人が人になるまでにたった一万三千年 / 11 だから。 選べる手段よりも、選んだ結果がどうなるのかに興味はあった。 考えて。 だから、考えて。 ……こうするしかないと、思った。 * 沖田が土方に面倒事や厄介事を運んで来るのは概ねいつもの事だったが、今回のそれはとびきりだった。 とびきり良い、のか、悪い、のか。その判断が上手くついていない事を危ぶむより先に、土方と同じ様に取り残された形になっていた銀時が口を開いた。溜息混じりに頭を掻きながら、 「…まぁ。つー訳で銀さんこれから淋しく一人飯なんだけど、良けりゃ寄って来なさいよ」 沖田の投げ置いていった迷惑事を受け入れる応えを、あっさりと肯定する。 「え……、いや、テメェまで総悟の無茶振りに乗る必要は別に」 「お節介。沖田くんに乗せられんでもやってたっつぅの」 「……、」 土方の動揺をすっぱり斬ると、銀時は来たばかりの外階段の方へと戻りながら、手招きする様な仕草をしてみせた。 玄関の前で、待ち人と嘯いて立っていた男は或いは、土方が『何の為に』この道を歩いていたのかなぞ、既に解りきっていたかの様であった。 「……ガキどもは」 間を心持ち大きく空けて、銀時の後に続いた土方が苦し紛れの問いを発すればこれもまたあっさりと、 「新八は神楽連れて恒道館。お妙が休みの時限定だけどな、食費が足りねェ時の最終手段なんだよ。……あ、勿論飯作るのは新八だからね?ダークマター食いには行かねェからね?」 「………別に訊いてねェ」 まるで何かの、謀った何かの意図の様に返されて、土方は意味もなく視線を自らの靴先へと落とした。足は止まらない。前へと。前を歩く銀時へと、見えない鎖でも引かれる様に続いて行く。 無様な事は承知で。愚かなのも承知で。それでも屯所を出て──真選組からひととき離れる事だとして──来たと言うのに。 銀時の口にした『お節介』を受け取りたくて、来たと言うのに。 あんな無様な為体を誰にも曝したくない、知られたくはない。だが疾うに全ては遅い。悔いようが己を罵ろうがそれは変わらない。既に幾人もの人間、つまり世界の接点はそれを識ったのだから。 だからこそ土方はそれを乗り越え毅然と立たねばならぬ事を知っている。それこそが真選組副長としての己に与えられた唯一の責務であり、汚名を雪ぐ方法だ。 怖れをその侭にしておきたくはない。だが、己が意に沿わず怯える心は嘔吐が出そうな程に腹立たしい。 得体の知れないものと理解の出来ないものを人が怖れるのは本能だ。そして、それは認めねばならない事実であるが故に、無かった事にする、知らない侭で居る、では前に進む事など出来ない。 多かれ少なかれ人間と言うイキモノが多くの中の一つの種である以上、その本能には野生であった時の警戒心──と怖れ──とが混在している。それが、進歩した文明に因って欺瞞と畏れに変わったとしても、人からその本能が消えて仕舞う事はないのだろう。 取り分け土方の様なタイプは、己が理性よりも本能を信じる手合いである。故に、得た瑕も怖れも相応の報いを以てでしか解き放つ事が出来ない。 だが、応報を望む心があれど、それをぶつけるべき存在は、居ない。居ない、から、晴らせない感情の無聊を持て余して、せめて怖れる必要の無い場所を求めて、 (……野郎の、戯れに口にした様な、『お節介』とやらに、期待、して、) 呆れ果てたのか、そんな腑抜けた土方を、沖田は突き放す様に銀時の元へと放り棄てて行った。 …………沖田の判断は正しい。土方とて己がその立場であったならばそう見限っていた所だ。 怖れの無い事。だが、それは何と危うい願望なのか。 何も知らない男が、都合良くも目の前に現れて、都合良くも『お節介』を焼こうと言う。