密花に宿れば / 13



 決して自慢出来る様な事ではないが、命を狙われる事は別にこれが初めてと言う訳ではない。
 それもあって土方の心は落ち着いていた。凪いでいたと言っても良いだろう、焦りや恐怖と言った感情は遠く、本能的な部分で警鐘を鳴らしているだけで、決して思考を阻害はしない。その程度には命の遣り取りには慣れていたし、命を惜しむ事に自らの全力を注ぐだけの理由もあった。
 スローモーションの様に感じられる一瞬の空隙。その視覚情報と経験則とで、土方は眼前に迫る刃を完全に回避する事は不可能であると直ぐに結論を下した。
 手足の感覚は痺れて鈍い。水溜まりの中に落ちた小太刀を拾い、刃を迎撃するだけの力も、時間も無い。足を立ち上がらせ飛び退く事も出来そうも無い。
 狙う太刀筋は一直線に、頸。速度と残りの距離を見れば、己に取れる体の僅かな動き程度では致命、或いはそれに近い傷は避けられないだろう。
 死か、それに近いもの。寸時でも意識を切らせば次の瞬間には頸動脈を割かれて血の飛沫を命と共にこぼしながら斃れる己の未来があるのだと、凪いだ心は冷静な経験則から割り出された解答を既にそこに見ている。
 然し、痺れて重たい手と足とに、冷静な思考が無意味と知る叫びをあげる。
 ──動け。動かなければこの侭死ぬだけだ。反撃もならずに無様に、どこぞの攘夷浪士に首級を捧げて、そうして終わって仕舞う。
 己の命運も、真選組の未来の一部も、己と関わる者らとのあらゆる可能性も、潰えて仕舞う。
 「──」
 止む気配の無い雨の、喝采の様な音の中で土方は吼えた。罵声でも悲鳴でも何でも構わない、抗う為の声を振り絞って、重たいだけの腕を伸ばして、過たず訪れるだろう数秒に満たぬ先の想像を、万に一つの可能性に縋ってでも変えるべく。
 「っ、」
 僅かに反らした喉の皮膚に触れた刃が、然しそこで止まった。膚の上を滑って血管を割く、刃の感触を想像し膚を粟立てながら目を瞠った土方は、仰け反ろうとしていたその侭の勢いで仰向けに倒れ込んで、何とか頭だけを前方へと向けた。
 その瞬間、女の体がぐにゃりと脱力する様に曲がって横向きに倒れ、遅れて湿った重たい音が響いた。その手が掴んでいた刃は鈍い音を立ててぬかるんだ地面に力無く落ちて、紅い血の糸を水溜まりの中へと伸ばしている。
 想像と違えて、反った喉を無情にも追って割いていた筈の刃は、いつまで待っても届かない。頸を貫いている筈だった刃が、然し喉には到達していない事は命が無事である事からも明白だったが、何故そうなったのかが解らずに、土方は激しい雨の緞帳の向こうへと必死で意識を凝らした。
 一体何の、万に一つが己の運命を変えたのかと。それは果たしてただの幸運なのか、それともどこかで感じていた必然の呼んだ所行であったのか。
 ただ一つ密かな理解が叶ったのは、この男は矢張り信じるに値したようだ、と言う当たり前の様な納得。
 「……咄嗟に殴っちまったけど、もしかしてまずいやつだった?」
 「…………いや、」
 果たしてそこに居たのは、女が先頃放り棄てた傘を肩に担いだ銀時の姿であった。その投げて寄越した間の抜けて聞こえる言葉に、土方は安堵やら気抜けやらで、持ち上げかけていた後頭部をその侭落とした。仰向けに横たわるのはぬかるんだ水溜まりで、頭上からは容赦のない大粒の雨。全身は痺れて碌に動かない。
 最悪と言えば最悪に近い状況だと言うのに、土方は声を上げて笑った。
 「オイ、どう言う事だよ『お姫様』」
 「大体は見りゃ想像はつくだろうが」
 途方に暮れた様に肩を竦めてみせる銀時に、土方は喉奥に笑いの残滓を保った侭で言った。大体、何かおかしい事に気付いたから此処に駆けつけたのではないかと言う疑問が浮かんだが、今それを論じる必要は無いかと、酷い脱力感に任せる侭に余所へ置いておく。
 顔を容赦無く叩く雨粒が鬱陶しくて目を閉じれば、雨音が煩く耳の直ぐ隣で騒ぎ立てる。麻痺毒で薄い感覚もあって、全身がびしょ濡れだとかそう言った現実が遠い。ひょっとしたら命の危険を通り越した事でハイにでもなっているのかも知れない。
