密花に宿れば / 8



 「ねぇ知ってる?離れの『お姫様』、中庭に出て来てたよ」
 温泉宿の夕食は得てして早い時間帯に供される事が多い。この宿もその例には漏れず、特別なオーダーが出ない限り夕食は日没の時刻にさしかかるかどうかと言う時間帯になる。
 その為に食事より宴に時間を費やす様な大人数の宴会ならばともかく、普通の部屋は夜の七時を回る頃には膳を全て下げて仕舞う。慌ただしい事だとは思うが、宿の仕事のスケジュールから見れば毎日がギリギリだ。
 そうして高級な食器を傷つけない様に注意しつつ、然し手早く洗浄作業を済ませなければならないのだが、銀時は手先が器用だが何分所作が手早くなると荒っぽくなりがちだ。その為に食器類を新八に任せて、銀時は膳をアルコールで丹念に除菌し拭く作業をしていた。
 そんな所に飛び込んで来たのが、少し離れた別の洗い場で鍋などの大物を洗っている女性従業員同士の会話だった。
 「ああ、ずっと鬱ぎ込んでたって話の?で、一体どこの『お姫様』だったの?」
 「私そう言うのは詳しくないから…。ただ、背が高くて姿勢も良くて、まるで舞台役者みたいな美人だったのは確か」
 「ふぅん。かなりの長期滞在で、何もしないし部屋から出ないしで、それで護衛に囲まれて、さぞ良いご身分なんだろうとは思ってたけど…。まぁ私らには縁のない様なお方だよねどうせ」
 そうだよね、と片方の相槌が入ってそこで話は一旦終わった。それからお喋りは益体もない話へと切り替わって行く。つい聞き耳を立ててしまっていた銀時は、同じ様に聞く事に集中して仕舞っていたらしい新八の、止まった手元を促すべく軽く肘で小突いた。
 「今のって例の、土方さんの話、ですよね」
 慌てて手を動かし食器洗いを再開させながら小声で密やかに問う新八に、銀時は何となく辺りを見回して、自分たちと今し方噂話をしていた女性従業員二人以外には、他に周りに誰もいない事を素早く確認した。他の従業員はもう少し遠い所に居たり、厨房を忙しなく出入りしており、お喋りを聞き咎める様子は到底無さそうだ。
 話題が話題だけに警戒心が矢張り涌くものらしい。誰かが近づいて来たり立ち聞きをしている気配は無いと確信してから、「ああ」と、それでも小さな声をこぼしつつ顎を引いた。
 「確か外に出られないからって協力要請されたって話だったと思うんですけど…、出られる様になったんですか?」
 食器は各部屋から引き上げてから、すぐに洗浄液に浸け置きしつつ一枚一枚丁寧に洗って行く。その為に油汚れのこびりつきには困らされる事は無い。その皿の縁をスポンジで掴んでぐるりと回しながら言う新八の問いは、抱く疑問としては至極何の変哲もない真っ当なものだ。
 然し銀時は、黒塗りの膳にアルコール除菌スプレーを噴霧していた手を止めて、はぁ、と大きく息を吐いた。額を濡れた親指の腹で押して小さな痛みに顔を僅かに顰めるものの、新八の疑問に返すべき答えを上手く引っ張り出す事は出来そうもない。
 「まぁその何だ…、あんま深く考えんな」
 結局明確な回答は避けて、銀時は態とらしく咳払いをした。新八は「はぁ…」と煮え切らない答えに首を傾げはしたものの、訊いても仕方の無い事だと思い直したのか、その侭無言で皿洗いを続けていく。
 消毒用アルコールの揮発するツンとした匂いに促されて、銀時ものろのろと布巾を掴んで膳を拭く作業を再開させる。だが、その脳裏には新八に説明し難かった記憶の原因と正体とがもやもやと渦を巻き始めて仕舞っていた。
 化粧など全くした事が無いと言う土方の前に膝立ちになって、流石に本場の変装用の道具と言うべきか、充実した化粧道具の中を引っ掻き回して適当な道具を幾つか引っ張り出した。
 銀時は、断じて趣味では無く仕事の都合で化粧を自分にした事なら何度かある。その場合は殆どが適当に見様見真似のものだったのだが、隣で妙に凝り性の桂が不気味な程に化粧一つで変身を遂げるのを見て、流石は自称変装の達人かと思わされたものだ。
 銀時の化粧経験などその程度しか無い為に、銀時自身が他人に、しかも男に化粧を施すと言うのは初めての事になる。かまっ娘倶楽部の控え室には女物の雑誌も沢山置いてあり、暇つぶしにメイク術あれこれなんてものも目にした事があるが、実の所は殆ど素人も良い所だ。土方に自信たっぷりに言える程に、他人に施す『変身』じみた化粧術に自信があった訳ではない。
 着付けはバイトもした事があって知っているし、まあ遠目に『お姫様』が演じられてれば良いのだと、提案した段では気楽なものであった。