それに、縋りたいなどと思って仕舞った理由は何だったのか。それを、気付けば無条件に信じていた理由は何だったのか。 解らない。土方には未だそれが解らない。だから足取りの向かう先は困惑の渦巻く黒い波間。 そこにぽかりと涌き出た、銀色の灯りをただ頼りに、進む事しか出来ない。 * 適当に座ってろ、と言い残した銀時は水場らしき部屋へと入って行き、程なくしてそちらの方から炊事の音が聞こえて来た。どうやら本当に食事でも作る気らしい。 万事屋の二階の居間。土方は通された安物のソファの上に所在なく腰を下ろして、落ち着きのない視線を周囲に這わせていた。そんな土方の姿を客観的に見る事の出来る誰かがこの場に居たのなら、初めて家に上げられた野生の動物の様だとでも表したかも知れない。 それに対する土方の反論があるとすれば、以前、煉獄関の件で一度訪れた事はあるから、別に初めて来た訳ではない、と言う事ぐらいだろうか。土方の内心の動揺からすれば、それはまるで意味を為さぬ答えではあったが。 ソファに座る事に慣れていない訳ではない。幕臣の中には洋風の接見を好む者も居るので、土方がそう言った席に着く事は珍しくもない話だ。しかもそちらはこんな安物の応接セットとは比べものにはならない座り心地である。故に。座り心地も、座して待つ事も、土方が今更心を乱す理由には足り得ない。 落ち着かない理由の一つは、こう言った背もたれがあり腰を下ろさねばならぬ洋風の席と、侍が腰に佩く得物との相性の悪さだろうか。どうしたって腰を下ろすには刀を一度身体から外す必要がある。刀架らしきものは辺りに見当たらなかったが、壁に立て掛けるのは距離があって落ち着かない。ソファの座面に置くと、いざと言う時に手に取り辛くなる。 だから、土方は腰から外した得物を未だ握りしめた侭でいた。 それこそ、見知らぬ場所に連れてこられ、怯えて牙を剥き出しにする野良猫か何かの様だと思いはしたが、てのひらの大事に抱える刀(それ)を放す事がどうしても出来そうにない。 (怖い、訳じゃ、無ぇ…、のに) 怖れがあったらこんな所にまでわざわざ、危ういばかりの怯懦な安堵なぞ求めには来ていない。 こんな無様で居る己を己で認めなどしてはいない。 疑心と保身との狭間の均衡に、立ち尽くす事すら出来ないのは、単に己が弱く無様であっただけに過ぎぬ。 過ぎぬ、が──、 (それでも、怖ェ、から、ここに来て……、………それで?) だから。ここに在るのは怖れではない。期待、だとして、何をどう『期待』するのか。 ……決まっている。真選組屯所ではもう得る事の出来ぬ、安堵を、だ。 だから。そもそも、その『理由』とは何だっただろうか? (野郎が、そう、お節介だと、心配だと、口にした、から…、) どうして。そもそもの、その『信頼』とは何だったのだろう? 「……………」 何も知らぬ人間の言う『心配』だけが、どうして胸に落ちたのか。 大凡仲の良い手合いとは言い得なかった人間に、どうしてそんなに無条件に頷けたのか。 どうして、坂田銀時の言葉だけに、安堵を許す事が出来たのか。期待をしてみようと思ったのか。 ただ、そう聞こえただけなのだ。そう感じただけなのだ。そう、言う他に無い。 困惑に懊悩を深める土方の手が、掴んでいる刀の鞘を握りしめる。この裡の刃だけが縋る術で、頼る術で、己が力であれば良かったと言うのに、今はそれが鞘の内。抜かれぬ、抜く事の出来なくなった刃になぞ何の意味も無い。あの屈辱の瞬間に、そう、強く思い知らされた。 (……どうして、) それでも未だこの刃を手放せないのか。安堵を受け取る事を許した、男の居場所で。役立たずの、鞘から抜かれぬ刃を抱いているのか。 まるで、これではまるで。──怖れて、いるようだ。 