密花に宿れば / 3



 和風造りの、風情のある正面玄関を通って目についたフロントにて、従業員募集を頼まれた者だと名乗るなり銀時ら三人は手早く裏へと通された。確かにこのお高そうな宿の客と言う風情では無かったが、まるで汚いものを片付ける様な手際の良さであった。
 そうして幾つかの雇用契約書にサインをしたら、小豆色をした作務衣の様な従業員用の制服を渡され、臨時従業員の名札を胸に付けて、いよいよ正式に仕事開始となった。
 この辺鄙極まりない宿『仙風閣』の女将はお登勢の知り合いと言う話だったが、元々その女将と従業員数名が流行り風邪で体調を崩した事からの人手不足だそうで、今は一時的に代理の女将が宿を切り盛りしていると言う。
 お房と名乗ったその女将は背筋のしゃんと伸びた、着物をぱりっと着こなしたなかなかの美人で、少々とうが立っている年頃だが、立ち居振る舞いに老いや衰えを感じさせない、有り体に言って佳い女であった。
 「お仕事はざっと今説明した通りになります。本来ならば所作の隅々まで学んで頂きたい所ですが、時間も無いので致し方ありません。基本的には他の従業員の見様見真似で構いませんし、出来る限り裏方の仕事に携わって頂く様にしますので」
 綺麗に結い上げた髪にはほつれの一つもなく、見た目は厳格な、茶道か何かの師範の様だ。そんな代理女将に大まかな仕事内容を一通り教わった後は、従業員頭に館内を案内されて細かい指導を受ける。
 真夏と言う季節柄か、保養や避暑目的の客が何組か宿泊しており、中には何ヶ月と言う長逗留の客も居ると言う。それぞれの素性を細かく聞いた訳では無いが、宿の等級──つまりは宿泊料のお高さを思えば、何れも名のある家柄の人間か、余程のお金持ちと言った所なのだろう。
 山の上の不便な立地ゆえに、公共交通でのアクセス方法は銀時らの使った一日二本のバスしか無いのだが、タクシーや自家用車なら宿の正門に直接出れる様になっていると言う。つまりは『お客様』はこの暑い中に面倒な山登りめいた行軍をせずとも、気持ち良くクーラーのきいた車内からクーラーのきいた宿に入れると言う訳だ。
 なんでも、道路に宿の私道を含む事もあって公共交通機関の立ち入りが出来ないらしい。一般人では易々立ち入れない様になっている、その事もまた宿のグレードを上げている一因なのだろう。
 建物自体はそう大きくは無い、正面の見た目だけ和風建築と言った体をしている。比較的建てられて未だ新しい為に、田舎の温泉宿に特有のややこしい増改築の様子も無く、二階建ての建物の中にシンプルに八つの客室が配置されている。それに加えて、日本庭園風の中庭を挟んだ向かい側には一軒の離れ部屋があり、そこには上客がかれこれ一週間近くは泊まっていると言う。
 「長く滞在するつもりらしいわよ。離れを一人で使っていて、時々別の部屋に宿泊している護衛の人が訪ねているんだけど、けど本人は殆ど籠もりっぱなしで全然姿は見てないわ。どこかのお嬢様かお姫様なんじゃないかって言う話みたい」
 とは、代理女将とは対照的にもどこかフランクで軽い──不真面目と言う訳ではない──気さくな印象のある従業員頭の女性の談である。
 「裏方の余り人目に付かない仕事をあなたたちには任せるから、離れのお世話も頼む事になると思うわ。お食事の運搬や清掃は行っているから。でも、お客様のお部屋にまでは入らないで欲しいってご要望だから気をつけてね」
 そんな説明を、池や滝が人工的に設えられていて、屋外にしては大分涼しい中庭の向こうの離れを示しながら言われて、銀時たちは何となく顔を見合わせた。挨拶や礼儀の必要の無い仕事であれば、付け焼き刃の従業員としては寧ろ有り難い話だ。
 離れは一軒屋と殆ど同じで、冷暖房もバストイレも完備されている。風呂に至っては温泉を使った総檜の個人風呂だと言う。風呂や厠に清掃は必要だが、個人用の小さなものならそれ程重労働にもなるまい。
 「温泉付きの離れに長期宿泊たァ、金ってのはある所にはあるもんだねェ」
 「そうですね。僕らには全く縁のない世界ですよ」
 どんな身分のお姫様が居るのかは知らないが、汗水垂らして山道を歩いてバイトに来た万事屋とは生まれも質も何もかも違うのだろう。苦笑する新八に肩を竦めて返すと、
 「さて、そんじゃ仕事開始だ。おめーら、しっかり働いとけよ!」
 そう銀時は腕をまくりながら声を張り上げ、早速従業員頭の女性に静かにしなさいと小突かれた。
 