 止ん事無き家へ嫁いだ姫の、写真の中の顔には古風な化粧が施されている。嫁ぎ先を離れて一人だとしても、若い娘のする様なものは恐らく好むまい。然し公の場に出る訳でもないから、写真ほどの厚化粧はしない筈だ。
 大体の方針を決めた銀時は、引っ張り出した道具の中から白粉を手に取った。「眼閉じてろ」と言い置いて、硬質ではあるものの存外に小さい輪郭を両手に挟んで、顎を少し擡げさせる。
 (………)
 目を閉ざし顎に少し力を込めて閉じた唇。上向いた顔のその正面で、銀時の裡に涌いたこの靄の正体は、何とも上手く説明は矢張り出来そうもない。
 何とか、もやもやしたものを抱えながらも、派手にはならない程度に輪郭の固さやキツ過ぎる目元を誤魔化す様に化粧を施す事には成功した。矢張りこう言うのは思い切りが大事だ。好みの美人を描くつもりでやれば何とかそれっぽくなった。
 着物の着付けをしてやってから、長い髪の鬘を被せて本物の髪の様に丁寧に梳いて高く一本に結い上げて、最後に藤の花の垂れた簪をそっと差して、完成。
 そこからついうっかりと視線を降ろして見えた項は、なまめかしさすらあって、銀時は我知らず喉を密かに鳴らした。
 そうして造った『作品』だ。従業員も、話を聞く限りでは見事に騙されてくれた様だ。銀時も散歩する土方の様子を、中庭に隠れて窺っていたのだが、歩き方や所作に注意する様指導した甲斐もあって、遠目には『お姫様』が歩いている様にしか見えなかった。作戦と言うならば大成功だろう。
 その様を先頃の新八の問いへの回答として返すなら「女装させて外に出れる様にした」と言う一言で充分だったのだが、その言葉を紡ぎ出すのに妙な違和感を感じて仕舞ったのがいけない。
 女装、と言う言葉と知己の姿とを照らし合わせて想像し得るものを、恐らくあの『作品』は大きく凌駕しているからだ。そのニュアンスを新八に上手く説明出来る気がしなかったのだ。
 (顔の良い奴なら、化け物みてーな筈の化粧でさえも様になるって何だよ、狡くね?男で居ても女に化けても美人って呼ばれるとか世の中不公平じゃね?)
 思ってかぶりを振る。元の素材が良いならそれなりにはなると思っていたが、ここまで見事に『変身』させて仕舞うとは、自分の所業ながら思いもよらなかった。
 「そう言えば離れの『お姫様』って護衛は連れていたけど、お供のばあやとか世話係とかは一緒じゃないのよね。ああ言うお方って何も出来ないイメージだったけど、そうでもないのかなぁ。それとも護衛がそう言うお世話もしてくれるとか?」
 不意に意識に戻って来たお喋りに、今度は膳を拭く手は止めぬ侭に銀時は耳だけを澄ませた。
 「自分の身の回りの世話ぐらいは出来ないと厭だよね。ま、生まれた時から何の不自由もない暮らしをしてるんだろうから、仕方無いのかも知れないけど」
 「だね」
 洗い終えた大鍋の水切りをしながら、話を振られた方が曖昧に笑う。噂話のお喋り程度ならともかく、余り陰口とかが好きでは無いのかも知れない。
 「ちょっと貴女方、石楠花のお部屋のお客様からお叱りが入っていますよ!デザートを後で持って来る様に頼んだのに未だ来ない、と」
 そこに突如飛び込んで来た良く通る張りのある声に、銀時や新八も思わずびくりと肩を竦めて振り返れば、厨房の入り口に女将が腕を組んで立っている事に気付く。彼女のただでさえ厳格な顔つきは、お喋りに熱中していた二人の従業員の方へひたりと向けられており、まるで般若の面の様だと銀時は直感的にそんな事を思った。
 「す、すいません、忘れてました…!今すぐ参ります!」
 大鍋を慌てて手放した従業員は、条件反射の様に頭を下げると、エプロンで濡れた掌を拭いながらばたばたと駆け出して行く。
 「わ、私も手伝ってきます!」
 そう、お喋りの相手もそう言うなり厨房を飛び出し、二つの足音がすぐ隣の、厨房待機室に用意されていたデザートを持つなり慌ただしく遠ざかって行くのを聞きながら、銀時は「全く…」と額を揉みつつ嘆息してみせる女将の姿をちらりと振り向いた。般若の面の形相は既に無かったが、軽く眉が寄る。
 女将はぐるりと厨房と、そこに居る銀時らも含めた従業員たちを見回すと、着物が皺にならぬ程度に腕を組んだ。
 「下世話な噂話に花を咲かせている暇なんてありませんよ。仕事はまだまだ終わってません。気を抜くのは全てが終わってからになさい」
 言葉遣いはやんわりとしていたが、どう考えてもこれは叱責の類である。横で新八が背筋をびしりと正して洗い物をするのに、銀時も背筋こそ正しはしないが倣った。取り敢えず見た目だけでも真面目なのは大事だ。
 「食器持って帰って来たアルよ〜」
