密花に宿れば / 9 ノックも無しに離れの扉を開き、そそくさと中へ入り込んでから戸を閉める。上客専用の離れなだけあって、プライバシーを重視した造りなのか、中庭からこの離れに至るまでの道中には監視カメラの類は設置されていない。 中庭は庭木が生い茂っていて、人が身を隠せそうなポイントは幾つもあるが、池にほど近い離れの建物の周辺は、離れから景観を楽しませる目的もあって寧ろ見通しが良くなっている。 だから別段人目を憚る必要は無いのだが、状況が状況なだけあって矢張り気は少々急いて仕舞う。玄関に立って、すう、と軽く息を吸うと銀時は、 「どうもォ、食器の方下げに来ましたァ」 と、意識してだらけた調子で言い放った。土方と相談し、銀時らしい調子だったら一人きり、鯱張った喋り方をした時は他に誰かが居たりする時だから出て来るな、と言う符丁を予め決めてある。 気の抜けそうな銀時の声に、ややってから襖が音もなく横へスライドして開く。然し部屋の主の姿は、中央にある卓の前だ。 いきなり襖が自動ドアになる筈もない。銀時が頭だけ突っ込んで横を向けば、そこには普通の平民の格好をした真選組隊士が膝をついていた。動かない上司の代わりにわざわざ襖を開いてくれたらしい彼の、促す様な手の動きに促されて、銀時は従業員用のサンダルを脱ぎ捨てると離れの部屋へと上がった。 卓の前の姫君未満は、どうやら余り機嫌の方は宜しく無いらしい。薄い襦袢に羽織りを、袖も通さず背に負っただけの姿でむすりと腕を組んで座している。 ちらりと振り返れば、土方の護衛として連れて来られたのだろう隊士の、首を竦める様な仕草に出会う。察して欲しいと言う事だろうか。 恐らく外の様子を窺っていてくれると言う事なのだろう、その侭隊士がそこから動く様子は無いので、銀時はずかずかと上がり込んで卓の前に適当に座布団を掴んで放ると、そこに腰を下ろした。持って来た徳利酒を卓の上へ置くと、さっさと伏せてあった猪口をひっくり返して酒盛りの支度を整える。 「…今丁度報告を受けてたんだがな。大体の利用客はもう入れ替わってるって?」 「はい。残るは長期滞在の、菖蒲の間を使っている老夫婦ぐらいの様です」 銀時の肩越しに投げられた問いを、襖の横に座った部下は正しく受け止め答えを返した。それは姫へ物騒な脅迫状を出し、襲撃の予想されている推定容疑者が遂に尽きたと言う事実に他ならない返答だ。 「あー、それなんだけどな」 それ故の姫の──姫の囮の絶賛まっ最中の土方の不機嫌顔と言う事か、と正しく解した銀時であったが、ここで黙っていても仕方がないのでおずおずと手を上げた。逆の手では返って来る土方の睨む様な目をかいくぐって、酒を注いだ猪口を差し出してはみるのだが、その鋭い視線はそちらに一瞥もくれる様子は無い。 「どうやらそのジーさんバーさんも、明後日にはチェックアウトするってよ。従業員が送迎車の手配もしてたから間違いねェ」 言って挙手した手を降ろす銀時の方を見ている、土方の眉間にぐっと皺が寄った。どうやら更なる不機嫌はどうあっても避けられそうもない。 「……だ、としたら、完全に容疑者不在って事になっちまうじゃねェか」 土方が、意に沿わぬ女装までしてこの宿の門を潜って、碌に煙草も吸えない、外にも出れない部屋に籠もりっきりになってまでここに居続けたのは、ひとえにそれが作戦だったからである。それも、上官である松平の発案した囮作戦だ。 だがどうだ、宿泊客全員が容疑者と言う状況から日は流れ、遂には容疑者らしき客も襲撃の気配も無く、送りつけた脅迫状の内容は単なるハッタリも良い所なのではないかとさえ思えて来る、今ではその寸前。 要するに、土方の慎ましやかな努力は全て無駄だったと言っても良い話になる為、そりゃあ不機嫌にもなろうものだ。寧ろ短気でキレ易いこの男がよくぞここまで保ったものと賞賛してやるべきなのか。銀時は喉奥の余計な呟きを酒を呷る事で押し流した。