 *
 
 愛想を振りまいたり礼儀正しく振る舞うのが得意ではない神楽は主に力仕事に回され、少しでも客と接触の可能性の高い場所での仕事は銀時と新八とでこなす事にして、何とか三人は一日で最も慌ただしい時間である夕飯時を走り回って過ごした。
 人手急募と言う状況は嘘では無かった様で、バイトの三人を含む従業員一同は客室の数の割にはほぼ駆けずり回り通しの働き通しとなった。不慣れだバイトだなんだと言ってもいられない状況では、最早文句の一つさえ出て来ない。そんな余裕もない。
 大部屋はあっても食堂や宴会場の無い宿なので、個別に部屋に食事を運んだり時には給仕を行ったり、最終的には片付けもしなければならないと言う手間がかなりかかる。
 そうして片付けを任された銀時が、積み重ねた膳の上に食器を乗せて器用にバランスを取りつつ厨房へと戻れば、先に仕事を終えていた新八と神楽がまかないの食事を、狭い厨房の中で立った侭食べている所だった。
 「銀ちゃん、この鯛飯茶漬け美味しいアルよ!」
 「すいません銀さん、余り休憩時間も取ってられないらしくて、先に頂いてます」
 「良いよ良いよ別に。働きまくった後のが飯も旨くならァ。オイ神楽、くれぐれも俺の分まで食うんじゃねーぞ」
 殊勝そうな態度をやや見せてはいるが、口をもぐもぐと動かすのは止めずに、二人。正直な事である。久々に重労働をして疲れているのかも知れない。こちらも疲れているのもあって、投げる悪態もそこそこに銀時は運んで来た膳を抱え直して、食器ごと厨房に隣接した洗い場へと運んだ。
 「じゃ、そこらに置いときますんで」
 「はいよ、ご苦労さん」
 洗い物をしている中年女性の従業員に声を掛け、教えられた手順通りに汚れた食器を並べ置くと、銀時はうーんと呻いて腕を伸ばした。一応は鍛えているので労働として疲れてくたくたと言う程でも無いのだが、矢張り日常的に余りしない動作をすると、予想だにしない様な筋肉が痛んだりする。
 「あっ坂田さん、悪いんだけどちょっと頼まれてくれない?」
 「はい?」
 夕飯を食べて少し落ち着いたら、次は清掃の時間だ、と考えながら厨房へ戻ろうとした銀時の背に不意にかけられる声。厭な予感を憶えつつも、バイト初日から不満たらたらな態度を出す訳にもいかない。反射的に作り笑いで振り向けば、そこには先頃まで同じ様に給仕仕事をしていた女性従業員が立っていた。その手には盆と、乗せられた生ビールが一本。そしてグラスが二つ。
 「これ、離れのお客様に頼まれているんで届けてくれないかしら。私これから注文されたデザートを石楠花のお部屋に運ばなくちゃならなくて」
 部屋の名前には号数ではなく花の名が付けられている。まあ確かにその方が雅と言うかお洒落な感ではある。従業員の言う石楠花は確か大部屋だった。恐らくは宴会でもやっていて、急ぎで注文を受けたのだろう。
 「ああ、やっときますよ。離れですね?」
 おろおろと視線を忙しなく動かしている従業員に、軽く請け負った銀時が手を差し出せば、「ありがとう、助かるわ」とあからさまに安堵した様子と共に気持ちの良い笑顔を返された。
 「時々頼まれるのよね。お部屋にお運びしたら、栓だけ開けて入り口に置いておくだけで良いから」
 「はいはい」
 頷いて、生一本の乗せられた盆を受け取れば、従業員の女性は指示もそこそこに、ばたばたと慌ただしく厨房へ走り去って行く。手元のビールをちらりと見下ろした銀時は、これを今呑めたら幸せだろうにと思って口中に自然と溜まった唾をのんだ。空腹の胃に、大衆食堂の濃い味付けの焼き鳥などを添えながら、生をぐっと流し込みたい。
 だが今は酒は疎か、飯さえ取り敢えずはお預けだ。溜息をつきながらも盆をしっかりと持ち直すと、銀時は厨房の裏手にある勝手口を出て、少しショートカットをしつつ中庭へと向かった。建物の地理を把握するのは得意なので、まだ務めて数時間しか経っていないにも拘わらずすっかり慣れた足取りである。
 中庭は当然屋根のない屋外だが、元の地形も多少利用しているのか、綺麗な水の張られた池と川とを循環させる滝があって、爽やかな水の匂いがする。それに、標高の高さもあってか基本的に涼やかだ。窓から外の山を見る眺望に負けぬ様にか、山の風景を背後に背負った立体的な風景が大胆に造られており、歩き易い様に歩道も整えられていた。
