密花に宿れば / 5 「てめぇに折り入って頼みてぇ事がある」 …などと、珍しくも前置いてからの上官の言葉に、土方は厭な予感をまず憶えた。 だが制止が出来る筈も無く、する権利も(多分に)無く、仕方なく身構える猶予すらも与えてくれぬ侭に、その言葉は殆ど続け様に放たれた。 「実はな、脅迫状が届いたのよ」 「…脅迫状、だァ?」 夏も真っ盛りの真選組屯所、副長室での事だ。思わず素っ頓狂な声を上げた部屋の主に相槌でも打つ様に、軒下に下げられた風鈴が微風に揺られてちりんと鳴った。 珍しすぎる前置きに続けてそんな単語を口にした松平片栗虎は、土方のそんな反応など想像済みだったのかそれとも単にどうでも良かったのか、更に間髪を入れずに、 「そう、脅迫状としか言い様のねェもんだよ」 と、煙草の煙を吐きつつ頷いてみせた。 「とっつァんに?」 「いーいや残念ながら違ェ。ま、いつも脅迫状みてェなもんは貰ってるがな。ほらオジさん人気者だからね」 「…………」 きょうはくじょう、と口の中で一度その単語を転がしてから土方は、確かにこの食えない親父が今更脅迫状の一通や二通で動じる訳も無いかと思い直し、さて、それでは一体誰についての話なのかと訝しんだ。 いつもの事ながら唐突に予告も無しに現れて、前置きは入れたもののほぼ一方的に『頼みてぇ事』とやらを投げて寄越した松平の顔を──正確には色の濃いサングラスの向こうの、感情の読み難い目を半ば睨む様に見返す。 この上官の事だ、どうせ真選組に端から断ると言う選択肢など恐らくは用意していまい。厭な予感しかしない。そうは思ったが一応訊いておく事にする。 「…で、何だ、その脅迫状とやらの送り主でも突き止めろってか?」 「ンなのとっくに警察の総力上げて調べたに決まってんだろう。まぁどうせ特定は出来てねぇんだけどな」 「駄目じゃねェか」 警察組織のトップとして、自信たっぷりに言う事でもない。思って口元を引き攣らせる土方に向けて、松平は懐から薄ぺらいビニール袋を取り出すと放って寄越した。インデックス用のシールの貼られた、A5ぐらいの大きさの、口にチャックのついたビニール袋。鑑識用のものだ。透明なその中には、綺麗に折り畳まれた紙が入っている。 手紙だ。その表面には『絹姫様』と、宛名がそれなりに流麗な筆致で書かれている。 「そこにある絹姫様ってのは、まぁてめぇでも聞いた事ぐれェあるたァ思うが、宮家を親類に持つお公家さんとこに、徳川の家から嫁に行った御方だ。要するに、止ん事無き人、の部類だァな」 「そんぐれェ知ってら」 絹、と名を反芻した土方は、聞いてもいないのに説明を寄越す松平に苦々しい顔を向けつつも、手紙の入った袋を幾度か表裏へとひっくり返した。 一時期市井でもそれなり話題になった話である。何ヶ月か前に、徳川家と宮家との縁談、とニュースを騒がせていたのを土方は憶えている。 実際には宮家そのものではなくその親類の家ではあったが、それでも武家の頭領である徳川家と朝廷に仕える公家との間で婚姻が成立するなど、易々考えられない話ではあった。 そんな奇跡の婚姻として選ばれたのが、徳川に連なる姫の一人である絹姫だった。彼女は生家の紀州徳川家から一度家名の高い貴族の家の養子となり、そうして嫁いで行った。果たしてそれが幸せだったのか望んだ事であったのかは誰も知らないが、少なくとも恋愛結婚では無かった事だけは確かだ。 それでも、目出度いニュースとして少しの間報道されたのもあり、取り敢えずその婚姻は祝福されるものとなった。 その絹姫だが、現在の住まいは京の都である。松平の話からすれば、恐らくこの手紙が件の脅迫状とやらなのだろうが。遠い京の事では江戸の武装警察の出る幕では無い。 そんな土方の疑問に偶然にか狙ってか、答える様なタイミングで、松平は口元の煙草を揺らしながら口を開いた。 