辛口の酒はこんな気分の時には丁度良い。 「まぁホラ、襲撃側もチーム制で入れ替わり立ち替わりしてるって可能性もまだある、かも知れねェよ?」 「そ、そうですよ副長!まだ失敗と決まった訳じゃ」 銀時の出した明らかな気休めを、然し助け船と取ったらしい隊士は、ぽんとわざとらしく手を打ってそう言ってみせるのだが、彼の奮闘空しく返るのは冷ややかな一瞥のみ。 「……」 はぁ、と俯き加減に額を、折った指の背で押さえる仕草をしながら重たく息を吐いた土方は、なみなみと注がれた猪口を乱暴な仕草で掴むと、喉にまるで放り込む様にして中身を干した。 ごくりと喉を落ちた酒精が余程に効いたのか、喉を真っ直ぐ反らせて天井板を仰いだ侭暫しの一時停止。 喉仏と鎖骨の浮かぶ薄い色の膚が、沿った顎までの綺麗なラインが、先日の化粧を施した時の情景を否応無しに思い起こさせようとして来るのに、銀時は思わずかぶりを振った。 何をどう見たって男だ。女装をさせて『お姫様』を形作ってやった所で、その実体は引き篭もり生活に不機嫌と不満とを隠せないチンピラ警察だ。銀時のよく知る、土方十四郎と言う名をした真選組副長でしかないものだ。 そうしてぼんやりと──或いは熱心に見つめていた対象が、やがて顎をかくりと元の角度へと戻した。自然と凝視していた先の銀時と目が真っ向から出会う。 「って言うかおめー、またそんな格好してるって事ァ、夜散歩でもする気とか?」 ぼうっと観察していたと看破されるのも指摘されるのも気まずいと思った銀時は、咄嗟にそう投げていた。投げてから、今は余り宜しくない方角へ自ら舵を切って仕舞ったと気付きはしたが、遅い。 土方の格好は、まあ言うなれば下着姿の様なものだ。隊服を着ていない時は滅多に着物を重ねない、簡素なスタイルでいる事の多い男ではあるが、膚に纏い付く様な襦袢一枚に羽織りを掛けただけと言う姿は如何なものなのか。女では無いが少しは恥じらいと言うものを持って欲しい。 (いや別に野郎がどんな格好していようがどうでも良いけど!目の毒とかそんなんねーし!) 結局まじまじと相手の事を見る事になって仕舞った方が問題なのだが、銀時は酒がしみたふりをして咳払いをすると、殊更に平然と、卓に頬杖をついて土方の姿を見返してやる事にした。何だか喉が渇いて仕方がない。水など持って来ていないので、仕方なく酒をちびりと呷る。 「……最初はそのつもりだったがな。てめぇらの報告じゃ、んな事しても無駄って話だろうがよ」 最早作戦の失敗と言う結末を感じているのか、土方は投げ遣りにそう言って、空になった猪口をずいと差し出して来る。一升瓶で持って来た方が良かっただろうかと考えながらも──前回の一升瓶は結局余ったので今回は小口に分ける事にしたのだ──、銀時は白い陶製の徳利を傾けて「まぁまぁ」と宥め調子の声を投げてやる。 確かに状況は土方にとっては完全に貧乏くじも良い所なのだが、だからと言って不満を垂れ流しても仕方がない。とっとと手を引いてお仕舞いに出来る万事屋とは違って、土方は飽くまで任務としてここに居るのだ。確証もあやふやな現場判断で勝手に投げ出す訳には行かないだろう。 脅迫状を送った連中が、松平の予想を違えて現れなかっただけなのか、それとも土方が引き篭もり過ぎて襲撃の隙が無かっただけなのか。或いはこれから何かが起きるのか。徒労に終わる可能性が高そうだとは言え、最後まで警戒を怠るのも得策ではない。 「まだそうと決まった訳じゃねぇだろ。投げ遣りになんのは早ェよ?」 言いつつも、矢張り言葉は気休めの域を出ない。 宿の周辺には、調べた限り他に宿の類は無く、村落も無い。そこに加えてこの夏の猛暑である。複数人が山中に潜むには余りに向かない。つまりは、もしも襲撃犯が現れるとしたら、この宿の中に他ならないのだ。 そして囮の土方が滞在を始めてから、逗留客たちはその殆どがもう入れ替わって仕舞っている。