 辺りには季節の庭木がふんだんに植えられ、石灯籠を模した雰囲気のある灯りのほか、樹木の根元にはライトアップ用の灯りが夜の中に白い光を投げている。
 滝の付近には朱塗りにされた太鼓橋が架けられていて、きっと宿を紹介するパンフレットにはこの辺りの写真が欠かせないだろうなと、銀時はそんな事を考えながらも、見事な風景を横目に離れへと向かった。
 ナントカ庵、とか名前のついていそうな古めかしい建物は、偉い人や学者などが隠棲してでもいそうな、如何にも、と言った感のある佇まいだ。入り口には竹を編んで造った衝立の様なものがあり、それに隠される様にして小さな引き戸の扉があった。
 扉には『梔』と書かれた木札と、矢張り梔の花を透かし彫りにした飾り板が並べて掛けられている。宿では、先の石楠花同様に梔の部屋と言うのが正式名称なのだろうが、離れ、でまあ通じるだろう。
 「すんませーん、ルームサービスお持ちしましたー」
 一応そう声をかけつつノックをするが、中から返事は無い。元から気休めの様なものであったが、ノックをした手の甲をちらと見て小さく溜息を吐く。
 まあ良いかと思って戸を開けると、履き物を脱ぐ玄関があった。玄関から部屋へ通じる襖はぴたりと閉ざされ、室内の様子は窺えない。
 そんな玄関には、室内に置いてあるメモ帳を切り取ったものが、こちらは片付けて欲しいと言う所なのだろう、湯飲みの乗った盆と共に置かれていた。
 『食事等はここに置いていって下さい。片付けは二時間後ぐらいにお願いします』
 いちいち返事をするのが面倒だからそう書いて置きっぱなしにしてあるのだろう。綺麗な筆跡で書かれたメモを一瞥すると、ふむ、と頷いた銀時は生ビールの乗った盆を置いて、その横に腰を下ろした。栓抜きを取り出すと蓋を開ける。
 それから湯飲みの乗った方の盆を取り上げかけ、そこでふと思いついて、どの部屋でも大体玄関の近くにある物入れを目で探した。
 そう頭を巡らせるまでもなく首尾良く見つけたそこを、渡されている従業員用の鍵で開き、中に仕舞ってある備品から茶葉の入った袋を取り出した。本来ならば茶筒に補充する所までが仕事なのだが、肝心の茶筒は多分室内だ。少なくとも玄関付近には見当たらない。
 まあ気付けば自分で茶葉ぐらい入れる事も出来る。仮にここに寝泊まりしていると言うお姫様がそう言う事を出来ずとも、護衛が何とかするだろう。
 決め込んで、未開封の茶葉の袋と、どの部屋にも常備してある新しい湯呑みとを生ビールの乗った盆の上に置くと、洗い物の湯飲みの乗った盆を代わりに持って銀時は立ち上がった。
 (それにしても生ビールね。お姫様って感じじゃあねぇが…、まあグラスも二つだし、護衛に振る舞うとかそう言う感じか)
 「じゃ、失礼しましたー」
 一応中に聞こえる様にそう声を上げてから、銀時は離れを後にした。が、池の畔まで歩いた所で、「あ」と気付いて足を止める。作務衣に付けられた内ポケットを服の上から手で叩いた銀時は、そこに目的の感触が無い事に気付いて頭を抱えた。
 従業員用の鍵束がない。三人の中で銀時にだけ渡されたものだ。普段なら落とさない様に紐で作務衣にくくりつける様になっているのだが、急なバイトだったもので取り敢えず今は紐が用意されていなかったのだ。
 恐らく先ほど茶葉の在庫を探した時に使って、その侭置いて来て仕舞ったのだろう。
 「あちゃあ…」
 空腹は腹を鳴らしているし、夜の中庭はやはり、灯りがあっても薄暗く歩き難い。面倒臭い、と正直な所を思いながらも、銀時は急いで離れへと取って返した。こんな下らない事で何かトラブルが起きても困るし、バイトを初日から馘首になるのも御免である。
 「すんませーん、忘れもんを、」
 そう声を掛けながら戸を開いた銀時は、先頃見た時にはぴたりと閉ざされていた襖が開かれているのを目の当たりにした。
 そして、中から出て来たと思しき黒い着物の男が、盆を手に正に今立ち上がろうとしている姿と出会う。
 
 「………」
 「………」
 
 矢張りノックはするべき文化だった。そう心底に思って、銀時は所在の無さを持て余す様に、曖昧に引き攣った顔で笑いかけた。真選組副長を名乗る、土方十四郎と言う名をした男に向けて。







  :