人が人になるまでにたった一万三千年 / 10 気晴らしにもなるし、いつまでも屯所に引き籠もってたって仕方無ェだろう。当事者の俺が堂々としている方が却って良い筈だ。 巡回だけでも平時通り行いたい。そう言い出した土方に、頑として首を縦には振らなかった近藤と山崎も、そう何とか絞り出した正論を投げつけられれば口を噤むほかない。 二人が特別心配性なだけとは思わない。土方は自分で今の己の危うさをよく解っている。だが、外に出なければ、逃げる様にしてでも今まで通りの事をしていなければ、そうして誰かに偶々遭遇でもしなければ、その労りに似たものに触れなければ、逃がしてもらわなければ、何れ遠からず何かが破綻すると感じていた。隊内からの不審や不満か、嫌味を投げる幕臣を斬り殺すかでもして。きっと。 近藤や山崎にして見れば、土方が前向きに『症状』の改善に向かう気になった事は、土方当人の短気な気質から生じた単なる焦りの様に思えて、虚勢と紙一重の危うさを感じさせられるのだ。よもや町中で刃傷沙汰を起こすとは思えないが、それに近い事は起こり得るかも知れない。と。 土方は未だ、己の『症状』が怖れに由来したものであると気付いてはいても、それは飽く迄事件に直接関わる事象に対するもののみだと思い込んでいる。小声で囁かれる事件の噂は土方の脳に刻みつけられた醜態の記憶をその都度引っ掻き、瑕と懊悩とを深める。 それ自体にも間違いはないのだが、土方は『症状』の中で最たる問題である所の、近藤や沖田(や銀時)に無意識に隷従しようとする『異常』には全く気付けていない。 そして、己の中で無意識に生じたその歪な齟齬も負荷となって土方の精神を益々に苛み──挙げ句、この焦りに駆られた様な提案が、巡回任務への復帰、と言う事なのだろう。 巡回に出る事は、土方の口にした尤もらしい理由であるところの、気晴らしや噂を平然とはね除ける態度の意味よりも、そこにある『偶然』を期待したものであるに違いないと、山崎は直ぐに気付けた。 土方は、己の無意識の反応に因って、息苦しさを感じる様になった屯所から逃げだしたいのだろうと。 無責任に全てを放り出す質の人間ではないから、本当の意味での逃避ではないだろう。だが、少なからず己の安息を屯所の『外』へ──そこで会う(かも知れない)人間へと求めたと言う事だ。 そうなると、沖田が半ば独断で提唱した、万事屋への依頼はそう悪い成果では無かった、と言う事になる。 山崎の見た限りでは、銀時は土方の萎縮の反応を愉しんでいる様で、同時に愛おしんでいる様にも見えていた。今までは欠片も見せた事の無い様な好意に類する感情を、弱った人間に突如与える事は正直見ていて快いものではないと思ったが、それが少なからず土方に対する害意の方角には向いていないからと、咎めたくなるのを堪える事にしたのだ。 乾いた砂に落とした水の様に。弱った土方の心は銀時からの好意を、怖れながらも理解しようとしている風に見えた。怖れて受け入れるのではただの隷従だが、理解しようとするのは違う。土方は銀時に、彼の見せた好意らしき感情に、興味を抱いたと言う事だ。 ここまで、山崎の見解と沖田の意見とは合致している。近藤に話すと『知っています』とバレバレな態度を取ってしまいかねないので、今はまだ黙っとけィ、とは沖田の弁だ。 どんな形であれ、土方が何か前向きに復調して行くならば問題はないのだが、その理由とする所の『焦り』が何を生むかが知れないのは少々怖い所だ。 だが、銀時に『偶然』遭遇する事を──いつも通り、の有り様として土方が、焦りながらも、苦しみを抱えながらも求めるのならば。依頼もあるし、全てを知る人間としても、銀時がそれに残酷な鉄槌を振り下ろす様な事が起こるとは思えない。 結局の所は他人任せと言う事だ。あとは、土方自身の勁さを信じるほかない。 諦めて山崎が白旗を上げると、最後まで唸っていた近藤も、沖田を伴う事を条件に土方の巡察任務に許可を出した。