 派手に水の滴を散らしながら歩いて来た銀時は、倒れた女の様子を気にしつつも土方の頭の直ぐ横に膝をついた。濡れて額に貼り付いた銀髪を鬱陶しそうに掻き上げながら言う。
 「この代理女将こそが、件の、本物のお姫様の襲撃を目論んでた張本人でしたーって話なのは何となく解ったけどよ、」
 傘の尖端は、押されると刃の出る仕組みになっている。それを軽く指先で押して、その暗器の物騒さに顔を顰めた銀時は、仰向けに転がる土方の額に指の背をそっと乗せた。
 「毒でも貰ったって所か」
 濡れて額に貼り付いた髪の一房を除けながらそう言うと、銀時は土方の背に手を差し入れて上体を起こさせた。脱力状態に近い土方の全身はだらりとして力も入らず、糸の切れた操り人形の様に、されるが侭だ。
 「傷は……、っと頸か。どうやら本当に暗殺者だったって話みてーだな…」
 勝手に土方の頸の傷を探り出してそう言うなり、銀時は「動くなよ」と言い置いて土方の喉を仰向かせ、細い紅い筋を刻んでいるのだろう傷口へと唇を押し当てて吸い付いてきた。
 「っ!」
 まるで伝説の吸血鬼にも似たそんな銀時の狼藉とも取れる行動に、寸時跳ねる土方の体は、然し頑丈な両の腕に絡められて押さえつけられる。
 余りに唐突に過ぎる行動ではあるが、それが毒を吸い出そうと言う意図から来るものだろうとは解る。解るが、首に触れられると言うのは本能的にやはり恐ろしい。身じろいだ土方は、晒された喉を食い千切られるのに似た原初の恐怖に背を粟立たせた。その程度しか自由になりそうも無かったのだ。
 「っもう、回ってんだから遅ェ、」
 「毒なんざ、抜けるんなら少しでも抜いといた方が良いだろうが」
 顔を顰める土方にそうあっさりとした調子で言いながら、銀時は口に含んだ少量の血液をぷっと音を立てて吹き出した。
 ぐい、と貸与されたのだろう宿の制服の袖で口元を拭うと、銀時は先頃の傘で殴られて気を失っている女を──土方に、麻痺毒を仕込んだ暗器で傷を穿った張本人を見遣った。
 「これ、ひょっとしなくても給料出ない奴になるんじゃね…?」
 「……かもな」
 肩を落として言う銀時の顔が刻んだ力の無い笑みに、土方は少々同情を憶えつつも「そんな事より」と話を切り替えた。
 「作戦は一応成功したが、部下たちが毒を盛られた可能性がある。無事を確認して、それから無線設備を借りて山崎の所に連絡をやらなきゃならねェ。それと、そいつをとっととふん縛っといてくれ。あとメガネやチャイナは無事か?」
 矢継ぎ早にまくしたてる土方に、銀時は「解った解った」と、降参する時の様な仕草を添えて言うと、取り敢えず土方の棄てた結い髪を拾い結ばれていた紐を解き、女の指と手首とを背中側で縛りながら続ける。
 「神楽と新八に問題は無ぇよ。で、おめーをここに暗殺者と転がしとくとか心臓に宜しくねェから、まずは離れに戻す。で、こいつを倉庫かどっかに放り込んで、次は部下たちの無事を確認な。んでジミーの所に連絡、と」
 「こいつの仲間が他にも居るかも知れねぇから、てめぇらも気をつけろ。出来れば余計な手は出さずにいた方が良い。連絡手段の詳細は離れにある俺の携帯電話にメモしてある。それから──」
 思いつく侭に指示を出して行く内、段々と己の声が遠くなって行くのを感じて、土方は顔を顰めた。雨が煩くなったのだろうか。然しふと見上げた空は、もう殆ど雨雲を割いて夕刻の穏やかな光を雲間からちらちらと覗かせ始めていた。
 頬を叩く雨の勢いも弱く細くなって行く中、殆ど無意識に言葉を紡ぎ続けている唇の動きが不明瞭になって行くのと同時に、視界が意識と共にぐるんと回転をする様な錯覚を覚えて、そこで漸く土方は、己の意識が緩やかに途絶えようとしている事に気付き──その侭意識を手放した。







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