密花に宿れば / 4 辛うじて、硬直から先に脱したのは銀時の方が少しばかり早かった。 顔を殆ど動かさず視線だけで、先頃置き忘れた『忘れ物』を探り出すと素早く手で掴み取る。この予期せぬ事態を期せず招く事となった、従業員用の鍵束。冷たいその感触を掌で確認すると、空いた手をひらりと振って背を向ける。 「じゃ、そう言う事で」 「おいコラ待てや」 然し動き始めた人間に対する反応速度は土方も速かった様で、背を向けた頭部を鷲掴みにされて「いててて!」と銀時は無視も出来ずに仰け反らされる。 「髪はやめろ、取れたらどうすんだ!いや取れねーけど!」 「だから待てってんだろ。心配しねェでもてめぇのその爆発頭は一生切っても切れねェわ」 容赦無く鷲掴まれて引っ張られる頭皮の痛みに喚く銀時を見てか、土方は存外にあっさりと手を放した。玄関から少し高い位置に居たから、きっと咄嗟に掴むものが他に無かったのだろう。好んで掴む訳無ェだろうとでも言いたげに肩を竦めると、瓶ビールとグラスの乗った盆をちらと見遣って溜息をひとつ。 「…で、何してやがる」 「それが人に物を尋ねる態度かってんだよ。……見りゃ解んだろ、バイト中以外に何だと思えんだよ」 土方が玄関の上に立っている為、相も変わらず見下ろされている高低差と角度である。それどころか、盆を抱え直して立ち上がった為、更にその角度が急を増す。 「そう言うオメーこそ何してんのこんなお高い宿で。チンピラ警察ってそんな高給取りだったっけ?お羨ましいこって」 下方から見上げた所で、その基本的な造作が変わる訳でも無い。見慣れた顔ではあるが、それがいわゆる所の美男である事を再認識させられた気がして、銀時がやっかみじみた物言いをすれば、てっきり何かを言い返して来るかと思われた土方は、然し鼻白んで言い淀んだ。 「、俺は」 そのあからさまに動揺した様子と、離れの利用客について聞かされた説明とを思い出して銀時はぽんと手を打った。 「……ああ、」 離れに逗留しているのは、顔をも出せぬ様な大層なお姫様らしいと言う話。 それと、答えや反論を言い淀んだ美丈夫のらしくもない様子。 「成程、そう言う奴ね。悪ィ悪ィ、別にお邪魔とか下衆の勘繰りとかそんなつもりは無くて、鍵を忘れただけのただの従業員だから」 簡単な足し算だ、と思った銀時がそそくさと立ち上がろうとすれば、今度は肩をぐいと掴まれた。 「じゃねェよ、良いから待てってんだろ。てめぇ、バイトって言ったな?つまり従業員なんだろう?」 念を押す様な言い種と共に目を眇められて、何様の睨み方なんだよと銀時は口をへの字に歪めた。振り向いて立ち止まった事で矢張りあっさりと離れて行く手の動きを何となく目で追う。 黒っぽい着物姿と言う所だけはよく見慣れたそれと殆ど変わらないのだが、矢張りこんな宿を利用するからなのか、仕立ての良いものを着ている様だ。それもあってかいつもより妙に落ち着いた所作に見える気がした。 ……頭や肩を無遠慮に掴む力ばかりは、いつも通りの暴力警官の侭であったので、気の所為だろうが。 「ああ」 歯車が僅かに傾いている様な、微細な違和感を抱えた銀時が溜息混じりに頷けば、土方は空いた手で室内を指して言う。 「なら少し付き合え。話してェ事がある」 部屋へ上がる襖に出来た隙間は、土方一人が体を入れられる程度。つまり室内の様子は依然として全く窺えない侭なのだが、示されたそこへちらりと視線を走らせて、それから土方の姿を再び見上げてから銀時はかぶりを振った。苦く笑う。 「…や。俺そんな野暮天じゃねェから」 「だから違ェってんだろうが」 再び鋭い視線で銀時を睨み降ろした土方は、不作法にも足で襖を蹴り開けた。