そんな筈はないと、何度否定した所で。 怖れて、畏れている。そして、その癖そこに期待をしている。 (俺は、何を、) かたた、と、鞘が触れている床が音を立てた。刀を掴む手が震えているのだと気付くのに、随分時間がかかった。 「……………なにを、」 土方が眼差しで自らの刃へと問うた、丁度その瞬間、刀の柄の震えがぴたりと止まった。 「お待ちどおさん。卵と野菜屑だけの低予算炒飯だけどな」 湯気を立てる皿を片手に携えた銀時の手が、土方の握りしめている刀の柄をそっと押さえていた。あの器用なてのひらが、やんわりと押さえていた。 その侭、硬直した土方の手から刀をそっと抜き取って、銀時はそれを土方の隣へと立て掛け置いて仕舞う。 茫然とそれを見遣る土方の前へ、炒めた米の盛ってある大皿を置いて、続けて炊事場へと取って返した銀時は小さめの取り皿と匙を二つずつ持って戻って来た。そうして土方の向かいに腰を下ろすと、匙を使って大皿から取り皿へと炒飯を取り分けて土方へと手渡す。 「マヨは悪ィけど切らしてた。さ。冷めねェ内に食いなさいよ。そこらのカーチャン並の炒飯にはなってると思うぜ」 「……ん、」 言うなり、いただきます、のポーズの後、銀時はさくさくと匙を動かして自らの取り分けた分の炒飯を食べ始めた。 それを前に、然し土方の手は動かない。 先頃まで刀を握り震えていた手に、今ではただの匙と皿とが握らされている。震えなど当然もうそこには無い。これでは、全てが単なる奇妙な錯覚であったと勘違いして仕舞いそうだ。 刀は直ぐ隣にある。いつでも届く距離。抜き放つも容易な距離。だが、刀を掴み応報を訴えていた手は匙なぞ暢気に握っている。 「食わねーの?」 「、いや…、」 銀時の問いに促され、土方の手は震えながら匙を飯の中へと差し入れる。一口分、掬って、おずおずと口へと運ぶ。咀嚼。そして嚥下。美味しい。とびきりと言う程ではないが、普通に美味しいと思う。 先日の、食堂と、その後の厠での一件以来。思い出しては怖れと怒りと嘔吐感とに胃の腑はひっくり返り、食堂になぞ到底足を運べそうもなかった。そんな土方の様子を案じた山崎が部屋まで食事を運びに来てくれていたが、結局何れも上手く喉を通る事は無かった。 だから、温かな食事を口にする事自体、土方には随分と久し振りの事の様に感じられた。 美味しい、のに。余計な声も聞こえず、嘔吐感を憶える事もなく食べられる、のに。ぎこちない手が匙を握って、皿と口との間を往復する。何かの反復行動の様な動作。 「どうよ?やっすい飯で悪ィけど、不味くはねェだろ別に」 「………ああ」 幾度かそれを繰り返した所で、銀時が不作法にも口をもごもごと動かしながらそう問いて来たので、土方は正直に頷いて、そして。 (『これ』、が、万事屋の言う『お節介』で、俺の得たかった安堵とやらなのか…?) ままごとの様な有り様。出された食事を機械的に勧められる侭に食している、そんな事を──問われ、ただ応える、それだけの事を、したかったのだろうか? 何でかんでとお人好しの万事屋は、『依頼』された事に関しては、確かな信条がある様だから。『お節介』を焼くと言うなら、それは恐らく、何か土方の──今の土方の、助けになる様な事である、筈だ。 (だと、したら……、それは) 考えた──否、気付きかけた瞬間、背筋をざわりと血が下がる音が聞こえた気がした。思わず喉を鳴らした拍子に、土方の手から匙が抜けた。卓の上の、中身を減らした取り皿の上に耳障りな音を立てて落ちる。 「土方?」 銀時が怪訝そうな声を上げるのに、土方は落ちた匙に手を伸ばす事も忘れて、ゆっくりとかぶりを振った。 安堵を求めた、その動機自体は間違いない。土方は、助けられたい、と思ってここに来たのだ。