思わぬ鉢を向けられた形になった沖田だが、不満そうに嫌味でも投げて来るかと思いきや、「ま、いつも通りって事でしょ」とあっさりと応じて寄越した。 副長である土方は巡回時、隊長クラスの人間と組む事が殆どだ。そして隊長クラスの者の中でも、その職務に真面目に就いている事が少ない沖田に、見張りを兼ねて同行する事が多い。尤も、抑止力になっているかどうか甚だ疑問ではある。 そもそも沖田曰く、相方が土方さんだからサボんに決まってんだろうが、だそうなので。『いつも通り』と言う事になるとそれはそれで問題な気がしないでもないが。 ともあれ。土方が『いつも通り』に在る事を望むのであれば、それを叶えようと言う事に否やを唱える者はいなかった。 * 結論から言えば、見廻りは何事もなく滞りなく進んだ。そうでなくとも、ある意味江戸の市中ではお馴染みでもある、黒い隊服の二人組の姿を前に、何か揉め事を起こそうと言う輩もそういないだろうが。 新聞にTVにと、良い意味でも悪い意味でも目立つ沖田と土方と言う二人の姿ではあるが、人波に紛れて歩いて仕舞えばわざわざ気に留める者も居ない。佩刀した幕臣が歩いていると言うだけの関心程度しか持たれないのだ。 人々の視線が向けられない事は、土方にとって大分気が楽な様だった。屯所だと副長と言う立場もあって、擦れ違う隊士も無関心でいる訳には行かない。その注視に、挨拶程度に、何の意趣も込められておらずとも、今の土方はそんな些細な事からも疑心と怖れとを引き出されて仕舞う。しかもそれは無意識下での反応であるが故に、土方自身にも制御が出来ず、抑鬱から解放される事もない。 難儀なものだと、他人事にも沖田は思う。 忘れて仕舞うか、怯えて震えて仕舞うか、土方がその何れかの楽な選択肢を選べる気質であれば、こんな面倒な事にはならなかっただろう。あの生粋の負けず嫌いは、血反吐を吐いても収まらぬ屈辱の記憶に真っ向から挑み立とうとしている。……否。それが、楽になるには最も遠い選択だと、考えすらついていないに違いない。 (苦痛の選択ばっかを選んじまうのか、選ぶものが尽く痛みを伴うものなのか……、知りやしねーけどねィ) なんだかんだとあったが、付き合いの長さはかれこれ二桁の年数を数えるにも近い。年下の観察眼は、恐らく土方が思うより余程深く彼自身の事を把握しているのだ。望む、望まないに拘わらず、の話だが。 そんな沖田の目と感覚とで見ても、今の土方の様子は今までに見た事の無い憔悴ぶりだった。『今まで通り』の有り様で居た方が良いかと、当初沖田は土方の目を逃れてサボりに出ようかと思っていたのだが、ぴりぴりとした緊張感を常に纏い一歩前を歩くその様子から流石に躊躇いを──沖田を躊躇わせる程に酷いと言えた──憶えた。そのぐらいに大凡平気そうとは言い難く見えたのだ。 「警察ってよりまるで人斬りでさァ」 「何か言ったか、総悟」 「いいえ何でも」 ぽつりとこぼしただけの沖田の呟きを雑踏の中でも聞き分けて、この反応だ。一緒に歩いているだけで無駄な緊張感が尽きない。 沖田は然程には土方の『症状』を気にしてはいなかった。が、近藤を含めた他の人間たちが気にして已まないと言うのだから、厭でも気にする事になる。その状況に腹が立ったのでつい、土方に対する害意が無く、人間性で一定以上の信頼もあって、『今』の土方に言う事を聞かせられそうな対象、と言う事で万事屋の坂田銀時を頼る事を近藤に提案したのだ。 屯所に来た銀時が実際、どの様に土方に相対し、どんな成果を挙げたと言えるかは、沖田は殆ど見てはいないので知らない。近藤は、銀時と土方とが食堂で一緒に飯を食っている時は元気そうだったと胸を撫で下ろし、山崎は、私的な感情としては余り喜ばしくはないが、前向きにはなれているのではないかと曖昧な感想を寄越した。 沖田も概ね、二人の──特に山崎の──意見に同意している。 