「実は絹姫は先日めでたくもご懐妊されてな。で、一度里帰りと保養と挨拶回りってんで、紀州、江戸とお忍びで旅をして来たばかりだ。そこにその、無粋極まりねェファンレターが届いたってんでもう、御城は蜂の巣を突いた様な大騒ぎよ」 肩を竦めながらもどこか他人事の様に言う松平の様子に、土方は絹姫の護衛たちへ向けて胸中で同情を捧げておいた。ただでさえ京を遠く離れて、勝手も違って大変な中だろうに、江戸の警察のトップがこの調子ではきっと相当に気を揉まされた事だろう。 「お忍びだってのに所在を正しく把握してる熱心なファンがいる様だな。で、そのファンレターとやらの内容は?具体的に」 「ま、ひねりの無ェいつもの調子よ。いちいち憶えちゃいねェが、犯行予告と取れる文面だったのは間違いねェ」 勝手に証拠品に触れる訳にもいかないので、なんとなく電灯に手紙を透かし見上げながらの土方の問いに、矢張り松平の態度は相変わらず淡々としたものであった。絹姫にも胸中で同情を投げる事にした土方は、「成程」と相槌を打ちつつ、手紙の入った袋を畳の上へと戻し置いた。 朝廷に取り入る幕府がどうたらと、どうせ大した内容でも無いのだろう手紙──の入った袋を、松平は拾い上げると懐へと元通り仕舞いながら言う。 「ま、そんな訳でな。絹姫は明日から保養の為に温泉に行く予定だったんだが、取り敢えず危険なんでな、止めて貰う事にしたのよ」 拐かしか暗殺か、どちらにせよ『犯行予告』となれば到底穏やかな状況とは言えまい。よくある、アイドルへの嫌がらせじみたファンレターとは訳が違うのだ。 何しろ相手は「お忍び」での姫の帰郷を正しく追って来たのだ。もとい、江戸を拠点とするテロリストが姫の帰郷を狙って事を起こそうと目論んだと言った方が良い。そうなると、江戸城内部の事情に明るい者がまず容疑者として挙げられる事になる。幕府の権力強化の為にと姫の婚姻を推し進めた幕臣連中にとってはとんでもない風聞だ。 「当然だろそりゃ」 「で、だ、」 江戸城に滞在するのでも危険と言う事になりかねない事態だが、温泉宿など不特定多数の人間が居る所に行くのは更にリスクが高い。安全の確保にも勝手が利かない上に当然の様に警備も難しくなる。絹姫には申し訳無いが、どこか安全な屋敷で大人しくしていて貰うか、とっとと京へ戻って貰うと言うのが無難な対策だろう。 (…だが、そうだとしたら真選組(うち)にとっつぁんが話を持って来る理由にならねェ) 厭な予感へと解答を運んで仕舞った事に自分で気付いた土方は顔を顰めるのだが、ぷはァ、と濁った煙を勢いよく吐き出した松平は、土方がどう言う表情をしようが態度を取ろうが気にするつもりなど矢張り無かったのだろう、淀みなく続ける。 「警察としちゃァ、脅迫状に怯えて動けません、でも、とっとと逃げ帰りました、でも、問題な訳よ。トシよ、てめェなら解るだろ?こんな商売、舐められちゃお仕舞ェなんだよ」 標的とされた人間の身の安全が第一だ、とはよく言われる事だが、それよりももっと大事なものがある。それは世論と面子である。どちらも役人である警察組織にとっては意地の一言しか結果にならない様なものなのだが、示威的な役割を果たさなければならないと言う意味ではそれは最重要の部類に入ると言える。 「……」 解る、が頷かずに土方は続きを無言で待った。どうも、安易に追従するとただでさえ面倒そうな事が、更に面倒になりそうな気がしたのだ。 「と言ってもスケジュール通り山ン中の温泉なんぞ暢気に行ってられる筈もねェ。…つぅ訳でな、オジさん盆休みも家族サービスも返上する覚悟で考えたのよ。護衛対象を安全に護りつつ、予定通り温泉宿もキャンセルせずに済む完璧なプランをな」 「ほう」 自分でも解る程に気のない相槌だった。