 と、そこに神楽の声を放つ食器の山が入って来た。通常、食器や食事を運ぶのには専用のワゴンがあるのだが、この方が早いと主張した神楽はまるで大道芸人か何かの様に、両手両腕に食器の山、頭の上に膳や盆とお櫃と実に器用なバランスを保って独自の片付け作業を行っているのだ。しかも何やら客にもうけが良いらしく、最早一種の見せ物と化しているらしい。
 仕事も確かにワゴンで運ぶそれよりも早い。だがそれを一瞥した女将の顔色は優れない侭、頭痛でも堪える様に額に手を当てる仕草をしながら「万事屋の神楽さん」と溜息混じりに一声。
 「食事をお下げする時には、残ったご飯はお客様に、夜食用に握っておくかどうか訊いて下さいと教えたでしょう」
 見れば、神楽の口元にはご飯粒がついている。食器を降ろしていた神楽は、やばっ、と口にはしないものの慌てて口元を袖口で擦った。最早手遅れであったが。
 どうやらお櫃に残っていた米をこっそり食べて仕舞ったらしい。ばつが悪そうに視線を游がせる神楽に、銀時も思わず嘆息。従業員の食事は大分遅くなるとは言え、他人の食事の残りをつまみ食いするとは。
 この宿では夜食のルームサービスは基本的に行っていないので、米が多く余った場合には、それを簡単に握ったものを供するかどうかを客に問う事になっている。残飯を処分しなければならない勿体なさも解消出来る良い手で、客の評判も悪くないらしい。但し、一晩経っても手を付けられていないものは朝食の支度ついでに従業員が回収する事になっている。宿や食堂は万一にでも食中毒など起こされたらアウトなのである。
 「お酒を主に頂くお客様は深夜にお腹を空かせて仕舞う事が多いのだからと、そう説明しましたよね?」
 そんな米を自分の腹に入れて仕舞ったらしい神楽へと、猶も女将の厳しい声は続くのだが、神楽はぷうと頬を膨らませ気味にして、
 「ご飯を粗末にする奴に食べさせるお米は無いネ」
 とぼそりと一言。意味の繋がらない返答に、女将がむっと顔を顰めるのが見えた所で、銀時は溜息もそこそこに割って入る事にした。
 「すんません、ちゃんと言い聞かせときますんでそのへんで…」
 勘弁してやって下さいよ、と腰低く言いながら、神楽の頭を掴んで頭を一緒に下げさせる。こう言う時はとにかく平謝りだ。
 すれば女将も、仕方がないと思ったのか、単に時間が勿体無いと思い直したのか、はあ、と露骨な息を一つ吐くと、「お願いしますよ」と睨み気味の視線と共に言い置いて、厨房に背を向けた。
 辺りに戻る、水音しかしていない静寂に、その場に居た全員が張り詰めるに似た空気が途切れた事に安堵しめいめい力を抜く。
 とは言っても渇を入れられた事は確かなので、従業員たちは忙しなく自分たちの仕事の動作を再開させる。一番忙しい時間帯はそろそろ終わりだが、まだまだ仕事は残っているのだ。下らない事で女将の不機嫌を煽りたくはないのだろう。
 ぐい、と頭を抑えていた銀時の腕から逃れた神楽は頬を膨らませた侭ぼそりと小声で呟いた。
 「あの女将は好きになれないアル」
 「まぁまぁ、綺麗な人だし親切だし、確かにちょっと厳しくはあるけど、宿の事に一生懸命なだけだと思うよ」
 皿を洗う手は止めない侭に、新八が取りなす様に言うのだが、神楽は口をへの字にした侭で何やらむくれている。別に新八の意見に反対したいと言う訳では無い様だ。好きだの嫌いだのと言う感覚は元々言葉で上手く説明出来ない所もあるから、恐らくそう言った所なのかも知れない。
 銀時はそんな神楽に除けられた手を、もう一度その頭頂に乗せた。今度はぽんと頭の上に置くだけだ。
 「神楽おめー、その台詞絶対ェ女将本人の前で言うなよ?この炎天下に碌なバイト代も稼げず放り出されんのは御免だからな」
 「……解ってるアル。これでも万事屋は仕事のプロね」
 神楽は潔いと言うべきか思い切りが良いと言うべきか、ともあれそんな性格もあって存外に切り替えが早い。殊勝な事を言うなり、「さっき持って来た食器を洗うアルよ〜」と腕まくりをして動き始めた。
 神楽が仕事に戻ったのを見るなり、銀時はちらりと腕時計を見下ろした。時刻は大体想像した通りのもので、改めて確認する迄も無かったのだが、一応そう言ったジェスチャーだ。
 「そう言や離れの客に、食事の片付けと酒を頼むって言われてたんだった。行ってくらァ」
 言ってひらりと手を振ると、予め用意していた酒を盆に乗せて、銀時は厨房を後にした。
 さて、思わぬ展開があった所為で少し遅れて仕舞ったが、噂の『お姫様』の機嫌は果たして如何なものだろう。







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