もうそれは、幾ら土方自身が否定しようが覆し難い事実だ。 安易に楽になる選択を選ぶのは性分ではなかったし、真選組副長としてのけじめの様な感情もあった。だから、これは。これは、何かの思い違えとしか、土方には思えない。事実であったとしても、何かの誤りを選んで仕舞ったのだと、己を厳しく弾劾する。 単純な問答の様に。銀時の言う言葉を受けて、動く。それが酷く自然な事の様に感じられた。『お節介』を焼こうかと言う申し出を、何の疑問もなく受け入れた。だからこそ期待をして、ここに来た、と言うのなら。 (問われて、話し、てェんじゃ、なくて…、) 話させてくれれば、良い、と。思って。いた …………………………、なんて。 「……土方、」 かちん、と音を立てて、銀時が匙を置いた。そっと立ち上がると、土方の隣にあった刀を向かいの、今し方まで己の座っていたソファに置いた。そして自分がその代わりの様に土方の真横へと腰を下ろす。 「…………っ、」 何と言う事もない銀時の動作だけで、土方の唯一頼るべきだった筈の刀は遠ざけられた。あの時の様に。いとも容易く、土方の震える手から刃は奪われた。 唇を震わせ、然し銀時に対する反論も願望も湧かず竦む土方の顔を覗き込む様にして、銀時は膝の上で手を組んだ。 「なぁ。あんまプライベートに干渉すんのはマナー違反だとは思うけどよ。これ俺の『お節介』だから。敢えて訊く事にするわ。 ………………ここん所ずっと。お前、一体どうしたの」 「……、それは、」 銀時の言葉は問いではなかった。語尾は断定。『どうした』のかを問う、『どうした』のかがあった事を前提とした、詰問の調子。 これを、避けねばならなかったのに。これを、受け入れたいと、思っていたなんて。 何も知らない筈の男は、何も知らない侭で居てくれなければならなかったのに。真選組副長としてそう思うのに、何も知らないからこそ、何かを知ってはくれないかと、期待していた。 問いてくれ、と── 応える言葉を探しながら、そこに歓喜と安堵とを憶えている己に土方は泣きたくなった。無様で、滑稽で、惨めで、愚かしい事だと、解っているのに。 「………手前ェ、が、情けなくて、堪らねェ、んだ」 駄目だ、と思うのに、土方自身の意志に反して口は開かれる。震える正直な喉が、震える刀を持たない両手を見下ろして、この事実に戦きながらも吐露して行く。 「訳も無ェ筈のもんに、怯えて、でもそれが、止められねェんだ。馬鹿みてェに震えて…、俺は、」 本当は、瑕を無様に曝して。そこを癒してくれと言いたかったのだろうと──土方は口を開いて仕舞ってそれを確信した。 乞われる侭に、話して。壊れる前に、離さないで。 「……何されたの」 またしても断定の問いが、瑕にそっと手を掛ける。乱暴に引き裂くのか癒すのか知れないそれに怯えながら、然し同時に土方は酷く安らいだ心地でいた。 瑕は、曝さなければ、手当すらして貰えないのだと。 瑕を開いて、そこに無遠慮に触れながらで構わない。あの無償の様な『心配』を──『お節介』を望んでいたのだ。 今更の様に、そんな愚かさに、気付いた。 怖いのだと、ただ誰かに叫びたかったのだ。解ってくれとは言わない、嘲ろうとも慰めようとも同情されようとも、何でも構わない。 知られる事が厭だったから、怖れに似た、訳も知らぬ感情に振り回されているのだと思っていたのだが、違った。 これは、紛れもない怖れだった。 ただ、知られたくないと思う怖れとは違う。知られて嘲られる事への怖れとも違う。話して仕舞いたい、知られたくはない、そんな愚かな怖れだ。 ………それに気付いた時には、もう己の喉を掻き斬る刃も、眼前の男を斬り棄てる刃も、手元には無く。手遅れだったのだけど。 。 ← : → |