密花に宿れば / 2



 他に誰も乗客のいないバスが走り去って行くと、山道の埃っぽい空気と排気ガスとが暫くの間もうもうと辺りに立ち込める。掌で鼻と口元とを覆った銀時は、山を上り下りする唯一の公共交通手段だと言うバスの遠ざかる姿を、絶望にも似た心地で以て見送った。
 「本当に、バスは今ので最終みたいですね…」
 同じ様に手布で口元を覆った新八が、錆びて傾いた停留所の時刻表らしき板を見ながら若干引き攣った調子で言うのに、絶望に似ていたものが本当の絶望に変わるのを実感しつつ、銀時は両肩を落として大きく溜息をついた。
 どうやら話に聞いていた以上に僻地であるらしいこの地で、果たしてこの先やっていけるのだろうかと不安がじんわりと暗雲の様に胸中に拡がって行く。
 お登勢に紹介されたバイト先の宿は、以前のスタンド温泉ほどでは無いが、それと良い勝負が出来る程度には山奥にひっそりと佇んでいると言う。真冬の山奥は遭難の心配があるが、真夏の山奥にも遭難の心配がある。自動車の易々立ち入れない様な山道は草木が好き放題に繁茂し、道を探すのも容易ではない。
 それをして「人の余り来ない閑静な宿」などと言って売り込むと言うのだから、まあ物は言い様、と言う奴である。
 新八の見ていた時刻表を見やるが、改めて見る程の内容は無い。何しろ見事に早朝と昼の二つの時刻しか書かれていないのだ。表の他の場所は悲しいぐらいの空欄続きで、おざなりに手書きで大きな斜線がまとめて引かれている始末である。
 ちなみに今は真昼だ。もう一本は早朝に既に出ている筈なので、新八の言う通り今し方乗ってきたバスが今日の最後の便と言う事になる。
 屋根も建物もない停留所は日晒しも良い所の立地にぽつんと看板が立っているだけのもので、利用客が日頃から居るのかすら判別がつかない。一応時刻表が貼ってある以上、誰かが管理しているのは確かなのだろうが。
 そんな停留所近くの木でけたたましく鳴く蝉を、日傘をさして麦わら帽子を被った神楽が見上げている。今にも、獲ってくれと言い出さんばかりの様子に、銀時は足下に置いた手提げ鞄をさっさと持ち上げた。お登勢に書いて貰った地図を懐から探り出すと、左右にだらだらと続く埃っぽい車道──ではなく、背後にある山へと続く道無き道を振り返る。
 「こんな所にいつまでも突っ立ってたら熱中症でやられちまわァ。とっとと行くぞおめーら」
 何せ立っているだけで空から、地面からじりじりと焙られている様な熱の狭間だ。麦わら帽子を被り直すと、銀時は子供らを促して歩き出した。山道は緩やかな斜面の続く、一人分しか無い様な狭い道で、足下には雑草が好き放題に蔓延っていて酷く歩き難そうだ。それでも、炎天下の車道に立ち尽くしているよりはきっとなんぼもマシの筈である。