襲撃者がもしも居たとして、姫の逗留期間ずっと隙を窺っていたのだとしたら、客の入れ替わりの説明が難しくなる。 「……気楽なもんだ」 露骨に悪態としか言い様の無い言葉と共にふんと顔を背けられ、流石に銀時はむっと顔を顰めた。立ち上がるなり、寝室に置いてある、メイク道具の詰まったケースを蹴り飛ばす勢いで運んで来ると、その横にどっかりとあぐらをかいた。ぽんぽん、とケースを叩いて言う。 「取り敢えずだ、わざわざ隙を出したんだし、従業員たちも見慣れねェ展開に浮き足立ってる。おめーだけじゃなくて宿全体に隙が出来てると言っても良い状況になってんだ、まだここで止めちまうテは無ぇだろ。それこそ『贋物です』って言ってる様なもんだ」 「………まぁそりゃそうだが」 土方もこの侭作戦の失敗で引き下がるのは業腹と言う事なのだろう、渋々と言った調子ではあるが、素直にふて腐れて諦めたいと言う訳でも無い様で、不機嫌さはあれどやる気が無いと言う様子は無い。 腕を組んで唸る土方を前に、銀時は振り返って入り口付近に相変わらず大人しく座して外の物音に注意を払っている隊士に向けて「って訳だから、中庭のどこかに護衛配置して隠れてな」と指示を出した。 「オイ、てめぇ勝手に…、」 「まぁまぁ、変装ぐれェさっさとやっつけてやるから、やるだけやってみようや。最低でも一日ぐらいは続けねーと成果も解んねェしな」 文句を言いかけた土方の鼻面に向けて化粧筆をずいと突きつけてやれば、土方は鼻白みつつも口をへの字に曲げた。再びの(三度目の)女装に抵抗でもあるのか、全面的に銀時の意見に反対と言う訳では無いにせよ、少々不満そうである。 「仕方ねぇ…」 と、やがて低く呻いて観念した顔を両手で挟んでぐいと持ち上げて、銀時は「よし、決まりだな」と柔く笑った。 (……アレ?俺、どうしてまた女装させる事にこんな熱心になってんの…?) 部下が部屋を後にする音を背中に聞きながら、銀時は何だか途方に暮れた心地になって首を傾げた。万事屋として頼まれたのは、囮で自由の効かない土方にあれこれ便宜を働いてやる事だった筈だと言うのに、一体いつの間に『お姫様』を仕立て上げる事に変わって仕舞ったのか。 (て言うか問題は、なんで俺がちょっと楽しんじゃってるんだって所だろ?!) 「オイ」 「はい?!」 いきなり目の前の唇に問われて、銀時ははっと我に返った。眼前には、銀時の掌に両頬を挟まれて若干上向かせられた、『お姫様』になる前の、土方の、素顔。 「やんなら早くしやがれ。何じっと見てやがる」 「……あ、ああ、おぅ。今日も美人にしてやるから心配すんな」 「あの出来を見りゃ、もう特に心配なんざしてねェよ。良いから早くしろ、首が疲れる」 「…………」 あっさりと信頼らしき言葉を投げられて銀時は困惑した。目を閉じた男の顔をまじまじと見つめて仕舞う。果たして今までにこの犬猿の仲の男に、何か褒める分類になりそうな言葉など貰った事があっただろうか。──恐らくは無い。 共通の作戦に従事していると言う仲間意識の様なものでも芽生えたのだろうか。日頃は自分の周囲のごく僅かの人間にしか心を開かず、鬼と言う渾名を部下にも敵にも標榜する男に、そんな甘さが──否、油断が易々生じると言うのは少々信じがたかったが。 「従業員の間の反応はどうだった?確か女が一人、散歩中に通りすがっていたが」 「え。あー、そうだな、美人のお姫様って言われてたな。舞台役者みたいとか」 「つまり、容疑者の有無はさておいて、てめぇの技量は確かだったって事だろ。そこの所はこう見えて買ってんだ」 ふんと形の良い唇を持ち上げて笑う至近の顔を見て、ああコイツ本当に『目元の少々キツいお姫様』の様に綺麗な顔の造作をしてやがるんだな、と銀時はそんな事を、珍しい称賛の言葉を飲み込んでどこか浮いた思考の隅で考えていた。 お姫ぃのデビューはまたしてもお預け…。 ← : → |