然し片眉が自然と持ち上がったのは、どこか得意気に語る松平の姿に、己の感じていた『厭な予感』が具体的な形を作り始めるのを感じて仕舞ったからである。 そんな土方の表情は大凡友好的なものでは無かっただろうに、松平は何やらにやにやと上機嫌そうに笑うと、無精髭の痕の残る己の顎を撫でながら言う。 「なぁトシよ、どうして俺がゴリラの所に行かずに最初に──最初からわざわざてめェの所に来たと思う?」 「……さぁ?俺が知る訳ねェだろそんなん」 答えながらも、乾いた息が押し出される様に漏れた。確かにそれは当初から気にはなっていた事なのだが、ひしひしと感じていた『厭な予感』を肯定する要素にしかならないと思って、深く考えない様にしていたのだ。 真選組に『頼み事』があるならば、松平は実質真選組のトップの、更に上の存在だ。直接口頭で伝えずとも電話の一本や命令書の一枚でも出せばそれで事足りる。 直接話さなければならない事でも、先頃本人の言った通りに近藤に伝えれば済む。と言うよりは寧ろそちらの方が正しい手順だ。近藤が屯所に居ないとか、已むない事情でも無い限りは、組織の二番手である土方に話を持ってくる理由が無い。況して副長室は土方の私室も兼ねている為に屯所のかなり奥に位置しているのだ。『わざわざ』訪れない限りは、松平が土方に『頼み事』などと言って組織を動かす事に関する様な話を持って来ると言う、この状況は普通はあり得ない。 最初に、を、最初から、と言い直したその意図をも含めて、土方は鼻の頭にそっと皺を寄せる。 それこそ可能性としては、土方に直で関わる私用程度の事しか無いだろう。だが、話を聞く限りでは、脅迫状だの護衛対象を護るだの、土方が個人で負える様な事でも無さそうだ。 そして松平は、私用であれば逆に近藤だろうが土方だろうが、警察庁長官の執務室に直接呼びつけるタイプの人間である。 (……つまり、俺にまつわる厄介な話か、俺自身に厄介な事を頼む必要があるとか、そう言う話しか有り得ねェって訳だ) 『厭な予感』はどうやら的中しそうで、しかも回避方法は無いと来たものだ。袋小路に迷い込んだ野良犬の様な気持ちになりながら目を泳がせる土方に、矢張り構う様子もなく松平は続ける。 「手筈としちゃこうだ。絹姫ご本人には江戸近郊の屋敷で極秘に、安全に匿われて貰う。で、その間姫の身代わ…もとい、影武者がスケジュール通りに温泉宿へ向かう、と。で、騙された狼藉者がのこのこ現れた所をお縄って寸法だァよ」 「オイオイ、身代わりってはっきり言っちゃったよこのオッさん」 それが松平の考えた完璧なプランとやらなのか、妙に得意気にうんうんと頷いてみせる男を、土方はげっそりと肩を落として見つめた。 「…て事は、その影武者の護衛を真選組(うち)…、つぅか俺に頼みてェとかそう言う話か?」 あぐらをかいた膝の上で頬杖をついて、土方は溜息をつく。そんな土方に松平は一言、 「いーいや、まぁ八割正しいがちこっと違ェんだなこれが」 かぶりを振ってそう言うと、再び懐を探った。そうして次に取り出して見せたのは、小さな長方形の写真だった。 「こいつが絹姫様の御影なんだがな、」 受け取った土方は写真をじっと見つめる。そこには、どこかの庭園で撮ったと思しき、豪奢な着物を纏った女性の立ち姿が写し出されていた。春に撮影したものなのだろう、垂れ下がった藤の花の紗幕に縁取られる様にして、まだ二十代程度の女が淡く微笑んでいる。 「佳い女じゃねェか」 「ほーぉ?そう言うのが好みか」 思わず正直な感想を述べる土方に、ずい、と膝立ちになった松平がにじり寄って来る。何やら相変わらずにやにやと笑っているその顔に、土方はふんと鼻から息を吐いて肩を竦めた。 「一般的な感想だ。人妻にゃ興味ねェよ」 ニュースとして婚姻が報道された時は、止ん事無き御家に嫁ぐと言う事情もあってか、写真や画像の類は新郎新婦共に全くメディアへ露出が無かった。