晒された広めの和室は、中庭に面した大きな縁側を備えていて、調度を見ても明らかに他の客室とは格が違う事が窺えた。華美ではなく落ち着いた装飾がそこかしこに見受けられ、如何にも風雅さを漂わせている。 建物の形からしても、恐らくは寝室なのだろう部屋がもう一室左側にある筈だ。襖で閉ざされていたが、そちらも同じぐらいに閑かな高級感のある造りなのだろう。 そんな広い室内だが、確かに、今し方襖を足で蹴り開けると言う、部屋に対する冒涜としか言い様の無い真似をしてみせた土方の他には人の姿は無い。それでも、つい、と言った感で銀時が閉ざされた寝室の襖へと視線を投げれば、土方は溜息を引き連れて室内へと入って行き、盆を持たない手で襖を勢いよく引き開けてみせる。 果たして、覗き込んで見る迄もなく室内には誰もいなかった。これで納得したか、と言いたげな様子で、卓の上に盆を置く土方を見て──実の所端からそう頑として疑ってかかったと言う訳でも無かったのだが──銀時は頬をかいた。 「俺、一応仕事中なんだけどな?」 「掃除を頼まれたとか適当に言っときゃ良いだろ。上客サマの言う事には逆らえねェ、ってな」 どこか自棄っぱちな仕草でそう言って口端を綺麗な形に吊り上げてみせる、土方の態度も仕草も銀時の見慣れきったチンピラ警察のそれで、先頃感じた違和感の様なものはもう何処からも感じられない。 言う間にも土方は瓶ビールを傾けると、二つあるグラスに均等に注いだ。護衛に振る舞うのだろうと判断したのか二つ用意されていたグラスは、偶然にも銀時の為と言う用途を果たしてくれそうだ。 「……しゃーねぇなぁ」 頭を掻きながら言うと、銀時は草履風のデザインをした、従業員用の底の低いサンダルを脱いだ。 土方がどう言うつもりなのかは解らないが、休暇中に知り合いに会ったのが嬉しくて、ビールを振る舞ってくれた、などと言う事では無いのは確かだ。顔見知りの腐れ縁と言う関係性ではあるが、そこまで親しい間柄でも無いし、そもそも土方自体そう言う性格はしていなさそうだ。 部屋に上がって襖を閉じると、煙草の匂いが僅かに漂っている事に気付く。窓辺に灰皿が置かれている様子からも、極力外に向けて吸ってはいた様だが、それにしても土方がこの離れでそう短くはない時間を過ごしているのは間違い無さそうだ。 「お客さん、うちは全館禁煙なんですけどね」 「るせぇな、窓辺でぐらい大目に見ろや。これでも本数もかなり控えてんだよ」 咎める様に言いながら向かいに腰を下ろす銀時を、グラスを手に取った土方はむっと睨んで来る。まあ確かにいつものこの男のペースですぱすぱ吸っていたら、とっくに離れはヤニだらけになっていた事だろうが。 厄介事や面倒な話の予感がひしひしと首を擡げ始めるが、先頃感じた、疲れた体にビールを思い切り流し込みたいと言う誘惑の強さに、気がついた時には自然と手が伸びている。 乾杯の仕草をしてみせる土方に同じ様に返して、銀時はヤケクソの様にグラスを呷った。空腹の胃へと落ちる、アルコールの強い熱に、感嘆とも安堵ともつかない溜息が漏れる。 見れば向かいで土方も同じ様に、ぷはァ、と気持ちよさそうに息を吐いている。 (これのどこがどうなりゃお姫様だってんだよ) どこをどうした所で、お姫様やお嬢様と言うよりは、自分と対して変わらぬオッさんも良い所の態度である。一体全体何故、『お姫様が離れに泊まっている』などと言う話になったのやら。 そうしてしみじみと溜息をついた土方は、 「従業員って言うてめぇの立場を見込んで、頼みてェ事がある」 そう、酔う気など無い様な真剣な顔をして、そんな事を切り出した。 。 ← : → |