な『変装』は完璧で、女も襲撃をしてみるまでは囮か本物の姫君かを矢張り判断しかねていたのだろうと言う事実の方が少しばかり気に障った。まんまと欺けた筈だったのだが、口を開くまでこの至近距離でもまだ女性と誤魔化せられていたのかと思えば、どれだけこの気に食わない筈の『囮』役が堂に入って居たと言うのか。 松平の言っていた適材適所と言う言葉が、胃の底で痛みにも似た不快感をもたらすのを感じながら、土方は化粧を拭ったその手で、今度は長い黒髪の鬘──どちらかと言えば付け毛の類だが──を毟り取った。濡れた腕に絡みつく様なそれを放り投げると、一緒くたに落ちた簪が、雨音の中で場違いな悲鳴めいた金属音を立てる。 「まさか、真選組の──」 露わになった土方の風貌を見るなり、女は驚きの声を上げた。上げたが、別にその『名』を退く理由にする気は無い様で、 「討ち取る対象じゃ無ェ筈だが?」 土方のそんな肯定に彼女は然しあっさりとかぶりを振り、相手が相手なだけに油断を棄てる事にしたのか、傘を放り棄てると、一体何処に隠していたのやら脇差し程度の長さの、反りの少ない刀を音も立てずに抜いてみせた。 「貴方の首でも、依頼人は満足してくれるでしょう。それに、ここまで手こずらせてくれた謝礼をお支払いしなければ」 どうやら件の『脅迫状』の送り主は矢張り攘夷浪士の類と言う事らしい。何しろ真選組副長の『名』は組の中でも特に嫌われている。倒幕を謳う連中には覿面の首だ。 やる気満々の女を前に密かに舌打ちをした土方は、しゃがんでいた体勢から一息に地面を蹴った。濡れた木の足場に、滑ってはくれるなよと半ば祈る様に思いながら間を詰める。 だが当然土方のそんな初手は読まれていたのか、女は冷静に半歩下がって土方の得物の射程から僅かに逃れると、牽制の刃を向けながら着物の袖をぶんと振り下ろした。 「!」 見えた訳ではないが、咄嗟に屈めた身の上を風を切った何かが通過して行く気配に、土方は項の毛を粟立たせた。投擲の針か刃かは知れないが、矢張り相手の得物は一つや二つだけでは無いらしい。 起こした顔の、喉元を真っ直ぐ目がけて伸ばされる刃を再び小太刀で打ち払うと、相変わらず上手く開けない足と、覆う重た過ぎる装束とに振り回されない様にしながら、次々打ち出される刃の斬撃を、体捌きと頼りのない小太刀一本で何とか凌ぎ続ける。 だが、刃の強度を考えればそんな防戦は長くは保つまい。最悪、情報は聞き出せなくなるが、女を生かして捕らえようなどとは考えない方が良いだろう。 とにかく、長引かせるつもりは無い。刃を持つのとは逆の手指に、いつしか挟まれていた刃が喉元を掻き切ろうとする軌跡から紙一重のところで逃れながら、土方は攻撃動作を終えた女目がけて、腰溜めの姿勢から小太刀を突き出し──、 「?!」 然しそこで突如踏み切った足が地面を踏み抜いた様な錯覚を覚えたかと思えば、咄嗟に一旦飛び退こうとしていた土方の膝ががくんと崩れている。 伸ばした手の先から小太刀がすり抜ける様にして落ちるのを見て漸く、ずぶ濡れの筈の手が少しも冷たくない事に気付いて、土方は愕然とした侭、震えて酷く重たい手で自らの喉元に軽く触れた。そこにある筈の疵を──紅い筋をまだ皮膚の上へと伸ばしているのだろう疵を。 (っ、最初の段階で既にか…!) 仕込み傘と言う得物の時点で考えに至っておくべきであった。殺傷能力の低めの刃に毒を塗っておく事など、暗殺に於いては常套手段だ。 土方とてこんな職業柄、多少の薬物には耐性をつけては来ていたが、それも飽くまで気休め程度だ。よくある種の、多少のものに対しては効果を発揮できるかも知れないが、結局の所は被毒などしないで終わらせるのがセオリーである。 元よりそう言った毒薬の類に気をつけねばならないのは真選組内部でも主に諜報関係に携わる者が殆どで、前線で戦う土方や沖田は薬物への耐性は万全とは言い難い。 そんな事をも失念していた己を罵倒しながら、土方は自らの手が勝手に喉元の疵から滑り落ちてだらりと両脇にぶら下がるのを、眼前に立った女の姿をした死神が即座に刃を振り下ろさんとするのを、歯を軋ませながら茫然と見ていた。 。 ← : → |