その為に、噂の姫は実は醜女なのではないかなどと言う下衆の話題にも一時期なったらしいのだが、写真を見る限りではどうやら真相はその逆であったらしい。 黒い髪を結い上げた女は、少しばかりキツそうな容貌ではあったが、普通に美人と呼べる質だ。実際の器量や性格の程は知らないが、まあ容姿を台無しにする程のものでは恐らくあるまい。そうでなければとても重要な婚姻の、嫁ぎ役として抜擢される筈も無い。 「で、な。顔がそこそこ美人ってだけなら、くのいちとか影武者に適した人材は居たんだがな。ほれ、写真よく見てみろ」 「……?」 指されて土方は今一度手の中の写真を見下ろした。そうして三秒、気付いて眉を寄せる。 「……………こいつァ、女にしちゃ随分丈があるな?」 被写体が一人きりなので解り難かったが、庭園の四阿に設えられた藤棚の、垂れた藤が顔に近い。実際のスケール感が解らない為に具体的には何とも言えないが、この様子だと土方と同じぐらいか、下手をすればそれよりも少し大きいぐらいかも知れない。 「大ぁい正解。絹姫様は、痩せてる上にスタイルが整ってんのもあってな、こうして比較対象が無いと解り難ェが、身の丈がそこらの男より余程に大きいんだよ。で、ついでに言うとそれが外見的特徴としちゃァ、美人って所よりも大きく知られてるっつぅ話でな。そこらのくのいちじゃ身代わりなんて到底務まらねェって訳よ」 「……………………」 そう言った松平は、態とらしい仕草で、土方の手の中の写真と、それを見つめる顔とをちらちらと交互に見比べ始める。その動きと言動とに『厭な予感』が瞬時に脳内で形を作り上げるのを感じて、土方は引き攣った笑いを浮かべた。 断るなどと言う選択肢は端から用意されていない。恐らくは。否、確実に。 身代わり。身長の高い女性。そして土方を直接訪ねて『頼み事』などと言ってのける松平。これらの材料から出来上がる完成予想図などそう多彩では無い。寧ろ解り易い。 「………まさか、たァ思うが、とっつぁんよォ…、てめぇ、」 「う〜ん、やっぱトシよ、てめぇが一番適任だ。間違いねェ。オジさん太鼓判押しちゃうよ。この身代わ…、任務は手前ェにしか務まらねェよ。 大ァ丈夫大丈夫、女なんざ化粧で皆同じ顔になれるから。オジさん正直最近のアイドルグループの顔の区別とかつかねェから」 呻く土方の肩をぽんぽんと叩いてまくし立てる様にそう言うと、後はもう部下の話に耳など一分たりとも貸す気が無いと言う事か、松平は携帯電話を取りだしてさっさと操作を始める。 「あー、俺だ。生贄…もとい身代わりが見つかった。衣装とか小道具の準備と手筈は一任すっから後は適当にやらせとけ。じゃ」 「待てェェェェェエエ!ちょっと待てェェェェェ!!」 明らかに避けたい角度で飛んで来た厭な予感──或いは面倒事に、思わず絶叫し立ち上がる土方を完全に無視して通話を切ると、松平は事も無さげに言う。 「大丈夫だ、てめぇはただ綺麗なおべべ着て座ってりゃァ良いんだよ。後は適当に襲撃されとくだけの簡ァん単なお仕事よ」 「生贄とかさっきさらっと抜かしてただろーが!畜生、ふざけてんじゃ、」 文句を言い連ねかけた土方の額に、ごりっ、と音を立てて厭な、鉄の感触が触れて言葉が止まる。反射的に仰け反った顎先を物騒な銃口でとんとんと突きながら、横暴を通すのに何かと銃火器を抜く癖のある警察庁長官は、サングラスの奥の瞳を細めた。 笑っている様にも見えるが、明らかな恫喝の意をそこから正しく汲んで仕舞った土方は、このオッさんが来た時点で既にこうなる結末以外の道が果たしてあっただろうかと考えかけて、然し途中で止めた。ある訳もない答えを探しても仕方あるまい。 「受けてくれるな?オジさんの『頼み事』」 「………おうよ。