土方が、本来反論する事も怖れる存在である所の近藤を、なんとか説き伏せてまで外に出たがった理由は解る。それだけ今の土方は、己を知らぬ者の居る所に行きたがっていたのだ。瑕が深いのか、それとも痛いのかは知れないが。 (それとも、旦那に瑕でも舐めて貰いたがってんのかねィ…) 銀時が特別土方に優しさで相対していた様には見えなかったが、少なからず土方が銀時の言う『言葉』に、近藤や沖田に感じる様な強制力を受けている訳ではない事は確かだろう。そうでなければ自ら外に出たい、かぶき町方面の巡察に向かう、などとは言い出しはすまい。 それが土方に、或いは銀時にどう作用するのか。興味ではなく淡々と思考を流しながら沖田は周囲を見回す。二人の歩く街路の住所は、もうかぶき町に入っていた。雑多な町は夕刻と言う時間帯で更に賑わっており、次々暖簾を上げる食事処や飲み屋の軒からは喧噪と良い匂いとが漂って来ている。 そんな町並みの中を、土方の足取りは少し重みを増しながらも、惹きつけられる様に繁華街を抜けて行く。泥の中を泳ぐ魚の様に息苦しそうにしている癖、向かう方角に迷いが無いと言うのが、沖田にとっては少々不快な奇妙さを思わせる所だったが。 そうして、見慣れた街路に差し掛かれば、やがて行く手に目当ての──明確に目的地とは言っていないが──二階建ての家屋が見えて来る。 土方の後頭部がふらりと上を見上げた次の瞬間、その背筋が微細に震えた。歩調が竦んだ様に揺らぐ。 「…どうしましたかィ、土方さん」 土方とは異なって、沖田は上を見上げてはいなかった。だから、白々しいとは思いつつも自然とそう問いを発する事が出来た。 「……、いや、」 顔の角度が俯く。足は辛うじて止まってはいなかった。だから、沖田は自らも頭を持ち上げて、土方に立ち止まる理由を与えてやる事にした。 「どうも、旦那じゃねーですかィ。そんな所で何してんですか?」 沖田の見上げた先には、屋号の看板の掛かった柵にだらりともたれ掛かっている銀時の姿があった。足を止めてひらりと手を振ってみれば、柵に乗せた袖に顎を沈めた銀時も同じ様に手を振り返して来る。 「何してる様に見えんの」 何処か面白がる様な眼差しを、沖田と、未だはっきりとそちらに顔を向けようとはしていない土方との間に行ったり来たりさせながら。銀時はそんな事を口にして来た。これもまた白々しいなと思いながらも、沖田は口の端を歪める様に吊り上げてみせる。 「人待ちですかィ」 「そう思うんならそれで良いんじゃねェの?」 「……ちょっと前にも同じ様な問答をした気がしまさァ」 気の所為でしたっけ。そう続ける沖田に向けて、口の前で人差し指を立てると言う所謂内緒話の仕草をしてみせると、銀時は柵から身を起こした。かつかつと足音を響かせながら階段を下りて来る。 銀時が下りて来る間に、沖田は一歩前の土方の方を伺ってみた。土方は背を強張らせ呼吸を詰めた様子で居たが、近づく足音に促される様にゆっくりと頭を巡らせる。 土方のそんな様子を具に見つめながら、沖田は眉を顰めた。土方とて未だ己の感情の運びを理解している訳ではないのだろうとは解っていたが──、『この為』に外に出て来た様なものだと言うのに、その表情は余りにも浮かない。 躊躇い──だろうか、と思う。土方が躊躇う以上、銀時はそこに強制力のある『命令』を発する事はないだろう。もしも銀時が隷従の傾向を良い事に土方に好意を押しつけようと言うのなら、屯所に依頼で来ていた一週間の間に疾うにやっている筈だ。 埒が開かなくなる事を考え、沖田は機先を制することにした。階段を下りて来た銀時の方へと歩いて行けば、僅かな躊躇を見せたものの、土方も沖田を追う形で後に続いて来る。 「何、お散歩中?」 「ンな訳ねーでしょ。俺達ゃ立派な公務中ですぜィ。ねェ?土方さん」 態とらしく背後にそう話を振れば、眼前の銀時はほんの少し眉を持ち上げてみせた。