 三食屋根付きまかない付き。そう示された宿の従業員のバイトは、聞くだけならば確かに好条件と言えた。給仕や掃除や片付けと言う肉体労働がその内容だが、その殆どがクーラーの効いた室内での仕事と思えば何と言う事も無い。
 無論、お登勢から話を持ちかけられた時には、旨い話過ぎるだけに何か、それこそスタンド的な恐ろしい裏でもあるのではないかと疑った銀時だったのだが、
 「最近よくある、なんだっけ?タイヤの会社みたいな名前の惑星の出版してる、何か有名な紅い本にも載った、由緒正しい老舗の宿だよ」
 と言うお登勢の軽く押した太鼓判と、新八の、
 「今年は暑いですから、クーラーもない万事屋に籠もってたら僕ら熱中症でやられますよ」
 と言う至極真っ当な意見もあって、ほぼ選択の余地なく三人揃って、件の宿で泊まり込みの臨時従業員とやらを請け負うに至ったのであった。
 「背に腹は代えられないってやつアルな」
 などと、結局炊飯器が空っぽになるまで塩おにぎりを食べた神楽もそう言っていたし、その通りだと銀時もその時は思った。
 だが、勤務先がこんな田舎の山奥と言う立地である事を知っていたら、もう少し冷静に熟慮出来たのではないかと、負け惜しみめいて思う。それをして後悔と言う感情である事は知っていたが、矢張り旨いだけの話では無かったと、後からお登勢に文句を言ってやらねばと溜め込む事ぐらいしか現状出来そうもない。
 ……まあそれも無事に目的地について、無事に仕事を終えて、無事に帰れたら、の話だが。
 「こんな辺鄙な山奥に来る客なんざ、本当にいんのかね?」
 道の脇から野放図に伸びて来ていた丈高い雑草を手で払って言えば、バッタがぴょんと跳ねて頭上を越えて行った。少なくともこの道を歩いてやって来る様な客などいないのだろう、狭道はここ暫く人の往来した様な痕跡も無い上に、碌に整備もされていない様だ。
 「何しろ、あの紅い本に載るぐらいの宿ですしね。高級な所なのは間違い無いですよ。そんな所に宿泊するセレブな客層にもなると、自家用ヘリにでも乗ってやって来るんじゃないですか?例えば将軍様とか」
 「幾ら何でも将軍はこんな田舎にゃ来ねェだろ。まあそれに近い身分の連中は利用するかも知れねェが。何にせよそんな高級ホテルの女将とあのババアが知り合いってな、世の中よく解らねェもんだ」
 新八の半ば冗談めいた口調に、銀時は何となく空を見上げてぼやいた。本当にセレブ様の乗った自家用ヘリが飛んでいると思った訳では無いが、まああり得ない話では無い。
 何しろ新八の言う『紅い本』とは、美酒乱星と言う、観光業には一家言ある惑星の有名な会社の出版している、その筋では有名らしい格付けつきのガイドブックだからだ。庶民はともかく、観光客や富裕層はそう言った評価をステータスと捉えるきらいがある為、一度でもそのガイドブックに掲載されたら一年は軽く客回りが尽きないと言われている。……らしい。
 銀時とて、テレビで紹介される程度の知識しか持たない上に現物のガイドブックなど見た事すら無いし、お登勢や新八も恐らくは似た様なものだろう。だが、逆に言えばそんな人間でも知っている程度には有名と言う事である。
 それこそ、家柄にだけは自信のある幕臣や公家辺りが、そう言った本に記載された『格』を求めて来るのだろう。閑静な立地である事と、単なるハズレ無しの物見遊山と、果たしてどちらに向けて門戸を開いている宿なのかは、残念ながら未だ解らないのだが。
 まあ考えても詮のない事である。そうして三人が暫くの間、無言で淡々と雑草を掻き分けて進めば、漸く狭い山道は終わりを見せてくれた。地面が蔦の這う古びたコンクリートの階段に代わり、見上げれば斜面の先には、山の頂上にまるで崖の延長線の様に聳え立つ真っ直ぐな建物の外壁が現れる。
 空調やらダクトと言った設備が見て取れるので、どうやらこちらは建物の裏手へと続く道らしい。ひょっとしたら元々は非常口として造られた道なのかも知れない。草木の好き放題繁茂したこの様子からは、使われなくなって久しい様だったが。
 階段を上り終えた所で、珍しくもぐったりと疲れた様子で居た神楽に、手持ちのスポーツドリンクを飲ませてやりながら、銀時は味気ない建物の裏側を見上げた。幸いにか今はこちら側は丁度日陰になっているらしく、直射日光に苦しめられる事は取り敢えず無い。
 「そんなに大きな宿って訳じゃ無さそうですね」
 「まぁ、閑静な宿、なんてもんを謳ってんならそんなもんだろ」
 客室が並んでいるのだろう宿の正面から見た訳ではないが、建物の大きさからして規模はそれ程大きくは無さそうだ。それでも人手不足と言うのだからこうしてわざわざ来た訳だが、これで何かの手違いや勘違いであったら、流石に泣けるどころの話では無い。
 一応先方に連絡は入れてあるのでそんな事は無いとは思うが。首に提げたタオルで額の汗を拭ってから銀時は、
 「よし、じゃあとっととクーラーの効いた職場に行くぞ」
 と、流石に少し疲れた様子でいる新八と神楽に声をかけた。セレブ客対象の宿と言うのであれば、館内はきっと別世界の様な環境になっている事だろう。この疲労状態で働くのは正直を言えば御免だがそれこそ、背に腹は代えられない、のである。
 精々贅沢のおこぼれに預かれる事を祈ろうと、口に出さずとも自然と共通してそう思っていたのだろう。正面から見れば和風の家屋の様な体裁をした宿を、三人は揃って見上げた。





あ、歩いてただーけー…、

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