何でもやってやらァ」 銃口を眼前にちらつかせられて、露骨に引き攣った笑いを浮かべて言う土方の態度に満足でもいったのか、松平は銃をそっと九十度上に向けると、安全装置を戻して懐へと物騒な火器を仕舞い込んだ。冗談でも、犯罪者以外の人に向ける時に安全装置を解除しておくのは止めて欲しい。否、と言うか取り出した時点で既に安全装置なんてかかっていなかった気もするのだが。 (……考えても無駄だな) 脳裏を過ぎる諦めと言う単語を口中で転がして、土方は自棄めいた仕草で元通りに腰を下ろした。用事は終わったからか松平は帰るつもりの様で、立ち上がった侭でいたが、見送ってやるつもりなどさらさら無い。土方は新しい煙草をくわえながら松平を見上げた。 「言っておくが、品を作る気は無ェし演技に励んでやる気もねェからな」 それは半ば捨て台詞としか言い様の無いものだと自分で言っていて知れたし、松平もそう取ったらしい。彼はむくれて言う土方を宥める様な態とらしい仕草で手をひらひらと振る。 「解った解った。ま、自分からバレる様な事をしねェ限りは休暇とでも思ってのんびり過ごしてりゃ良いから。後は襲撃されて返り討ちにすりゃ良いから。簡単過ぎて羨まし〜い仕事だよ」 「で?本物の絹姫様の方はどうすんだ」 「真選組から、人員割いて貰うに決まってんだろ勿論。ま、大仰な護衛態勢にすると本物が居るってバレちまうかも知れねェからな、飽くまで少数精鋭だ。何なら副長(てめぇ)で見繕っておいてくれや」 「当然だろうが。本物にも影武者(俺)にも、相応の人員を配させて貰いでもしねェと、おちおち安心してやってらんねェよ」 松平の態とらしい言い種に苛立ちながらもそう言うと、盛大な息を吐きつつ土方は早速人員を見繕う為の名簿を棚から取り上げる。頭の中は面倒な任務と言う言葉から既に、万全の仕事への備えに変わっていた。 とは言え、信頼出来る任務を任せられるとなると、その人員は悩み吟味する程には多くない。秘密の厳守が絶対で腕が立つと言う条件も付け加えれば、更に限られて来る。 (影武者の見た目に拘りまでするって事ァ、本物の姫さんの方は極秘扱いだな。完全に本命は釣り餌になる俺の方って事だ。…って事ァ、信用の置ける人間が必要なのは勿論、敵さんが怖じ気づいちまう様な警護も無しって事だ。そうなると……、) 名簿をめくって幾つかの名前をメモへと書き写した所で、土方は未だ長く残った煙草を灰皿へと突っ込んだ。厄介事だ面倒事だと言いながらも、結局は与えられた任務に向き合って仕舞う己の性情は、果たして松平には御し易いものなのだろうか。いつも否を言わせるつもりのない上司であるだけに、その辺りは実のところよく解っていない。 「後から資料を寄越すが、影武者の投宿する宿は、高級宿として有名な仙風閣って所だ。で、てめぇはちゃんと、『お姫様』になりきる化粧の練習ぐらいしとけよ?衣装もその時届けさせるわ。あと、高級品だからくれぐれも汚すんじゃねェぞ」 土方が仕事に励む姿勢を見せた事で納得したのか、単に用件は全て済んだと言うだけなのか。そう最後に釘をがっちりと刺す様に言うだけ言うと、松平は来た時同様にあっさりと帰って行った。見送るつもりなど無い土方はその足音が遠ざかってから、盛大に溜息をつくと、卓の上へと拡げた名簿に突っ伏して渋面を形作った。 身長の高い姫。その影武者。或いは身代わり。或いは生贄。 つまりは土方が、先頃見た姫の写真の様に、化粧をして髪を結い上げ女物の豪華な着物を纏って、襲撃とやらの訪れを待たなければならない、と言う『頼み事』──否、任務。 「…………」 考えただけで気鬱さがずしりと肩上にのしかかるのを感じて溜息を吐き出すが、それでも重みは何処へも去らない。 女装をして温泉宿へ行くだけの任務。極力軽くそう簡潔に思おうとするのだが、それそのものにそもそも軽さなど無い事に気付いて仕舞い、土方はそっと頭を抱えた。 。 ← : → |