沖田の、『協力』も吝かではないと言うポーズに気付いたらしい。逆に土方は、短くなった煙草を指の間で弄びながら「あ?…ああ」と歯切れも悪く応じる。 (そんなだから益々付け入りたくなるんだがねィ……) ドSの本能には全くつくづく相性の良い──当人にとっては悪いだろうが──事だと、呆れかそれとも諦めか、思いながら沖田が半歩横にずれれば、銀時と土方との間を遮るものは何も無くなる。詰めるのを怖れる距離感と忌避感以外には。 「オイオイ。オメーまた顔色ひでェ事になってんじゃん。ちゃんと餌食わせてんの、沖田くん?ペットの面倒は最後まで見ろって教わんなかったの?」 途中から沖田の方へと向けて来た、余りにも余りな銀時の言い種に土方の眉がぐっと寄せられるが、忌々しげに歯を軋らせたのみで、その口から反論の類が出る事はなかった。 「そいつァ俺の所為じゃありやせん。ウチは基本、放任主義なんでさァ」 「ふぅん…」 相槌にしては少し息の長い銀時の首肯を見て、沖田はここ数日の土方の様子を思い出そうとしてみた。食事、は確かに土方の姿が余り食堂で見られない辺りからして、真っ当に摂れているかは怪しい所ではあるが、なんでかんで山崎が殴られ怒鳴られつつも世話を焼いている様なので、栄養失調で倒れる様な事はあるまい。沖田は土方の健康管理になぞ興味はないし良くは知らないのだが、寝不足と神経過敏の影響で少々具合は悪そうにしてはいても、まだ充分『健康』な部類だと思う。『健全』とは言い難いかも知れないが。 まあ良いかと思って沖田はぽんと手を打った。協力も邪魔もしないスタンスでいると決めた以上、思いつく侭に行動すべきだ。 「そう言うんなら旦那、アンタが何か餌でも食わせてやって下せェよ。こん人ァ放っときゃ、マヨかヤニかしか食わねェお人なんでねィ、旦那ん所の犬の餌みてェな飯でも、それよかマシでしょ」 「はァ?!」 沖田の気軽に投げた爆弾に、土方が素っ頓狂な声を上げた。ぽろりと、その手から短くなり過ぎた煙草が地面に落ちる。 「ちょっと沖田くゥん?なんか今スゲー失礼な発言が聞こえて来たよ?」 「間違ってもいねーでしょ別に。俺ァ三つ星料亭の味で舌が肥えてますんで遠慮させてもらいまさァ」 「いや誰も食わせるって言ってねーし一言も!」 眉間に皺を寄せる銀時に、特に恩を着せる心算も無く、また礼らしきものを見せられる期待も無く、沖田は「じゃ」と背を向けた。狼狽の色濃くその場に立ち尽くしている土方の肩をぽんと叩いて、掌の下でびくりと跳ねる身体の緊張感を感じながらも、『強めの調子で』言い切る。 「って訳なんで、旦那と飯でも食って来なせェ。近藤さんには俺から言っときますんで」 有無など言わさぬ調子は、今の土方には逆らい様のないものなのだ、と、自分でやっておいて沖田は改めて思い知る。待て、を命じられた犬か何かの様に、土方の目はそれを拒否したいのに出来ない様な困惑と葛藤に暫し漂って、結局は岸に辿り着けず沈んだ。 「…………」 黙りこくった土方の唇が噛み締められて震えているのが見えた。その様に沖田が憶えたのは、意に沿わぬ事を押しつけた罪悪感よりも、矢張り酷い不快感であった。 するりと、立ち尽くした侭の土方の脇を素通りし、沖田は夕暮れ時の街路へと戻った。人々が、各々引き摺る長い影に追われる様に家路や寄り道に歩いて行くその間を滑り抜けて、真選組屯所への帰路につく。 (……腹立たしい、と思う手前ェが一番腹立たしい、だなんて。俺も大概手に負えねェ馬鹿って事かねィ……) それが先日沖田が自ら銀時に問いた、好きか嫌いか、などと言う解り易い分類の叶う感情ではない事は良く知っている。 ただ。『いつも通り』のものが『いつも通り』にならない事が不満で、どこか恐ろしく思えるのは、土方当人だけに限らないと言う事だ。 下らねェや、と胸中で吐き捨てた沖田の表情は、然しほんの僅かの苦笑に彩られていた。 。 ← : → |